雑話12「新田開発と自然災害」

 戦国時代から江戸時代初期にかけての百年間は新田開発などによる耕地の急拡大の時代と言われ、それに伴って洪水などの災害も多発するようになったとも言われます。新田開発と災害の多発、なんとなく分かるような気がしていましたが、二者を結ぶキーとなるものがあることに気付かされましたので紹介します。

 先ずは、耕地面積の急拡大から。

大石慎三郎氏は『大江戸史話』に次のように書かれています。

 室町中期以降から近世初頭までの約二百年ほどのあいだ(厳密にいえば関ヶ原の戦をはさんだ前後百年ほどのあいだ)は、わが国の耕地面積が、室町中期のそれの約三倍強になるというほどの急成長をとげた、わが国の歴史でもめずらしい耕地の大量造出の時代であった。

として次の表を揚げています。

         明治以前日本耕地総面積の推移表
     年代        耕地面積         出 典
   930年ころ    862千町歩   91.1 和名抄 
   (平安中期) 
   1450年ころ   946千町歩  100.0 拾芥抄
   (室町中期)
   1600年ころ 1,635千町歩  172.8 慶長三年大名帳
   (江戸初頭)
   1720年ころ 2,970千町歩  313.9 町歩下組織帳
   (江戸中期)
   1874年   3,050千町歩  322.4 第一回統計表
   (明治初期)

そして次のように続けます。

 ではなぜこのような耕地の大量造出が可能であったかというと、それは戦国、または近世大名たちの用水工事である。いま土木学会編『明治以前日本土木史』によって、古代から徳川時代の終りにあたる慶応三年(一八六七)までにおこなわれた主要土木工事のなかから、用水土木関係工事をぬき出して年代別に整理すると一一三ページの表のようになる。(中略)
つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国時代末から江戸時代初頭六十~七十年のあいだに、その半数が集中しているのである。

          明治以前主要用水土木工事
          年  代         この間  工事軒数
            ~ 781(天応元) 781年   8
    782(延暦元)~1191(建久2) 410年   8
   1192(建久3)~1466(文正元) 275年   7
   1467(応仁元)~1595(文禄4) 129年  14
   1596(慶長元)~1672(寛文12) 77年  42
   1673(延宝元)~1745(延享2)  73年  13
   1746(延享3)~1867(慶応3) 122年  26

 中世までの耕地は大雨が降っても川にならない、すこし高いところで水を使える所が中心で、大雨の度に川の流れが変わり、土砂が堆積してできた沖積扇状地や沖積平野はあまり利用されないまま残されていたと思われます。それが戦国大名という広範囲を支配する権力が出現すると大規模な治水・灌漑工事を行なうことによって、耕地へと変わっていきました。

 しかし

戦国時代末期から江戸時代初頭にかけて、全国的に行なわれた大河川の改修安定工事と新田開発工事によって、わが国の耕地は約三倍にもなるという大発展をとげるが、それも一六五〇年前後を境に頭うちとなった。急速な開発に耕作労働力の補充がおいつかなくなったのと、いま一つは山野の荒廃が目立ち災害が続発するようになったためである。(大石慎三郎『江戸時代』)


 耕地の急拡大は二つの問題を発生させました。耕作人不足と肥料(草肥くさごえ)不足です。ここでは草肥不足を採りあげます。農業の本質は土地からの収奪で、同じ土地で毎年収穫する為には、収穫物に相当する肥料を投入することが不可欠です。江戸時代を含めてそれまでの農業は草肥が主体でした。刈り取った草や柴をそのまま田畑にすき込む刈敷、牛馬の糞尿と混ぜ合わせる厩肥、醗酵させる堆肥です。そしてこの草や柴を刈り取るための場所は、田畑の10倍程の面積が必要だと言われています。
 耕地の急拡大は広大な草刈場を必要としました。そのため山の木を伐って草山に変えていきました。

田中丘愚は『民間省要』国家要伝巻之七乾之部で、

一 自百枚の札を打納メ、且六十六部の輩国々の事を尋問ふに、いつれの国に至ても行程見渡の限りに無木の芝山のミ多くして、黒木立て材木に可成山は見へず、少キ有といへと寺社領のミなり。目の及ぶ限り只村々入会の散在野・秣場、或赤土無毛の冗(はげ)山のミ多し。
 と述べています。

また正保二年1645「信州伊奈郡青表紙高 御領私領支配知行附」に書かれている飯田藩(五万石)の村々九十七ヶ村の山の植生を集計分類した表を水本邦彦氏は『草山の語る近世』に載せています。

        飯田藩領の山の植生
       植生   村数   割合%
     草       4   4.1
     芝      26  26.8
     柴      23  23.7
     草・柴     9   9.3  63.9
     草・松・雑木  1   1.0
     柴・雑木    7   7.2   8.2
     雑木     10  10.3
     雑木・檜・栂 11  11.4  21.7
     なし      6   6.2   6.2
      計     97 100.0 100.0

これに拠れば、木が中心の山は21.7%しかなく、草・柴の山が6割以上を占めています。

同氏は、正保年間作成の「信州伊奈郡之絵図」に描かれた山々に書込まれた植生の注記から

十七世紀半ばの時期、伊奈谷の村に立って四方を見渡すと、里近くは草・芝もしくは低木柴類のはえる人為的な丸坊主山で埋めつくされ、その向こうに落葉の雑木林や常緑の檜・栂などが生育する奥山が遠望されるという山地景観であった。
 と述べておられます。

これは飯田藩に限ったことではなかったようです。木材といえば飛騨ですが、その飛騨の状況について、同じく水本邦彦氏は『村 百姓たちの近世』で享保一二年1727、飛騨代官長谷川庄五郎が実施した飛騨国山林調査から次の表をまとめておられます。

         飛騨国の山林調査(享保12年)
          御留山   雑木小木    柴草山    計
    大野郡  231    434    978  1,643
    吉城郡  164    628  1,070  1,862
    益田郡  210    288    622  1,120
     計   605  1,350  2,670  4,625
    割合% 13.1   29.2   57.7  100.0

飛騨でさえ半数以上が柴草の山です。


 草や柴は木と比べ、保水力も表土を保持する力も弱いため、降った雨は直ぐに川に流れ込み、大雨には表土が流されます。表土を流された山は草も生えないはげ山になり、さらなる土砂の流出に繋がります。また川に流れ込んだ土砂は川底をあげ、洪水の原因ともなります。

  新田開発等→草肥確保のため草山はげ山の増加→自然災害増加


 草肥の不足は草山を作るだけでは解消されず、肥料の不足は金肥で補うことになりました。金肥とは金銭で購入する肥料のことです。干鰯、灯油を絞ったあとの滓、酒粕、酢粕などです。

 今度はこの金肥が新たな問題を引き起こします。


金肥を多用するようになったオープン・システムの後期農業は、村内の階層格差と地域間格差の拡大を大きな特色とした。(中略)
草肥は村掟で日時を決めて共有山から一斉に取得するなど、相対的に村民にとって平等な肥料だった。これに対して金肥は家単位での購入だったから、上層百姓がこれを多用して生産性を高める一方、購入困難な下層百姓は草肥に依拠するか、日雇い稼ぎで貨幣の獲得に走らざるをえない。(中略)
金肥はまた、流通ネットワークへの接触程度によって、新しい地域間格差も生み出した。(中略)前期農業において先進を誇った山持ち村は、後期農業にあっては時代遅れの後進地帯へと反転する。(水本邦彦『村 百姓たちの近世』)

 草山はげ山の増加の原因は、城下町造りの為の木材需要、人口増加による燃料としての薪炭需要の増加もあったでしょうが、これらは植林でカバーすることができます。多くの草山は、肥料の中心が化学肥料になるまで、木が生えないように野焼きなど人為的に維持されたものと思います。


 最後に今回のテーマとは関係ありませんが、日本の農業について気になることがありますので序でに紹介します。日本の農業は戦後、品種改良や大規模化と機械化によって生産性は大幅に向上しました。しかし別の視点から見ると違った姿が見えてきます。古い資料ですが、岩田進午『「土」を科学する』(NHK市民大学1989年4ー6月のテキスト)には、農耕に「投入される全エネルギー(太陽エネルギーは除く)と収穫物から与えられるエネルギーとの間の関係に」着目して、次の内容の表を揚げています。


                      (単位:1,000Kcal/ha)
          作物 水稲(日本) トウモロコシ(アメリカ)
     年次   1955    1965    1974     1945  1954   1964   1970
エネルギー収入  14,800 15,900 17,700   7,528  9,078 15,056 17,934
          (100)    (107)    (119)     (100)   (120)   (200)   (238)
エネルギー支出  13,350 27,650 47,010    2,311  3,788   5,538  7,116
          (100)    (207)   (352)      (100)   (163)   (239)   (307)
 収入/支出      1.11    0.58     0.38       3.26     2.40     2.72    2.52

 エネルギー支出の内訳
     機 械    2,380   8,100 15,950      444     741   1,037   1,037
             (100)    (340)   (670)     (100)  (166)    (233)   (233)
     肥 料    3,750   7,380   9,820      175     621   1,312   2,473
           (100)    (196)   (261)     (100)  (354)   (749)  (1413)
     農 薬     490   1,560   1,860      ---        10        37       54
           (100)    (318)   (379)               (100)   (370)    (540)
     労働力     960      710      440        30      22        14       12
           (100)     ( 73)    ( 45)     (100)   ( 73)     ( 46)    ( 40)

  (注)エネルギー支出の内訳中、他の項目は省略

日本の稲作に投入される労働力エネルギーは1955年を100とした場合、1974には45にまで半減しています。ところがエネルギーで見た場合、支出に対し収入は1955年では1.11倍ですが、1974年では0.38倍です。47,010つぎ込んで17,700、つまり38%しか受取っていないのです。1970年のアメリカのトウモロコシでは252%です。日本とアメリカとでは作物(水稲とトウモロコシ)の違い、気候の違いがありますから直接比較はできませんが、1974年の日本の水稲の収穫から得られるエネルギーが投入したエネルギーの38%というのは問題でしょう。


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