雑話27「元大奥女中に聞いたという話」下

 二、話し手側について
『旧事諮問録』第二編第四回(明治二十四年1891四月二十三日)の回答者は御次であった佐々鎮子と御中﨟であった箕浦はな子の二人です。

○佐々鎮子
勤めたのは何時からかの問に「弘化からでございます。ちょうど今より四十六年前からでございます」。
弘化元辰年五月の本丸火事は「ちょうど私の十五の時でございました。」
いつ頃まで勤めでしたかの問に「私は瓦解まででございます。御城渡しをいたしまして、一橋のお邸へお立退きになりまして、それから赤坂の紀州邸へ天璋院様[第十三代将軍家定夫人]がおいでになって、紀州邸まで御供をいたしました。」

 佐々鎮子は弘化元年1844五月本丸焼失時十五歳ですから天保元年1830生まれ。明治二十四年1891の四十六年前弘化二年1845十六歳で出仕。紀州邸まで天璋院に御供とありますが、天璋院が一橋邸から紀州邸へ移ったのは明治元年1868七月で明治三年1870八月には戸山尾張邸へ移っています。
十二代家慶についての話のところに「私はその節、右大将様[家茂]の御傅(つき)でございました。」
  なお『旧事諮問録』の編者は「右大将様」に「家茂」と補足しています
  が(あるいは印刷ミスかも知れませんが)これは誤りで「右大将様」と
  は家定のことです。
将軍の代替わりについて「御代替りで右大将様が御世嗣となりますと、前々よりの御本丸の格式を存じております者が、後に残らんければなりませぬ。そのときに、この中で何人残れという上からの御名差しで、残る者がきまりますので、下から誰々をと申し上げることはできませぬ。その残った人は、親御様の御付が御子様の御付に変るのでございます。」と話ています。
 また年次不詳(家茂死亡後かと思われます)の天璋院様附女中分限帳(『清華閣襍編第9冊』)に
              小普請組 鈴木四郎左衛門支配
   御次     兄    佐々半左衛門     いし

これらから判断すると、最初は世子家定付として西丸、家定が徳川家を継いで本丸へ入るのに随って本丸へ。家定から家茂へ代替わりの際に家茂付になったかどうかは不明ですが、後には天璋院付となっています。 世子付、将軍付、天璋院付と勤めていますがずっと御次(道具や献上物の持ち運び、対面所などの掃除、召人の斡旋)だったようです。

○箕浦はな子
勤めたのは何時からかの問に「和宮様の御下向の前でございます。」
その頃、お幾歳位でありましたに「御下向の年が十七でございます。和宮様は午のお歳、私は一つ上でございます。」
いつ頃まで御勤めでありましたかに対し「私の十五の年に召し出されて勤めていましたが、翌年麻疹が流行いたしまして、その麻疹がちとよろしくございませんで、十九の歳にお暇を戴きましたのでございます。」

 和宮は文久元年1861十一月に清水邸着輿、文久二年二月に家茂と婚儀
 箕浦はな子は午年の和宮の一つ上の巳年ですから弘化二巳年1845生まれ。安政六年1859十五歳で出仕、文久三年1863十九歳で暇。四年程天璋院付御中﨟(身辺世話役)?を勤めたようです。
「翌年麻疹が流行」とある「翌年」は和宮下向(文久元年)の翌年の意味でしょう。文久二年の夏から江戸では麻疹の大流行がありました。
(文久二年)夏の半ばより麻疹(はしか)世に行はれ、七月の半ばに至りては弥(いよいよ)蔓延し、良賤男女この病痾に罹らざる家なし。此の病、夙齢(としわか)の輩に多く(天保七年の麻疹にかゝらざる輩なり)、強年の人には稀なり。凡そ男は軽く女は重し。それが中に、妊娠にして命を全ふせるもの甚だ少し。産後もこれに亜(つ)ぐ。(中略)
七月より別けて盛にして、命を失ふ者幾千人なりや量るべからず。三昧の寺院、去る午年暴瀉病流行の時に倍して、公験(きって)を以て日を約し、荼毘の烟とはなしぬ。故に寺院は葬式を行ふにいとまなく、日本橋上には一日棺の渡る事二百に曁(いた)る日もありしとぞ。(『武江年表』)


 『御殿女中』の回答者は大岡ませ子で、三田村鳶魚氏は次のように書いています。
「先年故人になられた大岡ませ子刀自、ませ子さんは、御小納戸大岡忠右衛門の女に生れ、御年寄滝山を伯母に持ち、天璋院殿(十三代家定将軍の御台所)の御中﨟を勤め、後に摂津守といって、慶喜公の御小姓であった村山鎮(まもる)翁に嫁した人である。我等は、御本丸の高級女員であった経歴を聞くために、前後七年、この老刀自のもとへ通った。」
「老刀自は、九歳で伯母滝山の部屋に入り、十三歳になって御次へ出仕して、お歯黒を付け、片はずしに結って勤めた、それから天璋院殿御付御中﨟に進み、明治四年に二十六歳で退身したという」
話の中に
「天璋院様は、瓦解(明治元年)後、一橋の御屋形、それから青山の紀州屋敷、それから外山屋敷(尾州下屋敷)、それから赤坂の相良屋敷、それから千駄ヶ谷(現在の徳川公爵邸)へお移りになりました。私は二十一の時(慶応二年)にお暇になりましたが、お手当御合力を辞退して、瓦解の時までお付き申しておりました。」とあります。

 大岡ませ子は明治四年1871に二十六歳といいますから弘化三年1846生まれ。安政元年1854九歳で伯母の御年寄滝山の部屋子になり、安政五年1858十三歳で御次へ出仕。その後天璋院付御中﨟に。慶応二年1866暇になるも手当御合力を辞退して仕え、明治四年1871に二十六歳で退身
 天璋院付(御次へ出仕した時はまだ御台所だったかも知れませんが)の御次と御中﨟を体験しています。また9歳から13歳まで伯母で御年寄の滝山の部屋子でしたから御年寄のこともよく知っているはずです。
 なお、部屋子は部屋方(幕府女中の奉公人)とは違います。
「部屋方と紛らわしい言葉に部屋子というのがある。上級女中が親類縁者の少女を自分の部屋で預かり、しつけや遊芸の稽古をさせた後に、中﨟などしかるべき職階の女中に仕立てる。このような少女を部屋子という。」(『奥女中物語』)
「旦那様といはれる各部屋の主人が、親類縁戚の女児を、後来自分の継承者にする心組みで、先ずは手許に引取り、御奉公に出るまで養つて置くのが、部屋子である、無論に武家の女児で、その部屋の相続人の意味で、部屋子といふのだ、従つて、その部屋の使用人即ち部屋方からは、主人の娘分なのだから、お嬢様といつた」(『御殿女中』)

 三人の出仕、暇を将軍の代替わりほかの年表に付け加えたものを下にあげます。続徳川実紀第二篇~第五篇より。一部欠けている年については『奥女中物語』から、また江戸城引渡し後は『時代考証の窓から』(「天璋院様御履歴」に基づくようです)から補充。
奥女中年表.jpg
 
 三人が勤めていた時期はほぼ重なっています。佐々鎮子と箕浦はな子のついて大岡ませ子は次のように話したとあります。
我等は、かつて大岡ませ子刀自から聞いたには、「はな子は天璋院様の御小姓でした。尾州の医者の娘で、父が二の丸にいたというのは嘘です。また鎮子というのは歌の名(作名)で、奥ではいしといっていました。後に米屋の女房になり、手習師匠になり、諸礼の先生にもなりました。別段に素養のある人でもなかったのに、器用にまかせていろいろなことをしました」とのことであった。


 私には大奥に関する知識がほとんどありませんから三人の話した内容については、不審に思うところはあまりありませんが、二三疑問点があります。

○佐々鎮子の話の疑問点
十二代家慶についての話のところに
「十二代様[家慶]はなかなかの御大酒で、余の方はそうではございませぬ。それでございますから、御酌の時は廿いのが好いか、辛いのが好いかと、おっしゃるので、甘いのと申し上げると御機嫌が悪いから、辛いのと申し上げると御燗鍋で御手ずから御注ぎ遊ばすので、大きな御吸物椀の蓋だの、大きな御皿だので、ざっと御注ぎ遊ばすと、あなたも―袂の中までも流れ込むのでございます。それがたいそう御慰みになるのでございます。慎徳院様[家慶]は、そういう御方でございます。」

「慎徳院様の御不例の時には、西の丸[家定]から日々御出になりまして御看護遊ばしましたので、御自分様でよい加減に御粥を御付け遊ばして、それにおかしい事がございまして、その中へじかに指を突っ込んで、程よい温かい所を御上げになりまして、召し上がる時は障子の穴から覗いてあらせられたのでございます。」

 家慶が将軍の時は佐々鎮子は世子家定(右大将)付で西丸にいたのであり、また将軍付の御中﨟(身辺世話役)ではなく家定付の御次(道具や献上物の持ち運び、対面所などの掃除、召人の斡旋)ですから家慶将軍が酒を飲む席に出ることはないはずです。また家慶の病床は中奥ですから、そこへ西丸の御次が出て行くことは出来ません。つまり佐々鎮子は誰かから聞いた話を自身が体験したことのように話しているようです。

○大岡ませ子の話の疑問点
①切米と扶持について
「御年寄は金六十両十人扶持、この扶持は部屋で遣っております者の数だけ下さる。御蔵米御合力五十石、炭一ヶ月六十俵、薪三十把ずつ、夏は別段に湯の木といって、余計に下さる、お給金・御合力・御扶持は五月と十月と二度に頂きます。」

「御合力米は、三月・五月・十月の三度札差から知らせがあります。すぐに、入米の否やを返事してやるのでありました。誰も入米をせずに払い米にしますので、その代金がきます。」

 札差がまとめた『業要集』には「御女中御切米は二季渡り、玉なし皆米渡り」とあります。支給は二度なのに三月・五月・十月の三度札差から知らせがあるというのは疑問です。知らせがあるのは米で受取る分と売却する分を確かめるためでしょうから支給のない三月に知らせがあるというのは変な話です。
 また扶持米は毎月支給されるものです。
『旧事諮問録』では
答 中﨟は十二石四人扶持、御合力金が四十両、薪が六束、御菜代が二両ほどであったろうと私は考えます。
問 その一石というのは。
答 蔵前の札差ので、本当の十二石でございます。石の方が年に十二石で、何人扶持と申すのは月々にいただくので、それから金で菜代というのをいただくのでございます。
と答えています。

②箕浦はな子の職階
箕浦はな子は『旧事諮問録』では御中﨟としていますが、大岡ませ子は「はな子は天璋院様の御小姓でした」と話したといいます。しかし御小姓についてはつぎのようにも云っています。
「御小姓は二三人ありました。七歳ぐらいで御小姓になって、十三歳ぐらいでは元服をします。それを元服御小姓といいました。それまでは振袖です。十六七になりますと、御中﨟にはいります。髪は初めがお稚児、それから引き詰めた前髱(まえづと)の稚児、根細の島田に結うのでした。これは眉のある間のことです。
 元服御小姓は御中﨟と同じ働きをしておりますが、子供(元服以前の)はマア育てて頂くようなもので、お側で手習などもさせて下さいます。(以下略)」

箕浦はな子の話では十五歳で出仕していますから御小姓というのは変です。あるいは元服御小姓として出仕して後に御中﨟になったのでしょうか。
年次不詳の天璋院様附 御暇之分(『清華閣襍編第10冊』)には
          御小納戸
      父    大岡源右衛門    ませ
          小普請組 初鹿野備後守支配
      養父   本多求馬      はな
とあります。御暇の時期も役職も書かれていません。
御中﨟や御小姓は旗本の娘でなくては成れませんから、はな子は旗本の養女として出仕したものと思われます。猶、「いし」「ませ」「はな」はそれぞれが御次、御中﨟として勤めていた時の名前です。役が代わると名前も変わります。大岡ませ子は次のように話しています。
「御次ではやのと申し、御中﨟になりましてからは、ませと申しました。お役替えの度毎に、名を改めます。役に付いた名があるのでした。」

 御小姓は御台所等女性にだけある役職なので前回あげた家定付女中の諸手当表にはありません。「天璋院様附女中分限帳」から御年寄・御中﨟・御小姓・御次の手当の一部をあげると次の通りです。
      切米  合力金 扶持 五菜銀
  御年寄 50石 50両 8人 200目
  御中﨟 12石 40両 4人 120目2分
  御小姓 12石 30両 3人 120目
  御次   8石 25両 3人 100目
 切米と合力金は年額です。五菜銀も年額と思います。扶持は毎月です。このうち扶持は御家人の扶持とは少し違いがあります。御家人の一人扶持は一日玄米五合宛(男扶持)を大の月は30日分、小の月は29日分、浅草御蔵から支給されますが、大奥女中は
 ①一日三合宛(女扶持)ただし最下級の御使番と御半下(一人扶持、中白  女扶持)以外は一部男扶持(五合)あり
 ②玄米ではなく白米
 ③浅草御蔵からではなく江戸城内の御搗屋から支給

扶持内訳
 御年寄八人扶持 壱人上々白男扶持 三人中白男扶持 四人中白女扶持
 御中﨟四人扶持 壱人上白男扶持 三人中白女扶持
 御小姓三人扶持 壱人上白男扶持 弐人中白女扶持
 御次 三人扶持 壱人上白男扶持 弐人中白女扶持

お金は現金、御扶持・油・五菜銀は御切手で引いて、御扶持と油は、御搗屋(平川口にある)ヘゴサイが引替えにゆきます。勿論精米でした。ゴサイから御扶持を引いたと知らせがきますと、御扶持袋という細美の大きな袋に入った御扶持米を、タモンが運びにゆきます。(『御殿女中』)

引用者註:
ゴサイ 「五菜とは、安易に外出できない大奥女中に替わって、宿元に手紙を届けたり、買い物をしたり、外の用事を受け持つ男性使用人のことである。」(『江戸奥女中物語』)
タモン 「部屋方には、局、合の間、小僧、たもんなどの職制があった。(中略)たもんについては先にもふれたが、炊事、掃除など部屋の下働きをする。」(『江戸奥女中物語』)

大岡ませ子の話の疑問点は「前後七年、この老刀自のもとへ通った」とありますから時期によって話に食い違いがあるのか、或いは退職後40数年経って69歳から75歳の高齢の時に聞き取っているので記憶違いや云い間違いがあるのかも知れません。


       雑話一覧へ

この記事へのコメント