雑話26「元大奥女中に聞いたという話」上
江戸城大奥については、あまり関心が無いため大奥について書いた物はほとんど見ていません。わずかに三件です。『旧事諮問録』、『御殿女中』(三田村鳶魚著)、『江戸奥女中物語』(畑 尚子著)。したがって、ここで採りあげるのも、大奥の内容ではありません。元大奥女中であった人に聞いた話とされるものについてのことです。
江戸時代には大奥女中が大奥に関することを他に話すことは禁止されていました。
「有徳院殿御実紀」巻三には次のようにあります。
かなり守られていたようで、江戸時代には大奥のことは想像するだけだったようです。それが、明治になって元大奥女中に話を聞いて大奥のことが書かれるようになりますが、そこには二つの注意すべきことがあるように思われます。一つは話した側の問題、今一つはその話を聞いて文章に書きあらわした側の問題です。
一口に大奥女中といいますが、様々な身分職種があります。大きく分ければ、徳川家から禄をもらって奉公する者(『江戸奥女中物語』では幕府女中と呼んでいます)と、その幕府女中に雇われている者、すなわち部屋方(又者)です。幕府女中にも御目見以上と御目見以下があり、御目見以下にも席以上と席以下の区別があります。また、部屋方にも、局、合の間、小僧、たもんの区別があります。江戸時代は身分制社会ですから職種と身分は結びついています。
『江戸奥女中物語』には「幕府女中のうち、将軍付、御台所付の職制について一〇代・一一代・一三代・一四代の分限帳を参考に職階順に並べ」た表と家定付女中の諸手当表が載っていますのでそれをあげます。
『江戸奥女中物語』の説明によれば、職階については
「呉服之間までが将軍や御台所に目通りを許される御目見得以上で、御広座敷より下は御目見得以下といわれている。」
「御客応答、御錠口、御切手書、御伽坊主、御広座敷は将軍付、中年寄、御小姓、御茶之間は御台所付にのみある職種である。」
但し、この職階順は定まったものではないようです。『御殿女中』には「表とは違って、奥では時宜によって職名を替えもすれば、その人によって、座次も変化した場合が多いようだ。職名の例では、中年寄とも若年寄ともいう。役順の例では、御諚口が中年寄の上になったり、中﨟頭のある場合には、中年寄の次に中﨟頭が並び、中﨟頭の次に御錠口がくるようにもなった。従って、職名役順は究竟されないものだと思う。」とあります。
家定付女中の数について『江戸奥女中物語』は「家治付一六二人、家斉付一七一人、家茂付一三二人である。人数にばらつきがあることから、定数が決められていたわけではないようだ。」といいます。
江戸城大奥に住んでいた奥女中の数は千人とも二千人ともいわれますが、憶測です。幕府女中の数は、分限帳があるのでわかりますが、部屋方の人数が不明だからです。
因みに江戸城大奥全体の幕府女中の数について、『清華閣襍編』にある弘化三年1846の分限帳の人数をあげれば
本丸 将軍家慶付248人、養女精姫君付35人、 西丸 家定付112人、御簾中様(有君)付59人、 二丸 家斉御手付の御中﨟4人と表使4人、火之番7人の15人 合計469人です。この時点では御台所は不在です。楽宮(浄観院)は天保十一年1840に死去しています。家慶付が248人と多いのは、つぎに向える御台所のために亡くなった御台所に仕えていた女中の一部を暇を与えず将軍付にしていた為ではないかと思われます。中下級女中には呉服之間11人、同過人5人、御三之間12人、同過人9人、のように何々過人という者が多数あり、合計43人になりますが、元御台所に仕えていた者ではないかと思います。その他に御次が20人というのも世子家定付の御次が8人なのに比べ異常に多いのも同様の理由ではないかと思われます。
一方、部屋方の人数は不明ですが、女中の諸手当のうち「扶持」が参考になるかも知れません。『御殿女中』にある大岡ませ子の話に「御年寄は金六十両十人扶持、この扶持は部屋で遣っております者の数だけ下さる。」とあります。
御中﨟は4人扶持ですから本人の分を引いて3人扶持残ります。
「御中﨟は、大概二人ぐらいずつ、願い親の二階に合宿して、五六人の女ども(又者とも部屋方ともいった)を遣っておりました。御次ならば三四人、お三の間ならば二人といったように、だんだん召仕いの数が減じます。」(大岡ませ子の話)
ともありますから、実際は扶持以上の部屋方を使っていたようです。
大奥は、本丸のほか、西丸にも二丸にもありました。下に江戸城の図をあげます。
また大奥も時代によって変わっているでしょう。身分・職種により働く場所も住む所も違っていますし、業務も細分されていますから体験を通して知りうる範囲は限られます。
例えば御台所の食事について大岡ませ子は次のように話しています。
「お食事は、御末頭から御次へ、お通いは御次です。それから御側へ、それから御配膳。御配膳は上﨟か御年寄が勤めます。おハチは中年寄の役です。(中略) 運びの間は、すべて蝿帳が付いています。御次が御側(中﨟)へ渡す時に、蝿帳を取るのです。お食事の給仕は、盆や三方を用いるのは不敬としてありました。手でします。片手です。お食器は御末頭が洗うのです。」(以下略)
御目見以下の御仲居が作った料理を同じ御目見以下でも上位の御末頭が御目見以上の御次へ渡し、御次が御台所の部屋まで運んで御中﨟に渡します。配膳は上﨟か御年寄が勤め、給仕は中年寄です。
大奥のことはほとんど知られていなかったのですから、聞き手は自身が知りたいと思うことを、本来知っているはずのない者に対しても質問するでしょう。知っていることには、自身が体験したことのほかに、人から聞いただけのことも含まれています。質問されて話す時に、この二つを区別しているかどうかが問題になります。人から聞いただけのことは、信頼度が劣るからです。
従って元大奥女中に聞いたといっても、その人がどの将軍の時、誰に、どういう身分職種で奉公していたのかが分からないと、その人の話がどこまで信用できるかは判断できません。
また元大奥女中が、それを区別して話した場合でも、質問者がそれを区別して文章にしたかどうか。聴き洩らしたことや聞けなかったことを他の情報でうめていないか。別の人から聞いた話と食違いがあった時どうしたかなどが問題になります。
この聞き手側と話し手側の二面から『旧事諮問録』と『御殿女中』を考えてみます。
『江戸奥女中物語』は家定付御使番を勤めた藤波の関係先に残された手紙等を主な資料にして、藤波を中心に大名の奥も含めた奥女中についてのもので、大奥女中から聞いた話ではありませんから除きます。
一、聞き手側について
『旧事諮問録』は、その明治二十四年の例言に
とあります。
なお、「史学会」とは帝国大学の史学科・国文学科関係者を中心とした研究団体です。
例言にある通り回答者の言葉をそのまま速記したものですから、聞き手側による変更・修正はありません。ただ、将軍に関する事も御台所に関する事も答えていますが、「◎問」、「◎答」とあるだけで二人のうちどちらが答えたのかは明記されていません。
『御殿女中』の方は、鳶魚氏は次のように書いています。
『御殿女中』のなかで話し手の大岡ませ子は『千代田城大奥』の誤りをいくつか指摘しています。そのうちの一つをあげると
別のところには
因みに『千代田城大奥』上巻、年中行事中の初午の項は次の如くです。
『御殿女中』も回答者の話に「忠実であろうと」努めたもののようです。したがって『旧事諮問録』も『御殿女中』も聞き手側による変更・補充はないようです。ただ、『旧事諮問録』と『御殿女中』には違いもあります。『御殿女中』は話を聞いても不明なところは棄てたり、発表を見合わせたという。鳶魚氏は『旧事諮問録』について次のように書いています。
以下同様の例が数件ありますが省略します。
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江戸時代には大奥女中が大奥に関することを他に話すことは禁止されていました。
「有徳院殿御実紀」巻三には次のようにあります。
享保元年1716十一月廿八日
此日後閣の女房等に誓詞を奉らしむ。其文にいふ。各つとめに実意をつくし。いさゝかも後闇事なく。よろづ條約の旨を守るべし。御為に対し奉り。さがなき事をはかりあふべからず。後閣の事は。何によらず他へもらすべからず。女房のほか。外様の願ひめきし事。一切取持べからず。上威をかり。自己の奢侈すべからず。同僚の事をあしざまにいひなし。あるは人々の交をさまたぐる事つゝしむべし。淫穢の事はいふまでもなし。休暇たまはりし時も。戯場。遊所等へまかるべからず。各心及ばん程は行跡をたしなみ。かつ局々の火をこゝろいれ。いましむべしとなり。
かなり守られていたようで、江戸時代には大奥のことは想像するだけだったようです。それが、明治になって元大奥女中に話を聞いて大奥のことが書かれるようになりますが、そこには二つの注意すべきことがあるように思われます。一つは話した側の問題、今一つはその話を聞いて文章に書きあらわした側の問題です。
一口に大奥女中といいますが、様々な身分職種があります。大きく分ければ、徳川家から禄をもらって奉公する者(『江戸奥女中物語』では幕府女中と呼んでいます)と、その幕府女中に雇われている者、すなわち部屋方(又者)です。幕府女中にも御目見以上と御目見以下があり、御目見以下にも席以上と席以下の区別があります。また、部屋方にも、局、合の間、小僧、たもんの区別があります。江戸時代は身分制社会ですから職種と身分は結びついています。
『江戸奥女中物語』には「幕府女中のうち、将軍付、御台所付の職制について一〇代・一一代・一三代・一四代の分限帳を参考に職階順に並べ」た表と家定付女中の諸手当表が載っていますのでそれをあげます。
『江戸奥女中物語』の説明によれば、職階については
「呉服之間までが将軍や御台所に目通りを許される御目見得以上で、御広座敷より下は御目見得以下といわれている。」
「御客応答、御錠口、御切手書、御伽坊主、御広座敷は将軍付、中年寄、御小姓、御茶之間は御台所付にのみある職種である。」
但し、この職階順は定まったものではないようです。『御殿女中』には「表とは違って、奥では時宜によって職名を替えもすれば、その人によって、座次も変化した場合が多いようだ。職名の例では、中年寄とも若年寄ともいう。役順の例では、御諚口が中年寄の上になったり、中﨟頭のある場合には、中年寄の次に中﨟頭が並び、中﨟頭の次に御錠口がくるようにもなった。従って、職名役順は究竟されないものだと思う。」とあります。
家定付女中の数について『江戸奥女中物語』は「家治付一六二人、家斉付一七一人、家茂付一三二人である。人数にばらつきがあることから、定数が決められていたわけではないようだ。」といいます。
江戸城大奥に住んでいた奥女中の数は千人とも二千人ともいわれますが、憶測です。幕府女中の数は、分限帳があるのでわかりますが、部屋方の人数が不明だからです。
因みに江戸城大奥全体の幕府女中の数について、『清華閣襍編』にある弘化三年1846の分限帳の人数をあげれば
本丸 将軍家慶付248人、養女精姫君付35人、 西丸 家定付112人、御簾中様(有君)付59人、 二丸 家斉御手付の御中﨟4人と表使4人、火之番7人の15人 合計469人です。この時点では御台所は不在です。楽宮(浄観院)は天保十一年1840に死去しています。家慶付が248人と多いのは、つぎに向える御台所のために亡くなった御台所に仕えていた女中の一部を暇を与えず将軍付にしていた為ではないかと思われます。中下級女中には呉服之間11人、同過人5人、御三之間12人、同過人9人、のように何々過人という者が多数あり、合計43人になりますが、元御台所に仕えていた者ではないかと思います。その他に御次が20人というのも世子家定付の御次が8人なのに比べ異常に多いのも同様の理由ではないかと思われます。
一方、部屋方の人数は不明ですが、女中の諸手当のうち「扶持」が参考になるかも知れません。『御殿女中』にある大岡ませ子の話に「御年寄は金六十両十人扶持、この扶持は部屋で遣っております者の数だけ下さる。」とあります。
御中﨟は4人扶持ですから本人の分を引いて3人扶持残ります。
「御中﨟は、大概二人ぐらいずつ、願い親の二階に合宿して、五六人の女ども(又者とも部屋方ともいった)を遣っておりました。御次ならば三四人、お三の間ならば二人といったように、だんだん召仕いの数が減じます。」(大岡ませ子の話)
ともありますから、実際は扶持以上の部屋方を使っていたようです。
大奥は、本丸のほか、西丸にも二丸にもありました。下に江戸城の図をあげます。
また大奥も時代によって変わっているでしょう。身分・職種により働く場所も住む所も違っていますし、業務も細分されていますから体験を通して知りうる範囲は限られます。
例えば御台所の食事について大岡ませ子は次のように話しています。
「お食事は、御末頭から御次へ、お通いは御次です。それから御側へ、それから御配膳。御配膳は上﨟か御年寄が勤めます。おハチは中年寄の役です。(中略) 運びの間は、すべて蝿帳が付いています。御次が御側(中﨟)へ渡す時に、蝿帳を取るのです。お食事の給仕は、盆や三方を用いるのは不敬としてありました。手でします。片手です。お食器は御末頭が洗うのです。」(以下略)
御目見以下の御仲居が作った料理を同じ御目見以下でも上位の御末頭が御目見以上の御次へ渡し、御次が御台所の部屋まで運んで御中﨟に渡します。配膳は上﨟か御年寄が勤め、給仕は中年寄です。
大奥のことはほとんど知られていなかったのですから、聞き手は自身が知りたいと思うことを、本来知っているはずのない者に対しても質問するでしょう。知っていることには、自身が体験したことのほかに、人から聞いただけのことも含まれています。質問されて話す時に、この二つを区別しているかどうかが問題になります。人から聞いただけのことは、信頼度が劣るからです。
従って元大奥女中に聞いたといっても、その人がどの将軍の時、誰に、どういう身分職種で奉公していたのかが分からないと、その人の話がどこまで信用できるかは判断できません。
また元大奥女中が、それを区別して話した場合でも、質問者がそれを区別して文章にしたかどうか。聴き洩らしたことや聞けなかったことを他の情報でうめていないか。別の人から聞いた話と食違いがあった時どうしたかなどが問題になります。
この聞き手側と話し手側の二面から『旧事諮問録』と『御殿女中』を考えてみます。
『江戸奥女中物語』は家定付御使番を勤めた藤波の関係先に残された手紙等を主な資料にして、藤波を中心に大名の奥も含めた奥女中についてのもので、大奥女中から聞いた話ではありませんから除きます。
一、聞き手側について
『旧事諮問録』は、その明治二十四年の例言に
旧幕時代を去ること、なお未だ甚だ遠からざるに、その時代の事に明らかなる人は、ようやくその数を減ぜんとし、有益なる事実もまさに堙滅し去らんとす。史学会会員有志の者、大いにこれを慨き、(中略)ついに毎月一回、職を旧幕府に奉じ、事務に練達せる耆老を招聘して、未だ文書にあらわれざる事実を質問する事とす。
(中略)
一、第一編にも言える如く、質問者はおのおの己れの欲する所を問い、答問者は従ってこれに答うる故に、その間大いに統一を欠くことあれども、この速記録はすべて諮問会席上の真面目を保存せん事を務むる故に、その文辞の蕪雑なるは勿論、その質問および答弁の前後重複せる処、および分明ならざる点をも修補せざるのみならず、委員において判然誤謬なるべしと思惟せる処をも、少しも刪正せず。読者これを諒せよ。
とあります。
なお、「史学会」とは帝国大学の史学科・国文学科関係者を中心とした研究団体です。
例言にある通り回答者の言葉をそのまま速記したものですから、聞き手側による変更・修正はありません。ただ、将軍に関する事も御台所に関する事も答えていますが、「◎問」、「◎答」とあるだけで二人のうちどちらが答えたのかは明記されていません。
『御殿女中』の方は、鳶魚氏は次のように書いています。
現在では、幕府の奥向のことを書いたものとしては、ただ、明治二十五年に出版した『千代田城大奥』二冊があるのみに過ぎぬ。無二の典拠になっているこの書は、故老先輩の間にすこぶる異論があって、あるいは、採用するに足らず、とさえ言われている。我等も御懇意な著者太田杏村氏は、水戸藩士でもあり、材料蒐集には随分奔走して、柳営の老女員を聞き回ったものだ。それでもなお、失敗を免れなかった。
(中略)
昔は面接することだに許されない高級な大奥女中も、幕府が覆滅した後は、便宜に昔話の花を咲かせもする。骨を折って聞き回りさえすれば、江戸の当時よりも、大奥のことは、東京になってからの方が知れ易いのである。今日では御本丸女中の生存者は一人もないが、太田氏の努力された頃には、まだまだ大勢生きていた。耳学問には都合のいい時期でもあった。しかし、奥向きでも一人一役なのだ。当役の人でも出会せない事柄がある。太田氏は聞き集めることの多きを貪って、ひたすら多人数の口を頼んだために、本来諒解を持たない創聞の事柄だけに、矛盾撞着をきたした上に、聞き得なかった部分を完備させたいままに、水戸家その他の奥向の話で補充したので、その混淆のために、どこまでが柳営の記事なのか弁別が付かず、千代田の大奥としては、無実な事柄をも含むようになった、という批難に逢った。我等は闕漏をその儘に、もっぱら刀自の談話に忠実であろうとするのは、『千代田城大奥』の成績に懲りたからである。
『御殿女中』のなかで話し手の大岡ませ子は『千代田城大奥』の誤りをいくつか指摘しています。そのうちの一つをあげると
初午に御目見以上の者の御祝儀を申し上げることが『千代田城大奥』に書いてあるのは、嘘です。誰も初午の御祝儀などを申し上げる者はありません。また、紋付の裾模様に縫入掻取を着て出るというのは、あまりばかばかしいことです。御本丸では、裾模様というものはありません。御目見以上の者は、紋付を着ません。紋付というのは、手前紋のことです。御目見以上の者なら、御紋付か無紋でございます。御紋付の裾模様とすれば、いよいよありっこのないものです。御紋付ならば、縫入りで惣模様でなければなりません。それに、御年寄の御代参もないことです。御年寄でなくとも、誰でも稲荷へ御代参に遣わされることはありません。上の稲荷御参詣も定ったことではなく、お遊びながら御参詣になることもあるのです。
別のところには
自分の紋の付いたのを着ますのは、お三の間までで、それから上の者は、一切着られないのでした。
御奉公人はすべて自分紋を着ないのが例です。御目見以上は、御紋付を着ます。御目見以下は、御紋付が着られませんので無紋です。殊に自分紋の縫入りは着られません。御目見以上のものでも、拝領しない内は、御紋付を着るのもおかしいから、無紋にします。縫のないものは、誰も自分紋を着けました。(以下略)
因みに『千代田城大奥』上巻、年中行事中の初午の項は次の如くです。
午祭の御祝儀をお目見江以上の者申し上ぐる。服装は紋付にて裾模様あり。地は中色(空色)にて縫入りの襠(かいどり)を着(つ)く。御台所も同様の御扮装(おんいでたち)なり。(中略)城内の稲荷社へはお年寄代参を勤む。(以下略)
『御殿女中』も回答者の話に「忠実であろうと」努めたもののようです。したがって『旧事諮問録』も『御殿女中』も聞き手側による変更・補充はないようです。ただ、『旧事諮問録』と『御殿女中』には違いもあります。『御殿女中』は話を聞いても不明なところは棄てたり、発表を見合わせたという。鳶魚氏は『旧事諮問録』について次のように書いています。
『旧事諮問録』第二編を読んで、こうした話は、誰にも上手に聞けないものなのを知った。我等も、ませ刀自の話を、何とかしてうまく聞こう、上手に話させようとした。そうしてハッキリと聞き取りたいと心掛けもした。しかし、大分不明なところがあるので、惜しくは思いながら、筆記の或る部分を棄てたものもあり、発表を見合わせたのもある。『旧事諮問録』には、問答その儘の筆記だと断ってあるだけに、随分不明なところや、意義をなさないところを見受ける。我等が今ここで弁じたいのは、不明な部分を除き棄てて、了解し得られる部分についてである。念のため放棄した例をいえば、(中略)
総触というのは極っております。朝十時に御すず廊下へはいって、そこで御機嫌伺いをするので。
御鈴廊下はその名のごとく廊下である。はいってといえば、そこからどこぞのお座敷へはいるのであろうが、これでは御機嫌伺いをする場所が知れない。こうした問答は採択し難いからである。
以下同様の例が数件ありますが省略します。
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