雑話25「足高の制追補」
前回「幕臣の俸禄4」で「足高の制」を採りあげましたが、疑問点がいくつかあります。
①足高の制のよる幕府の財政負担はどれほどだったのか
②足高の制導入がなぜこの時期なのか、上米の制との関係は
③足高の制が出来ても支給されていた役料が廃止された時期とその理由
足高の制に関する簡単な説明のほとんどは制度面に関ことだけです。町奉行の場合、三千石未満の家禄の者には在職中家禄との差額を足高として加算し三千石を支給するというものです。町奉行の役料七百俵は蔵米取りの俸禄と同じく幕府の米蔵から支給されますが、足高は地方知行として与えられますからその分だけ幕府直轄領が減ることになり、そこから収納する年貢が減少します。
享保十六年の武鑑で見ると、役高三千石高の大目付・町奉行・御勘定奉行・百人組之頭・小普請組支配だけでもその足高(=直轄領の減少)は2万石以上になります。年貢の減少は四公六民として8千石以上です。
「幕臣の俸禄4―足高の制」では触れませんでしたが、元文三年には享保八年になかった京都町奉行・大坂町奉行ほかの役高が追加されています。また、享保八年の足高の制は地方知行の者が勤める高級役職に対するもので、翌享保九年には蔵米取の勤める下級職に対する足高(足米)の触れが出されています。こちらは収入減ではなく支出増です。足高の制によって抜擢人事が行いやすくなりますが、足高の制は抜擢人事を行うためのものではなく、役不相応に小禄の者の救済を少ない財政負担で行うためのものですから、50俵100俵といった下級役職についても行われています。
また、足高の制がなぜこの時期に導入されたのかを説明したものもまだ見ていません。
足高の制と上米の制については、例えば高埜利彦氏の『天下泰平の時代』では
と説かれていますが、それぞれの説明だけで両者の関係については触れていません。
猶、綱吉・家宣・吉宗の将軍就任に伴いそれぞれの家から幕臣に編入された人数について、横山輝樹氏の「惣領番入制度、その成立と意義」には「深谷(井)雅海氏の研究によれば」(『徳川将軍政治権力の研究』)として、館林(綱吉)から582名(488家)、甲府(家宣)から776名(694家)とあります。紀州(吉宗)からの編入は深井雅海氏の『江戸城御庭番』によれば205名です。
また、「享保通鑑」には上米の石高として、万石以上からは拾八万七千四百五拾石、その他に御三家から五千石とあります。
足高の制導入前後の動きを見ると次の通りです。
1722享保七年七月 上米の制
1723享保八年六月 足高の制(地方知行)
1724享保九年七月 足高の制(蔵米取)
1730享保十五年四月 上米の制来年より廃止
1738元文三年三月 役高の追加(京都町奉行・大坂町奉行他)
1744延享元年頃? 少なくとも町奉行・勘定奉行の役料廃止
足高の制を始める前年に上米の制を開始しています。年々歳出が歳入を上回る状態が続き、その不足分を御城米や御城金で埋めてきたが、享保七年の春の御借米は支給することが出来ない状況に至り(「今年ニ至て御切米等も難相渡」)、やむなく万石以上に上米を命じるとしています。
『享保世話』には「御蔵御借米滞候に付、小倉山狂歌」として狂歌が十七首載っています。「百俵取の面々春十七俵相渡り、依之俵数に合て狂歌もおなじ十七首」とあります。百俵取であれば通常は、春・夏各25俵、冬50俵です。それが享保七年の春の御借米は17俵しか支給できなかったようです。因みに十七首の狂歌の内はじめの三首をあげれば、
春過て夏まで取らぬ御借米質を取てふあたまかく山
諸共にあはれと思へ質屋どの御身より外に知る人もなし
千はやぶる神代も聞ず春かしの夏まで取らで只勤とは
こうした状況のなかで足高の制は導入されているのです。前年の上米の制がなければ足高の制は不可能でした。必要な米の量を計算した上で高一万石につき米一〇〇石としているはずですから、上米の制には足高の制の導入が織り込まれていたのでしょう。これ等に関することに触れた一般向けの本も見ていません。私が見ていないだけかもしれませんが。
また、足高の制の導入時、それまでの役料はほとんどそのまま継続されています。「但、此度御定之外取来候御役料は其儘被下置候」。元文三年三月の京都町奉行・大坂町奉行他の足高の制追加の際にも「御役料は只今迄之通被下候」とあります。それが後に廃止されているようです。ただ、何時廃止されたのか、なぜ廃止されたのかについても、それを説明したものを見ていません。町奉行・御勘定奉行の場合、1743寛保三年の武鑑までは「御役料七百俵三千石ノ高」と記載されていますが、1745延享二年以降の武鑑では「三千石ノ高」だけになっています。武鑑は公的出板物ではなく、民間の本屋の出板ですから全面的に信用することはできませんが、1743寛保三年から1745延享二年の間に廃止されたようです。ただ、その間の徳川実紀と御触書集成にあたってみましたが役料廃止に関する記載は見つかりませんでした。これについても一般向けの本に触れているものはないようです。
以上、足高の制に関する疑問点をあげてみました。
資料として上米の制開始に関する「御書付」と廃止の御触れ、並びに1724享保九年七月の蔵米取の勤める役職の足高、1738元文三年三月の京都町奉行他の追加に関する御触れを載せておきます。なお「御書付」とは老中が出す御触れのことです。
上米の制資料
〇『御触書寛保集成』
一七〇九 1722享保七寅年七月
(一)
御旗本ニ被召置候御家人 御代々段々相増候、御蔵入高も先規よりハ多候得共、御切米御扶持方其外表立候御用筋渡方ニ引合候ては、畢竟年々不足之事ニ候、然とも只今迄は所々御城米を廻され、或御城金ヲ以急を辨られ、彼是漸御取つゝきの事ニ候得共、今年ニ至て御切米等も難相渡、御仕置筋之御用も御手支之事ニ候、それニ付、御代々御沙汰無之事ニ候得共、万石以上之面々より八木差上候樣ニ可被仰付と思召、左候ハねは御家人之内数百人、御扶持可被召放より外は無之候故、御恥辱を不被顧、被仰出候、高壹万石ニ付八木百石積り可被差上候、且又此間和泉守ニ被仰付、随分遂僉議、納り方之品、或新田等取立候儀申付候様ニとの御事候得共、近年之内には難相調可有之候條、其内年々上ケ米被仰付ニて可有之候、依之在江戸半年充被成御免候間、緩々休息いたし候様ニ被仰出候、
何も在府之儀ニ付ては、江戸人多ニも候間、此以後在府之間も少キ儀候條、可成程は人数可被相減候、
(二)
今度万石以上より八木差上候儀、幷参勤之時節御用捨被遊被差延候段、委細別紙ニ被仰出候、それに付、参勤御用捨無之面々、又は御暇等不被下、或当地在役之輩ハ、八木差上候儀被仰出間敷思召候、然に御勝手御不如意之故を以、八木等差上御用立候儀ハ、何も可爲本意儀ハ勿論ニ候、然上ハ縱在役之者たりといへとも、一統に被仰出候様ニ年寄共相願候付て、難默止被思召、左候ハゝ八木少々可差上旨被仰出候條、参勤御用捨無之面々幷御暇等不被下輩、壹万石ニ付百石之割合三分一之積りヲ以可差上候、
右之趣、可申聞旨被仰出候、
(三)
覺
一参勤御暇之儀、只今迄外様四月、御譜代六月交替被仰付候得共、向後は一同ニ、三月中九月中交替可被仰付候事、
一嫡子御暇被下候者は、其父在所到着以後六十日過候て、可致参府候事、
一在所又ハ居所有之面々ニても、幼少若年之者えは御暇被下間敷候、幷一年半ハ御暇之格ニ准し、御門番、火之番等被仰付間敷候、尤半年充在府之格ニて、右御用等可被仰付候事
一上ケ米之儀、大坂御蔵え成共、当地御蔵え成共、面々勝手次第上ケ米高半分宛、春秋両度ニ可被相納候事、
一当年は上ケ米高半分之積り、秋中可被相納候事、
以上
〇『享保通鑑』は御書付(一)の前に次の記述があります。
一、三日(1722享保七壬寅年七月)、万石以上之面々被為召、登城、在国在所之面々幷ニ病気幼少之輩者、名代指出し候、国持大名、御譜代幷外様之面々者、大廊下へ相詰、御詰衆、寺社奉行、御奏者、菊之間御椽頬詰之面々者、鴈之間江相詰、両席江松平肥後守、松平下総守老中出座、上意、水野和泉守申渡候間、御書付之趣者、御祐筆読之、何れも拝聞、
御書付(二)の後ろには次の記述があります。
御扶持米并御扶持方
惣高七十八万九千六百九十俵 但、三斗五升入
右者春夏冬三度之御切米
廿万九千六百五拾俵 但、同断
右者月並御扶持方十二ヶ月分
弐囗〆九拾九万九千三百四十俵
今度万石已上より納米
現米拾八万七千四百五拾石
此俵五拾三万五千五百七十一俵 但、三斗五升入
此外御三家より上ヶ米五千石
右差引〆
四拾六万三千七百六十九俵
引用者註:御三家より上ヶ米五千石は右差引四拾六万三千七百六十九俵の計算に入っていません
〇『御触書寛保集成』
一〇七七 1730享保十五戊年四月
從来年、諸大名上ヶ米 御免被遊、参勤交代先規之通可仕之旨、今度被仰出候、夫ニ付、御勝手向いまた事足候程ニは無之候得共、最早久敷上ケ米仕候付、御免之事ニ候、然上は諸向御入用筋之儀遂吟味、可成程ハ相減候様ニ、其向々役所々ニて了簡仕、可申出候、右御用和泉守幷伊豫守可相勤旨被仰出候間、可存其趣候以上、
四月
足高の制資料
〇『御触書寛保集成』
一七一五 1724享保九辰年七月
此度御吟味之上、続兼候小給之者ニ、御増高被下候間、自今支配之内より格別之儀も無之候ハゝ、御足米願申間敷候、
右之趣、向々え可被達候、
五拾俵高 紅葉山附坊主
扶持持之儘、但御役料有之分ハ、只今迄之通リ、
以下多数の記載がありますが、享保八年の地方知行の分と同様省略します。
最高が二百俵高 御留守居与力・月光院様御用達他
最低が二拾俵高 小普請方改役下役組頭・御召御馬口附之者 です。
〇『御触書寛保集成』
一七四五 1738元文三午年三月
京都町奉行
大坂町奉行
千五百石より以下之者は、向後千五百石之高御足高被下之、御役料は只今迄之通被下候、
長崎奉行
駿府御定番
禁 裏 附
院 附
山田奉行
堺 奉 行
奈良奉行
駿府町奉行
佐渡奉行
浦賀奉行
千石より以下之ものハ、向後千石之高御足高被下之、
御役料は唯今迄之通被下候、
右之通ニ候間、可被得其意候、
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①足高の制のよる幕府の財政負担はどれほどだったのか
②足高の制導入がなぜこの時期なのか、上米の制との関係は
③足高の制が出来ても支給されていた役料が廃止された時期とその理由
足高の制に関する簡単な説明のほとんどは制度面に関ことだけです。町奉行の場合、三千石未満の家禄の者には在職中家禄との差額を足高として加算し三千石を支給するというものです。町奉行の役料七百俵は蔵米取りの俸禄と同じく幕府の米蔵から支給されますが、足高は地方知行として与えられますからその分だけ幕府直轄領が減ることになり、そこから収納する年貢が減少します。
享保十六年の武鑑で見ると、役高三千石高の大目付・町奉行・御勘定奉行・百人組之頭・小普請組支配だけでもその足高(=直轄領の減少)は2万石以上になります。年貢の減少は四公六民として8千石以上です。
「幕臣の俸禄4―足高の制」では触れませんでしたが、元文三年には享保八年になかった京都町奉行・大坂町奉行ほかの役高が追加されています。また、享保八年の足高の制は地方知行の者が勤める高級役職に対するもので、翌享保九年には蔵米取の勤める下級職に対する足高(足米)の触れが出されています。こちらは収入減ではなく支出増です。足高の制によって抜擢人事が行いやすくなりますが、足高の制は抜擢人事を行うためのものではなく、役不相応に小禄の者の救済を少ない財政負担で行うためのものですから、50俵100俵といった下級役職についても行われています。
また、足高の制がなぜこの時期に導入されたのかを説明したものもまだ見ていません。
足高の制と上米の制については、例えば高埜利彦氏の『天下泰平の時代』では
また「足高の制」という制度も享保八年(一七二三)に制定された。この制度は、役人として任官中その役職にある期間だけ俸禄を足して、その役職を辞めた後は足した禄高を除いてもとに戻すという制度である。足高の制を始める以前には、役職が上がると俸禄が加増され、役を辞めた後も加増されたままの俸禄が継続した。足高の制で支出の抑制を図ったものであるが、この制度が始まると、有能ではあるが家格が低く小禄であるため、重要な役職に就けたくとも、加増をはばかるため行なえなかった人材の登用が、図れるようになった利点も存在した。
享保七年七月に「上米の制」が始められた。吉宗としては財政再建のために、やむにやまれず、かなり思い切った方法に出たものである。吉宗の認識する財政窮乏の要因は、人件費の増大である。五代綱吉・六代家宣・八代吉宗と三代にわたって大量に幕臣が編入されたことによつて、切米・扶持米が増加し財政負担が増した。そのため、同七年は切米などを渡せない状態になっている。このままでは、御家人を数百人召し放つよりほかなくなるとの認識に至つた。
そのため、前代には無かったことたが「御恥辱を顧みず」万石以上の面々から、高一万石につき米一〇〇石の積りで米を上納するように命じた。その代わり参勤交代での在府期間を半年にするので、ゆるゆる休息するようにと伝えた。また、「上米の制」実施中は、大名に手伝普請を課すことも中止した。大名からの上米は、大坂蔵でも江戸蔵でも勝手次第で、上米を春夏二回に半分ずつ納めるように命じた。上米の年間総額は一八万七〇〇〇石余に上り、切米・扶持米総額の半分に相当する効果があった。
と説かれていますが、それぞれの説明だけで両者の関係については触れていません。
猶、綱吉・家宣・吉宗の将軍就任に伴いそれぞれの家から幕臣に編入された人数について、横山輝樹氏の「惣領番入制度、その成立と意義」には「深谷(井)雅海氏の研究によれば」(『徳川将軍政治権力の研究』)として、館林(綱吉)から582名(488家)、甲府(家宣)から776名(694家)とあります。紀州(吉宗)からの編入は深井雅海氏の『江戸城御庭番』によれば205名です。
また、「享保通鑑」には上米の石高として、万石以上からは拾八万七千四百五拾石、その他に御三家から五千石とあります。
足高の制導入前後の動きを見ると次の通りです。
1722享保七年七月 上米の制
1723享保八年六月 足高の制(地方知行)
1724享保九年七月 足高の制(蔵米取)
1730享保十五年四月 上米の制来年より廃止
1738元文三年三月 役高の追加(京都町奉行・大坂町奉行他)
1744延享元年頃? 少なくとも町奉行・勘定奉行の役料廃止
足高の制を始める前年に上米の制を開始しています。年々歳出が歳入を上回る状態が続き、その不足分を御城米や御城金で埋めてきたが、享保七年の春の御借米は支給することが出来ない状況に至り(「今年ニ至て御切米等も難相渡」)、やむなく万石以上に上米を命じるとしています。
『享保世話』には「御蔵御借米滞候に付、小倉山狂歌」として狂歌が十七首載っています。「百俵取の面々春十七俵相渡り、依之俵数に合て狂歌もおなじ十七首」とあります。百俵取であれば通常は、春・夏各25俵、冬50俵です。それが享保七年の春の御借米は17俵しか支給できなかったようです。因みに十七首の狂歌の内はじめの三首をあげれば、
春過て夏まで取らぬ御借米質を取てふあたまかく山
諸共にあはれと思へ質屋どの御身より外に知る人もなし
千はやぶる神代も聞ず春かしの夏まで取らで只勤とは
こうした状況のなかで足高の制は導入されているのです。前年の上米の制がなければ足高の制は不可能でした。必要な米の量を計算した上で高一万石につき米一〇〇石としているはずですから、上米の制には足高の制の導入が織り込まれていたのでしょう。これ等に関することに触れた一般向けの本も見ていません。私が見ていないだけかもしれませんが。
また、足高の制の導入時、それまでの役料はほとんどそのまま継続されています。「但、此度御定之外取来候御役料は其儘被下置候」。元文三年三月の京都町奉行・大坂町奉行他の足高の制追加の際にも「御役料は只今迄之通被下候」とあります。それが後に廃止されているようです。ただ、何時廃止されたのか、なぜ廃止されたのかについても、それを説明したものを見ていません。町奉行・御勘定奉行の場合、1743寛保三年の武鑑までは「御役料七百俵三千石ノ高」と記載されていますが、1745延享二年以降の武鑑では「三千石ノ高」だけになっています。武鑑は公的出板物ではなく、民間の本屋の出板ですから全面的に信用することはできませんが、1743寛保三年から1745延享二年の間に廃止されたようです。ただ、その間の徳川実紀と御触書集成にあたってみましたが役料廃止に関する記載は見つかりませんでした。これについても一般向けの本に触れているものはないようです。
以上、足高の制に関する疑問点をあげてみました。
資料として上米の制開始に関する「御書付」と廃止の御触れ、並びに1724享保九年七月の蔵米取の勤める役職の足高、1738元文三年三月の京都町奉行他の追加に関する御触れを載せておきます。なお「御書付」とは老中が出す御触れのことです。
上米の制資料
〇『御触書寛保集成』
一七〇九 1722享保七寅年七月
(一)
御旗本ニ被召置候御家人 御代々段々相増候、御蔵入高も先規よりハ多候得共、御切米御扶持方其外表立候御用筋渡方ニ引合候ては、畢竟年々不足之事ニ候、然とも只今迄は所々御城米を廻され、或御城金ヲ以急を辨られ、彼是漸御取つゝきの事ニ候得共、今年ニ至て御切米等も難相渡、御仕置筋之御用も御手支之事ニ候、それニ付、御代々御沙汰無之事ニ候得共、万石以上之面々より八木差上候樣ニ可被仰付と思召、左候ハねは御家人之内数百人、御扶持可被召放より外は無之候故、御恥辱を不被顧、被仰出候、高壹万石ニ付八木百石積り可被差上候、且又此間和泉守ニ被仰付、随分遂僉議、納り方之品、或新田等取立候儀申付候様ニとの御事候得共、近年之内には難相調可有之候條、其内年々上ケ米被仰付ニて可有之候、依之在江戸半年充被成御免候間、緩々休息いたし候様ニ被仰出候、
何も在府之儀ニ付ては、江戸人多ニも候間、此以後在府之間も少キ儀候條、可成程は人数可被相減候、
(二)
今度万石以上より八木差上候儀、幷参勤之時節御用捨被遊被差延候段、委細別紙ニ被仰出候、それに付、参勤御用捨無之面々、又は御暇等不被下、或当地在役之輩ハ、八木差上候儀被仰出間敷思召候、然に御勝手御不如意之故を以、八木等差上御用立候儀ハ、何も可爲本意儀ハ勿論ニ候、然上ハ縱在役之者たりといへとも、一統に被仰出候様ニ年寄共相願候付て、難默止被思召、左候ハゝ八木少々可差上旨被仰出候條、参勤御用捨無之面々幷御暇等不被下輩、壹万石ニ付百石之割合三分一之積りヲ以可差上候、
右之趣、可申聞旨被仰出候、
(三)
覺
一参勤御暇之儀、只今迄外様四月、御譜代六月交替被仰付候得共、向後は一同ニ、三月中九月中交替可被仰付候事、
一嫡子御暇被下候者は、其父在所到着以後六十日過候て、可致参府候事、
一在所又ハ居所有之面々ニても、幼少若年之者えは御暇被下間敷候、幷一年半ハ御暇之格ニ准し、御門番、火之番等被仰付間敷候、尤半年充在府之格ニて、右御用等可被仰付候事
一上ケ米之儀、大坂御蔵え成共、当地御蔵え成共、面々勝手次第上ケ米高半分宛、春秋両度ニ可被相納候事、
一当年は上ケ米高半分之積り、秋中可被相納候事、
以上
〇『享保通鑑』は御書付(一)の前に次の記述があります。
一、三日(1722享保七壬寅年七月)、万石以上之面々被為召、登城、在国在所之面々幷ニ病気幼少之輩者、名代指出し候、国持大名、御譜代幷外様之面々者、大廊下へ相詰、御詰衆、寺社奉行、御奏者、菊之間御椽頬詰之面々者、鴈之間江相詰、両席江松平肥後守、松平下総守老中出座、上意、水野和泉守申渡候間、御書付之趣者、御祐筆読之、何れも拝聞、
御書付(二)の後ろには次の記述があります。
御扶持米并御扶持方
惣高七十八万九千六百九十俵 但、三斗五升入
右者春夏冬三度之御切米
廿万九千六百五拾俵 但、同断
右者月並御扶持方十二ヶ月分
弐囗〆九拾九万九千三百四十俵
今度万石已上より納米
現米拾八万七千四百五拾石
此俵五拾三万五千五百七十一俵 但、三斗五升入
此外御三家より上ヶ米五千石
右差引〆
四拾六万三千七百六十九俵
引用者註:御三家より上ヶ米五千石は右差引四拾六万三千七百六十九俵の計算に入っていません
〇『御触書寛保集成』
一〇七七 1730享保十五戊年四月
從来年、諸大名上ヶ米 御免被遊、参勤交代先規之通可仕之旨、今度被仰出候、夫ニ付、御勝手向いまた事足候程ニは無之候得共、最早久敷上ケ米仕候付、御免之事ニ候、然上は諸向御入用筋之儀遂吟味、可成程ハ相減候様ニ、其向々役所々ニて了簡仕、可申出候、右御用和泉守幷伊豫守可相勤旨被仰出候間、可存其趣候以上、
四月
足高の制資料
〇『御触書寛保集成』
一七一五 1724享保九辰年七月
此度御吟味之上、続兼候小給之者ニ、御増高被下候間、自今支配之内より格別之儀も無之候ハゝ、御足米願申間敷候、
右之趣、向々え可被達候、
五拾俵高 紅葉山附坊主
扶持持之儘、但御役料有之分ハ、只今迄之通リ、
以下多数の記載がありますが、享保八年の地方知行の分と同様省略します。
最高が二百俵高 御留守居与力・月光院様御用達他
最低が二拾俵高 小普請方改役下役組頭・御召御馬口附之者 です。
〇『御触書寛保集成』
一七四五 1738元文三午年三月
京都町奉行
大坂町奉行
千五百石より以下之者は、向後千五百石之高御足高被下之、御役料は只今迄之通被下候、
長崎奉行
駿府御定番
禁 裏 附
院 附
山田奉行
堺 奉 行
奈良奉行
駿府町奉行
佐渡奉行
浦賀奉行
千石より以下之ものハ、向後千石之高御足高被下之、
御役料は唯今迄之通被下候、
右之通ニ候間、可被得其意候、
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