雑話24「幕臣の俸禄4―足高の制」
最後に幕臣の俸禄を役職との関係で考えて見ます。
享保八年に足高の制がつくられ、役職ごとに基準となる役高が定められました。役高二千石以上の役職を揚げると次の通りです。(御触書寛保集成)
五千石高
御側衆 七人不同 老中支配 諸大夫
御留守居 五人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
大御番頭 拾弐人 老中支配 菊之間 諸大夫
四千石高
御書院番頭 六人 若年寄支配 菊之間 諸大夫
御小性組番頭 六人 若年寄支配 菊之間 諸大夫
三千石高
大目付 四人不同 老中支配 芙蓉間 諸大夫
町奉行 二人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
御勘定奉行 四人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
百人組之頭 四人 若年寄支配 菊之間南敷居外 諸大夫
小普請組支配 八人 老中支配 中之間 布衣
二千石高
御旗奉行 二人 若年寄支配 菊之間南敷居外 諸大夫
御鑓奉行 四人 老中支配 菊之間南敷居外 諸大夫
西丸御留守居 四人不同 若年寄支配 中之間 諸大夫
新御番頭 六人 若年寄支配 中之間 布衣
御作事奉行 二人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
御普請奉行 二人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
小普請奉行 二人 若年寄支配 中之間 諸大夫
弘化二年十月現在の人数・支配・席・位階を『吏徴』から追加
それまで役職ごとに定額であった役料に対して、役職ごとに基準となる役高を定め、基準役高に達しない者には役高との差額を支給するものです。町奉行の役料は700俵でした。足高の制前後の様子を武鑑の町奉行で見ると次の通りです。
因みにその違いにも触れておきます。
又、大岡忠相は享保十年九月に二千石加増されています。なお武鑑には二千石、四千石とありますが正しくは1920石、3920石です。(寛政重修諸家譜)
足高の制について山本博文氏は次のように説明されています。
足高の制については二つのことを指摘しておきたいと思います。一つは足高の制が出来たので、抜擢人事が行われるようになったのではないということ。足高の制はそれまで行われてきた小身の者の抜擢人事を、苦しい財政事情のもとでも維持するために考え出されたものです。このことは、足高の制が定められた時の御触を見れば明らかです。それまでの役職ごとに決められた定額の役料では小身の者は勤めかねるのです。
享保八卯年1723六月
諸役人役柄に不應小身之面々、前々より御役料被定置被下候處、知行之高下有之故、今迄被定置候御役料にてハ、小身之者御奉公續兼可申候、依之今度御吟味有之、役柄により、其場所不相應ニ小身ニて御役勤候者ハ、御役勤候内御足高被 仰付、御役料増減有之、別紙之通相極候、此旨可申渡旨被 仰出候、
但、此度御定之外取来候御役料は其儘被下置候、
(中略)
三千石より内ハ三千石之高ニ可被成下候、
大目付
町奉行
御勘定奉行
(以下略) (『御触書寛保集成』)
足高の制以前から抜擢人事は行われていました。吉宗が将軍職を継ぐ前に町奉行に就任した者の家柄等を「寛政重修諸家譜」で見ると次の通りです。
名前 在職期間 父の家禄等
加々爪忠澄 1631寛永8年9月22日御目付5,500石から 父3,000石
~1640寛永17年1月23日大目付へ
堀 直之 1631寛永8年9月?日?5,500石から 兄10万石
~1638寛永15年5月16日辞す 1,000石から出発
神尾元勝 1638寛永15年5月16日長崎奉行1,800石から 阿茶局養子
~1661万治4年3月8日辞す 800石から出発
酒井忠知 1638寛永15年5月16日御作事奉行1,500石から 兄は高崎5万石
~1639寛永16年5月18日追放後召返す 500俵から出発
朝倉在重 1639寛永16年7月18日御使番2,000石から 兄は掛川2万6千石
~1650慶安3年11月19日死す 500石から出発
石谷貞清 1651慶安4年6月18日先手頭1,500石から 父の250石は兄が継
~1659万治2年1月28日辞す 300石から出発
村越吉勝 1659万治2年2月9日御勘定頭1,200石500俵から 父の1,000石を継ぐ
~1667寛文7年閏2月16日寄合へ
渡辺綱貞 1661寛文1年4月12日新番頭1,000石から 父11,000石
~1673寛文13年1月23日大目付へ 500石から出発
島田忠政 1667寛文7年閏2月21日元長崎奉行1,000石から 父5,000石
~1681天和1年3月27日小普請へ 内1,000石賜う
宮崎重成 1673延宝1年1月23日京都町奉行1,500石から 父の200石100俵を継ぐ
~1680延宝8年2月23日寄合へ
松平忠冬 1680延宝8年2月16日新番の頭1,000石から 父の1,000石は兄が継ぎ
~1680延宝8年8月12日 300俵から出発
甲斐庄正親 1680延宝8年8月30日御勘定頭3,000石から 父2,000石
~1690元禄3年12月15日死す 内1,700石賜300石は弟へ
北條氏平 1681天和1年4月6日御持弓頭1,700石200俵から 父1,700石・400俵
~1693元禄6年12月15日御留守居へ 内1,700石・200俵賜う
内200俵は弟へ分賜
能勢頼寛 1690元禄3年12月23日大坂町奉行2,000石から 父1,740石余
~1697元禄10年4月3日辞す 内1,540石余賜う
内200石は弟へ分賜
川口宗恒 1693元禄6年12月15日長崎奉行2,700石から 父2,000石
~1698元禄11年12月1日寄合へ 内1,700石賜う
内300石は弟へ分賜
松前嘉廣 1697元禄10年4月14日京都町奉行千石600俵から 父500石1,000俵
~1703元禄16年11月13日大目付へ 内500石600俵賜う
内400俵は弟へ分賜
保田宗郷 1698元禄11年12月1日大坂町奉行4,500石から 父の3,500石を継ぐ
~1704宝永1年10月30日御留守居へ
林 忠和 1703元禄16年11月15日長崎奉行3,000石から 父の2,500石500俵を継ぐ
~1705宝永2年1月28日寄合へ
松野助義 1704宝永1年10月1日大坂町奉行1,550石から 父の200石を継ぐ
~1717享保2年5月2日寄合へ
坪内定鑑 1705宝永2年1月28日御先鉄炮頭1,100石から 父の800石300俵を継ぐ
~1719享保4年1月28日寄合へ
中山時春 1714正徳4年1月28日御勘定奉行1,500石から 父は200俵
~1723享保8年6月29日寄合へ 100俵10人扶持から出発
21人のうち
①家禄千石未満の家の出身者 5人
神尾元勝 阿茶局養子 御書院番、800石から出発
石谷貞清 家禄250石
宮崎重成 家禄200石と100俵
松野助義 家禄200石
中山時春 家禄200俵
②家禄は千石以上でも二男以下で家督は相続できず300俵・500石等で新規に召出された者 4人
酒井忠知 酒井左衛門督忠次の五男 秀忠の御小性、 500俵から出発
朝倉在重 朝倉六兵衛在重の二男 秀忠の御書院番、500石から出発
渡辺綱貞 渡辺忠右衛門重綱の六男 家光の御小性組、500石から出発
松平忠冬 松平兵庫頭忠隆の二男 家綱附西丸御書院番、300俵から出発
因みに、吉宗によって大抜擢されたかのように言われることのある大岡忠相は1920石の家督を養父から相続しており、吉宗が将軍職を継いだ時には御普請奉行でした。
指摘しておきたいもう一つは、役高の意味です。町奉行が三千石高というのは、町奉行になると三千石貰えるということに意味があるのではありません。町奉行は三千石の俸禄がないと勤まらない、つまりそれだけ出費の多い役職だということです。それ故に幕府の財政に余裕のあった時期には加増を行い、財政に余裕がなくなると役料を支給したり、それでも小身の者には不十分だとして足高の制を作ったのです。足高の制を「役務に対する反対給付があるという発想法から幕府組織の官僚化の指標とする」というのは、幕臣の俸禄を現在の給与と同様に考えるとこからくるもので論外です。俸禄をどのような内容にいくら使ったかの示す資料は残念ながら見て居ませんので紹介はできませんが、それを窺わせるものは少々あります。
松平定信は白河藩主で老中首座になりました。山本博文氏は『よしの冊子』から寛政改革時の定信自身を始めとする当時の役人等の評判を書かれています。定信については次のようにあります。
これは老中のことですが、旗本の役人も同様だったようです。
例えば町奉行の場合。
また出世して俸禄が増えれば、それに伴い軍役も増えますから、武具や奉公人も増やさなくてはなりません。位階が上がればそれに伴う出費もあります。武家の官位は徳川将軍に決定権がありましたが、官位は朝廷が与えるもので、そのための費用も多額になります。
村山摂津守鎮(まもる)の『大奥秘記』(布衣以上の役人についての記で大奥に関するものではありません)には、御小姓についてのところに
とあります。
従五位下朝散大夫になると六十両差出すとありますが、「色々の内弁だの、外記だの、女官の何局だの」への謝礼等が含まれており、朝廷に入るのは一部です。
勢多章甫の『思の儘の記』(章甫は明治二十七年歿)には次のようにあります。
金壱枚とは大判一枚(=金七両弐分相当)のことです。
雑話一覧へ
享保八年に足高の制がつくられ、役職ごとに基準となる役高が定められました。役高二千石以上の役職を揚げると次の通りです。(御触書寛保集成)
五千石高
御側衆 七人不同 老中支配 諸大夫
御留守居 五人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
大御番頭 拾弐人 老中支配 菊之間 諸大夫
四千石高
御書院番頭 六人 若年寄支配 菊之間 諸大夫
御小性組番頭 六人 若年寄支配 菊之間 諸大夫
三千石高
大目付 四人不同 老中支配 芙蓉間 諸大夫
町奉行 二人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
御勘定奉行 四人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
百人組之頭 四人 若年寄支配 菊之間南敷居外 諸大夫
小普請組支配 八人 老中支配 中之間 布衣
二千石高
御旗奉行 二人 若年寄支配 菊之間南敷居外 諸大夫
御鑓奉行 四人 老中支配 菊之間南敷居外 諸大夫
西丸御留守居 四人不同 若年寄支配 中之間 諸大夫
新御番頭 六人 若年寄支配 中之間 布衣
御作事奉行 二人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
御普請奉行 二人 老中支配 芙蓉間 諸大夫
小普請奉行 二人 若年寄支配 中之間 諸大夫
弘化二年十月現在の人数・支配・席・位階を『吏徴』から追加
それまで役職ごとに定額であった役料に対して、役職ごとに基準となる役高を定め、基準役高に達しない者には役高との差額を支給するものです。町奉行の役料は700俵でした。足高の制前後の様子を武鑑の町奉行で見ると次の通りです。
因みにその違いにも触れておきます。
○役料 役料は寛文六年(一六六六)一〇〇〇俵であったが、元禄五年(一六九二)五月、三〇〇〇石以下七〇〇俵となった。享保八年(一七二三)六月、足高の制が施行されると、町奉行は大目付・勘定奉行・百人組の頭と同じ役高の三〇〇〇石と決定をみた。幕末の慶応三年(一八六七)九月には役高は廃止、役金二五〇〇両となった。
○町奉行の人数 町奉行の職は通常二名であったが、元禄一五年(一七〇二)以降三人となり、享保四年(一七一九)坪内定鑑の死後、後任を補充しなかったため再び以前のように二人となった。以後幕末まで人員の増減はない。
○与力同心の人数 正徳三年(一七一三)には一組与力二三騎、同心八〇人、三番所で与力計六九騎同心二四〇人となった。これが享保四年(一七一九)四月従来三つあった番所を二つにしたおり、翌五月に一組与力二五騎同心一〇〇人、両番所あわせて与力五〇騎同心二〇〇人とした。機構改革により約二割弱の減員であった。(南 和男『江戸の町奉行』)
又、大岡忠相は享保十年九月に二千石加増されています。なお武鑑には二千石、四千石とありますが正しくは1920石、3920石です。(寛政重修諸家譜)
足高の制について山本博文氏は次のように説明されています。
武士の役務はあくまで主君の恩に対する奉公であった。その意味では軍役を調えるのと同じである。したがって、役務に付随する出費は、原則として自己に与えられた知行(家禄)でまかなわなければならなかった。
ただし十七世紀の中頃までは、出世すればそれに連れて加増されたので、ここで述べたような問題はあまり生じなかった。しかし、幕府財政が窮屈になると、人材を登用するたびに知行を与えるのでは、その分だけ幕府の直轄領が減ることになるので、加増を乱発できなくなる。そこで考え出されたのが、寛文四、五(一六六四、六五)年に創出された役料制である。これは、ある役に就いている時に、その役務手当てを出すという方式である。
役務に対する反対給付があるという発想法から幕府組織の官僚化の指標とされることが多いが、役職に就いた者への加増が困難な中で小禄で役務に就いた旗本の救済策という意味合いが強い。これは天和二(一六八二)年四月に廃止され、元禄二年から五年(一六八九~九二年)にかけて順次形を変えて復活した。この復活役料制は、役職ごとに基準の石高を定め、それ以下の者に定額の役料を支給したものである。これも旗本の救済策である。
小身の者にとって出世すればするほど出費が増えるというジレンマを回避するためにはこのような救済制度は不可欠であり、吉宗の代に足高の制が定められることになった。これは、役職ごとに基準となる役高を決め、家禄がそれに達しない者には役務を務めている期間、役高との差額を支給する制度である。これは人材登用のためではなく、役職に就いた小禄旗本の救済と財政難への対処であり、それまでの幕府の人事がそれなりに小身の者を重要な役職につけていたことを示している。 (山本博文『江戸時代を探検する』)
足高の制については二つのことを指摘しておきたいと思います。一つは足高の制が出来たので、抜擢人事が行われるようになったのではないということ。足高の制はそれまで行われてきた小身の者の抜擢人事を、苦しい財政事情のもとでも維持するために考え出されたものです。このことは、足高の制が定められた時の御触を見れば明らかです。それまでの役職ごとに決められた定額の役料では小身の者は勤めかねるのです。
享保八卯年1723六月
諸役人役柄に不應小身之面々、前々より御役料被定置被下候處、知行之高下有之故、今迄被定置候御役料にてハ、小身之者御奉公續兼可申候、依之今度御吟味有之、役柄により、其場所不相應ニ小身ニて御役勤候者ハ、御役勤候内御足高被 仰付、御役料増減有之、別紙之通相極候、此旨可申渡旨被 仰出候、
但、此度御定之外取来候御役料は其儘被下置候、
(中略)
三千石より内ハ三千石之高ニ可被成下候、
大目付
町奉行
御勘定奉行
(以下略) (『御触書寛保集成』)
足高の制以前から抜擢人事は行われていました。吉宗が将軍職を継ぐ前に町奉行に就任した者の家柄等を「寛政重修諸家譜」で見ると次の通りです。
名前 在職期間 父の家禄等
加々爪忠澄 1631寛永8年9月22日御目付5,500石から 父3,000石
~1640寛永17年1月23日大目付へ
堀 直之 1631寛永8年9月?日?5,500石から 兄10万石
~1638寛永15年5月16日辞す 1,000石から出発
神尾元勝 1638寛永15年5月16日長崎奉行1,800石から 阿茶局養子
~1661万治4年3月8日辞す 800石から出発
酒井忠知 1638寛永15年5月16日御作事奉行1,500石から 兄は高崎5万石
~1639寛永16年5月18日追放後召返す 500俵から出発
朝倉在重 1639寛永16年7月18日御使番2,000石から 兄は掛川2万6千石
~1650慶安3年11月19日死す 500石から出発
石谷貞清 1651慶安4年6月18日先手頭1,500石から 父の250石は兄が継
~1659万治2年1月28日辞す 300石から出発
村越吉勝 1659万治2年2月9日御勘定頭1,200石500俵から 父の1,000石を継ぐ
~1667寛文7年閏2月16日寄合へ
渡辺綱貞 1661寛文1年4月12日新番頭1,000石から 父11,000石
~1673寛文13年1月23日大目付へ 500石から出発
島田忠政 1667寛文7年閏2月21日元長崎奉行1,000石から 父5,000石
~1681天和1年3月27日小普請へ 内1,000石賜う
宮崎重成 1673延宝1年1月23日京都町奉行1,500石から 父の200石100俵を継ぐ
~1680延宝8年2月23日寄合へ
松平忠冬 1680延宝8年2月16日新番の頭1,000石から 父の1,000石は兄が継ぎ
~1680延宝8年8月12日 300俵から出発
甲斐庄正親 1680延宝8年8月30日御勘定頭3,000石から 父2,000石
~1690元禄3年12月15日死す 内1,700石賜300石は弟へ
北條氏平 1681天和1年4月6日御持弓頭1,700石200俵から 父1,700石・400俵
~1693元禄6年12月15日御留守居へ 内1,700石・200俵賜う
内200俵は弟へ分賜
能勢頼寛 1690元禄3年12月23日大坂町奉行2,000石から 父1,740石余
~1697元禄10年4月3日辞す 内1,540石余賜う
内200石は弟へ分賜
川口宗恒 1693元禄6年12月15日長崎奉行2,700石から 父2,000石
~1698元禄11年12月1日寄合へ 内1,700石賜う
内300石は弟へ分賜
松前嘉廣 1697元禄10年4月14日京都町奉行千石600俵から 父500石1,000俵
~1703元禄16年11月13日大目付へ 内500石600俵賜う
内400俵は弟へ分賜
保田宗郷 1698元禄11年12月1日大坂町奉行4,500石から 父の3,500石を継ぐ
~1704宝永1年10月30日御留守居へ
林 忠和 1703元禄16年11月15日長崎奉行3,000石から 父の2,500石500俵を継ぐ
~1705宝永2年1月28日寄合へ
松野助義 1704宝永1年10月1日大坂町奉行1,550石から 父の200石を継ぐ
~1717享保2年5月2日寄合へ
坪内定鑑 1705宝永2年1月28日御先鉄炮頭1,100石から 父の800石300俵を継ぐ
~1719享保4年1月28日寄合へ
中山時春 1714正徳4年1月28日御勘定奉行1,500石から 父は200俵
~1723享保8年6月29日寄合へ 100俵10人扶持から出発
21人のうち
①家禄千石未満の家の出身者 5人
神尾元勝 阿茶局養子 御書院番、800石から出発
石谷貞清 家禄250石
宮崎重成 家禄200石と100俵
松野助義 家禄200石
中山時春 家禄200俵
②家禄は千石以上でも二男以下で家督は相続できず300俵・500石等で新規に召出された者 4人
酒井忠知 酒井左衛門督忠次の五男 秀忠の御小性、 500俵から出発
朝倉在重 朝倉六兵衛在重の二男 秀忠の御書院番、500石から出発
渡辺綱貞 渡辺忠右衛門重綱の六男 家光の御小性組、500石から出発
松平忠冬 松平兵庫頭忠隆の二男 家綱附西丸御書院番、300俵から出発
因みに、吉宗によって大抜擢されたかのように言われることのある大岡忠相は1920石の家督を養父から相続しており、吉宗が将軍職を継いだ時には御普請奉行でした。
指摘しておきたいもう一つは、役高の意味です。町奉行が三千石高というのは、町奉行になると三千石貰えるということに意味があるのではありません。町奉行は三千石の俸禄がないと勤まらない、つまりそれだけ出費の多い役職だということです。それ故に幕府の財政に余裕のあった時期には加増を行い、財政に余裕がなくなると役料を支給したり、それでも小身の者には不十分だとして足高の制を作ったのです。足高の制を「役務に対する反対給付があるという発想法から幕府組織の官僚化の指標とする」というのは、幕臣の俸禄を現在の給与と同様に考えるとこからくるもので論外です。俸禄をどのような内容にいくら使ったかの示す資料は残念ながら見て居ませんので紹介はできませんが、それを窺わせるものは少々あります。
松平定信は白河藩主で老中首座になりました。山本博文氏は『よしの冊子』から寛政改革時の定信自身を始めとする当時の役人等の評判を書かれています。定信については次のようにあります。
老中の職務は、将軍への奉公であるから、職務にかかる経費は自藩からの持ち出しである。これは、軍役が与えられた知行に対する奉公であるのと同じであるが、それを実直に実行すると、次のような状況に陥ることになった。
「越中様は、御老中におなりになりましたが、賄賂を御取りなされないので、月々の御物入りが多く、六月十九日より八月晦日まで、御普請向きの入用は除いて、二千三百三十二両ほど臨時の出費がありました。」(山本氏の現代語訳)
(中略)多大な物入りは「公辺向に懸り候役人」の不正があるせいに違いないと考えた筆頭国家老の吉村又右衛門を始め、年寄または諸役人が城で会議をした。そして、とにかく怪しいことだと、吉村から定信に直接訴状を差し上げた。
定信は、国元役人が疑うのももっともだと、九月上旬に郡代を一人白河から呼び、十二月中旬まで江戸勤番を命じた。定信は、国元の疑いを晴らすため江戸に国元の役人を呼び、実際に幕府関係役人の監査にあたらせたのである。
すると、役人や勘定方に一切不正はなく、出費がかさむ要因は、「日々御登城或いは御名代、その外何に付き候ても御物入多く、御対客、御登城前の御客出入りに付き、御物入の多き」というものであった。(『武士の人事』)
これは老中のことですが、旗本の役人も同様だったようです。
例えば町奉行の場合。
問 町奉行新年嘉儀の躰
答 五日は昼九時揃、与力一同礼服着用、南北一組限り番所に相揃、奉行より椀飯振舞にて前の一の間より三の間を式場として、与力は左右に列座し、一汁十二菜の膳部を奉行家来礼服にて指出、前に置終て、奉行礼服にて一の間中央に出て会釈あり。(以下略)
問 奉行より与力同心へ物を送り平日役々賄の御定
答 奉行、与力同心へ平日物を与ることは、私恩を施さんとする私事にて、奉行に寄、定め難しと雖、定式送るへき習慣となりしは、夏冬両度なり。夏は年番方・吟味方与力へ越後縮或はすきや縮・明石縮の類一反つゝ、筆頭重立つもの仙合平袴地を添、赦帳方・例繰方与力へ川越平の類袴地一反つゝ送る。冬は年番方。吟味方与力へ京織或ハ絹染地の類へ前同しく袴地を添、赦帳方・例繰方与力へは唐棧袴地の類なり。(以下略)(佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』)
また出世して俸禄が増えれば、それに伴い軍役も増えますから、武具や奉公人も増やさなくてはなりません。位階が上がればそれに伴う出費もあります。武家の官位は徳川将軍に決定権がありましたが、官位は朝廷が与えるもので、そのための費用も多額になります。
村山摂津守鎮(まもる)の『大奥秘記』(布衣以上の役人についての記で大奥に関するものではありません)には、御小姓についてのところに
(御小姓には)夫に色々の掛りがあって、年末になると、一と掛銀十五枚宛被下、御櫛番には百両被下たです、又御衣冠掛と云ふと、御束帯、御衣冠、御直垂、なんでも御装束のときには、御召換をして上げるので、其の掛りとなると、高倉家に門入するのだ、其門入料と云ふものは中々高かった、昔は公家公卿は内職のあったもので、束帯の外は、冠、烏帽子を紫緒にするのに、其免許は飛鳥井家から出して、免許料を取るのだ、其免許は蹴鞠の祖家だから、其許しなので、敢て官位にかゝはることではないのだが、太元結で烏帽子を蒙るより紫緒でかぶる方が、立派でもあるし、品格もいゝから、諸大名から諸大夫以上の旗下は、皆な其の許しを得たもので、中々少からぬ歳収であったらうと思ふ、
(中略)
官金を京都へ出さねば、位を貰ふことは出来ぬといふのは、盲目のことばかりと思ふ人もあるが、さうでない、従四位百両、従五位は六十両差上るのだ、大名ならば、家格に拠て、金高の相違があると云ふことだが、従五位下朝散大夫と云ふのが、六十両差出すのは慥かだ、既に此老爺もとられたです、此金を差出すと、叙従五位下任朝散大夫と云ふ位記口宣則ち辞令と、色々の内弁だの、外記だの、女官の何局だのと云ふ、六十両の受取が来るのです、御小姓は千石高未満だから、上から百両、諸大夫被仰付と被下たです、高千石以上の人は、自分で官金を差出した、極昔は百両あると沢山ださうでしたが、老爺の時分には足りなかつた、六十両官金に差上ると、後四十両だから、赤とんぼうと云ふ束帯、衣冠を拵、又武家に是非入用の大紋を拵、其上、衛府の太刀、糸巻の太刀を拵へねばならぬ、するととても足りないから、何とか工面して拵て置たものです、(以下略)
とあります。
従五位下朝散大夫になると六十両差出すとありますが、「色々の内弁だの、外記だの、女官の何局だの」への謝礼等が含まれており、朝廷に入るのは一部です。
勢多章甫の『思の儘の記』(章甫は明治二十七年歿)には次のようにあります。
武家の任官の御礼献物に定あり。
侍従成 太刀一口、馬代銀三十枚、青銅百貫文。
諸大夫成 太刀一口、馬代金壱枚。
従五位下成 従四位下成 同断。
少将成 太刀一口、馬代銀三十枚。
中将成 同断。
宰相成 太刀一口、馬代銀百枚。
中納言成 同断。
右伝奏の雑掌奏者所へ持参するなり。懸緒御礼ある時は、使者御礼物銀五枚奏者所へ持参する也。
金壱枚とは大判一枚(=金七両弐分相当)のことです。
雑話一覧へ
この記事へのコメント