雑話23「幕臣の俸禄3 ― 軍役」
幕臣の俸禄は、現在の給料とは性格が違います。生活のためのものではありません。軍役をつとめるためのものです。勿論、餓え死にしたり凍え死んだりしては軍役をつとめることができませんから、そうならないための分も含まれていますが僅かです。
豊臣秀吉が丹羽長重(羽柴小松宰相)に出した領地朱印状の内容が小宮山楓軒『諼草(けんそう)小言』に載っていますので紹介します。
加州能美郡内羽柴久太郎分、村上周防守分、合八万五千四百五十石、幷松任分四万石、都合十二万五千四百五十石事、相添目録別紙令扶助畢。但此内一万七千四百五十一石無役。残り十万八千石軍役可相勤者也。
慶長三卯月十四日 秀 吉
羽柴小松宰相殿へ
加州能美郡知行方目録
一、六万六千石 村上周防守分
一、五千弐百九石 羽柴久太郎分
以上
一、一万四千二百四拾弐石 石高ニ二和利増
一、四万石 松任分
都合十二万五千四百五十一石
此内
壱万五千四百五拾一石 台所入無役
二千石 女房衆無役
以上壱万七千四百五十一石
残り十万八千石 軍 役 分
此内
壱万石 江口三郎右衛門
壱万石 酒井与右衛門
八万八千石 給 人 分
以上
右令扶助畢、全可領知者也
慶長三卯月十四日 御印
羽柴小松宰相殿
12万5千451石のうち生活に充てる分は1万7千451石(全体の約14%)だけです。大部分(約86%)は軍役の為のものです。しかもこの時代の武士の生活は餓え死にしないため程度のものだったようです。
石田三成の家臣山田去暦の娘で、父とともに近江の彦根に居ましたが大垣城へ立て籠り、そこを脱出、土佐へ行き、年取ってから近所の子供に話したことを子供の頃に聞いた者が後に書いた『おあん物語』によれば次のようでした。
軍役のための知行は徳川氏も同様だったと言われます。三代将軍家光は平和が続いたところから軍役を軽減して詳細な軍役令を発しています。
家光は寛永十年二月十六日に千石以上、十九日に千石未満の軍役令を定めています。そのうちそれぞれ家禄の少ない方から三つずつをあげます。
千 石 人数廿三人。持鑓二本。弓一張。銃一挺。
千百石 人数廿五人。持鑓三本。弓一張。銃一挺。
千二百石 廿七人。持鑓三本。弓一張。銃一挺。
弐百石は 侍。甲持。鎗持。挟箱持。小荷駄。沓取。各一人。
*二人。すべて八人。
三百石は 侍。*。小荷駄。各二人。鎗持。甲持。挟箱持。沓取。
各一人。すべて十人。
四百石は 侍三人。鎗持。*。小荷駄。各二人。甲持。挟箱持。沓取。
各一人。すべて十二人。
*印の文字は、偏=有、旁=龍 で馬の口取り
戦国が終わり平和が続いて生活水準が向上すると、倹約をしても生活に充てる禄では足りず、借金をしたり、本来削ることのできない軍役のための禄を使うことになります。
二の丸広敷添番(百俵高)から一橋徳川家成立時に同家に出向御附人小十人となり、宝暦七年1757九月、一橋家の徒頭(二百俵)に昇進した小野庄兵衛直泰家の奉公人は、
とあって、二百俵でありながら士一人と中間三人しか抱えていません。そこで出勤する時の供も
「四つ供」について、幕末に御徒を務めた山本政恒は下記の図をあげ、「御徒御抱入ニ付出頭ノ図 身分相当之本供之ヲ四ツ供ト云」と記しています。(吉田常吉校訂『幕末下級武士の記録』、原題山本政恒著「政恒一代記」明治三十四年自序)
四つ供の画
また、旗本森山孝盛は大番士から猟官運動の結果小普請支配組頭となり、そこから目付、御先鉄炮頭と出世していきますが、小普請支配組頭時代(天明四年1784~寛政二年1790)の事を回想して次のように記しています。
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豊臣秀吉が丹羽長重(羽柴小松宰相)に出した領地朱印状の内容が小宮山楓軒『諼草(けんそう)小言』に載っていますので紹介します。
加州能美郡内羽柴久太郎分、村上周防守分、合八万五千四百五十石、幷松任分四万石、都合十二万五千四百五十石事、相添目録別紙令扶助畢。但此内一万七千四百五十一石無役。残り十万八千石軍役可相勤者也。
慶長三卯月十四日 秀 吉
羽柴小松宰相殿へ
加州能美郡知行方目録
一、六万六千石 村上周防守分
一、五千弐百九石 羽柴久太郎分
以上
一、一万四千二百四拾弐石 石高ニ二和利増
一、四万石 松任分
都合十二万五千四百五十一石
此内
壱万五千四百五拾一石 台所入無役
二千石 女房衆無役
以上壱万七千四百五十一石
残り十万八千石 軍 役 分
此内
壱万石 江口三郎右衛門
壱万石 酒井与右衛門
八万八千石 給 人 分
以上
右令扶助畢、全可領知者也
慶長三卯月十四日 御印
羽柴小松宰相殿
12万5千451石のうち生活に充てる分は1万7千451石(全体の約14%)だけです。大部分(約86%)は軍役の為のものです。しかもこの時代の武士の生活は餓え死にしないため程度のものだったようです。
石田三成の家臣山田去暦の娘で、父とともに近江の彦根に居ましたが大垣城へ立て籠り、そこを脱出、土佐へ行き、年取ってから近所の子供に話したことを子供の頃に聞いた者が後に書いた『おあん物語』によれば次のようでした。
一、又子どもひこねの咄被成よといへば、おれが親父は知行三百石取ておられたが、其時分は軍かおゝくて何かも不自由な事でおじやつた。もちろん用意の金はめんめんたくはへも有れとも、不断朝夕ぞうすいを給ておつた。おれが兄さまの折々山へ鉄鉋うちにまいられた其時に、朝菜飯をたいて昼めしに持たれた。其時われらも菜めしをもらうてたべておじやつたゆへ、兄さまをさいさいすゝめて、鉄鉋うちにいくとあれば、うれしくてならなんだ。扨衣類もなく、おれが十三の時手さくの花染の帷子壱つあるより外にない一帷子を、十七の年まで着たによつてすねが出て難義にあつた。せめて、すねのかくれる程の帷子壱ほしやとおもふた。此やうにむかしはものごと不自由成事でおじやつた。又昼飯などくふといふ事は夢にもない事、夜にいり夜食といふ事もなかつた。(以下略)
軍役のための知行は徳川氏も同様だったと言われます。三代将軍家光は平和が続いたところから軍役を軽減して詳細な軍役令を発しています。
軍役の定制は。先朝の御時元和二年二月に。五万石より一万石まで原祿に應じ。銃何挺。弓何張。鎗何柄。騎士何人といふことを定められしが。太平既に三朝に及び。四海波しづかなれば。 当代寛永十年二月に至り。ことさら減ぜられて。千石より十万石までの定制を仰出され。また目付。使番は。その軍役をも御ゆるしあれば。平日人馬をたしなむべし。両番。大番千石以下も分限に應じ。武具。人馬のたしなみ怠るべからずと伝へられ。その定を仰下されぬ。凡そ草創の御時には。戎旅多事にしてなに事も怱略にてありしを。昇平打続くにしたがひ。いよいよ詳細に商確ありて。さだめさせ給ひしなるべし。
(「大猷院殿御実紀附録巻三」)
家光は寛永十年二月十六日に千石以上、十九日に千石未満の軍役令を定めています。そのうちそれぞれ家禄の少ない方から三つずつをあげます。
千 石 人数廿三人。持鑓二本。弓一張。銃一挺。
千百石 人数廿五人。持鑓三本。弓一張。銃一挺。
千二百石 廿七人。持鑓三本。弓一張。銃一挺。
弐百石は 侍。甲持。鎗持。挟箱持。小荷駄。沓取。各一人。
*二人。すべて八人。
三百石は 侍。*。小荷駄。各二人。鎗持。甲持。挟箱持。沓取。
各一人。すべて十人。
四百石は 侍三人。鎗持。*。小荷駄。各二人。甲持。挟箱持。沓取。
各一人。すべて十二人。
*印の文字は、偏=有、旁=龍 で馬の口取り
戦国が終わり平和が続いて生活水準が向上すると、倹約をしても生活に充てる禄では足りず、借金をしたり、本来削ることのできない軍役のための禄を使うことになります。
二の丸広敷添番(百俵高)から一橋徳川家成立時に同家に出向御附人小十人となり、宝暦七年1757九月、一橋家の徒頭(二百俵)に昇進した小野庄兵衛直泰家の奉公人は、
人数は年によって区々で六人いた年もあれば三人の時もありましたが、父が徒頭になるまでは大体男女二名ずつで、徒頭に昇進してからは、男四名女二名というのが普通だったようです。しかも昇進後は、奉公人のうち一人は名字帯刀の侍を置かねばならず、この点でも出費が嵩んだことはいうまでもありません。こころみに祖父の日記から年間の給金支出額を計算してみても、昇進前は七両ほどで済んでいたのに、昇進後は十両以上も払っていることがわかります。
(氏家幹人『小石川御家人物語』)
とあって、二百俵でありながら士一人と中間三人しか抱えていません。そこで出勤する時の供も
高二百俵といえば、(中略)それなりに身なりを整えなくてはならないし、供の者も従えなければなりませんでした。
お供の人数ですが、ごく正式には「侍」(名字帯刀の家来)一人と鎗や挟箱を担ぐ中間三人の計四名で、こうした供廻りを”四つ供”というそうです。父も、たとえば宝暦二年(一七五二)の九月晦日、幕府御老中や一橋家御家老ほかに縁組許可の御礼まわりに出かけた折などは、四人の供を召し連れています。でもこんなのは年に数えるほどで、徒頭に昇進後も特別な場合を除けば、供の数は三名以下。それも、家の侍や中間奉公人は病で寝込んでいたり他の用事で手一杯なことが多かつたので、しばしば日雇い人足を雇って間に合わせました。現に縁組許可の御礼まわりにひき連れた四人の供も、うち二人は日雇い。(中略)
日雇いでもいいくらいですから、他家の侍や中間を借りても一向に構わない。日雇いに支払う賃金も度重なると馬鹿にならないので、父は、親類縁者なかんずく舘野家に養子に出た弟の忠四郎叔父さんと、しばしば侍や中間を融通し合ってます。供の者の”相持ち”―。明和三年(一七六六)七月の祖父の日記から、その具体例を拾い出してみると、ほぼこんな具合。
庄兵衛(=父)は七助一人を連れて家を出、忠四郎の家へ。そこで侍を連れた忠四郎と合流し、主従四人で一橋御殿へ向かった。御殿が近づくと忠四郎は歩を止め、庄兵衛は七助と忠四郎の侍の二人を従えて御殿の門内に入った。こうして庄兵衛の出勤が済むと、七助と侍は今度は途中で待っていた忠四郎のお供をして、一路、忠四郎の勤務先である江戸城西の丸へ。
つまりそれぞれが供の者を一人ずつ持ち寄って、しかし勤務先の門を入る時にはともに二人のお供を従えて体裁を保つ、というわけ。
お供の共有というか、一人を二人分に使うこのやり方は、もちろん親類の間柄でなくても実行可能です。(同書)
「四つ供」について、幕末に御徒を務めた山本政恒は下記の図をあげ、「御徒御抱入ニ付出頭ノ図 身分相当之本供之ヲ四ツ供ト云」と記しています。(吉田常吉校訂『幕末下級武士の記録』、原題山本政恒著「政恒一代記」明治三十四年自序)
四つ供の画
また、旗本森山孝盛は大番士から猟官運動の結果小普請支配組頭となり、そこから目付、御先鉄炮頭と出世していきますが、小普請支配組頭時代(天明四年1784~寛政二年1790)の事を回想して次のように記しています。
又支配の中にも百俵五十俵有余の御目見以上の人は、僕一人つかふことも叶はで、宅にてはみづから米薪をあつかふやから多し。彼輩は支配与頭の逢対にも容易には出ることかたければ、病と号して朝夕をたすけ、不叶事ある時は、やとひ人して漸出来る
(『蜑の焼藻の記』寛政十年1798)
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