雑話22「幕臣の俸禄2 ― 蔵米受取方」

 嘉永元年1848根来百人組与力(現米八十石)の家に生まれた塚原渋柿園は蔵米取りが俸禄を受取る際の具体的手続きを、『幕末の江戸風俗』に次のように記しています。

ここに蔵米受取の順序を云へば、一年春夏冬の三季を以て渡米の期とす。しかして春夏を「御借米」と云ひ、冬を「御切米」と云ふ(原来冬の一季を以て悉皆の禄米を渡さるゝ規定なれども、かくては難渋の義もあるべしとて春夏の両季にその禄の幾分を給せらる。故に借米と云ふ。その割合は四十石を給する者は春夏に十石宛冬季に二十石と云ふ如くに割当つ)。春は正月、夏は四月、冬は(秋の)九月を以て御張紙といふ物出づ(大抵月末廿六、七日頃)。この張紙の書出しにて三分一米三分二金、もしくは三分二米三分一金、米金半々と当季の渡し方を定めらる。この割合は御蔵在米の都合に依るとぞ)。(中略)
 これにて百俵(三斗五升入、石にして三十五石)に付何程と云へる相場立つ。これを御蔵相場と云ふ(安政度には百俵四十両前後なりき)。かくて御張紙出づれば御手形持と云ふ者ありて、給米受取人より左の手形を取る。
御手形持この手形を持して支配に至り(支配は若年寄より諸組の頭御留守居御目付その他数多し。当時の武鑑に悉し)、裏書を取る。その裏書に判形の据りしを持て蔵宿(公辺には札差といふ)に至りこれを渡す。蔵宿これを受取りて御書替奉行に至り、またこれが判形を取りて御蔵奉行に納む。これにて手形の手続き終る。その裏書は左の如し。

蔵米受取.jpg


 また『江戸町方の制度』には

春季渡しは二月より三月の間に於て取高の四分一、即ち百俵なれば二十五俵を交付するの定めにしてまたこの二十五俵の三分一を米にて渡し、その三分二を金にて渡すの定めなり。以下夏季、冬季もまたこれに準ずるものと知るべし。ただし夏季の渡し米に限り金米の割合予じめ一定せざるのみ。
 とあります。補足すれば二月と五月の御借米は四分の一ずつですが、蔵米取りの場合は俵単位です。

札差の扇谷定継がまとめた『業要集』(文政元年1818自序)には


一、御切米御足高共、俵取之分分限高之四分一俵限り、春夏両度御借米として渡り、残り冬御切米として渡り切、尤端米之分は春夏不渡、冬に廻り不残渡り切ル
 但組合手形何人組ニ而も、銘々壱人ツヽ三分限之四分一俵之積を以、組合人数限寄高ニ而、春夏渡り残り者冬渡り切、分限高勺才有之共不渡、手形表請取高除捨り、

 したがって例えば150俵高の場合は、春夏は各37俵(1石29斗5升)で、残りの76俵(2石66斗)は冬の切米でもらったようです。

 猶、文化十五年の御張紙の写しが『業要集』にありますので最後に載せておきます。


 手形と呼んでいますが、図にある通り蔵米の受取書です。蔵米取りの武士が行うのは手形を書いて「御手形持」に提出することと、裏書されて戻された手形を札差へ渡して米で受け取る量を指示するだけです。後はすべて札差が代行して、蔵米取りは札差から米金を受取るだけです。

 以下、武士側の具体例を毎月の扶持米を中心に見てみます。


一、大田南畝の例

御徒大田直次郎(南畝)は寛政八年丙辰十一月二日支配勘定に仰附られました。

 御  徒 七十俵五人扶持

 支配勘定 百俵(内三十俵足高)持扶持(南畝の場合は五人扶持)


寛政八年十二月十八日
一浅草蔵宿和泉屋茂右衛門ヨリ書替所案紙三通参り申。
   請取申年中御足高米之事
米合三拾俵者      但三斗五升入
右、是共(者)拙者儀七拾俵高、当冬御切米迄御徒頭神尾市左衛門組御徒ニテ組合壱紙請取、其以後明組成候処支配勘定成、御証文之通御足高三拾俵、当辰年ヨリ被下、元高七拾俵共都合百俵之高成候間、当辰年中為御足高米請取申所実正也。仍如件。
  寛政八辰年十二月              大田直次郎
   伊庭恵兵衛殿

   請取申御扶持方之事
米合七斗五升者      但五人扶持也
右、是者拙者儀当十一月分御扶持方迄御徒頭神尾市左衛門組御徒ニテ組合壱紙請取、其以後明組成候処、御証文之通り支配勘定成候間、当辰十二月大之分請取申所実正也。仍如件。
  寛政八辰年十二月              大田直次郎
   伊庭恵兵衛殿

   請取申御扶持方之事
米合七斗五升者      但五人扶持也
右、是者来已正月大之分請取申所実正也。仍如件。
  寛政八辰年十二月              大田直次郎

十九日 御足高並十二月分、正月分御扶持方手形三通認、木原半兵衛
    裏書頼置申
廿三日 今日御切米並御扶持方手形御判済申。
廿四日 今日手形三通案紙下蔵宿松田伊左衛門被至。
廿七日 今日御足高米、御扶持方米共相渡候由、昨日蔵宿ヨリ
     申来候附、今昼時前忰同道蔵宿参り請取り申。
    武州幸手米、金三拾八両替
     金拾壱両壱分壱目五分請取申
    御扶持拾人扶持ニテ附送り候積リ也。
     金三拾三両替申     (大田南畝「会計私記」)

三季切米のうち最後の冬の切米は十月支給。毎月の扶持米は前月下旬に支給されます。南畝が御徒から支配勘定へ転役したのは十一月二日ですから、冬の切米と、十一月の扶持米は十月中に御徒として受取済です。従って足し高の30俵と十二月分の扶持米、正月分の扶持米を受取っています。同じ御家人でも御徒を含め下級の御家人は個人では手形は書かず組一枚です。個人で手形を書くのは初めてなのでしょう、蔵宿から案紙を受取っています。

「金三拾八両替」とあるのは「百俵=金三拾八両の相場」の意味で、御足高米30俵は金11両1分と銀9匁になります。受取ったのは金11両1分と銀1匁5分、差額銀7匁5分(=金2朱)は札差の手数料と思われます。

  御足高米三十俵の札差料は、百俵につき金一分ゆえ、金0.3分

  売却手数料は、3分1米、3分2金の支給とすれば売却は10俵で、

  百俵につき金二分ゆえ、金0.2分、合計金0.5分=金2朱

 但し十人扶持の米に対する手数料は? また「金三拾三両替申」の意味は? 不明です


『幕末の江戸風俗』には「御手形持と云ふ者ありて、給米受取人より左の手形を取る」とありますが、南畝は次のように書いています。ただし、時代が違いますし、こちらは扶持米なので切米も同じだったかどうかは判りません。


 十二月廿八日
   請取申御扶持方之事
 米合七斗弐升五合者   但五人扶持也
 右、是者当巳二月小之分請取申所実正也。仍如件。
                       支配勘定
   寛政九巳年正月              大田直次郎
    伊庭恵兵衛殿
 右之通認、仲之間之柱有之候定扶持方袋之内入置申


二、馬琴の孫、鉄砲組同心太郎の例 (『曲亭馬琴日記』第四巻より)

御鉄炮方同心四十人 一組廿人 三十俵三人扶持高

                  (向山萬『吏徴』弘化二年1845)

嘉永元年1848
九月廿三日癸巳
一暮六時頃、十月分御扶持渡る。遅刻付、迎出候定之丞差添、荷持一俵持込、帰去。但是迄の車力、三〆百十文ならで、引合かね候由を申立、御免を願候間、無是非、荷持壱駄分、各二升づゝ遣し候積て、引つけ候由也。
九月廿六日丙申
一荷持多蔵、伏見有之候、扶持端米斗分、持参。車力米・荷持給米差引、壱軒前八升三合可有之処、五合づゝ不足致候由て、七升八合持参。但、作州米也。然ば、壱俵三斗七合入なるべし。未斗分、見ず。其儘有之。

 鉄砲組同心は組で一枚の手形で、札差が米を受取り(一俵に満たない端米は、明和九年十月からは叺(かます)を持参して受取ります)、その米を運んで各人へ配る業務を太郎が所属する鉄砲組では多蔵(多くは太蔵と書かれています)に行わせています。切米・扶持米の運送方は文化十五年時点では七組に分かれていて、それぞれ連判規定帳と提札規定帳を作り札差の取締りを受けています。御蔵役所から運送方の目印に御門札を提げるように云われた札差仲間は、町奉行所に願出て焼印札を運送方に渡しています。(『業要集』)

 嘉永元年十月は大の月で、三人扶持は4斗5升ですから一俵ずつ各人へ配り、残りの端米は荷持給米等を差引き各人へ配っています。年貢米は輸送中の減少を見込んでそれぞれ一定量多く入れていますが(3斗5升俵入りの場合、3斗7升)、それでも不足が出ているようです。受取ったのは1俵(3斗7合)と7升8合で5合不足とありますから本来受取るべきは3斗9升で三人扶持4斗5升との差額の6升が荷持給米と車力米でしょう。そしてここにも、扶持米受取に対する札差の手数料に関する記述がありません。


 一方御切米は金で受取っています。

嘉永元年十月八日
一早朝、山本半右衛門来ル。玉落候付、取番て、今日、蔵前に罷越候由、被告之。兼て頼置候通り、太郎分御切米、受取呉候儀、おみち申談、太郎印形并吾等印形二、渡遣
一今晩六時前、半右衛門来ル。今朝頼遣し候御切米、森村屋ゟ請取、金子持参せらる。諸入用、拾壱匁七分差引、金五両三分銭三百五十文、森村屋勘定書差添、おミち渡さる。

 森村屋は天王町二番組の札差です。鉄砲組は組一枚の手形で、それを預かった森村屋は米金を受取って、米は売却して金にし、そこから手数料を引いて、組の各個人に勘定書を添えて渡しているようです。


俸禄の30俵は春夏各7俵、冬16俵で「諸入用、拾壱匁七分差引、金五両三分銭三百五十文」とありますから16俵は合計金6両でしょう。この時の相場は百俵金37両5分のようです。

16俵の諸入用が銀11匁7分というのは、大田南畝の30俵で銀7匁5分比べて1俵当たりでは3倍近くになります。札差の手数料のほかに借入金でもあってその書換料や利息などが含まれているにしては逆に金額が少なすぎますから割高なだけなのかもしれません。他の事例を見ないとはっきりしませんが、森村屋は一枚の手形で20人分の米金を受取り、一部を米で受取りたい人もあるでしょうから、その分は米で残し、それ以外の米は売却して金に換え、それを各人に分けて、計算書を作って渡すのですから、百俵取の支配勘定に比べ三十俵の鉄砲組同心は百俵当たりでは3.3倍の手数が掛かるわけで、手数料が3倍近くなっているのかもしれません。

 太郎は、切米はすべて金で受取っていますが、人により扶持米だけでは食料に足りず、切米の一部を米で受取ることもあります。


僕れ今三十俵三人扶持を賜はれり。之を今蔵宿無借にして年分の収納三十俵の内、札の差し料諸色の入用等を差引きて僅に十両前後なり。而して最上の拝領地を賜はりて之れを他に貸し付け、是亦年分の上り僅に金二両前後とす。然らは年分の收納、総合して十二両とす。之を一ヶ月に配当して金一両つゝなり。然る僕が如きは親夫婦妻子供二人、自分共に都合六人暮しにして三人扶持は食料に不足、依て三十俵の内当時十五俵は以て食料に充つるなり。然らは残り十五俵の米は僅に金五両前後に、地代二両を加へて僅かに金七両なり(大久保仁斎「富国強兵問答」安政二年1855)

「今蔵宿無借にして」とあるのは無借の場合にはの意味で、大久保仁斎は蔵宿に借金があります。

然るに我等旧来の借財ありて、殘り十五俵は悉く藏宿の爲めに差引かれて猶不足を以て、大抵三季の玉落毎に金三朱か一分を持出さねば月々の飯米にすら事欠くなり。故に我等食するさへ年三分か一両の足しまいを持出さねば食料不能所以なり。爰を以て勤め其外都ての諸雑費は悉く皆内職の利潤に依るのみ。而るに我等如き御家人中の働き者にして御家人三段に分て、中の上とす、呪や其下なる者をや、其困苦なることは言語に不能者多し



文化十五年1818(四月に文政に改元)夏の御借米の御張紙写

     覚

 当寅年夏御借米弐百俵有余以下者分限高四分一、御役料は三分一之積、但渡方之儀は御借米 御役料共、米金半分宛可相渡候、

一、御奉公務候百俵以下は、四月晦日より五月三日迄、

一、同百俵有余は、五月四日より同七日迄、

一、御奉公不勤百俵以下は、五月八日より同十日迄、

一、同百俵有余は、五月十一日より同十三日迄、

一、御役料者弍百俵有余以下共、五月十四日より同十五日迄、

  右日限之通、安井平十郎野呂弥右衛門裏判取之、米金請取候儀は五月四日より六月晦日迄可限之、但米金受取方之儀も、右ケ条准じ可相心得、直段之儀者百俵付三拾三両之積りたるべき事、

   寅四月廿七日



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