雑話21「 幕臣の俸禄1― 知行取と蔵米取」

徳川幕府から俸禄等を受けていた者には、例えば坊主や六尺など武士身分以外の者もあります。また武士身分の者でも給金の者もあったようです。

 表坊主百七十四人  弐拾俵弐人扶持高 部屋住弐拾俵 町屋敷拝領

          (割書:沽券金/弐百両)焼火間二半場 御太皷役七人

 奥六尺五十人    拾五俵一人半扶持高 役金弐両 組頭二人弐拾俵

           弐人扶持役金三両 世話役人同断 町屋敷拝領

          (割書:沽券金/百五十両)二半場

                     (『吏徴』弘化二年1845)

ここでは幕臣のうち武士身分の知行取と蔵米取に限定して話を進めます。


江戸の武家人口のなかでもっとも中心的なものは旗本八万騎である。彼らの俸禄は各々一万石以下、その支給形態の違いから、地方(じかた)知行と蔵米取とに分かれていた。前者は一定の領地を与えられて、そこの農民から年貢をとり立てる、小規模な大名のごときものである。後者は、領地の代わりに、年々一定額の米を、浅草の御蔵から支給されるもので、すでにサラリーマン的存在といえよう。
 蔵米取の俸禄米の受けとり方は、たとえば千俵取(一俵が三斗五升入りで、合計三百五十石)の旗本であれば、春夏二百五十俵ずつ、冬五百俵というように、年三回に分けて支給される。受領した米は一部の飯料を除いて、米問屋に売却し現金化する。(中略)
旗本たちは、自分の給与支払手形を、定められた藁苞(わらづと)に差しておき、支給の順番がまわってくるまで、付近の水茶屋とか俸禄米を買ってくれる米屋で待っていなければならなかった。
 札差は、じつはこの手形(札)を差して俸禄米を受領し、米問屋に売却するまでの面倒な手間いっさいを、旗本御家人に代わって請負ったのが、その起こりである。したがって米問屋を兼ね、あるいは親戚に米商を営んでいる者が多かった。支給日が近づくと、札差はあらかじめ契約しておいた旗本から手形を預っておき、蔵米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差引いて旗本の屋敷に届けるのである。札差は、手形を預かる旗本のことを「札旦那様」と呼び、旗本は依頼した札差を「蔵宿」といっていた。(北原進「札差と大通人」西山松之助・竹内誠編『江戸三百年2江戸ッ子の生態』)

札差の手数料は、札差である扇谷定継が著した『業要集』(文政元年1818自序)に、札差料(幕臣に代わって浅草御蔵から米金を受取る手数料)は「百俵以上は百俵付金壱分ツゝ之割受取、百俵以下は御扶持方付ニ而、毎月手数相掛り候故、金壱分迄ヲ限り請取趣相記有之云々」とあり、この他に蔵米を売却する手数料があり、「百俵付金弐分宛、札旦那方よりかわ請取」とあります。


知行取と蔵米取の割合は


幕末まで多くの知行取を残していた幕府でも、享保七年(一七二二)の調べで、旗本御家人の知行取は、やく二七〇〇人であるのに対し、蔵米取はやく二万人で八倍近かったのですが、額の方では、知行高はやく二六四万石、蔵米はやく五五万石でした。(石井良助『第一江戸時代漫筆』)

因みに旗本の禄高別一覧表が小川恭一氏の『江戸の旗本事典』に載っていますので揚げておきます。

旗本家禄高.jpg


 知行取と蔵米取の他にも、現米取り・扶持取りもあります。同じ禄でも形態に序列がありました。『江戸の旗本事典』には格の高い順に次の四つがあげられています。

  ①知行取り(石表示)

  ②蔵米取り(蔵米(俵)表示)

  ③現米取り(現米(石)表示)

  ④扶持取り(扶持表示)


例えば

 大御番與力百廿人  一組十人 現米八十石高

 御書院番與力六十人 一組十人 現米八十石高

 支配勘定見習七人       十人扶持

現米取りは蔵米取りと同じく浅草御蔵から米を受取ります。米の数量が俵ではなく石というだけの違いです。ただし、春夏の借米の単位に違いがあります。蔵米取りは俵、現米取りは升合です。

①知行取りから③現米取りまでは年俸ですが、④扶持取りは月俸です。一人扶持は一日五合で大の月は30日分、小の月は29日分、閏月も出ますから一年に十三回のこともあります。十人扶持を極大雑把に数年の平均値を計算すれば、

 0.5升x365日x10人扶持=18石2斗5升 一俵3斗5升で俵に換算すれば52俵強になります。勘定所の役人は旗本の御勘定(百五十俵高)、御家人の支配勘定(百俵持扶持高)、その下が支配勘定見習(十人扶持)です。

 また知行と蔵米の両方を受けている者もあります。いままでに何度か採りあげた旗本森山源五郎孝盛は「采地三百石廩米百俵」(「寛政重修諸譜」)です。


 知行百石と蔵米百俵はほぼ同じとみなされていました。知行百石は、四公六民では年貢は40石、一方蔵米百俵は35石。一見すると知行百石の方が多いように見えますが、必ずしもそうではありません。たとえ定免法であっても風水害等による不作には四つ(四割)取れるとは限りません。毎年のように四つ取れない所に対して、幕府は一定の条件付きで(布衣以上で有職)知行取という格はそのままで、蔵米取扱いにする優遇措置を行っています。そして当人が役を引いたり死去したりすると元の地方知行に戻しています。


享保十七年1732八月廿三日新番頭高力平八郎長行がこひをゆるされ。原祿三千石を廩米にかへ賜はり。采地はありしまゝに領して。其歳租をおほやけにおさむべしと仰下さる。これは長行が知る所。出羽の國にて瘠地おほく。歳入祿額にみたざるよし申けるに。これ長行のみにもあらず。他にもなをかうやうのやから多かるべしとて。僉議くはへられ。布衣以上の職奉るものゝ。出羽。陸奥。信濃。越後。越前の五國に知る所ありて。税額の減じたるは。在職のうち廩米にかへたまはるべし。其地は元のごとく領して税を公納し。山林等は地頭の所務たるべしと。けふ万石以下の家々に仰下さる。(『有徳院殿御実紀巻卅六』)


寛延二巳年1749八月

      御勘定奉行え

             御書院番久世長門守組

                  石川 金 蔵

右、知行所悪敷候付、御蔵米御引替被下候、尤勤候内御引替被下候間、得其意、知行所之儀可被談候、


寛延四未年1751八月(十月に宝暦へ改元)

      御勘定奉行え

             御書院番石川備中守組

                長左衛門子

               本多大學支配

                 佐久間三之丞

右、父長左衛門勤候内、地方四百石御蔵米御引替被下候處、長左衛門儀病死付、家督被下候、如最前地方成候間、可被得其意候、尤本多大學可被談候、 (『御触書宝暦集成』)


 大名に近い大身旗本でもない限り家臣を使って年貢収納を行うことは出来ませんから、村名主等村役人に代行させ扶持を与えています。

旗本岡野家は千五百石の小普請の旗本で、知行所は関東三ヵ村と上方二ヵ村に分かれていました。史料に恵まれた相州淵野辺村の「御年貢目録」に基づき、大口勇次郎氏は『徳川時代の社会史』に次のように書かれています。

淵野辺村の知行高二七二石余、全部畑方で金納分五〇両、これに大豆代納を加えたものが上納辻五六両であった。この内、名主給米などの村役人扶持分と、岡野家の菩提寺である竜像寺に対する給米など村に支払われる分が例年一一~一二両あるが、その他の支払費目はここに揚げた四ヵ年の内でも年ごとにかなり変化している。

全部畑方(金納)で、米のように品質や俵入の検査等の手数はかからなくとも村役人扶持分が年貢から差し引かれています。「名主給米などの村役人扶持分」がいくらなのか分かりませんが、岡野家の菩提寺への給米と合わせて年貢56両から例年11~12両です。

 また、年貢米には運送費もかかります。


船積場まで五里以内の運送は農民の負担でそれ以上には五里外駄賃が支給される。廻船は請負人があるが、それには村方から上乗と納名主が乗り込み、船中のこと一切は上乗が責任者となり、納名主は租米納入の時の責任者となる。(中略)
廻船の費用は幕府から出したが、水揚から蔵納までの費用や納名主の旅費などはすべて村方の負担であったから、それも僅少なものではなかった。船によらない場合は人馬によって遠距離を輸送するもので、これもまた廻船に劣らない費用と日数を要したのである。(児玉幸多『近世農民生活史(新稿版)』)

天保八年1837刊の『算法地方大成』第三巻には次のようにあります。 

年貢米百弐拾駄を河岸場迄十四里運送す、壱里に付き壱駄賃銭十六文、此賃銭何程と問
   答拾八貫文
法曰、道法十四里の内定法五里引、残り九里、壱里壱駄の賃銭十六文を懸、又駄数百弐拾を懸、百文以上九分六にて割、運送賃銭とす
 但し居村より道法五里村役にて運送する定法なり

 因みにこの計算を説明すると、河岸場迄の14里の内、5里は村方負担なので幕府の負担は9里、1里1駄16文なので144文、120駄で17,280文、一駄100文以上の長距離には割増がついて9分6厘で割ります。

  9里x16文x120駄÷0.96=18,000文


年貢米輸送の請負を入札で募集してもいます。


延宝六年1678

一信州川中島・佐久郡去巳御年貢米、江戸廻シ道中駄賃運賃入用、并所おゐて現金払、両様之入札被仰付候間、望之者明十九日ゟ廿一日迄之内、下谷広小路天羽七右衛門殿御宅参入札可仕旨、町中不残可被相触候、以上

  正月十八日         町年寄三人 (『江戸町触集成』第一巻)


貞享二年1685

一奥州福島并同国窪田領当丑御年貢米弐万八千石余、来夏江戸御城米相廻シ、右積廻候廻舟御請負、望之者明十二日ゟ十六日迄之内、駿河台松平伊豆守殿柘植伝兵衛殿御宅参、舟請負之案紙見之、其上ニ而運賃入札可仕候

  十二月十一日        町年寄三人  (『江戸町触集成』第二巻)


 知行取りに対し蔵米取りは、毎年決まった量の米を確実に得られること、米の運送も浅草米蔵から屋敷までのため少額ですむこと、札差の手数料もそれ程高くないこと、蔵米受取の手形を札差に渡すだけでほとんど手間のかからないこと等を考えると、知行取りより格は下ですが、経済的には有利だったように思われます。


 ところで、蔵米は一俵三斗五升入りとして計算していますが実際の米俵に入れられている米の量は様々です。


幕領でも関東は三斗五升、出羽村山郡は三斗七升、同国田川・由利・飽海三郡は四斗八升、甲州は三斗六升、陸奥岩城領および美作国は三斗三升、陸奥白川郡福島領・越前・越後・三河・遠江・駿河・美濃・丹波・但馬・備中・備後は四斗、尾張・摂津・播磨・豊前・豊後は五斗というように一定していなかった。これに口米・延米・欠米・込米などという付加税がついたのである。欠米や込米は運搬の途中などで欠減する補いのものであったが、のちにはそれさえも当然入れておかなければならないもののごとく取り扱われた。(児玉幸多『近世農民生活史(新稿版)』)

 年貢の場合、三斗五升入りの米俵には三斗七升いれることになっていました。


元和二年1616七月 この月令せらるゝは。年貢米今年より米三斗七升を一俵とさだめ。欠米。口米ともに一升づつをくはへ上納すべし。銭は百文に口銭三文づゝを加へ納むべし。この條公料私領ともにかたく守るべしとなり。 (『台徳院殿御実紀巻四十三』)


正保三年1646 このとし倉廩の司に令せらるゝは。(中略)

納俵三斗七升に合ざるときは。幾度も造り改る故。農民困窮すと聞ゆ。よてこの後は苞の米多きは寡きに譲りあはせ。三斗六升五合より七升五六合までは其まゝ納め。升目のごとく券をいだし。簿書にもそのまゝ記すべし。関東米は二重苞に造り。俵口をも綴らしむべきやう。代官にはかりあふべし。(以下略) (『大猷院殿御実紀巻六十五』)


右の一俵に三斗七升入れるというのは、それを三斗七升として計算するのではなく、三斗五升として計算をするのである。それならば三斗七升入りと決めたのが、従来より余分に納めさせるようになったかというとそうではなく、かえって減少したのである。地方落穂集には、「往古は延米(のべまい)と号して員数か決めてなかった。斗桝に山盛りにして納めたので、三斗五升といっても、実際には五斗ほどにもなった。そののち、山盛りを斗掻(とがき)で中から掻き落しなどして納めた。それを元和二年に百姓お救いのために一俵を三斗五升に決め、二升の延米を加えて三斗七升入りで蔵納ということになったのである」と説いている。すなわち余分の米を二升と制限したことが恩恵というわけである。この場合に、三斗五升を本石といい、三斗七升を計立(はかりだて)という。もっとも本石は三斗五升と一定していたわけではなく、四斗とか三斗六升のこともあった。余分の二升のことを延米または出目米というが、出目米は延米とは別に徴することもある。(『近世農民生活史(新稿版)』)


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