雑話20「火附盗賊改」

 前回触れた火附盗賊改について少し紹介します。

平松義郎『江戸の罪と罰』には次のようにあります。

火付盗賊改は江戸およびその周辺で火付、盗賊およびこれに準ずる「ゆすり」、「かたり」、「ねだり」、もしくは博奕犯を捕え、かつ裁判する警察官的役職である。先手頭一名が本役に任じ、兼任なので加役という。冬の間だけ他の先手頭一名が本役を助け、狭義ではこれを加役という。いずれにしても本務は先手頭なのであるが、これは将軍の親衛隊たる弓、鉄炮隊の長で、これをいわば首都警察に転用したものである。職制上は若年寄支配に属しつつ、裁判については老中に伺う。捜査・逮捕官たることが本務であるから、裁判権はもともとなかったものであろうが、やがて吟味権すなわち審理権が与えられ、仕置権すなわち科刑については専決権は原則としてなく、すべて老中に伺うべきものであった。

 町奉行も多くは老中伺いです。


寺社・町・勘定の三奉行や遠国奉行などには、手限(てぎり)仕置、すなわち専決できる刑罰の限度がきめてあります。たとえば、町奉行ですと、中追放までです。それ以上の刑罰を言渡すためには、老中に伺出て、その下知(差図ともいう)を得ることを要します。一件の者のなかに、一人でも、手限仕置のできない者がいると、その一件の者の処刑には(単独犯なら手限で処刑できる者についても)老中に伺出ることが必要だったのです。(石井良助『第五江戸時代漫筆』)

 火付盗賊改の沿革は三田村鳶魚氏の『捕物の話』が詳しいので、少し長いものですが紹介します。


 口つきがいいので、盗賊火方改と申しておりますが、それよりももっと便利なのは、御先手が加役に勤めることから、加役と言い慣らされているが、『武鑑』には、盗賊火方改と書いてあります。この役はいつはじまったかわかりませんが、慶応二年1866八月四日に、この役が廃されました。(中略)
火付盗賊改は、最初は、火付改、盗賊改といって、二つに分れており、各々一人ずつの役柄になっておりました。それが、元禄度になりまして、博奕改というのが一つ殖えて、丁度分科が三つになりました。享保三年1718の十二月、山川安左衛門といふ人が御役の時に、三科打込みにして、兼帯で勤めることになった。それから、享保十年1725の十二月、進喜太郎という人の御役の時に、博奕改は町奉行の方の掛りになりまして、また一科目減りました。この享保十年から文久元年1861までの間は、従来二人勤めであったのが、一人勤めということになりました。そうして、文久二年1862十二月に、土方八十郎という人の御役の時に、御目付の大久保雄之助という人が任命されまして、享保以来一人勤めであったものが、また定役二人になった。この時に火付盗賊改という役名になって、役高千五百石、布衣ということになりました。布衣と申すと六位相当で、御先手の上座、若年寄支配ということになった。役名がきまり、役高がきまり、格式がきまったのであります。
 それまではどうであったかというと、御先手頭の格式で勤めていたので、火付盗賊改の格式というものは別になかった。それでは、御先手頭の格式はどうかというと、今きめられた火付盗賊改の格式と違っていない。ただ、ここで火付盗賊改としての格式がきまったわけなのであります。それと、御先手からきっと勤めるので、加役ということだったのですが、今度はそうでなく、御目付から任命されるということが、従来と変っているところで、文久三年1863八月に、佐久間鐇五郎が御役になって、これからまた一人勤めということになりました。しかし、組下は、前の土方・大久保両人の組をそのままということで、与力二十騎、同心百人、従来は六十人扶持だったのが、この時から百人扶持ということになって、老中支配ということになった。それから、その年の九月に、大久保雄之助が再勤することになりまして、その時格式を上げて、諸大夫ということになった。諸大夫は五位相当ですから、位が一格上ったわけです。この時はじめて役宅が出来ることになったので、それまでは別に役宅というものなしに、めいめいの屋敷をすぐに役宅に使っておった。(以下略)

本役加役図.jpg

 火附盗賊改には年間通して勤める「本役」と、冬春の半年ほど勤める狭義の加役(紛らわしいので、ここでは「当分加役」と呼んでおきます)があります。また、火事・盗賊が頻発した際には臨時に増加役が任命されています。寛政後半の本役等を図にすると右のようになります。


本役と当分加役は徳川実紀の記載上では区別できません。期間の違いだけで同等の扱いだったようです。

 『続徳川実紀第一篇』によれば、寛政七年1795の長谷川平蔵から森山源五郎への交代は次の通りです。


 五月八日森山源五郎孝盛火賊捕盗の事奉はるべしとなり。これは平蔵宣以

     病により假に命ぜらる。

 五月十六日先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆれされ。久々勤務

     により金三枚。時ふく二賞賜あり。

 五月廿一日先手筒頭森山源五郎孝盛捕盗の事命ぜらる。


 塩入大三郎から池田雅次郎への交代は、塩入が病のため、当分加役を勤めていた池田が本役となり、当分加役の跡を大久保甚兵衛が任命されています。『続徳川実紀第一篇』の記載は次の通りです。

 寛政八年1796十二月廿九日 先手筒頭塩入大三郎利恭病により捕盗の事免さ

   れ。池田雅次郎政貞もて命ぜられ。大久保甚兵衛忠良同じく命ぜらる


池田雅次郎は享和元年1801五月朔日禁裏附へ転役するまで火附盗賊改本役を勤めています。


 当分加役長谷川半四郎の任免は

寛政六年十月朔日  先手筒頭長谷川半四郎佑正火賊捕盗の事命ぜらる

寛政七年三月晦日  先手筒頭長谷川半四郎佑正捕盗のことゆるさる


 一方、増加役三上因幡守の任免の記載は以下の通りです。

寛政九年十二月朔日 先手弓頭三上因幡守季寛に伝へしは。此ころ火災多き

 故。所属市中昼夜となく巡視し。あやしげなるもの見及はゞ。武家地など

 へ入とも召捕ふべしとなり

寛政十年正月十二日 先手弓頭三上因幡守季寛捕盗の事免さる


 『続徳川実紀』には「長谷川平蔵宣以」とありますが、「平蔵」は通称、「宣以」は本名です。他人が人の本名を呼ぶことは甚だ非礼とされていましたから、通常は通称を使います。このことは落語の中の言葉49「寿限無」でも触れました。本人が提出した正式書類でも本名でなく通称を使っています。その例は、公開済みのブログでいえは、落語の中の言葉69「乗物」の遠山金四郎の駕籠願いと、雑話07「大江戸の正体」正誤2の大田南畝(本名覃、通称直次郎)の由緒書があります。ただ同じ通称を代々使う家もありますので歴史書等では特定できるように本名を添えています。何代も同じ通称を使った例は岡本玄冶に見られます(落語の中の言葉258「玄冶店」)。長谷川平蔵宣以の場合も、父親の宣雄が通称に平蔵を使っています。


 明和八年十月十七日 先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる

                  (『徳川実紀』第十篇)

町年寄から名主等への通知は通称のみです。

 明和八年十月十八日

  当分御加役長谷川平蔵様被仰付、御屋敷本所三ツ目、御役羽織御紋所、

  前印長之字、後(印は略)      (『江戸町触集成』第七巻)


遠山の金さんで有名な遠山景元の通称「金四郎」も同様で、父親の景晋も「金四郎」と称しています。

 享和二年1802三月十七日 徒頭遠山金四郎景晋目付となる

                      (『続徳川実紀』第一篇)

 文政二年1819九月二十四日 作事奉行遠山左衛門尉勘定奉行となる

                      (『続徳川実紀』第二篇)

 一方、金さんは、

 文政八年1826十一月七日 けふ小納戸に入るもの四十五人。……勘定奉行

  遠山左衛門尉金四郎……        (『続徳川実紀』第二篇)

 文政十二年四月十九日 遠山左衛門尉西城小納戸金四郎。はじめ。父致

  仕して子家つぐもの二十二人。左衛門尉は養老料三百苞を賜ふ

                      (『続徳川実紀』第二篇)


 従五位下に叙位されて官名がつくと通称に換えて官名が使われます。武士の官名は越前守・肥前守など「〇〇守」が多いのですが、その他に右近将監・主殿頭・式部少輔・内匠頭など多数あり、左衛門尉もその一つです。

なお、「遠山左衛門尉金四郎」と「孫」となっていますが家督相続の事情からで、景元は景晋の実子です。その事情は火附盗賊改と無関係のため省略します。


 また、新たに火附盗賊改になった者を町役人へ知らせる町年寄からの通知に屋敷の場所がありますが、それは火附盗賊改が御先手の加役から独立した役になって、役屋敷が出来たのが廃止になる少し前で、それまでは先手頭の居屋敷を役所にしていたためです。また、役羽織の紋所が通知に加わったのは宝暦十三年1763正月の本多采女からです。

 火附盗賊改の与力同心は交代が頻繁です。そのため偽者もあったようで、身分証明となる札がありました。


正徳三年1713巳九月十八日

一火方盗賊御改佐久間小左衛門様之御跡役、阿部四郎兵衛様御附被成、御屋敷牛込御門之内


同日

   奈良屋而町々名主被申渡

一此度阿部四郎兵衛様、火付盗賊御改被仰付候付、町々名主方、合印札壱枚ツヽ御渡被成候旨而、

則合印札請取、左之文言而、奈良屋之帳面名主致判形、尤左之書面、同日樽屋而月行持写之

     覚

此度阿部四郎兵衛、火附盗賊改被仰付候、依之組之者并家来之内御用向之儀有之、町方吟味等指出候節、判鑑為持可出之候、依之合印壱枚宛名主共方渡し置候間、若組之者、又家来等似せ候而怪敷者、町方令徘徊候ハヽ、判鑑令吟味、合印所持不致者ハヽ召捕、早速四郎兵衛方召連可申候、隠置脇より相知候ハヽ、其所之者可為越度候

 右之趣、町々名主共被召寄、支配々々申聞せ置候様可申渡候、以上

   巳九月



火附盗賊改判鑑.jpg
          合印の画


正徳五年未八月十八日

 阿部四郎兵衛樣御役御免付、此節右御合印、奈良屋指出申候 (『江戸町触集成』第三巻)


享保十一年1726午正月五日

   樽屋年番名主被呼、左之御書付之趣、町々可申通旨被申渡

一今度加役被仰付候付、組之与力同心不限昼夜、不時町中裏々迄可相廻候、就夫、若吟味事寄、権威間敷躰之者歟、少し成共貪間敷事申掛候躰之者候ハヽ、其所止置、早々此方可申来候、此方ゟ不求候、先々而しいて馳走間敷儀致候歟、少成共賄賂間敷事致者有之候ハヽ、直召捕候様申渡置候、不限何事、訴訟願之儀役所可告来候事候得、内々而組之者如何様之少事たり共可相願儀有之間敷事候、尤組之者も堅申付候間、組之者縱取次自分計ひ而宜様可取持と申者有之候共、必々許容有之間敷事候間、兼而申触置候家来之もの之儀、曾而御用之筋不差寄事候間、右之品事寄、偽者有之候ハヽ、早々役所召連可罷出候、且又役所致出入候者と号、如何様之事而も、取持可申躰申族有之候共、少も用申間敷候、しいて品を栫候者在之候ハヽ実敷存候共、早々役所召連可罷出者也

  十二月       進 喜太郎   (『江戸町触集成』第四巻)


 わざわざこうした書付を出しているということは、こうしたことが行われていたからでしょう。


その後、町奉行所の同心も同様に印を所持することになったようです。


天明八年1788八月

近頃所々役躰之者多有之、其上廻り方名前を申、傘挑灯下駄等借受候義有之由及承候、依之此度廻り方拾人印鑑致し、町々自身番屋相渡置候間、急雨之節、此方共傘下駄又は夜分挑灯等借請候節は、右印鑑引合用立候様、兼而町役人被相達候様致度、尤此書面自身番屋張置候は不及候間、此段御達し可有之候、以上

  八月廿七日

      南定廻り 四人

      臨時廻り 四人

      夜廻り  弐人

        南北小囗年番名主中  (『江戸町触集成』第八巻)


寛政元年1789二月

昨廿八日惣年番名主信濃守様御番所被召出、御年番安藤源助殿被申渡候は、御用先而御組之衆中名主并月行事持之場所被参、雨具挑灯等被借請候節別紙印鑑引合用立候様致、印鑑無之衆中は決而用立申間敷旨被仰渡候間、右之通証文御取御渡し被成候、依之右印鑑壱枚ツヽ御渡申候、前書之通御承知可被成候、且又昨日源助殿御口上而被申聞候は、右御組与力衆家来抔雨具挑灯等借請参候共、決而用立申間鋪候、達而彼是申候ハヽ其者留置御番所へ御訴可申上候、勿論右之通取計候義名主共迷惑存候者は御年番申上御差図可請候、是又被仰渡候付此段御達申候、已上

 但、右之趣北御番所も相伺候様被仰渡候付罷越候所、是は追而御渡可被成旨被仰渡候

  二月廿九日

 朱書

「信濃守様御番所御廻り衆中ゟ去申年八月中御渡被置候印鑑、来ル廿九日迄年番方可遣旨、引替之積り通達」


御番所印形.jpg




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追補
火附盗賊改のうち一年を通して勤める「本役」は寛政期には任期が一年だったようです。
長谷川平蔵宣以は天明八年1788十月から寛政七年1795五月まで本役を勤めていますが『続徳川実紀』には次のように記載されています。

天明八年十月二日  先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる
(寛政元年の十月には記載なし)
寛政二年十月十六日 先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗の事その儘勤むべし
          命ぜらる
寛政三年十月廿一日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗期月といへど明の
          年十月まで勤よと命ぜらる
寛政四年十月十九日 先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗加役の事。明の年三月
          (十月の誤りか)まで勤べしと命ぜらる
寛政五年十月十二日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗の事。明の年十月
          まで勤べしと命ぜらる
寛政六年十月十三日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗命ぜらる
寛政七年五月十六日 先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。
          久々勤務により金三枚。時ふく二賞賜あり

 同じくこの時期に長期間本役を勤めたもう一人の池田雅次郎も同様に

寛政八年十二月廿九日 先手筒頭塩入大三郎利恭病により捕盗の事免され。
           池田雅次郎政貞もて命ぜられ。大久保甚兵衛忠良
           同じく命ぜらる
寛政九年十二月十二日 先手筒頭池田雅次郎政貞捕盗の事命ぜらる
寛政十年十二月十二日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事命ぜらる
寛政十一年十二月九日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事。明の年十
           二月迄勤べしと命ぜらる
寛政十二年十二月八日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事命ぜらる
享和元年五月朔日   先手筒頭火賊捕盗奉はりし池田雅次郎政貞 
           禁裏附となり。納戸組頭長崎源之助元良西城の同
           じ頭となる

 この時期だけのことかどうかは判りませんが、任期一年が更新更新で長期間になっていたことを説明したものを見かけませんのであげておきます。

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