雑話18「江戸で暮らす」補正・上
『江戸で暮らす。』(丹野 顯著2010年新人物往来社刊)から補正が必要と思われる事項をいくつか採り上げます。始めの数字はページです。
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* 48 山東京伝は「通言総籬」で「拝み搗きの米を食う」のが江戸 *
* っ子の豪儀さのように自慢したが、そんなつき方をしたら米は割 *
* れてしまう。越後の出稼ぎ農民にまかせれば、ていねいについて *
* 最高の精米に仕上がった。 *
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四時交加の画 山東京伝文・北尾重政画 寛政十年1798
「江戸で暮らす」も上の画を掲げ「江戸の庶民は精米ずみの米の一升買いがふつうだったが、景気のいい家は市中を臼を転がしてくる出稼ぎ人に一臼単位で米つきをしてもらった」とあります。「そんなつき方をしたら米は割れてしまう」とありますが、越後からの出稼ぎ農民も「拝み搗き」です。江戸では、各家に頼まれて米を搗く方法は、皆「拝み搗き」だったようです。
また「一臼単位で」とありますが「一斗いくら」ではないかと思います。(雑話06「大江戸の正体」正誤 参照)
米の搗方には「拝み搗き」の他に、唐臼(踏み臼)を使い、足で踏む方法があります。京伝は江戸っ子の条件の一つとして拝み搗きの米を食うことを挙げていますが、これは米を俵単位(米俵は普通玄米です)で買って米搗に搗かせる裕福な家を意味します。裏長屋の住人は搗き米屋から白米を買うので米搗に頼むことは無いでしょう。搗き米屋では踏み臼の方が楽ですから踏み臼が中心だったと思われます。
楳蝶楼国貞画『教草女房形気』廿一編(万延二年1861)
深川江戸資料館に展示されている店には搗き臼が一つと踏み臼が二つになっています。
深川江戸資料館の画
平亭銀鶏文歌川貞広画『浪華雑誌 街能噂(ちまたのうわさ)』冬(天保六年1835)には次の画と詞があります。
大阪の搗屋
「ふみうすを持あるきて家々の門へおろし、かくのごとく取りこしらひてつく也、いと手重きやうなれども江戸のうすをころばすよりハかへつて便利なるか」
江戸の搗屋
「をがミつきとてかくの如ききねにて搗也、これハ江戸の名物にして其さま頗るいきほひあり、力なくてハなしがたき業なり」
『譚海巻の六』にも大坂のことについて述べるところに「たて臼にて米をつく家なし、からうす斗りを用る也。」とあります。
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* 113 江戸っ子の人気は玉屋のほうにあったが、天保十四年(一 *
* 八四三)四月、店から失火して町内を全焼。たまたま十二代将 *
* 軍家慶の日光社参出発の前日の騒ぎだったので、玉屋は取り潰 *
* しになった。 *
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落語の中の言葉82「玉屋」で紹介しましたので、資料はあげず要点だけにします。
○玉屋から出火したのは、家慶の日光社参中の四月十七日です。
家慶の社参は十三日首途、廿一日還御です。
○類焼したのは「長凡二十八間余、幅平均六間半程」で町内全焼ではありません。
○処罰は「所払い」です。浅草誓願寺門前へ移って花火屋を続けましたが、二年後の弘化二年1845に再び火を出して五六軒類焼し、廃業したようです。
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* 120 江戸初期から歌舞伎芝居は江戸のあちこちで転々と行なわ *
* れていたが、堺町の中村座・葺屋町の市村座・木挽町の森田座 *
* が「江戸三座」として幕府公認になり、興行を許されたのは正 *
* 徳四年(一七一四)からである。絵島生島事件で山村座が廃止 *
* された年である。 *
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江戸三座になったのが正徳四年で、江戸の初期からさまざまな座が公許を得て興行しています。許可された興行場所もはじめはさまざまでしたが、禰宜町に集められたり、堺町に移動させられたりしながら、寛文元年1661には、興行の場所は堺町・葺屋町・木挽町五丁目・六丁目の四ヶ所に限定されました。
寛文元年1661十二月廿二日
一諸見物芝居物仕候者は、堺町葺屋町木挽町五町目六町目、此処ニ而可仕旨、自今已後他処之町中ニ而堅仕間鋪事 (『江戸町触集成』第一巻)
また各座が公許を得て起立したのは次の通りです。
中村座(元祖猿若勘三郎)寛永元年1624、中橋で起立
都座(元祖都伝内)寛永十年1633、堺町か?
市村座(元祖村山又三郎)寛永十一年1634、禰宜町と堺町の間
山村座(元祖山村長太夫)正保元年1644、木挽町五丁目
河原崎座(元祖河原崎権之助)慶安元年1648、木挽町五丁目
玉川座(元祖玉川彦十郎)承応元年1652、葺屋町
森田座(元祖うなぎ太郎兵衛)万治三年1660、木挽町五丁目
桐座(元祖桐大蔵)寛文元年1661、木挽町五丁目
正徳四年二月の江島生島事件直前には中村座・市村座・山村座・森田座の四座だけになっていましたが、同事件で正徳四年三月山村長太夫が流罪となり、山村座は廃絶します。
江戸の芝居が三座になったのが正徳四年です。以後願出ても新規の芝居は許可されませんでした。ただ、三座が資金繰りのため休業している間だけ代わりに興行が許されています。これを控櫓といいます。
『寛延雑秘録』巻十(寛延は1748~1751)には享保十年巳六月の三座(猿若勘三郎・市村竹之丞・森田勘弥)の由緒書の後ろに
一、右三芝居由緒の義御尋ね御座候処、町方役所に書留是なく、相知れざるにつき、町年寄奈良屋市右衛門に相尋候処、書面の通、銘々書付取(ママ)出し候、但先年は芝居座本四人にて是有候所、当十二年以前、御城女中絵島御詮義一件の義に付、木挽町に居候山村長太夫遠島に罷成、其已後長太夫跡芝居取立の儀、度々願人是有候得ども罷ならす、今度は右勘三郎竹之丞勘弥三人にて狂言座本仕候已上、
巳七月 大岡越前守
諏訪美濃守
とあります。また
其(控櫓)は享保十九年、彼の森田座が休座中たりし時なりき。木挽町に住居せるものは急に劇場を失ひて糊口に窮するより、森田座の代りに新にある劇場を建てん事を其の筋へ嘆願せしも、既に第二章に述べたるが如く劇場興行の權はかの三座に限られたるを以て、容易に裁可せられざりき。之より先、元祿以前に一度劇場主たりし河原崎權之助、桐大蔵及び都傳内の後裔が頻に其の祖先の由緒に依り劇場を再興せんことを熱望せる故、此の三者のうちの一人を抽籤に依りて森田座に代はるべき興行者と定め、且つ森田座が他日再興する場合には何時たりとも其の興行權を返戻すべしとの條件にて、始めて新劇場の興行を許され、かくて其の抽籤に當りしものは二世河原崎權之助なりしかば、享保二十年七月に至りて再び河原崎を木挽町に生ずるに至りて、即ち之を森田座の「控櫓」と称しき。而してこの控櫓の興行は延享元年まで十年間續きしが、同年に至り森田座が再興せるを以て河原崎座は自からその興行權を失ひ、之より四十七年にて寛政二年に再び森田座の休業と共に興行を始めたり。又かくの如くにして河原崎座が森田座の控櫓なりしと同じく、天明三年(引用者註:天明四年の誤り)に市村座の休場せるや桐座は其の控櫓として五年間の興行を免されしが、天明八年に至り期満ちて市村座の再興と共に興行權を失ひたり。次に、中村座も財政困難に依りて休業するや都座は遂に其の控櫓となり、此の例は其の後も頻繁に且つ規律正しく繰り返されたりき。(後藤慶二『日本劇場史』大正十四年)
*森田座から河原崎座へ
三代目 河原崎権之助
幼年之砌、堺町におゐて享保十九甲寅年1734十二月、蒙御免、旧地木挽町におゐて、同二十巳年より延享元甲子年1744迄興行仕候、
(『三座家狂言幷由緒書』)
*市村座から桐座へ
天明四辰年1784十一月、顔見世、ふきや町市村羽左衛門座、やぐら幕をおろし、桐長桐座にかしてより、ことし(天明八年也)申年まで五年なり。市村当羽左衛門〔割註〕亀蔵也。」より到来書
〔割註〕天明五年巳十月十七日、家督相続羽左衛門となる。」
今日御番所様御内寄合え被召出。羽左衛門芝居再興被仰付。難有仕
合奉存候。興行之儀者、来る霜月朔日より、顔見世興行仕候様に是亦
被仰付候。右為御知申上度如此御座候。以上。
申五月十八日 市村 羽左衛門
菊屋 善兵衛
同 茂兵衛
(大田南畝『俗耳鼓吹』天明八年自序)
(市村座)天明四辰年1784、四月三日より、仲蔵、相生獅子所作事相始候処、日数十二日いたし、夫より相休、芝居取崩し候、
同年十月十八日、於御内寄合、桐長桐仮り櫓、願之通被仰付、
(『江戸芝居年代記』)
*中村座から都座へ
寛政五癸丑年1793 当顔見世より、五ヶ年、都座に相成、寛永九壬申年蒙御免、都伝内、明暦三丁酉年、堺町に而櫓上げ、歌舞伎興行いたし、当寛政五癸丑年迄、年数凡及百六十二年、 (『江戸芝居年代記』)
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* 123 天保改革では贅沢や風俗紊乱を理由に歌舞伎弾圧があり、 *
* 七代目市川団十郎はじめ尾上菊五郎・沢村宗十郎・中村歌右衛 *
* 門らが処罰され、また江戸三座は江戸の中心から追われて、当 *
* 時は辺鄙な浅草寺北側の猿若町へ移転させられた。 *
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元七代目市川団十郎(団十郎は八代目に譲り当時は海老蔵です)が処罰されたのは奢侈のためですが、尾上菊五郎・沢村宗十郎は猿若町から出るときに編笠を被らなかったためです。猿若町へ移転させられた時に「狂言役者共他行之節は編笠冠り素人と不紛様可致」と申し渡されていました。また中村歌右衛門は相撲見物で預けになっていますが、理由はよく分かりません。それぞれの処罰を『藤岡屋日記』から紹介します。
○天保十三年四月十日
中村歌右衛門相撲見物致して預けに相成也。
○木挽町芝居外題五ッ蝶金紋五三の桐狂言興行中、狂言役者市川海老蔵被召捕。
天保十三寅年六月廿二日
申渡
深川田嶋町熊次郎地借
重兵衛方同居同人父
歌舞伎役者
海老蔵
一 此者義、家作に長押壁(塗)かまち不相成、幷道具之義結構に致間敷旨前々町触有之候処、此者家業躰之義は、時之風俗に随ひ専表向きを飾見せ不申候而は、贔屓も薄く、道具類も右に准し、高金之品無之候而は融通も不宜候迚右町触書背居宅長押造床壁(塗)かまちに致し、赤銅七々子釘隠打付、庭向は御影石灯灯(籠)其外大石数多差置、又は同処土蔵内江不動之像出飾、荘厳向惣金箔彫物、須弥檀朱塗彫物、惣金泥合天井致、或は小たんすに赤銅七々子金丸桐之絞、小柄等鉄物致し、其外手書(ママ)込候鉄物相用、唐櫃幷額なら細工、木彫彩色之雛等近々買取、右雛道具は瓢たんを菊桐五三紋形付置、名前不存町人より貰置候迚、右檀江猩々緋打敷、座敷内に相飾、其上狂言に相用ひ候品々之義も、一卜通りに而は見物人気に入間敷と存、革装(製)具足壱領幷鉄用無之品所持致、狂言に相用ひ、且先代より持伝候迚、珊瑚珠根付且緒〆付高蒔絵之印籠等、狂言之節是又相用ひ、又は銀無垢ちろり等所持致し候処、金子に差支、右之内ちろりは所持いたし、其餘之品々質入、或は可売払と預け置、金子借請候後、去る丑年十月質素倹約之義被仰出候に付、不相済と後悔致し、居宅向造作等取崩候場処も有之候得共、右身分とも不顧、奢侈僭上之至、殊に先年より買置候共、高さ壱丈七尺之石灯籠一対、深川永代寺於境内開帳有之、不動江奉納可致と、高価之品右境内江差置候段、以旁不届に付、居宅取崩、木品共取上け、江戸十里四方追放申付之。
寅六月
右は鳥居甲斐守様御白洲におゐて被仰渡之。
○天保十三寅年九月十九日
御咎 歌舞妓役者
宗十郎
梅 幸
右は編笠冠り候様兼々申渡置候処、木挽町芝居江罷出候役者之内、右両人編笠失念致し冠り不申候に付、吟味中手鎖之処、同日過料三貫文つゝ被申付。
『藤岡屋日記』には梅幸とありますが、改名して当時は三代目菊五郎です。
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