雑話14「百万都市 江戸の生活」補正・下
今回は仮宅についてです。
『百万都市 江戸の生活』には次のように書かれています。
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その年(天保六年)の正月、新吉原は大火にあい、すっかり焼けてしまった。周知のごとく、この街は公認の歓楽郷で、火災にあっても、復興までの間、店を閉じて休業することがなく、仮宅といって近所の町々の茶店や料亭を借り、遊び人に不便を感じさせないようにしていた。あっぱれな商売根性といえないこともないが、新吉原のおはぐろどぶに囲まれた雰囲気より、ずっと解放された気分があって、かえって繁盛するありさまであった。
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また『吉原と島原』(小野武雄著 講談社学術文庫2002.08)には
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仮宅の場所と営業
仮宅は、幕府の指定地ではなく、罹災楼主が本所・深川・浅草・両国など、吉原からあまり遠くなく、繁華街に近い場所を選び、料理屋、寮、妾宅、民家を借りて、届出て、許可をとり、営業するのであった。あるいは、廓内や五十間道に仮屋を作って営業する者もあった。
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とあります。
仮宅は期間と場所を町奉行所に願い出て、指定を受けて行うもので、希望通りにはなりません。場所も吉原近所に限りません。弘化二年1845の焼失による仮宅決定までの流れを主に旧幕府引継書の市中取締類集から紹介します。
弘化二年十二月十日、新吉原町遊女屋惣代一〇名と名主三名が南町奉行所(遠山左衛門尉景元)に仮宅渡世の期間と場所の願書を提出しました。
南町奉行所では、仮宅の期間と場所を検討して候補地を決めると、候補地を支配する名主から仮宅の場所に指定して支障が無い旨の文書を取り、老中へ伺う文案を作成し、資料一式とともに北町奉行所(鍋島内匠頭直孝)に送り、合議の上で両奉行連名で老中(阿部伊勢守正弘)へ伺い書を提出します。
老中の指示に従って内容を修正の上、出願者である新吉原町の者と仮宅の場所支配の名主に申渡しを行っています。
因みにこの時の南町奉行遠山左衛門尉とは、あの「遠山の金さん」です。「遠山の金さん」というと北町奉行、大岡越前というと南町奉行で有名ですが、「遠山の金さん」は北町奉行と南町奉行の両方を勤めています。初めは北町奉行で、天保十一年1840三月二日就任。水野忠邦の天保改革の時期を勤めます。天保十四年1843二月二十四日、北町奉行から大目付へ転役しています。これは普通のコースで、栄転でも左遷でもありません。それが水野忠邦が弘化二年1845二月廿二日に二度目の老中職を解かれると、三月十五日再び町奉行になります。大目付から町奉行への転役は異例です。この仮宅の願書が提出された年の三月です。この時は南町奉行です。そして嘉永五年1852まで勤めます。在任期間は北町奉行より南町奉行の方が二倍以上長いのです。ちなみに遠山と水野の役職の変化をあげると次の通りです。
天保十一年三月二日 勘定奉行遠山左衛門尉町奉行となる
天保十四年二月二十四日 町奉行遠山左衛門尉大目付となる
天保十四年閏九月十三日 宿老水野越前守忠邦国政の事不正の趣あるによて
職をとかれて。前の如く雁間席を命ぜられ。御前
をとゞめらる。
弘化元年六月廿一日 水野越前守忠邦加判の列の上席を命ぜらる
弘化元年九月六日 町奉行鳥居甲斐守病免して寄合となる
弘化二年二月廿二日 宿老水野越前守病によて職とかん事請ふまゝに免
され。席はこゝろよく出勤のをりうかゞはるべし
と。水野壱岐守めして伝へらる
弘化二年三月十五日 大目付遠山左衛門尉町奉行となる
嘉永五年三月廿四日 町奉行遠山左衛門尉病免して寄合となる
本題に戻って、仮宅の期間と場所について、願書と申渡を比べると以下のようになります。
期間 場所
願書 500日 40箇所
申渡 250日 20箇所
仮宅場所の内訳は次の通りです。
吉原 奉行所
場所 願書 許可 指定 計
浅草 20 5 1 6
下谷 4
谷中 1
深川 8 5 3 8
本所 3 1 5 6
赤坂 1
麻布 1
湯島 1
神田 1
合計 40 11 9 20
新吉原町が願い出た40箇所内、町奉行所が許可したのは11箇所、願書にない場所で奉行所が指定した場所が9箇所です。仮宅場所は町数では浅草10、深川8、本所6の24ヶ町です。浅草田町は一丁目と二丁目、浅草新鳥越町が一丁目から四丁目まで指定されているためです。江戸では一丁目二丁目というのはそれぞれ独立した一個の町です。
この他に、浅草の五ヶ町(花川戸町・山之宿町・聖天町・同横町・金龍山下瓦町)はその町内に立退所又は所持地面のある22軒の遊女屋に限りそこでの仮宅を許可しています。22軒の内で落語に名前の出てくるものがいくつかありますので、序でに掲げておきます。
浅草山之宿町
新吉原江戸町弐丁目 さの槌屋勢以
同町 丸屋熊蔵
浅草金龍山下瓦町
新吉原京町壱丁目 姿海老屋久兵衛
奉行所で場所を検討する際には、過去に仮宅の場所に指定した所かどうか、町続きであるかどうかを重視しているようです。このとき指定された場所もしばしば仮宅の場所になった所です。
また、仮宅の期間ですが、両町奉行は願書の通り500日で老中に伺いを出していますが、250日にするよう指示されました。
書面仮宅申付候場所之儀、別紙取調申聞候通相心得、其ほか之儀も伺之通取斗可被申候、尤日数之儀ハ二百五十日之積申付、追而日延願等申立候ハヽ猶又取調可被申聞候事
新吉原町からの願書と町奉行の申渡は次の通りです。
「願書」
乍恐以書付奉願上候
一新吉原町遊女屋惣代之者共一同奉申上候、当月五日暮六時頃同所京町弐町目ゟ出火、私共町内不残類焼仕候就而は去ル寅年以来他場所より料理茶屋其外之者共追而引移、此節漸多人数建揃候處、無間も類焼仕大勢之者共一同難儀罷在候、其上遊女屋共儀ハ外渡世と違ひ多人数暮、日用ニ差支候者多ク候間、格別之思召を以別紙之場所ニ而日数五百日之間遊女屋渡世御免被 仰付被下置候様偏奉願上候以 御慈悲願之通御聞済被下置候ハヽ一同困窮を凌ケ成ニも元地江引移候様相成可申と奉存候間乍恐御憐愍之程奉願上候以上
弘化二巳年十二月十日
新吉原江戸町一町目
遊女屋惣代
家持
願人 山三郎印 以下願人十九人は省略
右之通遊女屋共御願申上候間以御慈悲御聞済被成下置候様私共一同奉願上候以上
右町々
名主 佐 兵 衛印
同 仁左衛門印
同 庄 兵 衛印
御奉行所様
箇所書写
覚
浅草黒舩町・同所諏訪町・同所花川戸町・同所山之宿町・同所聖天町・同所今戸町・同所新鳥越町・谷中天王寺門前浅草山川町・浅草橋場町・同所山谷町・山谷浅草町・浅草田町・同所金龍山下瓦町・同所東仲町・同所西仲町・同所三間町・同所並木町・同所材木町・同所田原町・同所茶屋町・下谷金杉町・同所三之輪町・同所通新町・同所竜泉寺町・谷中茶屋町・深川永代寺門前町・同所仲町・同所山本町・同所東仲町・同所黒江町・同所相川町・同所冨吉町・同所常盤町・本所尾上町・南本所元町・南本所長岡町・赤坂田町五町目・麻布今井寺町・湯島天神門前町・神田山本町代地
引用者註
色の付いた町は奉行所に許可されたところ。青は浅草、赤は深川、本所
また「谷中天王寺門前浅草山川町」はこれで一つの町の名です。谷中感応寺東裏門前にあった門前町屋が上野山内に囲い込みになり、代地として与えられたもの。谷中感応寺は「江戸の三富」の一つでした。ある事情から天保四年に「天王寺」と改称しています。
また「浅草山川町」という小さな町が別にあります。
「谷中天王寺門前浅草山川町」
一惣家数 百四十軒
一町内一円に字埋堀と唱え申し候
一東西へおよそ三十二間、南北へ百二十間
「浅草山川町」
一惣家数三十九軒
一町内小名、里俗に山谷堀と唱え候
一東西へ一丁二十二間、南北、西の方八間二尺、東の方九尺
但し、片側町にて前通りは大川よりの枝川(山谷堀のこと)に御座候
(文政八年1825「町方書上」より)
「申渡」
(弘化二年)巳十二月廿二日
申渡
新吉原町
遊女屋
名 主 共
新吉原町
遊女屋惣代
山 三 郎 以下十九人は省略
右町名主
佐 兵 衛
仁左衛門
庄 兵 衛
其方共此度焼失ニ付家作致し候迄浅草黒舩町外三十九ヶ所にて仮宅渡世致度旨願出候處、黒舩町外弐拾五ヶ所ハ難相成、同所山川町・田町壱丁目・弐丁目・新鳥越町壱丁目・弐丁目・三丁目・四丁目・谷中天王寺門前浅草山川町・山谷町・山谷浅草町并深川永代寺門前・同所仲町・東仲町・山本町・松村町・佃町・常盤町弐丁目・同所八幡旅所門前・本所陸尺屋敷・同続屋敷・入江町・長岡町壱丁目・八郎兵衛屋敷・松井町壱丁目にて弐百五十日之間仮宅渡世差免、山三郎外弐拾壱人は浅草花川戸町・山之宿町・聖天町・同横町・金龍山下瓦町之内立退所又は所持地面にて同様渡世差免、其余之遊女屋共は右五ヶ町ニ而は不相成、右日限之内新吉原町江普請いたし引移候様致へし
但仮宅中心得方之儀は前々仮宅之節申渡候通急度可相守
但河岸附取締其外委細之儀は町年寄共ゟ可申渡間其旨可存
右
組合之者共
右之通申渡間其旨可存
三番組世話懸
浅草茅町名主
弥 兵 衛
七番組同
南八町堀名主
清左衛門
十六番組同
本所緑町名主
長 兵 衛
十七番組同
深川材木町名主
市 郎 次
其方共組合町々江弐百五十日之間遊女屋とも仮宅渡世差免間町年寄共差図受諸事心付可相勤
巳十二月
町年寄から申渡された心得も掲げておきます。
一遊女衣類目立候品は一切着セ申間敷候
一遊女禿共仮宅家前たりとも往来江は一切不差出、外而猥ニ徘徊為致間敷候
但家内たり共二階并窓等江並居候様成儀、往来之者見物致候迚足を留候
様成儀為致間敷候
一郭内と違外町々ニ差置候内は別而不依何事、万端大造ニ無之様相心得、商
売可致、
夜五つ時限見世相仕舞、音曲等も右刻限迄ニ相止、仰山成儀致間敷候
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『百万都市 江戸の生活』には次のように書かれています。
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その年(天保六年)の正月、新吉原は大火にあい、すっかり焼けてしまった。周知のごとく、この街は公認の歓楽郷で、火災にあっても、復興までの間、店を閉じて休業することがなく、仮宅といって近所の町々の茶店や料亭を借り、遊び人に不便を感じさせないようにしていた。あっぱれな商売根性といえないこともないが、新吉原のおはぐろどぶに囲まれた雰囲気より、ずっと解放された気分があって、かえって繁盛するありさまであった。
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また『吉原と島原』(小野武雄著 講談社学術文庫2002.08)には
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仮宅の場所と営業
仮宅は、幕府の指定地ではなく、罹災楼主が本所・深川・浅草・両国など、吉原からあまり遠くなく、繁華街に近い場所を選び、料理屋、寮、妾宅、民家を借りて、届出て、許可をとり、営業するのであった。あるいは、廓内や五十間道に仮屋を作って営業する者もあった。
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とあります。
仮宅は期間と場所を町奉行所に願い出て、指定を受けて行うもので、希望通りにはなりません。場所も吉原近所に限りません。弘化二年1845の焼失による仮宅決定までの流れを主に旧幕府引継書の市中取締類集から紹介します。
十二月五日、暮六時、吉原京町二丁目より出火、廓中焼亡(仮宅は、花川戸、山の宿、聖天町、瓦町、浅草山川町、田町、新鳥越、山谷、深川八幡前、同松村町、佃町、同常磐町、八幡宮旅所門前、本所陸尺やしき、時の鐘やしき、入江町、長岡町、八郎兵衛屋敷、弁才天前、松井町等なり)。暮より春へ掛けて仮宅をしつらひ、午年(弘化三年1846)九月元地普請成りて引移る(仮宅は二百五十日限りとして元地へ移る。此の時あらたに出来たる局見せを、吾妻長家、関本長家、永続長家、三長長家といふ。松葉長屋を稲毛長家と改む)。 (『武江年表』)
弘化二年十二月十日、新吉原町遊女屋惣代一〇名と名主三名が南町奉行所(遠山左衛門尉景元)に仮宅渡世の期間と場所の願書を提出しました。
南町奉行所では、仮宅の期間と場所を検討して候補地を決めると、候補地を支配する名主から仮宅の場所に指定して支障が無い旨の文書を取り、老中へ伺う文案を作成し、資料一式とともに北町奉行所(鍋島内匠頭直孝)に送り、合議の上で両奉行連名で老中(阿部伊勢守正弘)へ伺い書を提出します。
老中の指示に従って内容を修正の上、出願者である新吉原町の者と仮宅の場所支配の名主に申渡しを行っています。
因みにこの時の南町奉行遠山左衛門尉とは、あの「遠山の金さん」です。「遠山の金さん」というと北町奉行、大岡越前というと南町奉行で有名ですが、「遠山の金さん」は北町奉行と南町奉行の両方を勤めています。初めは北町奉行で、天保十一年1840三月二日就任。水野忠邦の天保改革の時期を勤めます。天保十四年1843二月二十四日、北町奉行から大目付へ転役しています。これは普通のコースで、栄転でも左遷でもありません。それが水野忠邦が弘化二年1845二月廿二日に二度目の老中職を解かれると、三月十五日再び町奉行になります。大目付から町奉行への転役は異例です。この仮宅の願書が提出された年の三月です。この時は南町奉行です。そして嘉永五年1852まで勤めます。在任期間は北町奉行より南町奉行の方が二倍以上長いのです。ちなみに遠山と水野の役職の変化をあげると次の通りです。
天保十一年三月二日 勘定奉行遠山左衛門尉町奉行となる
天保十四年二月二十四日 町奉行遠山左衛門尉大目付となる
天保十四年閏九月十三日 宿老水野越前守忠邦国政の事不正の趣あるによて
職をとかれて。前の如く雁間席を命ぜられ。御前
をとゞめらる。
弘化元年六月廿一日 水野越前守忠邦加判の列の上席を命ぜらる
弘化元年九月六日 町奉行鳥居甲斐守病免して寄合となる
弘化二年二月廿二日 宿老水野越前守病によて職とかん事請ふまゝに免
され。席はこゝろよく出勤のをりうかゞはるべし
と。水野壱岐守めして伝へらる
弘化二年三月十五日 大目付遠山左衛門尉町奉行となる
嘉永五年三月廿四日 町奉行遠山左衛門尉病免して寄合となる
本題に戻って、仮宅の期間と場所について、願書と申渡を比べると以下のようになります。
期間 場所
願書 500日 40箇所
申渡 250日 20箇所
仮宅場所の内訳は次の通りです。
吉原 奉行所
場所 願書 許可 指定 計
浅草 20 5 1 6
下谷 4
谷中 1
深川 8 5 3 8
本所 3 1 5 6
赤坂 1
麻布 1
湯島 1
神田 1
合計 40 11 9 20
新吉原町が願い出た40箇所内、町奉行所が許可したのは11箇所、願書にない場所で奉行所が指定した場所が9箇所です。仮宅場所は町数では浅草10、深川8、本所6の24ヶ町です。浅草田町は一丁目と二丁目、浅草新鳥越町が一丁目から四丁目まで指定されているためです。江戸では一丁目二丁目というのはそれぞれ独立した一個の町です。
この他に、浅草の五ヶ町(花川戸町・山之宿町・聖天町・同横町・金龍山下瓦町)はその町内に立退所又は所持地面のある22軒の遊女屋に限りそこでの仮宅を許可しています。22軒の内で落語に名前の出てくるものがいくつかありますので、序でに掲げておきます。
浅草山之宿町
新吉原江戸町弐丁目 さの槌屋勢以
同町 丸屋熊蔵
浅草金龍山下瓦町
新吉原京町壱丁目 姿海老屋久兵衛
奉行所で場所を検討する際には、過去に仮宅の場所に指定した所かどうか、町続きであるかどうかを重視しているようです。このとき指定された場所もしばしば仮宅の場所になった所です。
また、仮宅の期間ですが、両町奉行は願書の通り500日で老中に伺いを出していますが、250日にするよう指示されました。
書面仮宅申付候場所之儀、別紙取調申聞候通相心得、其ほか之儀も伺之通取斗可被申候、尤日数之儀ハ二百五十日之積申付、追而日延願等申立候ハヽ猶又取調可被申聞候事
新吉原町からの願書と町奉行の申渡は次の通りです。
「願書」
乍恐以書付奉願上候
一新吉原町遊女屋惣代之者共一同奉申上候、当月五日暮六時頃同所京町弐町目ゟ出火、私共町内不残類焼仕候就而は去ル寅年以来他場所より料理茶屋其外之者共追而引移、此節漸多人数建揃候處、無間も類焼仕大勢之者共一同難儀罷在候、其上遊女屋共儀ハ外渡世と違ひ多人数暮、日用ニ差支候者多ク候間、格別之思召を以別紙之場所ニ而日数五百日之間遊女屋渡世御免被 仰付被下置候様偏奉願上候以 御慈悲願之通御聞済被下置候ハヽ一同困窮を凌ケ成ニも元地江引移候様相成可申と奉存候間乍恐御憐愍之程奉願上候以上
弘化二巳年十二月十日
新吉原江戸町一町目
遊女屋惣代
家持
願人 山三郎印 以下願人十九人は省略
右之通遊女屋共御願申上候間以御慈悲御聞済被成下置候様私共一同奉願上候以上
右町々
名主 佐 兵 衛印
同 仁左衛門印
同 庄 兵 衛印
御奉行所様
箇所書写
覚
浅草黒舩町・同所諏訪町・同所花川戸町・同所山之宿町・同所聖天町・同所今戸町・同所新鳥越町・谷中天王寺門前浅草山川町・浅草橋場町・同所山谷町・山谷浅草町・浅草田町・同所金龍山下瓦町・同所東仲町・同所西仲町・同所三間町・同所並木町・同所材木町・同所田原町・同所茶屋町・下谷金杉町・同所三之輪町・同所通新町・同所竜泉寺町・谷中茶屋町・深川永代寺門前町・同所仲町・同所山本町・同所東仲町・同所黒江町・同所相川町・同所冨吉町・同所常盤町・本所尾上町・南本所元町・南本所長岡町・赤坂田町五町目・麻布今井寺町・湯島天神門前町・神田山本町代地
引用者註
色の付いた町は奉行所に許可されたところ。青は浅草、赤は深川、本所
また「谷中天王寺門前浅草山川町」はこれで一つの町の名です。谷中感応寺東裏門前にあった門前町屋が上野山内に囲い込みになり、代地として与えられたもの。谷中感応寺は「江戸の三富」の一つでした。ある事情から天保四年に「天王寺」と改称しています。
また「浅草山川町」という小さな町が別にあります。
「谷中天王寺門前浅草山川町」
一惣家数 百四十軒
一町内一円に字埋堀と唱え申し候
一東西へおよそ三十二間、南北へ百二十間
「浅草山川町」
一惣家数三十九軒
一町内小名、里俗に山谷堀と唱え候
一東西へ一丁二十二間、南北、西の方八間二尺、東の方九尺
但し、片側町にて前通りは大川よりの枝川(山谷堀のこと)に御座候
(文政八年1825「町方書上」より)
「申渡」
(弘化二年)巳十二月廿二日
申渡
新吉原町
遊女屋
名 主 共
新吉原町
遊女屋惣代
山 三 郎 以下十九人は省略
右町名主
佐 兵 衛
仁左衛門
庄 兵 衛
其方共此度焼失ニ付家作致し候迄浅草黒舩町外三十九ヶ所にて仮宅渡世致度旨願出候處、黒舩町外弐拾五ヶ所ハ難相成、同所山川町・田町壱丁目・弐丁目・新鳥越町壱丁目・弐丁目・三丁目・四丁目・谷中天王寺門前浅草山川町・山谷町・山谷浅草町并深川永代寺門前・同所仲町・東仲町・山本町・松村町・佃町・常盤町弐丁目・同所八幡旅所門前・本所陸尺屋敷・同続屋敷・入江町・長岡町壱丁目・八郎兵衛屋敷・松井町壱丁目にて弐百五十日之間仮宅渡世差免、山三郎外弐拾壱人は浅草花川戸町・山之宿町・聖天町・同横町・金龍山下瓦町之内立退所又は所持地面にて同様渡世差免、其余之遊女屋共は右五ヶ町ニ而は不相成、右日限之内新吉原町江普請いたし引移候様致へし
但仮宅中心得方之儀は前々仮宅之節申渡候通急度可相守
但河岸附取締其外委細之儀は町年寄共ゟ可申渡間其旨可存
右
組合之者共
右之通申渡間其旨可存
三番組世話懸
浅草茅町名主
弥 兵 衛
七番組同
南八町堀名主
清左衛門
十六番組同
本所緑町名主
長 兵 衛
十七番組同
深川材木町名主
市 郎 次
其方共組合町々江弐百五十日之間遊女屋とも仮宅渡世差免間町年寄共差図受諸事心付可相勤
巳十二月
町年寄から申渡された心得も掲げておきます。
一遊女衣類目立候品は一切着セ申間敷候
一遊女禿共仮宅家前たりとも往来江は一切不差出、外而猥ニ徘徊為致間敷候
但家内たり共二階并窓等江並居候様成儀、往来之者見物致候迚足を留候
様成儀為致間敷候
一郭内と違外町々ニ差置候内は別而不依何事、万端大造ニ無之様相心得、商
売可致、
夜五つ時限見世相仕舞、音曲等も右刻限迄ニ相止、仰山成儀致間敷候
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