落語の中の言葉282「稲荷(3)江戸の稲荷」
江戸には稲荷が名物とされるほど多くあったと云われます。一方関西には少なかったようです。
因に曰、稲荷の社関東に多し、大坂より西には稲荷なし、たゞ安芸路にて一社ありしとおぼへし、長崎にもたゞ一社なり、すべて西国に多きは、八幡宮と天満宮也、富士を見ぬ故か、浅間はなし、大師は弘法大師のみにして、元三大師はなし、天王寺に元三大師あるのみなり、(大田南畝『奴師労之』文政元年1818 但し文政五年の追記あり)
大田南畝は勘定所役人として享和二年1802三月から一年間大坂銅座詰めをしており、また文化元年1804九月からは約一年間長崎に出張をしています。おそらくその時の見聞による印象でしょう。
日本全国の神社を信仰別に集計したものが岡田荘司編『日本神道史』(2010年刊)に載っています。これは神道系宗教法人の九割以上にあたる、およそ八万社の神社を包括する民間宗教法人神社本庁が平成二年から七年にかけて行った「全国神社祭祀祭礼総合調査」から神社の名前だけで祀る神を推定し都道府県別に分類集計したものであるといいます。神社の名前に「神明」とあれば伊勢信仰、八幡とあれば八幡信仰というように分類したものです。
沖縄県は神社数が11と極端に少ないためこれを除く46都道府県につき、その信仰が一番多い都道府県の数をみると、八幡信仰が21、天神信仰が9、伊勢信仰が5、稲荷と諏訪が各4と圧倒的に八幡信仰が多いのです。これは八幡信仰は全国おしなべて多いが、その他の信仰は地区による偏りが大きいことによるものと思われます。
また同書には東京都域の江戸時代と現在を並べた表も載っています。
全国合計に信仰に特徴のある都県をいくつかを加えた表と東京都域の表を次にあげます。
江戸時代の神社の数については次のように記されています。
江戸時代の神社数を把握する上で参考としたのは、天保二年(一八三〇)に幕府によって編纂された『新編武蔵風土記稿』と、その前年に完成した『御府内風土記』のもととなった『御府内寺社備考』である。(中略)
そこでまず、『新編武蔵風土記稿』において独立した項目立てで記載されている、現在の東京都域中の神社、つまり、境内末社や寺の境内鎮守以外の数と、『御府内寺社備考』で項目立てされた江戸市中の神社を集計すると、次のようになる。
『新編武蔵風土記稿』……約二三〇〇社
『御府内寺社備考』………約一〇〇社
したがって、幕末期の東京都域の神社数はおよそ二四〇〇社となる。(以下略)
これを見ると神社数が江戸期に比べ半減しています。一方、内訳では日吉が氷川に替わっているほかはほとんど同じです。ただ、現代の信仰の総数が左表と同じ1,415であるのに、八幡が7、伊勢31、熊野が2しか増えていないのに稲荷は93も増えています。これについての説明はありません。推測するに左の表は神社の名前だけから分類しているのに対して、右の表は名前以外のもの(例えば祭りの内容等)も含めて判定したためであろうと思われます。伊勢や八幡は神社名に「神明」「八幡」の文字を大部分がつけているのに対して、稲荷は名前に「稲荷」の文字のない神社がかなり多いのでしょう。これが東京だけに限らないとすると左の表の稲荷信仰の数は大幅に増える可能性があります。
江戸でも東京でも稲荷の数が圧倒的に多く、二番目三番目に多い伊勢と八幡の合計数を超しています。
注意を要するのは、江戸時代と現代の数字を直接比較することは適当ではないということです。「江戸時代の信仰」の数字は『御府内寺社備考』(御府内)と『新編武蔵風土記稿』(御府外)から集計した神社の数ですから、町方で祀っている祠や武家屋敷に祀られているものは含んでいません。また「現代の信仰」の数字は法人格を持った神社で神社本庁に属している神社の数ですから、法人格を持たないものや法人格があっても神社本庁に属していないものは含まれていません。(一部含まれているようです。)
それでも、江戸時代と比べ大幅に神社の数が減っていることは確かなようです。明治末に国家神道推進のために大規模な神社整理が行われているからです。『日本神道史』にある明治39年と大正6年の神社数比較表を下に示します。
全体で38%もの減少です。それも地域差がすこぶる大きいのです。減少率が10%に満たない所(青森・福島・京都・長崎・熊本)がある一方、80%を超して減少している所(三重・和歌山・沖縄)もあります。
ところで江戸にはなぜこれ程稲荷が多かったのでしょうか。宮田登氏は「江戸町人の信仰」(『江戸町人の研究』第二巻)で「江戸の稲荷の多い理由について、従来はっきりした理由づけはなされてはいない。」とした上で、江戸の稲荷に、農業神型・聖地型・土地神型・屋敷神型・憑きもの型の五類型を設定して考察されています。
まとめると次のようになります。
1江戸の発展と拡大に伴い周辺地域で祀られていた農業神が稲荷の名で祀
られた。
2土地の拝領により屋敷神として稲荷が祀られたが、その稲荷が強制移転
や屋敷換えがあってもその地にとどまるようになった。
3狐憑きに伴い稲荷が増加した。
その他次のような事情もありました。
菅園『そらおぼえ』(明治十五年)は天王祭り(大伝馬町の天王)について述べた後、次のように云います。
附ていふ、徳川執政の始め、一切の政務悉皆旧幕府(徳川幕府のこと)へ御委任となりて、自ら公卿方に不都合の事有れども、公家方より、政事に於て口吻を入る事能はず、若不平を訴んとする時は、神祇官を以て幕府にせまる、幕府にては、是を如何ともする事能はず、此云々常に絶へずして、政事を一途にする事ならず、困難極まる、依て、徳川家にて、両部神道といふを建て、神祇官に対す、終に云々止む、此時神社の祭神を御改め有り、大社にして公然正しき神社は、有り来りのまゝにて残り、小社にしてむづかしき由来の社、又はむづかしき祭神、或はあいまいの神社は、ことごとく合祭又は取払らいを命ぜられる、唯御改無之神社は、小社にても、神明は勿論、八幡宮、天満宮、牛頭天王、稲荷社の類数々を残されし也、依て、大凡の神社は、右等のめんどふをさけて、大凡、是は天満宮、此社は牛頭天王などゝ、ことを済ませて改称し、永続し来りし也、例せば、湯島の妻恋いなりは(旧妻恋社にて、祭神日本武尊)、深川の正木いなりは(旧里見家の正木弾正)、千住の天王は(旧飛鳥の社にて、大名持命、少名彦名命)、豊島の富士浅間は(足立姫の霊)、牛御前山王は(清和の皇子)、梅若山王は(梅若の墳墓)の類なり。
『日本神道史』にあるのは神社の数ですが、その他に大名や旗本の屋敷にも稲荷は祀られており、町方にも多数ありました。町方の稲荷は地区によりばらつきがあるようです。文政期の町方書上のある浅草を例に取りますと、初めから町であった所(無年貢)と、村方から町奉行支配に編入された所(年貢地)と寺社領にある町に分けて稲荷の数を調べると次のようになります。なお町別の明細は最後尾に掲げておきます。
町の区分 町数 惣家数 稲荷 家数千当り
の稲荷数
一般の町 33 3,963 12 3
浅草寺領等 23 5,956 159 27
代官と両支配 9 2,088 133 64
ただし、家数が20未満の町及び門前町屋は除いています。又、町方書上にある稲荷ですから、町奉行支配の地にある稲荷だけで、寺社奉行支配地及び武家屋敷にある稲荷は含まれていません。町は規模の差が大きく、家数が40未満の町もあるため1町当たりの稲荷の数ではなく、家数千軒当たりの稲荷数で比べています。
『御府内寺社備考』の神社の数が約100社であるのに対して、町方にある個人や地区で祀られている稲荷の祠は浅草だけでも300もあります。またその数は、浅草寺領は一般の町の約9倍、両支配の町は約20倍にもなっています。江戸の町方に稲荷が多いのは、江戸の拡大に伴って正徳三年1713に町奉行支配に組み込まれた元村方(町並地、町奉行と代官の両支配)に特に多いのであって、一般の町には少ないことが分かります。又、比較的早い時期から町奉行所支配になっていた浅草寺領等の町に比べても倍以上になっていますから、村方だった時代に稲荷が増加したものと思われます。
ただし、これは文政の時点のことで、狐憑きに伴って稲荷が増えたのはその後のことです。
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