落語の中の言葉281「稲荷(2)正一位稲荷大明神」

 稲荷を祀る神社にはよく「正一位○○稲荷大明神」の幟が見られます。
 
正一位(三囲稲荷).jpg

神に正一位とか正二位とかの神位を授与するのは、もとは位に応じて位田(神領)を与えるためのもので、それが神領を御朱印で与えることになって神位は単なる神階になったようです。

神に位をさづくる事は、聖武天皇東大寺の八幡大神に一品の位を授けられしより始るといへり。是は禰宜祝部さまざまたよりに付て朝廷に奏して申おろしゝ也。神位にそへらるゝ位田をむさぼらんが為也。今の世の稲荷の正一位とは異也。皆位田といふ有。位田は令に、正一位八十町、従一位七十四町、正二位六十町、従二位五十四町、正三位四十町、従三位三十四町、正四位二十四町、従四位二十町、正五位十二町、従五位八町、女減三分之一。と見ゆ。神はおのづから尊きものにおはしますを、夫(それ)に人臣の位を授けらるゝ事、いと心得がたし。三代実録清和の巻、貞観元年正月二十七日甲申、京畿七道諸神進階及新叙総二百六十七社云々。これにも皆位田を附せられけるにや。
    (『天野政徳随筆』巻之三 天野政徳は文久元年1861歿)

 伏見稲荷が正一位になったのは社伝により延久三年1071三月廿六日とされていましたが、確証はありませんでした。幕府も不審に思い何度か尋ねています。ところが当の伏見稲荷でもはっきりした証拠は出せませんでした。

稲荷の正一位 阿部家旧記、阿部備中守正右朝臣、寺社奉行の頃、藤森社司え正一位稲荷大明神と申事、天下一統の事に候。然処天慶三年940八月二十八日従一位に昇進し給ふ事は、古書に相見候。正一位之事未相見候。何年より左様申候哉と相尋被申候処、社司より追々日延願出、其月一万日の日延願に相成。(後略)
       (栗原信充『柳庵随筆』 栗原信充は明治三年歿)

 引用者註:「阿部備中守正右」が寺社奉行を勤めたのは宝暦六年~十年1756~1760
「藤森社司」とは伏見稲荷の社司のことです。江戸では伏見稲荷のことを「藤森の稲荷」とか「藤森」とか呼んでいました。藤尾社を移動させて藤森神社に合祀し、その跡に伏見稲荷を山の上からおろして社を建てたためでしょうか。伏見稲荷社の周辺は現在も藤森社の氏子だそうです。

伏見稲荷は藤森神社の社地にあるため、伏見稲荷とその社人も、藤森神社の氏子になっており、一方、伏見稲荷の氏子は京五条から九条の間にあるという。   (榎本直樹『正一位稲荷大明神』)

 正一位へ話を戻します。伏見稲荷が正一位であることの確かな証拠が発見されたのは文化二年1805のことで、正一位になったのは天慶五年942四月のことでした。

 日本紀略、天慶三年九月四日、奉贈稲荷神従一位、
 本朝世紀、天慶五年四月十一日、坐京中幷山城国諸神位記五十三巻、是東西諸国賊乱之時、被禱討滅賊類後、天下諸神可被増加位一階之由、但至于極位之神、可被奉寄封戸者、

 ところで、江戸の市中にある稲荷の祠に「正一位稲荷大明神」とあるのは吉田家や白河家が勝手にしていることだと様々批判されていました。

吾国テモ古諸国祠ノ名神、皇朝ヨリ爵位ヲ玉ワルコト、三位(ヨリ)上ナル稀ナリ。爵ヲ重ンジ玉フ故ナリ。今ノ世ニハ在々所々ノ小祠、或都下ノ市中アル稲荷ノ祠ナド、類(数?)ニモタラヌホトノ賤キ神ヲ正一位叙シ、白河吉田ノ両家ヨリ宣旨ヲ申シ下シテ、巫祝ノ輩与フルコト甚多シ。是サレ所々ノ神庿正一位ノ額ヲカケザル稀ナリ。是大謂レナキコトテ吾国ノ古礼違ヘルナリ。縦ヒ淫祠アラザル正シキ神ナリトモ、三品以上ノ爵ヲ玉ワルマジキ義ナリ。況ヤ狐ヲ祭リ蛇ヲ祭ル類ノ淫祀正一位ヲ玉ワルベキ(ヤ)。日本ノ古礼三公モ生前正一位隆ル人稀ナリ。然ルヲ今小々ノ賤キ神ヲ正一位叙シテ、大祠ノ貴キ神ヲバ如何ナル爵位ノボスベキヤ。是国家古ヲ考ル人ナキ(故)ナリ。爵ヲケガスト云フ此類ノコトナリ。
(太宰春台『経済録』巻第六 祭祀 享保十四年1729自序の写本)

世の中の人盲昧に成たる證拠は、所々に正一位の稲荷沢山なるを見よ、何国の稲荷にても、一ヶ所正一位の官あらば、日本中の稲荷は皆正一位也、稲荷が何百何千有ものぞや、夫を知らぬ吉田家にも有まじけれども、官金が取たさに、座頭の犬のふんを踏たる顔をして、むせふに正一位の官を出すと見へたり、
    (中田主税『雑交苦口記』明和六年1769自序)

 公家には代々世襲される家業があります。神祇は白河・吉田家、蹴鞠は飛鳥井・難波家、装束は高倉家、陰陽道は土御門家、等々。
 慶長十八年1613六月十六日に徳川家康が公家に対して発した「公家衆法度」五ヵ条の第一条には、各自の家の学問にはげむべきこと、とあります。
 また徳川幕府の宗教政策は、新たな宗教は認めず、仏教寺院は本山に末寺を監督させ、神社は吉田家に監督させました。
寛文五年1665の「諸社禰宜神主法度」四か条の第二条第三条には次のようにあります。

一、社家位階、従前々以伝奏、遂昇進輩は、彌可為其通事、
一、無位之社人可着白張、其外之装束は以吉田之許状可着之事、
  付、不可入于質物事、    (『御触書寛保集成』)

 前々から吉田家以外の公家を頼んで位階を得ていた社家はそのままでよいとありますが、装束はすべて吉田家の許状を必要としています。この法度にもとづき吉田家は神職の支配を強めていきました。そして求めに応じて「正一位稲荷大明神」の号を与えていました。三囲稲荷への正一位の宗源宣旨を次に揚げます。

宗源宣旨.jpg
       (『墨田区古文書集成Ⅱ』 三井文庫所蔵)

 江戸の知識人等は狐を祀る小祠に「正一位稲荷大明神」の神階を出しているのは主に吉田家だと考えていますが、それは誤解です。
榎本直樹『正一位稲荷大明神』によれば、関東周辺における「正一位」神階と「正一位稲荷大明神」勧請文書によって、神階授与・勧請が確認できるものの限りですが、「正一位稲荷大明神」の発給者は、吉田家、白川家、伏見稲荷(秦、荷田、愛染寺)、妻恋稲荷の四者です。しかも伏見稲荷が最も多く全体の六割を超えています。

正一位発給者.jpg

 また吉田家の出した「正一位」は稲荷だけではありません。
同書は『埼玉県神社関係古文書調査報告書』・『新編埼玉県史資料編18中世・近世 宗教』『埼玉県の神社』等で、宗源宣旨の存在が示されているものとして
 稲荷10 香取9 八幡4 氷川7 久伊豆6 鷲・鷲宮8 その他37 合計81
をあげています。そして
「宗源宣旨には「神明号」をはじめ「正一位」以外の神号の授与も含まれてはいるが、この大部分は「正一位」の「極位」の授与である。表5のデータは、現在、各地域の調査から得られたもので、これが当時に出された宗源宣旨の全てでないことはいうまでもない。実際には、これをはるかに超えるものが見られたはずである。」
と記しています。因みに「正一位」を得るための費用もあげておきます。

吉田家許状等礼金 江戸時代後期以降
 一、神 階 凡金八十五両    勅許によるもの
    但別段額字礼物用意之事
 (中略)
 一、宗源宣旨 金四両壱分
 一、正一位稲荷大明神之号納 金弐歩以上
       (榎本直樹『正一位稲荷大明神』)

 稲荷神は「正一位稲荷大明神」の神階を得てはじめて力を十分に発揮できるものと考えていたようです。小石川伝通院内の沢蔵司稲荷についてこんな話があります。

伝通院住職の内に憲澄といひし僧ありけり、気性甚強し、依て時の人鬼憲澄と異名せり、此憲澄の住職の節、類火によりて本堂・僧房・庫裏ことごとく焼失す、爰に於て住持の憲澄怒て謂(イエ)らく、
狐は霊獣にして火防の神とす、沢蔵司わが境内にありながら、此度の火災を鎮めざるは流石畜生なれば日頃の恩をしらざるなるべし、しかる上は、境内をふさげ置て祭るに益なし、早々に小祠(ホコラ)を壊捨(コボチステ)、余処(ヨソ)へ追払ふべし、
と命ず、しかるに、その夜、沢蔵司枕元に来て申して曰、
方丈の御怒はなはだ道理にして、我さらにかえす言葉なし、われ年来境内に住て御扶助にあづかりぬれば、争(イカデ)か御高恩を忘却し此度の大変を余所見(ヨソミ)すべきや、いかにもして防ぎ鎮めんものと心を砕きしかど、無官の悲しさには眷属を遣ふ事叶はざれば、我只身ひとつを以て走り廻り防ぎけれども、魔風殊に裂しく四方一面火中となれば、こゝろを配り気を揉のみにて力なし、就中(なかんずく)今度の火災を鎮め焼ざるに於ては、年来の御恩も報ひ又我通力の功もあらんに、情なくも焼失せし段慚愧するに堪たり、是全く定れる時節、天災ぞと思召給ふべし、我中々防ざるにはあらず、此事を訴んが為に来れり、
と告ぬ、憲澄夢覚て、沢蔵司の心根を不便(フビン)に思ひ、西谷より東谷の今の高みに社を建て迁(遷)宮なさしめ、此時より正一位の官をあたえしとなん、今正一位沢蔵司稲荷大明神と崇る是なり、云々
  (十方庵敬順『遊歴雑記』初編之下 文化十一年1814)


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