落語の中の言葉280「稲荷(1)稲荷と狐」
稲荷については29「伊勢屋稲荷に犬の糞」で江戸の名物に数えられるほど多かったことをとりあげました。なぜ江戸には稲荷が特別多かったのか、そもそも稲荷とはどういう神か、狐との関係は、正一位稲荷大明神という幟は、など疑問が多くあります。いずれの疑問もまだ納得のいく答えは見つかっていません。或いは見つからないのかも知れません。そこで一先ずまとめてみました。
一、稲荷神とは
日本三大稲荷と呼ばれる稲荷があります。諸説ありまして伏見稲荷は共通であるものの、他の二者は様々です。日本三大稲荷を名乗る中から伏見稲荷、豊川稲荷、高松の最上稲荷、笠間の紋三郎稲荷を例に取ると、その主祭神は次の通りです。
伏見稲荷 宇迦之御魂大神
笠間稲荷 宇迦之御魂神
豊川稲荷 吒枳尼真天
最上稲荷 最上位経王大菩薩
伏見稲荷と笠間稲荷は非仏教系であり、豊川稲荷と最上稲荷は仏教系です。
それぞれの縁起を見ますと
○伏見稲荷
山城国風土記逸文には、伊侶巨(具)秦公が餅を的にして矢を射たところ、その餅が白鳥と化して山の峰に飛んでゆき、子を生んだ或いは稲が生じたので社と為した或いは社名としたとあります。
伏見稲荷の社記(十五箇條口授伝之和解)には「元明天皇の和銅4年(711)2月壬午の日に、深草の長者”伊侶具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た」と伝えています。(伏見稲荷大社のHP「ご祭神」中「御鎮座」)
この年にご鎮座になった由縁として、「この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させられたときに神のお教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた」(伏見稲荷大社のHP「伊奈利社ご鎮座説話」)
この「山城国風土記」逸文中の伊奈利社の項目は「常陸国風土記」や「出雲国風土記」など、官命により作成された公文書とは別のものらしいのですが、秦氏が祀ったことは確かで、「五穀の稔りの悪い年が続いたので」祀ったところ豊作になったというのですから農業神です。
ただ祀った神の名は出てきません。また「伊奈利」だったものが後には「稲荷」となっています。天長四年827正月の詔が最初といいます。「荷」には「リ」という読みはないにもかかわらず、なぜ「稲荷」という文字になったのでしょうか。
また「非仏教系」という言葉を使って、「日本の神」と云わなかったのは、これを祀ったのが渡来人の秦氏で、日本古来の神ではない可能性が高いからです。
○笠間稲荷
縁起不明。社伝では白雉二年651創建。伏見稲荷創建の60年前です。
○豊川稲荷
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師が文永四年1267二度目の入宋から帰る船中に、稲を荷い手に宝珠を持ち白狐に跨って真言「オンシラバッタニウリンソワカ」を唱えて霊神が現れ、「われはこれ吒枳尼真天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」と告げました。禅師は帰朝後霊神の形像を刻み、熊本に大慈寺を開創。六代目の法孫東海義易禅師が寒巌禅師伝来の千手観音を本尊とし嘉吉元年1441豊川に妙嚴寺を開創。その際に寒巌禅師が刻んだ吒枳尼真天も祀ったと云います。
○最上稲荷
天平勝宝四年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行いました。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け。無事天皇は快癒されたといいます。その後延暦四年(785)、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立されました。
以来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」のお像のみが八畳岩の下に移され難を免れました。このお像をもとに慶長六年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築きました。(最上稲荷HP「最上稲荷について」)
二、稲荷神と狐
豊川稲荷の吒枳尼真天(荼吉尼天)と最上稲荷の最上位経王大菩薩は白狐に乗り、稲束を荷っています。ところが稲荷の総本宮ともいわれる伏見稲荷の縁起には狐は出て来ません。ところが多くの庶民は狐を稲荷として祀っています。
狐付落ていなりが一社ふへ 誹風柳多留一一二篇
それで江戸時代、宇迦之御魂を祀る伏見稲荷と狐を祀る稲荷は、同じ稲荷という名で呼ばれていても別物であると考える人もいました。
そしてなぜ庶民は稲荷を狐と思うのか、その理由は御食津(ミケツ)神を「三狐(ミケツノ)神」と書いたのを誤った為であろうと考えています。
一方、狐を祀ったとする考えもあります。
五来重氏は『宗教歳時記』で、稲荷信仰はもともとあった狐神を祀る原始信仰に、神道や仏教の説が加わったものとしています。それを神道や仏教の説だけで説明しようとするから「不徹底で牽強付会におちいったといわれても仕方あるまい」と書かれています。
「たいそう惜しい」と云うのは、伴信友は稲荷信仰には真言の徒の作為が多いと非難しながらも稲荷の狐は密教の荼吉尼天としているからです。
ところで関西ではキツネをケツネと云っています。
ケツネということばについて五来重氏は次のように云います。
狐神を祀るといっても動物の狐を神として祀っているわけではありません。古代にはカミは目に見えない存在と考えられていました。そして特定の動物の姿で現れるとも思われていたようです。例えば
○足柄の坂本の坂の神は白鹿として、伊吹山の神は白猪の姿で、倭建命
(やまとたけるのみこと)の前に現れています(『古事記』)。
○神武天皇を案内した八咫烏は鴨建津之身命(かものたけつのみのみこと)の
化身と云われます(「姓氏録」 『日本書紀』の頭注)。
○ムカデに化身した赤城山の神と大蛇に化身した男体山の神とが戦った場
所なので戦場ヶ原と呼ばれています(栃木県HP)。
倭建命を案内した秩父三峰山の山犬(狼)や蜂子皇子を導いた出羽三山の烏は神の使いと説明されていますが、これらも神が化身したものと考えたいと思います。そして稲荷神は狐の姿で現れるのです。
伏見稲荷と狐については、餅が白鳥と化して舞い降りた山は蛇・龍神信仰のある所だった云います。
これは伏見稲荷の神符に顕れています。
伏見稲荷の神職には二系統があり、御師はおらず本願所である愛染寺が布教と勧進を担当していました。
そしてこの布教する修験者たちの拠点となっていたのが愛染寺で、寛永期の住持天阿は聖天(上ノ社)・荼吉尼天(下ノ社)・弁才天(中ノ社)の三天和合尊を中心とする稲荷信仰を民間に布教したと云われます。稲荷信仰の狐は密教の荼吉尼天の関係とするものが多いようです。
一方、伏見稲荷の狐は荼吉尼天ではないと考える人もあります。吉野裕子『狐』によると、
和銅二年、三年の天候不順による不作
和銅三年の干支「庚戌」 庚(金の兄) 戌(金・土)
金気の旺盛な年 金生水
和銅四年の干支「辛亥」 辛(金の弟) 亥(水気)
和銅三年以上に水気盛ん
和銅五年の干支「壬子」 壬(水の兄) 子(水気)
最も水気の旺盛な年
和銅四年五年に予想される水禍に備える呪術として、土剋水から土気を盛んにすることで水気を抑え込むことを考え、土気を象徴する農業神の狐を祀った。そして祀る日として最もふさわしいのは二月の戊午で、二月=卯。卯は木の旺気で農業神には最適である。戊午(つちのえうま)。戊(土の兄)は土の旺気であり、午は火の旺気である。火生土で火は土気を生み出し土気を強化する。ところが当時使われていた暦では二月に「戊午」の日がない。そこで秦氏に密着して用いられていた「四分暦」により二月十一日戊午を創祀の日とした。
「稲荷は土気を象徴する狐を祀っているがゆえに、土気を生み出し強化する火気を表す赤・朱と土気を表す黄色が使われる。稲荷社の鳥居は朱色であり、幟は赤である。供える物は赤飯と黄色の油揚げなのである。」というのです。
五来重氏が言うように庶民は稲荷=狐神と思っていて、全国の稲荷(狐神)は伏見稲荷が支配しているものと思われていたようです。
註:江戸では伏見稲荷を「藤の森」とも呼んでいます。
また、同書には「福を授る福を植るという事」という文があり、そこにも
とあります。
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一、稲荷神とは
日本三大稲荷と呼ばれる稲荷があります。諸説ありまして伏見稲荷は共通であるものの、他の二者は様々です。日本三大稲荷を名乗る中から伏見稲荷、豊川稲荷、高松の最上稲荷、笠間の紋三郎稲荷を例に取ると、その主祭神は次の通りです。
伏見稲荷 宇迦之御魂大神
笠間稲荷 宇迦之御魂神
豊川稲荷 吒枳尼真天
最上稲荷 最上位経王大菩薩
伏見稲荷と笠間稲荷は非仏教系であり、豊川稲荷と最上稲荷は仏教系です。
それぞれの縁起を見ますと
○伏見稲荷
山城国風土記逸文には、伊侶巨(具)秦公が餅を的にして矢を射たところ、その餅が白鳥と化して山の峰に飛んでゆき、子を生んだ或いは稲が生じたので社と為した或いは社名としたとあります。
伏見稲荷の社記(十五箇條口授伝之和解)には「元明天皇の和銅4年(711)2月壬午の日に、深草の長者”伊侶具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た」と伝えています。(伏見稲荷大社のHP「ご祭神」中「御鎮座」)
この年にご鎮座になった由縁として、「この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させられたときに神のお教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた」(伏見稲荷大社のHP「伊奈利社ご鎮座説話」)
この「山城国風土記」逸文中の伊奈利社の項目は「常陸国風土記」や「出雲国風土記」など、官命により作成された公文書とは別のものらしいのですが、秦氏が祀ったことは確かで、「五穀の稔りの悪い年が続いたので」祀ったところ豊作になったというのですから農業神です。
ただ祀った神の名は出てきません。また「伊奈利」だったものが後には「稲荷」となっています。天長四年827正月の詔が最初といいます。「荷」には「リ」という読みはないにもかかわらず、なぜ「稲荷」という文字になったのでしょうか。
また「非仏教系」という言葉を使って、「日本の神」と云わなかったのは、これを祀ったのが渡来人の秦氏で、日本古来の神ではない可能性が高いからです。
○笠間稲荷
縁起不明。社伝では白雉二年651創建。伏見稲荷創建の60年前です。
○豊川稲荷
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師が文永四年1267二度目の入宋から帰る船中に、稲を荷い手に宝珠を持ち白狐に跨って真言「オンシラバッタニウリンソワカ」を唱えて霊神が現れ、「われはこれ吒枳尼真天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」と告げました。禅師は帰朝後霊神の形像を刻み、熊本に大慈寺を開創。六代目の法孫東海義易禅師が寒巌禅師伝来の千手観音を本尊とし嘉吉元年1441豊川に妙嚴寺を開創。その際に寒巌禅師が刻んだ吒枳尼真天も祀ったと云います。
○最上稲荷
天平勝宝四年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行いました。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け。無事天皇は快癒されたといいます。その後延暦四年(785)、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立されました。
以来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」のお像のみが八畳岩の下に移され難を免れました。このお像をもとに慶長六年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築きました。(最上稲荷HP「最上稲荷について」)
二、稲荷神と狐
豊川稲荷の吒枳尼真天(荼吉尼天)と最上稲荷の最上位経王大菩薩は白狐に乗り、稲束を荷っています。ところが稲荷の総本宮ともいわれる伏見稲荷の縁起には狐は出て来ません。ところが多くの庶民は狐を稲荷として祀っています。
狐付落ていなりが一社ふへ 誹風柳多留一一二篇
それで江戸時代、宇迦之御魂を祀る伏見稲荷と狐を祀る稲荷は、同じ稲荷という名で呼ばれていても別物であると考える人もいました。
稲荷と称する神号は尊き事にて、往昔(ソノムカシ)宇賀能美多摩能命(ウガノミタマノミコト)は人王三十五代舒明天皇九月九日壬午の日美女に現じて、我は天照太神の別魂(ワケミタマ)なり、天にありては日の魂(ミタマ)、地にありては富貴財宝の魂、空にありては太元、天竺にありては白心(ビャクシン)王、大唐にありては女花王、浄土にありては花開敷仏(ケカイフブツ)、神代には地御食物の神といふなりとて、忽ちに又三人の美女と化し、一女は金色の袋をいたゞきて七宝を出し、又一女は黄色の箱をいたゞきて織物・衣服を出し、又一女は俵をいたゞきて五穀をふらし給ひて、貧なる衆生に福禄寿の三(ミツ)を授け、無病に守り給はんと宣(ノタマ)ひて、又一翁と化して稲を荷ひ、いなり山へ飛去給ふと云云、その後、弘法大師に逢給ひては、我は芝守長者なりとの給ひ、藤の森に鎮座ましましけるとなん、此神号を権輿として、今の世に野狐を祭りて稲荷明神と崇るは同名異躰と心得べし。(十方庵敬順『遊歴雑記初編之下』文化十一年1814)
そしてなぜ庶民は稲荷を狐と思うのか、その理由は御食津(ミケツ)神を「三狐(ミケツノ)神」と書いたのを誤った為であろうと考えています。
(天保十三年1842)二月二日、小普請方坂入太三郎より被急度申聞候は、小普請方定小屋湯小屋の人足江狐附口走候は、此人足は稲荷の掃除等いたし候処、等閑にて既に壁も落、其外社大破の処、其筋の役人江申立も不致候間、初午前至て見苦敷候間取附候由申罵狂ひ歩行候由、なるほど社大破にて右社は定小屋江罷出候諸職人の手間奇進にて出来候間、初午過為補理候由申聞候間承置候。一躰いなりは延喜式大殿祭祝詞に豊宇気姫命、〔割註〕是稲魂也。俗詞宇賀能美多麻云也。」是御食津(ミケツ)神が事にて、此神号、神名秘書皇字沙汰文〔割註〕二書伊勢神宮ノ書。」等に三狐(ミケツノ)神と仮名に記せし故、中古より稲荷は三狐神と心得候由、〔割註〕以上天保六未年寺社奉行間部下総守懸り陰陽師神戸伊津弥一件にて、吉田家々司鈴鹿豊後守江相尋候節の善書也。」右之趣による時は稲荷に狐の由来あるよしに俗の伝ふるは、右の神書をあやまりよみしより起るとみへたり。(川路聖謨『遊芸園随筆』)
一方、狐を祀ったとする考えもあります。
五来重氏は『宗教歳時記』で、稲荷信仰はもともとあった狐神を祀る原始信仰に、神道や仏教の説が加わったものとしています。それを神道や仏教の説だけで説明しようとするから「不徹底で牽強付会におちいったといわれても仕方あるまい」と書かれています。
もちろん常識的には狐は稲荷の「使わしめ」である。また初午も稲荷の御祭神、宇迦之魂神(倉稲魂神)が稲荷山三ヶ峰に天降った日が和銅年中(七〇八~一五)の二月の午の日だったからと説明されている。しかし神社が何と言おうと、学者が何書を引こうと、庶民はお稲荷さんはお狐さんと信じているし、神棚には白狐の焼物をおまつりして油揚げなどをあげている。だから油揚げ寿司は狐寿司であり、稲荷寿司である。よほどの根強い関係がなければ、いくら無智(むち)な庶民でも、こうまでしつこく狐をお稲荷さんと信ずるはずもない。(中略)
もっとも妥当性のある考察をしたのは伴信友翁(引用者註:江戸時代の国学者)の『験(しるし)の杉』である。(中略)
伴信友翁は重要な史料をあげた。それは鎌倉時代以前にできた神道五部書の『倭姫命世記』と『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(略称『御鎮座伝記』)で、前者に、
御倉神(みくらのかみ)。専女(たうめ)也。保食神(うけもちのかみ)是也。
とある専女は狐のことで、これが保食神、すなわち宇迦之魂神である稲荷神とおなじだという。また後者に、
御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神。
とある三狐神はミケツ神とよみ、「御饌津神」とおなじであろう。伴信友翁はここで割註をくわえて、
今山城葛野(かどの)郡松室の西の路傍に狐斎(ケツネサイ)といへる小社あり、狐字を書てケツネとよめり。山城わたりの里人の中、また京人にも、賤しきものゝ中には、狐をケツネともいへり。他国にても然呼ぶ処ありとぞ。
と重要な発言をしている。これで真言徒の密書や陀祇尼天を引かないでも、稲荷は狐神であるということはもう一歩で結論づけられたものをと、私はたいそう惜しいとおもう。
「たいそう惜しい」と云うのは、伴信友は稲荷信仰には真言の徒の作為が多いと非難しながらも稲荷の狐は密教の荼吉尼天としているからです。
ところで関西ではキツネをケツネと云っています。
きつね○関西にて昼はきつね 夜は○よるのとのと呼ぶ 西国にては○よるのひとといふ 又関西にてすべて○けつねとよぶ也 又歌には きつ とも詠し〔詩経〕には、くつね と訓たり 又東国にては昼はきつね夜は○とうかと呼、常陸の国にては白狐をとうかといふ 是は世俗きつねを稲荷の神使なりといふ故に稲荷の二字を音にとなへて稲荷(とうか)と称するなるべし、又昼夜とかはりて物の名をよびわくる事あり。予思ふに婦人児女のものにをそれ、又は物いまひする人かゝる迂遠の説を設たるなるべし、(以下略) (越谷吾山『物類称呼』安永四年1775自序)
ケツネということばについて五来重氏は次のように云います。
御饌津神と言うように、ケは食物や稲のことである。ケシネと言えば飯米や常食の雑穀を指す。発頭語のウをくわえてウケと言うのもおなじで、食物を保つ神が保食神であり、食物の霊を神格化してウケノミタマからウガノミタマとなる。これが稲荷神である。豊受大神は食物の美称であり、また食物を豊かにする神とされることはいうまでもない。ツは「の」という意味で、ネは根元、あるいは先祖ということだから、ケツネは「食物の根元」あるいは「食物をあたえる先祖」ということになる。ことばとしてのケツネは、すでに稲荷神の宇迦之魂神や保食神と同体なのである。(『宗教歳時記』)
狐神を祀るといっても動物の狐を神として祀っているわけではありません。古代にはカミは目に見えない存在と考えられていました。そして特定の動物の姿で現れるとも思われていたようです。例えば
○足柄の坂本の坂の神は白鹿として、伊吹山の神は白猪の姿で、倭建命
(やまとたけるのみこと)の前に現れています(『古事記』)。
○神武天皇を案内した八咫烏は鴨建津之身命(かものたけつのみのみこと)の
化身と云われます(「姓氏録」 『日本書紀』の頭注)。
○ムカデに化身した赤城山の神と大蛇に化身した男体山の神とが戦った場
所なので戦場ヶ原と呼ばれています(栃木県HP)。
倭建命を案内した秩父三峰山の山犬(狼)や蜂子皇子を導いた出羽三山の烏は神の使いと説明されていますが、これらも神が化身したものと考えたいと思います。そして稲荷神は狐の姿で現れるのです。
伏見稲荷と狐については、餅が白鳥と化して舞い降りた山は蛇・龍神信仰のある所だった云います。
伏見稲荷山はもともと蛇信仰(龍神信仰)の中心地であった。
古代から我が国には蛇信仰があったわけだが、伏見稲荷山地区に渡来系の秦氏が稲荷神を祀り始める前は、紀氏=三輪系、賀茂氏系の古代氏族の管轄地だったとされている。(中略)
そして賀茂氏は龍蛇神を祀っていたことが知られている。ということは、そもそも稲荷山は蛇神・龍神信仰の対象(神奈備)だったことを示している。
現に今でも稲荷山を「お山する」と、至るところに滝がある。これらは古代から山林修行者の行場になっていたし、現代でも龍神を祀っている。稲荷神は山の神であり、本来は龍蛇を眷族に従えていた。その後、平安時代には蛇信仰から狐信仰へと交代し、やがて荼吉尼天信仰に結びついていった。(中村雅彦「稲荷山をめぐる神仏イメージ」『稲荷大神』)
これは伏見稲荷の神符に顕れています。
伏見稲荷の神職には二系統があり、御師はおらず本願所である愛染寺が布教と勧進を担当していました。
伏見稲荷の神職には、先ほどもちょっとふれたように、秦氏と荷田氏の二つの系統がありました。秦氏は「餅と的」の神話に登場した氏族で、そのウジの名から渡来系氏族と考えられています。
もう一方の荷田氏は、稲荷神の鎮座以前から稲荷山に住んでいた、竜頭太という者の子孫とされています。竜頭太は竜の頭で顔から光を発するという異形の姿をもち、稲荷山の麓に庵を結んで昼は耕し夜は木樵りをしていたといいます。(中略)
歴史のはっきりする時代には、秦氏一門が上位の神主を務めるのに対し、荷田氏はその下で御殿預や目代という職にありましたが、両氏は何かにつけて対立を続けていました。荷田氏は近世には、在満(ありまろ)や春満(あずままろ)のような優れた古典学者を出しています。
稲荷信仰がほかの神社と大きく違っている点は、御師がいないことです。御師は伊勢神宮がとくに有名ですが、賀茂神社や北野天満宮、出雲大社でも、みな御師という下級の神職がお札を持って各地の檀那を巡回して布教に務めたものです。地域ごとの講中の結成や分社の勧請、本社への参拝にも必ず御師の仲介があったものです。ところが、伏見稲荷大社には御師が存在した痕跡は見られないのです。
中世には真言宗系の修験者たちが、稲荷信仰を伝搬したともいわれています。また、大社の北側にあった本願所の愛染寺の僧が、中世末期から社殿の改築・修理の費用の勧進に当たるようになったので、勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与していたようです。稲荷勧請といって、本社から分霊を受けて各地に分社を立てることも盛んに行われました。(岡田精司『京の社』)
本願所における稲荷勧進僧や稲荷行者によって広められた稲荷信仰は、中世で展開した稲荷神の密教的尊格を受け継いだもので、現世後生の得益・福徳・敬愛・富貴を念じながら願望の成就を願うものであった。
その後、江戸時代に入り、稲荷本願所は、三代目を受け継いだ天阿という僧によって愛染寺と称するようになった。この天阿以降、愛染寺における稲荷信仰は、稲荷の神使であるキツネ信仰と結びつき、愛染寺の秘法とされたキツネ憑きを落とすための加持や、魔障を退散する祈禱などが行者によって行われたのである。(松本郁代「稲荷神と如意宝珠」『稲荷大神』)
そしてこの布教する修験者たちの拠点となっていたのが愛染寺で、寛永期の住持天阿は聖天(上ノ社)・荼吉尼天(下ノ社)・弁才天(中ノ社)の三天和合尊を中心とする稲荷信仰を民間に布教したと云われます。稲荷信仰の狐は密教の荼吉尼天の関係とするものが多いようです。
一方、伏見稲荷の狐は荼吉尼天ではないと考える人もあります。吉野裕子『狐』によると、
和銅二年、三年の天候不順による不作
和銅三年の干支「庚戌」 庚(金の兄) 戌(金・土)
金気の旺盛な年 金生水
和銅四年の干支「辛亥」 辛(金の弟) 亥(水気)
和銅三年以上に水気盛ん
和銅五年の干支「壬子」 壬(水の兄) 子(水気)
最も水気の旺盛な年
和銅四年五年に予想される水禍に備える呪術として、土剋水から土気を盛んにすることで水気を抑え込むことを考え、土気を象徴する農業神の狐を祀った。そして祀る日として最もふさわしいのは二月の戊午で、二月=卯。卯は木の旺気で農業神には最適である。戊午(つちのえうま)。戊(土の兄)は土の旺気であり、午は火の旺気である。火生土で火は土気を生み出し土気を強化する。ところが当時使われていた暦では二月に「戊午」の日がない。そこで秦氏に密着して用いられていた「四分暦」により二月十一日戊午を創祀の日とした。
「稲荷は土気を象徴する狐を祀っているがゆえに、土気を生み出し強化する火気を表す赤・朱と土気を表す黄色が使われる。稲荷社の鳥居は朱色であり、幟は赤である。供える物は赤飯と黄色の油揚げなのである。」というのです。
五来重氏が言うように庶民は稲荷=狐神と思っていて、全国の稲荷(狐神)は伏見稲荷が支配しているものと思われていたようです。
小堀家稲荷之事
京都に住宅せる上方御郡代小堀数馬祖父の時とかや。或日玄関へ三千石已上(いじよう)共いふべき供廻りにて来る者あり。取次敷台へ下りければ、「久々御世話に罷成数年之懇意厚情に預り候処、此度結構に出世して他国へ罷越候。依之御暇乞に参りたり」迚(とて)申置帰りぬ。取次の者も不思義に思ひけるは、「洛中は勿論兼て数馬方へ立入人にかゝる人不覚、怪しき」とおもひながら、其訳を数馬へ申聞ければ、数馬も色々考けれど、「公家・武家其外家司・宮仕(みやづかえ)の者にもかゝる名前の者承り及ばず」と、不審して打過けるが。或夜の夢に、「屋舗の鎮守の白狐也。年久しく屋敷内に居たりしが、此度藤の森の指図にて他国へ昇進せし故、疑はしくも思はんが此程暇乞に来たれり。猶疑敷(うたがわしく)おもはゞ明朝坐敷の椽(えん)を清め置べし。来りまみへん」と也。余りの事の不思義なれば、翌朝坐舗の椽を塩水など打て清め、数馬も右座舗に居たりければ、一つの白狐来りて椽の上に暫くうづくまり居しが、無程(ほどなく)立去けるにぞ、「さらば稲荷に住つる白狐の立身しけるよ」とて、神酒・赤飯などして祝しけるとや。(根岸鎮衛『耳囊』巻之二 根岸鎮衛は文化十二年1815歿)
註:江戸では伏見稲荷を「藤の森」とも呼んでいます。
また、同書には「福を授る福を植るという事」という文があり、そこにも
勢州高田門跡の狐、京都藤森(ふじのもり)へ官に登るとて、或村の者に取付て、口走りて一宿を乞ける故、「安き事也」とて、赤の飯・油揚やうの物馳走して、「さて狐は稲荷のつかはしめ、福を祈れば福を与へると聞及びし故、何卒福を与へ給へ」と願ひければ、(以下略)
とあります。
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