落語の中の言葉279「百姓」
三代目三遊亭金馬「三人旅」より
咄のなかに案山子に向って「お百姓」と呼びかけるところがあります。江戸時代には人口の八割ほどが百姓だったと云われます。
網野善彦氏は『日本の歴史をよみなおす』に関山直太郎『近世日本の人口構造』にある表として次のものをあげています。
因みに久保田藩とは佐竹家です。久保田に居城があるので久保田藩と呼びます。明治なって秋田藩と改称しました。藩の呼称について山本博文氏は『江戸を読む技法』に「専門家の間での藩の名前の呼び方を説明すると、長州藩は、長門国に居城萩城があるから、長州藩と呼ぶ。毛利家は周防と長門の両国を領している。長州藩といって、周防藩とはいわない理由は、お城がある場所で代表させるからである。」と書かれています。萩藩とも呼んでいます。
私は江戸時代の百姓は農民のことだと思っていました。しかしそれは誤りでした。そもそも「百姓」という言葉に農民の意味ないようです。
古ニ云百姓は百官ノ義
書経の尭の徳をあぐるに、平章百姓(ハクセイヲヘイシヤウニス)とありて。註に百姓百官と。百官の人に、種々の姓氏あるが故なり。古の百姓は土民の称にあらず、土民は黎民庶人の号あり。すべて古の称する所と今日によぶ所と、殊なる事多し。今を以古を説(とき)、古を以今を釈する類の、事理を誤る事少からず。たゞ古今人情のかはらざるものは、利と色に在(ある)のみ。 (多田義俊『南嶺子』寛延二年1745序)
百姓 下学集巻之下、日本之四姓分為百姓。其内二十氏公家也、八十氏武家也、所謂物武(ものゝふ)八十氏者是也。 (尾崎雅嘉『蘿月庵国書漫抄』文政十年1827歿、享年七十三)
いにしへ百姓といひしハ大宮つかへせざる人をすべていふことゝしられたり、日本書紀持統天皇の巻に詔令天下百姓服黄色衣とあるを見るべし、大御宮つかへする人ハつかさ位のしなによりて衣の色もことなれバさらぬなべての人をいへるよしなり、又職員令の左京職のところに大夫一人掌下左京ノ戸口名籍字二養百姓一云云事上 と見えたるハ、京のまちにすむ人をいへり、かゝれバものつくる民にかぎりていふ今の世のならひハかたよれり (藤井高尚『松の落葉』巻之三 文政十二年1829序)
百姓とは、古代以来もろもろの姓をもつ民、一般民衆という意味でもちいられてきた。もともと古代中国に起源のある言葉で、東アジア世界の漢字文化圏でひろく使用されている。それが日本では、しだいに農民のことを称するようになり、近世では農耕民を中核とする身分呼称として固定した。 (白川部達夫『近世の百姓世界』1999年)
久保田藩の身分別構成表に「百姓」とあるのは職業による分類ではなく身分による分類です。百姓仕事や一手百姓のように百姓を農業・農民の意味で使うこともありますが、身分としての百姓は農民とイコールではありません。
江戸時代は武士や僧侶神職等の宗教者などの特別な身分に属さない普通の人の場合、村に住んでいる者を「百姓」、町に住んでいる者を「町人」と呼んでいます。「町人」には職人も商人もその他の職業の者もあります。同様に、村に居る者も農民に限りません。大工も鍛冶屋も造り酒屋もいます。
木村礎氏は『近世の村』に、村の職人・商人について次のように書かれています。
百姓と農民を図にすれば次のようになります。
農業のみを行う者、農業以外の業のみを行う者、両方を行う者、全てが「百姓」です。場所により商品経済の浸透度が異なり、二つの円のそれぞれの大きさも重なり具合は違います。同じ場所でも時代によって変化します。
百姓には魚等をとることを生業とする人も山仕事で暮らす人も職人も商人もいます。久保田藩の身分別構成表の「百姓」を「農民」に替えて「農民」が76.4%とするとこれらの人々が存在しないことになってしまいます。
幕府や大名などの為政者は米を基礎としていますから、農業以外の仕事は農間渡世・農間稼ぎ等と呼んでいます。農業以外の仕事が大半を占める場合においてもです。
中津川と神崎川に挟まれ、早くから商品貨幣経済に適応した摂津国西成郡薭島村の職業別構成は次の通りです。(三浦忍『近世都市近郊農村の研究』2004より)
農業だけを行う「一手百姓」は669戸のうち130戸だけで20%未満です。農業以外だけと兼業の比率はわかりません。そして無高の百姓が669戸中491戸で70%を超えています。
高持・無高とある石高とは次のように云われます。
ただし別の考え方もあります。
周知のように石高は、田ばかりではなく畑や塩田、さらに屋敷地にも盛られる、年貢賦課のための米で測った土地の法定評価額であった。また武士の家格を示す基準ともなっていたから、実際の米収を直接反映するものではないのである。(鬼頭 宏『人口から読む日本の歴史』2000)
石高は米の収穫量を示した生産高なのか、それとも領主が課す年貢高なのかについては、いまだに学説がわかれている。(武井弘一『江戸日本の転換点』2015)
いずれにしても、無高の百姓というのは田畑も屋敷も所有していないということです。その無高の百姓について田中圭一氏は『百姓の江戸時代』2000年 で次のように云われます。
田中圭一氏は塩沢村の無高の百姓は「最初から農業以外の仕事に従事するために分家した」と書かれていますが、これは塩沢村へ移住してきた人達のことで、他の地域を含めた場合、無高の百姓のすべてがそうだったわけではないでしょう。小作も多かったはずです。しかし無高の百姓がすべて小作だったわけでもありません。
『近世都市近郊農村の研究』には階層別家族員数別戸数として次の表が載っています。
村方の人別帳には世帯主とその家族・奉公人が記載されており、世帯主の高も書かれています。これを高別・家族員数(奉公人を含む)別に戸数を集計したものです。江戸の町方には町並地や寺社領を除いて年貢がありませんから、世帯主に高の表記はなく職業が書かれています。サンプルとして越後西山新村と江戸の四谷塩町一丁目の人別帳をあげます。
薭島村の天保十五年の人別帳では無高の百姓が684戸中536戸です。家族員数を見ますと最も多いのが4人、次いで3人、5人ですから天保期には現在同様、核家族+世帯主の親が中心だったと思われます。「家族員数」は家族のほか奉公人も含まれていますが、9人以上は高10石以上にはなく、5石以上10石未満が2戸、高5石未満が7戸、無高が17戸もあります。高5石未満や無高層で家族員数が多い家は、奉公人を何人も使って農業以外の事業を行っているものと思われます。
無高の百姓は場所により「水呑百姓」などと呼ばれますが、無高百姓=水呑百姓=貧農と思うのは、百姓=農民という誤った考えからくるもので、無高百姓=貧農ではありません。
百姓=農民という固定観念はかなり強固で歴史学者でもそう思っていたようです。
最後に網野善彦氏の『日本の歴史をよみなおす(全)』2005年 から紹介します。
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咄のなかに案山子に向って「お百姓」と呼びかけるところがあります。江戸時代には人口の八割ほどが百姓だったと云われます。
網野善彦氏は『日本の歴史をよみなおす』に関山直太郎『近世日本の人口構造』にある表として次のものをあげています。
因みに久保田藩とは佐竹家です。久保田に居城があるので久保田藩と呼びます。明治なって秋田藩と改称しました。藩の呼称について山本博文氏は『江戸を読む技法』に「専門家の間での藩の名前の呼び方を説明すると、長州藩は、長門国に居城萩城があるから、長州藩と呼ぶ。毛利家は周防と長門の両国を領している。長州藩といって、周防藩とはいわない理由は、お城がある場所で代表させるからである。」と書かれています。萩藩とも呼んでいます。
私は江戸時代の百姓は農民のことだと思っていました。しかしそれは誤りでした。そもそも「百姓」という言葉に農民の意味ないようです。
古ニ云百姓は百官ノ義
書経の尭の徳をあぐるに、平章百姓(ハクセイヲヘイシヤウニス)とありて。註に百姓百官と。百官の人に、種々の姓氏あるが故なり。古の百姓は土民の称にあらず、土民は黎民庶人の号あり。すべて古の称する所と今日によぶ所と、殊なる事多し。今を以古を説(とき)、古を以今を釈する類の、事理を誤る事少からず。たゞ古今人情のかはらざるものは、利と色に在(ある)のみ。 (多田義俊『南嶺子』寛延二年1745序)
百姓 下学集巻之下、日本之四姓分為百姓。其内二十氏公家也、八十氏武家也、所謂物武(ものゝふ)八十氏者是也。 (尾崎雅嘉『蘿月庵国書漫抄』文政十年1827歿、享年七十三)
いにしへ百姓といひしハ大宮つかへせざる人をすべていふことゝしられたり、日本書紀持統天皇の巻に詔令天下百姓服黄色衣とあるを見るべし、大御宮つかへする人ハつかさ位のしなによりて衣の色もことなれバさらぬなべての人をいへるよしなり、又職員令の左京職のところに大夫一人掌下左京ノ戸口名籍字二養百姓一云云事上 と見えたるハ、京のまちにすむ人をいへり、かゝれバものつくる民にかぎりていふ今の世のならひハかたよれり (藤井高尚『松の落葉』巻之三 文政十二年1829序)
百姓とは、古代以来もろもろの姓をもつ民、一般民衆という意味でもちいられてきた。もともと古代中国に起源のある言葉で、東アジア世界の漢字文化圏でひろく使用されている。それが日本では、しだいに農民のことを称するようになり、近世では農耕民を中核とする身分呼称として固定した。 (白川部達夫『近世の百姓世界』1999年)
久保田藩の身分別構成表に「百姓」とあるのは職業による分類ではなく身分による分類です。百姓仕事や一手百姓のように百姓を農業・農民の意味で使うこともありますが、身分としての百姓は農民とイコールではありません。
江戸時代は武士や僧侶神職等の宗教者などの特別な身分に属さない普通の人の場合、村に住んでいる者を「百姓」、町に住んでいる者を「町人」と呼んでいます。「町人」には職人も商人もその他の職業の者もあります。同様に、村に居る者も農民に限りません。大工も鍛冶屋も造り酒屋もいます。
木村礎氏は『近世の村』に、村の職人・商人について次のように書かれています。
職 人 村の中の生産者としては農民の他に職人がいた。千葉県市川市域(下総国葛飾郡)の村々における、近世後期の職人の種類は、桶屋・大工・鍛冶屋・木挽・屋根屋・綿打ちである。木挽は多く鍛冶屋は少ない。
村の商人 幕府が、農間渡世の調査を開始したのは文政十年(一八二七)の関東取締改革以後のことである。(中略)
天保九年(一八三八)当時、下総国葛飾郡稲荷木村には借地水呑をも含めて四二戸あったが、このうち二二戸は農間渡世者だった。二二戸のうち一一戸は「船商売」である。この村は江戸川のほとりにあり、船商売とは、江戸から武家屋敷の下肥・厩肥を運び、地元からは江戸へ薪炭を売る商売をいう。これに従事する者は少数の例外はあるが、大体は一〇石以上の高持百姓だった。他は飴菓子水菓子小売、酒かつぎ売、綿打、髪結、荒物渡世といったもので、彼らは少数の例外はあるが、大体は小高で、一石未満や借地水呑も少なくない。農間渡世には、階層性が強い。
百姓と農民を図にすれば次のようになります。
農業のみを行う者、農業以外の業のみを行う者、両方を行う者、全てが「百姓」です。場所により商品経済の浸透度が異なり、二つの円のそれぞれの大きさも重なり具合は違います。同じ場所でも時代によって変化します。
百姓には魚等をとることを生業とする人も山仕事で暮らす人も職人も商人もいます。久保田藩の身分別構成表の「百姓」を「農民」に替えて「農民」が76.4%とするとこれらの人々が存在しないことになってしまいます。
幕府や大名などの為政者は米を基礎としていますから、農業以外の仕事は農間渡世・農間稼ぎ等と呼んでいます。農業以外の仕事が大半を占める場合においてもです。
中津川と神崎川に挟まれ、早くから商品貨幣経済に適応した摂津国西成郡薭島村の職業別構成は次の通りです。(三浦忍『近世都市近郊農村の研究』2004より)
農業だけを行う「一手百姓」は669戸のうち130戸だけで20%未満です。農業以外だけと兼業の比率はわかりません。そして無高の百姓が669戸中491戸で70%を超えています。
高持・無高とある石高とは次のように云われます。
石高の基礎は、田・畑・屋敷一筆ごとに、そこで生産される米の高を表示することにある。この場合の米とは、現在のような精白米ではなく、もちろん籾でもない。籾を半分程度についた(五合摺)玄米である。この石高が田に附せられるのは当然だが、大きな特徴は、それが畑にも屋敷地にも附せられたことである。この場合は、その生産高が米に換算されることになる。田・畑一筆ごとに上・中・下・下々等の品等表示が採用された。石盛が最も多いのが上田である。
石盛とは一反当たりの米の生産高で、反当たり一石の場合は、石盛一〇と表現された。八斗ならば石盛八となる。石盛は村により異なるが、一般には、上田=一五、中田=一三、下田=一一、下々田=九程度とされている。こういう下り方を二つ下りというが、実際には不均等に下る場合が多い。畑は田より石盛が低い。上畑で下田~中田前後に位置づけられた。下々畑の下に切畑がある場合も少なくないが、これは切替畑つまり焼畑である。
反別に石盛を掛け合わせたものを分(ぶん)米という。例えば村に上田が三町一反五畝歩あり、上田石盛が一五の場合、その分米は四七石二斗五升となる。各品等ごとに石盛を掛け合わせれば、それごとの分米が出る。そして、各品等ごとの分米をすべて合計したものが「村高」となり、これが、村の年貢や役の基準になる。全国総石高約三〇〇〇万石という場合、その基礎には村の一筆ごとの耕地石高が存在していたのである。(木村 礎『近世の村』1980)
ただし別の考え方もあります。
周知のように石高は、田ばかりではなく畑や塩田、さらに屋敷地にも盛られる、年貢賦課のための米で測った土地の法定評価額であった。また武士の家格を示す基準ともなっていたから、実際の米収を直接反映するものではないのである。(鬼頭 宏『人口から読む日本の歴史』2000)
石高は米の収穫量を示した生産高なのか、それとも領主が課す年貢高なのかについては、いまだに学説がわかれている。(武井弘一『江戸日本の転換点』2015)
いずれにしても、無高の百姓というのは田畑も屋敷も所有していないということです。その無高の百姓について田中圭一氏は『百姓の江戸時代』2000年 で次のように云われます。
塩沢村は、越後に広く分布する在郷町の一つであるが、この村の十七世紀中の家数の増加は他地域から家族を伴って移住した者が多いことによる。そのほとんどは最初から田畑をもたず、百姓とは言われながら、最初から農業以外の仕事に従事する者が多い。
元禄二年(一六八九)、代官所は、村内で農業以外の職業に従事する者が多く、しかも他国に出る者が多いとして、村役人にその実態の調査を命じた。その結果つくられた資料によって、どのような人たちがどのような職業に従事しているかを抜粋してみる(表6参照)(引用者註:表は省略します)。
これをみると、四十人もの男たちが組内五十八か村三千軒の家に、塩や茶や紙、塩鯖、塩鰯、たばこ、飴などを商い、あるいは江戸や上州・信州へ商品をもってでかけていることがわかる。
これまでわたしたちは、このような無高百姓の出現を、村の分解として位置付けてきた。つまり、「田地をもっていた村の百姓が、商品貨幣経済が浸透し、土地を多くもつ者がしだいに土地を少ししかもたない貧しい百姓の土地を集めたため、その結果として心ならずも土地を失なって無高の百姓ができ、村は両極分解した」というふうに考えてきたし、そう述べられてきた。
しかし、事実はそうではない。無高の百姓は、土地を売って無高になったのではなくて、最初から農業以外の仕事に従事するために分家したのである。
もちろん多少の田畑をもらって分家し、独立した者もいる。しかし大部分の百姓は町うちでの店商い、村内での商い、組内五十八か村を回っての振り売り、さらに江戸・新潟・関東・信州への商業活動に従事することを目ざして分家したのである。
これが無高の百姓である。こうした人々はすべて百姓としてとらえられているが、厳密にいえば、彼らはもはや「農民」とよばれるべきものではない。商業や流通、交通の発展がそれぞれの村に農業以外の収入の道を与えたのである。
十七世紀末の村は農業に従事する者だけの村ではなく、百姓の村になっているのである。無高の百姓を没落農民としてみることはあやまっている。彼らは新しい時代の先頭に立った百姓なのである。
田中圭一氏は塩沢村の無高の百姓は「最初から農業以外の仕事に従事するために分家した」と書かれていますが、これは塩沢村へ移住してきた人達のことで、他の地域を含めた場合、無高の百姓のすべてがそうだったわけではないでしょう。小作も多かったはずです。しかし無高の百姓がすべて小作だったわけでもありません。
『近世都市近郊農村の研究』には階層別家族員数別戸数として次の表が載っています。
村方の人別帳には世帯主とその家族・奉公人が記載されており、世帯主の高も書かれています。これを高別・家族員数(奉公人を含む)別に戸数を集計したものです。江戸の町方には町並地や寺社領を除いて年貢がありませんから、世帯主に高の表記はなく職業が書かれています。サンプルとして越後西山新村と江戸の四谷塩町一丁目の人別帳をあげます。
薭島村の天保十五年の人別帳では無高の百姓が684戸中536戸です。家族員数を見ますと最も多いのが4人、次いで3人、5人ですから天保期には現在同様、核家族+世帯主の親が中心だったと思われます。「家族員数」は家族のほか奉公人も含まれていますが、9人以上は高10石以上にはなく、5石以上10石未満が2戸、高5石未満が7戸、無高が17戸もあります。高5石未満や無高層で家族員数が多い家は、奉公人を何人も使って農業以外の事業を行っているものと思われます。
無高の百姓は場所により「水呑百姓」などと呼ばれますが、無高百姓=水呑百姓=貧農と思うのは、百姓=農民という誤った考えからくるもので、無高百姓=貧農ではありません。
百姓=農民という固定観念はかなり強固で歴史学者でもそう思っていたようです。
最後に網野善彦氏の『日本の歴史をよみなおす(全)』2005年 から紹介します。
江戸初期、時国家と姻戚の関係にあり、深い因縁をもっている柴草屋という廻船商人が、町野川の河口の港で活動しています。戦国末期のころ、内浦の庵にも柴草屋がいたことがわかっていますので、おそらくその名跡を継いだ廻船商人で、大船を二、三艘持ち、日本海の廻船交易にたずさわっていたのだと思われます。この家から時国家が、江戸初期に百両の金を借用していますから、柴草屋はそれだけの金を融通できる財力を持つ、富裕な廻船商人であったことは間違いなく、宮本常一さんもこの家に注目しています。
ところが、文書を江戸時代前期まで読み進めていったところ、われわれは、この柴草屋が頭振(あたまふり)に位置づけられていることに気がついたのです。加賀・能登・越中の前田家領内では、石高を持たない無高の百姓を「頭振」とよんでいます。しかし、能登でも天領では頭振を水呑といいかえていますから、頭振は水呑のことで、柴草屋は水呑だったことになります。
このように、水呑は地域によって名称がさまざまで、門男(もうと)、あるいは間脇(まわき)、無縁、雑家などといっているケースもあります。江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていない、つまり年貢の賦課される田畑を持っていない人のことを水呑といっており、教科書では、これを貧しい農民、小作人と説明するのがふつうです。私自身もそれまで水呑については、そのレベルの常識しか持っていませんでした。
ところが、柴草屋のような廻船商人で、巨額な金を時国家に貸し付けるだけの資力を持っている人が、身分的に頭振、水呑に位置づけられているということを確認した時、研究会に参加していた七、八人のメンバーは、最初は目を疑ったのですが、同時にまた、ああ、そうなのかと初めて気がついたのです。たしかに柴草屋は土地を持っていない。だから水呑になっているのですが、しかし柴草屋は土地を持てないような貧しい農民なのではなくて、むしろ土地を持つ必要のまったくない人だったのです。
柴草屋は廻船と商業を専業に営んでいる非常に豊かな人ですから、土地など持つ必要は毛頭ないわけです。ところが、江戸時代の制度ではこうした人もふくめて、石高を持っていない人びとが、水呑、あるいは頭振に位置づけられていたことが、これで非常にはっきりわかりました。
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