落語の中の言葉278「爪印」
古今亭志ん生「火焔太鼓」より
すこしポーッとした道具屋の親仁、古い汚い太鼓が三百両に売れて受取を書く。
侍「判を押せ」 道具屋「判ないんです、判がね、だから、あなたの判をおしといてください」 侍「爪印でよろしいぞ」
爪印とは『広辞苑』には「爪先に墨・印肉をつけ、印鑑の代りに押して証とするもの。紙面に爪痕だけを付ける場合もある。奈良時代に中国から伝わり江戸時代に盛行。爪判(そうはん)。つめばん。」とあります。
石井良助氏は『第一江戸時代漫筆』の「吟味筋のこと」の中に
加害者が逮捕されれば、手鎖を加えられ、もし重罪ならば入牢させます。吟味の上奉行所で口書が作られ、本人が自白すれば、吟味が終了して、「吟味詰りの口書」すなわち、吟味の調書が作られ、被疑者に爪印させます。入牢者は印は持っていませんから、爪印させますが、女は右、男は左の指を使う例でした。(以下略)
と書いておられます。
小平市立図書館こだいらデジタルアーカイブには爪印の実例が載っています。
明和六年四月源兵衛忰源之丞事仙之助の「差出申一札之事」(名主宛詫状)と宝暦十四年三月傳右衛門母しゅん「口書之事」の署名と爪印です。仙之助には「左り大指」、しゅんには「右大指」と書かれています。
また埼玉県立文書館は文化元年赤尾村の「賭之勝負事御禁制ニ付村中連判帳」を公開しており、それには世帯主は印鑑、忰は爪印を押しています。その爪印にも「左大指爪印」と書かれています。
江戸時代の爪印には男は左手親指、女は右手親指を使う慣習だったようです。
爪印はひろく使われていたようで、離縁状にも爪印のものがあります。
吉田豊『古文書手習い』より
政之助の下にある「ー 」に見えるものが爪印です。因みに「正文」は「政」と同一です。江戸時代には漢字の偏と旁を上下に書いて一字にすることがあります。松は枩、峨は峩、略は畧のようにです。ただ、政を「正文」と書いたものは初めて見ました。
離縁状に爪印を押すことは普通だったようです。収集した900通の離縁状を分析してその離縁状の形態・機能、庶民離婚の実態などを明らかにされた高木侃氏は『増補 三くだり半』1999.7に
離縁状の印章
江戸時代の用文章では、差出人の印章について、これを要するとしたものは二例しかない。(引用者註:用文章の総数は26)しかも『増補 手紙早便利大全』では、差出人の下に「判は押ざるなり」と注記している。しかし、(中略)印章もしくは爪印を押すのが通例であった。もっとも押捺には、朱肉は使用できなかったので、墨を用い、これを墨印もしくは黒印と称した。
実例をみれば、印章を押捺したものが最も多くて四〇パーセントを超え、ついで爪印が約三三・八パーセント、捺印なしがちょうど二〇パーセント、以下花押三・七パーセント、拇印二パーセントの順である。用文章ではほとんど捺印を不要としているが、実例の多くは印章もしくは爪印が押されている。もっとも捺印がなくとも本物の離縁状であることに相違ない。(以下略)
同氏は爪印についても次のように書かれています。
爪印のこと
離縁状の捺印には、印章についで爪印が多い。爪印は、爪判ともいい、爪に墨を付けて「( 」のように爪の形を押したものである。男は左の親指、女は右の親指を用いるのが常であった。実際の爪印では、爪に墨を付けるときに親指の腹にも墨が付き、これが一緒に押されて、爪拇印のようになることもあった。しかし、離縁状の実物をみると、本当に爪に墨を付けて押したものは稀であって、筆で爪を押したと同様に書いた、いわゆる「書き爪印」が多い。この「書き爪印」には、署名の下に三日月のようにたんに筆で書く場合と、署名の下に親指を置き、それにそって筆をなぞって書く場合とがあったようである。
奉公人請状にも爪印を押したものがあります。
埼玉県立文書館より
ところで「賭之勝負事御禁制ニ付村中連判帳」では世帯主は印鑑、忰は爪印になっていますが、忰は印鑑を持っていないので爪印なのか、持っていても爪印を押させたのかは判りません。
天保十三年の越後国蒲原郡西山新村の人別帳では世帯主だけが印を押しています。
新潟県立文書館
こだいらアーカイブ「村の文書と印」には
百姓が使用した印は、各家である程度、相続されることが多かったようである。とくに当主が交替した直後は、前の当主が使用した印を引き続き使用していることが多い。大沼田新田の四五軒のうちでは、相続によって改印した事例の方が少なく、また一〇〇年近く同じ印を使用し続けていた家が五軒存在していた。
また当主の妻や後家は印を使用せず、爪印(つめいん)を据えることもあるが、後家の場合は当主と同様に印を使用することもあった。女性が当主になった直後は前の当主である夫や父親の印と同じ印を使用し、その後、印を替えた事例もみられる。これは印を使用するのが、家の「当主」であることに大きくかかわっていることを示している。(中略)
印を所持して文書に捺印するのは、家を代表する当主であることが原則とすれば、当主以外の人びとが意思を示す場合はどうだったのだろうか。
明和六年(一七六九)四月、小川村の源兵衛の忰仙之助は、たび重なる不行跡のため、名主弥次郎に対して詫状を提出した。仙之助は印を所持していないため、署名の下には爪印を据え、さらにその下には「左り大指」と書かれている。
とあります。
村方はそうだったようですが、幕末の江戸の町では成人男子は皆印鑑を持っていたようです。四谷塩町一丁目の「人別書上」を翻字したものが江戸東京博物館から刊行されています。この翻刻では印形を〇印、□印、爪印に区別しているので爪印の判別が可能です。その元治二年1865の「人別書上」を見ますと、
①十五歳以上の男性は、商売・身分(親・息子・奉公人等)に関わらず皆印鑑を押しています。ただし例外が二人。
②男性でも十四歳以下はすべて印なし。
③女性は年齢等に関わらず無印。但し後家の世帯では亡夫の印鑑を「誰々後家」の所に押して、後家の名前の下には押さず。
④爪印はなし。
です。
因みに元治二年1865の四谷塩町一丁目の「人別書上」は
惣人数 五百八拾人 当四月書上と見合五人相減申候
(男脱カ)弐百九拾六人 同断見合候得者増減無御座候
(女脱カ)弐百八拾四人 同断見合候得者五人相減申候
とあって、幕末には男女の数がほぼ同じになっています。
江戸の町では人別書上は年二回提出しています。四月と九月です。九月は四月に提出したものを下げ渡され、それに増減を加えたものを新たに作成して提出しています。それで「当四月書上と見合何人増減」と書いているのです。
安政五年1858二月
今般人別之義被仰渡候ニ付、左之通奉伺候
一是迄書上候人別取調方、毎年三月十五日限り出入を〆切、四月廿日組々人別掛名主共取集メ相納候義、小口人別掛名主共ゟ、年々両御番所江伺之上惣達仕、尚九月増減取調書上之義は、四月書上候人別帳八月十九日廿日廿一日、此三日之内御下ケ相願、八月十五日限り出入を〆切、増減加除仕、九月廿日人別掛名主共ゟ相納候義、是又前同様伺之上取計来候処、今般被仰渡有之候而も是迄之通仕、以来年番名主共ゟ伺之上取計可申哉、此段奉伺候、已上
午二月廿三日 南北小口年番名主共
右之通奉伺候処、伺之通可相心得旨被仰渡候間、都而是迄之通各様ニ而御取計可被成候、此段御達申候、已上
二月廿八日 小口年番
(『江戸町触集成』第十七巻)
猶、江戸時代は十五歳で元服(成人)でした。元服男性で無印の二人、十五歳の有印者と十四歳の無印者を含むものを下にあげます。
女性が世帯主の場合は後見人が付くのが普通だったようです。その場合は後見人が印をおし、世帯主の女性は印をおしません。
元治二年の人別書上にはありませんが、父親が亡くなって娘が世帯主になった場合にも後家同様の扱いになっています(同町慶応三年の書上)。
但し、これは天保の改革以降のことかも知れません。天保の改革時に村方からの江戸流入を制限するために人別書上の仕法が変更されたらしく多項目にわたる伺いが出されています。その中に次のものがあります。
天保十四卯年1843
市中人別書上取計方之儀、先達伺相済候廉々之内、猶又左之通取計方奉伺候
(前略)
一店借小前之内、後家ニ相成後見等ニ可相成者無之分ハ、店主女名前ニ而誰後家と相認差出申度、女名前ニ而店主不相成儀ニ御座候而ハ差支、事実之書上方ニ難相成候間、御聞済奉願上候
下ヶ札
「本文後家店主之分は爪印仕候得共、爪印而已ニ而は自然可証儀無御座候間、名前之上江死失致候夫歟、親之印形致置候様ニも可仕哉奉伺候」
下ヶ札
「不及後見ニ候、其外伺之通可心得候」
(以下略)
右廉々奉伺候、已上
卯五月十六日 組々人別取調掛
名主共
(『江戸町触集成』第十九巻)
後家が世帯主の場合、以前は爪印を押していたようですが、江戸の町の人別帳は四谷塩町一丁目の幕末の分以外はほとんど残っていないようで爪印の確認はできません。
幕末の四谷塩町一丁目では世帯主は職人も小商人も日雇稼も全員が印を押していますので、裏長屋の八つアんもたとえ無筆でも印判は持っていたようです。
式亭三馬の『当世七癖上戸』(文化七年1810序)の話ですが、
呑んべえの呑太郎は田舎から来た娘(女房の姪のことにしている)の奉公の請人となる。そこへこれまた呑んべえの男が取替金を持って請状に印形を取りに来る。二人で酒を飲み大生酔いとなって
呑「コレ、此金を仕舞てそこの判をだしてくれ」「アイ」ト女房すゝだらけのすゞりばこの中より三文判をとりだしてわたす(中略)無筆ゆへ印判のおし所にこまつてゐる 客「アヽもしもし、そこは万八殿と書てあるから此方の名前でござります。爰の所へ」(中略)すゝだらけの筆のさきへ墨を付て三文ばんをべたべたとぬりつめ フツ、フツ、トくちでふいて「 爰(ここ)でござりやせう、」以下略
墨印について高木侃氏は『増補 三くだり半』に次のように書かれています。
当時、庶民は認印(実印)を所持したが、証文等に押捺するときは印肉に墨を使用した黒印(墨印)であった。庶民が朱印を用いることがあるとすれば書画・墨跡の落款以外にはなかった。したがって、離縁状に朱印が用いられるはずはないが、一通だけ朱印を押した離縁状を見いだした(著者所蔵)。
(引用者註:文面は省略します)
購入文書で出拠は不明であるが、文面は書式にも実例にも例をみない。書もしくは絵をよくする富裕な階層の博識な夫の手になる離縁状で、全く私的な文書故にあえて朱印を押したものであろうか。
普通は墨印だったようです。江戸東京博物館『大江戸八百八町』図録には四谷塩町一丁目の元文元年人別書上のカラー写真が載っています。
江戸の幕末の人別書上も墨印でした。
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