落語の中の言葉277「悋気の火の玉」

   八代目桂文楽「悋気の火の玉」より

天保四年1833刊の桜川慈悲成作・香蝶楼国貞画『延命養談数』に次の話が載っています。

  怪談
これむかしよしら江戸町にかづさや何がしとてふうきにくらす人あり。只こうしよくものにて、中あふミやのはなざとといふ女郎を身うけして、みのわにかこひおきける。かづさやの女ぼう、ほのかにしりてしつとのこころふかく、何とぞはなさとをなきものにせんといのりける。はなさとも此事をしりて、ほんさいなくわれ女ばうにならんと、その女ばうをねたみいのりけるが、たがひにいのりかちまけなくて、むざんや両人相はてたりし。その夜より大おんじまへゝ火の玉二ツいでゝうちあひける。此事ひやうばんつよくなりければ、かづさやのあるじ、これ女ばうとはなさとがしうねんならんと、どうしんにたのミ、まいよ大おんじまへにていろいろくようしけれども、さらにそのしるしなく、どうしん、ていしゆにまうす、さくやも大おんじまへゝまゐり、うしミつまでねんぶつ申ゐたるに、両はうよりゆうれいいできたり、たがひに何やらいふ事わからず。かほをよくよく見れ、両人此間くらやミにてでかけ、むかふ見へずつきあたりて、はちあせしたると見へて、ふたりのゆうれい、ひたいにだんごのやうなるこぶあり。あんずるに、たがひのしうねん、こぶこぶといふ事ならん。こんやは御ていしゆまゐられて、そのわけをとくと申され、けうだいぶんにゑんをむすんで、中よく両人うかむやうに申されよと、すゝめけれ、ていしゆこゝろへ、さらこんやとうけて大おんじまへゝでかけ、まてどくらせどなに事もなし。たいくつしはてたる所に、みのわのかたより火の玉ころげくる。ていしゆ、たいくつのところなれ、その火の玉にてきせるとり出し一ぷくのんでまつてゐれ、又よしらのかたより火の玉一ツきたる。それよりていしゆ、御両人おそろひなら、一とをりおはなしもふさう。たがひにうらみのしうねん、むりとはさらさらおもはね共、あんまりながいもやぼらしい。ふたりながら、おれかわいゝと思ふなら、今とくどうして中よくけうだいぶんとなり、こゝろよくうかんでもらひたい。なんとかゝア、そうじやアねへかと、又一ふくすひつけると、女ばうの火の玉ふつゝときへて、よしなさい。わたしので、おいしくあるまい

延命養談数怪談.jpg

 武藤禎夫氏は170程の話を『絵入り小咄を読む』に紹介されていますが、その一つにこの話をあげ、話のあとに「この咄は、安永頃の吉原廓内江戸町の張見世の主人上総屋逸麿の妻と妾の間で、三角関係のもつれから互いに嫉妬し、呪詛し合った実際の事件に題材をとったものといわれる。それを幕末の戯作者の鼻山人が『永明/間記 廓雑談』(文政九)という人情本に怪談風に仕立て、さらに桜川慈悲成が落語に作り変えた。」と書かれています。
文政九年1826の『廓雑談』には

  〇無言称癡聞話(いふことなけれバぎもんとせうする ハ)
昔廓の時花唄(はやりうた)
「きぶねにあらぬ黒介のいなりのやしろおどろかし、しんゐをもやす鉄輪の火、てらてらてらと鉄槌にしんくの房のうつくしく、かほたがひに緋ぢりめん」(うた)ひけるその頃廓に。数多屋逸麿(かづたやいつまろ)といふものあり。天性才智発明なる生質(うまれつき)なれば諸芸に通達し。和哥の道にもたづさりて。最(いと)風流にぞ月日(くハういん)を遊び暮しける。素(もと)より色好ミの男なれ。中近江屋の花里といへる娼妓(けいせい)をひそかに身請して。大恩寺前へかこゐ置けるを。女ばうお里かこれを知ッて。嫉妬の心深く。さまざま悋気の火村(ほむら)を燃せしより。此唄をもつぱら廓中にて謡ひけるとぞ。その時逸麿が詠(よめ)る哥(うた)
 沖津波風のなき夜もあらこそなにあし原と人のいふべき
〇是風吹沖津しら波立田山紀有常(ありつね)が女(むすめ)の。嫉妬(ねたミ)せぬ本哥をとりて。しら波は盗賊をいへど。又心なき荒々しき人をもいふなり。そのしら波のたへぬ夜もあらとなり。何あし原といひ懸たる。日本豊あし原といへ。爰(こゝ)よし原あしく人のいふべきぞや。是(これ)皆悪口なり読し哥の意(こゝろ)なり
 此一面の物語りを趣向の種として是より発端始り(以下略)

とあって、このあとに長い物語が続きます。物語の最初に書かれている発端部分は50年以上前の安永四年1775成立とされる海寿翁編『歌俳百人撰』にあるものです。『歌俳百人撰』は歌俳諧とそれにまつわる話を集めたもので、この話はそのなかの一つです。上総屋一麿の歌についての部分は短いので全文をあげます。

第六十五       上総屋 一麿
  沖津波風のなき夜もあらこそ、なにあし原と人のいふへき
是は吉原江戸町の上総屋の亭主一丸其身富家て好色者也。中近江屋花里といふ女郎を身請して、大恩寺前にひそかにかこひ置、よなよな通ひける。一丸か妻りよ是を聞出し、嫉妬の心深く何卒花里をなきものにせんと朝夕思ひ暮しける、又かこわれの花里も是を聞、妻なくん我こそ上総屋の妻に成んと其女房を妬(ねた)ミける。此こと自然と人々知り、其時分廓のはやり哥に、「貴船にあらぬ黒助の稲荷の社おとろかし、しんいをもやす鉄輪の火、てらてらてらとかな槌にしんくのふさの美しく、㒵(かお)互に緋縮緬。と曲輪中てうたひける故、一麿かうき名隠れなし。其頃人の申せし、大恩寺前より毎夜丑の刻に火の玉飛出れ、又吉原よりも火の玉飛出来り、中て打合々々するといふ故、すいきやう成若者共我も見ん己もミんと、夜に入れ人群集する事、一丸聞て此哥をよめり。風吹奥津しら波立田山と紀の有常(ありつね)か女(むすめ)(ねた)ミせぬ本哥を取、しら波盗賊をいへり。又心なきあらあら敷人をも云り。その白波のたゝぬ夜もあらとなり。何あし原と言懸たる、日本は豊あし原といへ、爰はよし原あしく人のいふへきは皆人の悪口也と住(すま)せし哥也。此一麿不実なれと、哥は至極の躰ある故此巻に入たり

 慈悲成が元にしたのは、『廓雑談』と『歌俳百人撰』のどちらであるかは、わかりません。

 大上総屋と中近江屋花里について吉原細見にあたってみました。
上総屋は元禄二年1689の絵入大画図では江戸町一丁目仲ノ町から右側に上総屋七右衛門とあり、元禄四年1691の吉原細見図では江戸町一丁目の左側に移っています。以後は左側です。当主は治右衛門あるいは次右衛門を名乗っているため、代替わりの時期は不明です。享保の頃から隣に同じ名の上総屋が出来、新上総屋、元からある見世は大上総屋と呼び分けています。大上総屋は明和二年の吉原細見「水かゝみ」には載っていますが、明和九年の「新嬉楼」には載っていません。明和九年の二月二十九日には目黒行人坂の大火で吉原は全焼し、浅草辺と本所・深川の11町で250日の仮宅が許可されていますから、明和九年の「新嬉楼」は被災前のものです。翌安永二年(明和九年の十一月に安永に改元)の細見「寿黛色」には江戸町一丁目右側に大上総屋が載っています。しかし安永五年の「名華選」には大上総屋も新上総屋も名前がありません。この間に廃業したようです。

              江戸町一丁目      京町二丁目
吉原細見        左側      右側     右側
        大かづさや 新上総屋 大かづさや 中近江屋 花里
1738元文三年  次右衛門  利右衛門       善右衛門 なし
1739元文四年  治右衛門  理右衛門       善右衛門 あり
1740元文五年  次右衛門  理右衛門       善右衛門 なし
1743寛保三年  次右衛門  利右衛門       善右衛門 なし
1762宝暦十二年 治右衛門  利右衛門       介治郎  なし
1765明和二年  治右衛門  利右衛門       善十郎  なし
1772明和九年春  なし   利右衛門  なし   善十郎  なし
1773安永二年初春      利右衛門 治右衛門  善十郎  なし
1776安永五年         なし   なし   善十郎  なし

明和二年九年左.jpg


明和九年安永二年右.jpg
 近江屋は享保十二年の細見では京町二丁目(新町)の仲ノ町から右側に二軒あり、入口近くは近江屋助治郎、奥の方は近江屋熊之助とあって、奥の方の見世が後に中近江屋と呼ばれています。花里という遊女が確認できたのは元文四年の「八音鶏」で奥の方の近江屋善右衛門の見世です。翌五年の「廓中細見」には花里の名は見えませんので、この間に出廓したようです。
 
近江屋花里.jpg
 
『延命養談数』には上総屋のことを「富貴」とありますが、その通りだったようです。

北廓にて娼家の富饒なりしは、明和中にて、大上総屋なり、あるじが俳名を一麿といへり、浅草三社祭礼のありし時、幼き忰を大名の行列にいでたゝすとて、道具るゐのこらず新に作らせ、二日ねり物にいだしたる費え、三百金なりとぞ、此一事を以て、富饒を知るべし、此大名の真似したる忰、をろかなりしゆゑ、家次第に衰へて、家亡び、晩年剃髪して俳諧師となり、名を百路といひて、天明(1781~89)の比、蔵前辺に住し、富家の遊び坊主なりし、亡兄に俳諧の上の事など度々聞に来りしが、をかしき坊主にて、これが事には、くさくさをかしき話あれど、もらしぬ、(京山 岩瀬百樹『天明/事跡 蛛の糸巻』弘化三年1846自序)

 また明和二年の「水かゝみ」には、新上総屋には廊下一筋、大上総屋には二筋とあって、見世の大きさに違いがあったようです。大上総屋は見世の大きさだけでなく一麿の時代には普請も立派だったといいます。

爰にかはつたものをだしたと思し召しませうが、段々仔細あつての事、此人に何もほめる程の事なけれども、一通り新しい事で出しましてござります。(中略)一麿どのは芸では出しませぬが、今年普請の出来よろしく、殊外見物もござりまして、吉原中の普請と存ます、物数寄出来ました故、爰に出しまして、殊に芸道を仕廻、其跡へ出しました、されども芸ではない事故、今年の評判にて、来二の代にはぬきます、必御腹を立られますな、扨顔みせ、かづさや三十主治右衛門の役にて大普請の幕大出来、段々おくへ長くいたし、火をあまたともし七月の体大あたり第一と申す、次に六角駒右衛門が娘おはなに身をやつし、又は三の輪がよひ、方々にて地色の段、皆よいとの評判、しかも去年鹿文と、下駄の打ほどにはなかったとの取沙汰、何にもせよ、ふしん随一と申、大あたり大あたり、(『冬至梅宝暦評判記』巻六)



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