落語の中の言葉276「落語に出てくる狂歌」
落語には時々狂歌が出てきます。僅かですが詠んだ人の名前の出てくるものもあります。
庭に水新し畳伊予すだれ 数寄屋縮に色白のたぼ
蜀山人(五代目柳家小さん「青菜」)
西日さす九尺二間に太っちょの 背なで児が泣くままが焦げつく
蜀山人(同「青菜」)
まだ青い素人浄瑠璃玄人がり 赤い顔して黄な声を出す
蜀山人(三代目三遊亭金馬「寝床」)
春浮気夏は陽気で秋ふさぎ 冬は陰気で暮にまごつき
式亭三馬(同「節分」)
のせたからさきはあわずかただの駕籠 ひらいしやまやはせらしてみい
蜀山人(三代目桂 米朝「近江八景」)
近江八景は、瀬田の夕照、唐橋の夜雨、粟津の晴嵐、堅田の落雁、比良
の暮雪、石山の秋月、矢橋の帰帆、三井の晩鐘です。
しかしこれらは南畝や三馬の作であることの確認はとれていません。
ただ、近江八景については、秋廼屋望成編集『蜀山狂歌叢談』(明治廿七年序)に
近江八景いつの年にかありけん、蜀山人京都へ登らむとて東海道をゆくゆく勢田の長橋にかゝれり、時に橋のあたりに二三人の雲助居りて頻りに駕籠に乗れよとすゝめけるに蜀山ハ笑ひて、懐中に銭なけれバ歩行にてゆかむとて通りすぐる、後より雲助どもハ呼びとめ、旅人よいま即詠に茲の近江八景の狂歌をよみて給ハらむにハ銭をまうし受けずして我等が駕籠に乗せまゐらすべし、と戯れにいひけれバ蜀山ハ取りあへず八つの名所を三十一文字の中にいれて一首よみけり
乗せたからさきハあはずかたゝの駕籠 ひら石山やはせらしてみゐ
とあります。
『蜀山狂歌叢談』の編者の緒言には、
一大田南畝の奇行逸事を編纂したるものなれば『大田南畝言行録』とも名
づくべかりしを書肆の希望に因りて、いま『蜀山狂歌叢談』と呼べり、
されば書中の逸話珍説に狂歌叢談の名に背くものあり、看者よそを深く
な咎め給ひそ
一此書ハ古今の群籍を渉猟し或ひハ口碑を採録したるものなれども、虚誕
ならむと憶はるゝものハ悉く棄却したり、
一此書に引用したる書目ハ頗る多けれど一々これを歴挙せず、これ煩雑を
厭へばなり
とありますが、この話も眉唾物です。米朝師匠は蜀山人の講談本にあったので子供の頃に近江八景を覚えたと話しています。おそらく『蜀山狂歌叢談』も講談本からの引用でしょう。講釈師見てきたような嘘をつき。
幕臣(当主)が私用で江戸を離れて泊りがけで旅をするには幕府の許可が必要でした。
大名・旗本の当主は、江戸自邸以外の外泊はできません。
自分の下屋敷に行き郊外の空気を楽しむとか、中屋敷の先代隠居の訪問は、日帰りですからできますが、帰り時刻に大風雨などの異変以外は、そこに外泊することはできません。上屋敷にいるべき当主に、急使があって不在となると、ことが公になって問題になります。これは江戸住まいの話です。
江戸御府内外への外出はどうでしょうか。たとえば先祖の墓地が御府外四里くらい離れていても、日帰りの距離であればさしつかえありません。川崎大師は日帰りですが、鎌倉の鶴岡八幡宮は一泊で、遠馬で日帰りできても必ず届けをして許可を取ります。横浜あたりの墓所での墓参は、外泊一、二日の許可をとります。 (小川恭一『江戸の旗本事典』)
家康の地元は三河でから、三河以来の家来も多くありました。また先祖の法事などは今日以上に重要視されていましたが、それでも当主の場合には宿泊を伴う場合は、その墓参りでさえ一代に一度しか許可されませんでした。
宝暦十一巳年1761六月
先祖之年回等ニ付、江戸之外菩提所え参詣之儀、近例は無之候得共、向後右之通之儀相願候者有之候は、其身一代ニ一度は可相済候
右之趣、頭支配之面々え寄々可被達候、
六月
明和二酉年1765二月
先祖之年回等ニて、江戸之外菩提所え参詣之儀、相願候者も有之候ハヽ、其身一代ニ一度は可相済旨、先達て相達候、江戸之外ニても立帰之場所は、其身一代ニ一度ニ不限、年季等之節々、致参詣度旨相願候ハヽ、是又可相済候、
但、江戸之外立帰ニて無之場所は、先達て相達候通ニ候、
右之趣、頭支配之面々え、寄々可被達置候、
二月 (『御触書天明集成』)
天保十一年1840刊の大野廣城『青標紙』前編にも「江戸外菩提所参詣之事 明和二酉年二月七日に出、信濃守殿御渡」としてこの御触れだけしか載っていませんから、少なくとも天保十一年まではこの規定がいきていました。
南畝が私的に関西まで旅をした話は聞いたことがありません。勘定所の支配勘定として御用で大坂以西へ旅をしたことはあります。
大坂銅座詰
享和元年1801二月二十七日江戸発、三月十一日大坂着 『改元紀行』
享和二年1802三月二十一日大坂発、四月七日江戸帰着 『壬戌紀行』
長崎御用
文化元年1804七月二十五日江戸発、九月十日長崎着 『革命紀行』
文化二年1805十月十日長崎発、十一月十九日江戸帰着 『小春紀行』
筆まめな人ですから、それぞれの旅に紀行文を書いています。但し『革命紀行』は大坂以西のみ。しかしそれらにはこの話は当然ながら載っていません。「当然ながら」と書いたのは、御用旅の場合は無料で使える人馬の数を記載した証文が出ますから、個人で雲助を雇って駕籠に乗ることはないからです。
宿駅の人馬を使役するのに、朱印または証文によってその使用を許されている公用旅行者が最優先することはよく知られている。朱印状は将軍名で発行するもので、その受給者は、公家・門跡・上使などで、その人馬数は朱印状面に明示されていた。また証文は老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・勘定奉行・道中奉行・長崎奉行等が発行者で、その受給者も決められていた。
江戸を出発するものであれば、あらかじめ朱印や証文の写しと旅行の日程表を、江戸の伝馬町(大伝馬町と南伝馬町が交互に扱う)の伝馬役所に示しておくと、伝馬役所から先々へその写しを逓送しておく。すなわちそれが先触となり、宿々ではそれを写して当日の人馬の用意をしたのである。(中略)
朱印状の例を示すと、元禄十四年(一七〇一)に越後国の見分を命ぜられた旗本の朝倉半九郎の朱印状写しは次のとおりである。
御朱印人足弐人馬三疋従江戸越後迄上下可出之、是者右之国為見分朝倉半九郎参ニ付被下候者也元禄拾四年三月廿三日右宿中
御朱印とあるところには、伝馬にだけ用いる特別の印が押してあった。朝倉半九郎は、朱印人足二人はそのままとし、馬三疋のうち一疋は人足二人に替え、その他に賃人足二人を必要として、江戸南伝馬所に伝えた。南伝馬所では、朱印状の写しを添えて、江戸出発の日時を板橋から越後の高田領までの宿々の問屋に通達したのである。朱印状の人馬は無賃であるが、賃人足の二人分は御定賃銭を払うのである。 (児玉幸多『宿場と街道』)
南畝の大坂銅座御用の為の大坂への旅の場合が『おしてるの記』に載っています。よくわからない部分もありますがそのまま紹介します。
供人数・証文
供人数
金五両弐分 取替金壱両壱分弐朱渡ス
一用人 壱人 田山浅兵衛
五月ヨリ三ケ月メに金壱両壱分弐朱づゝ
金四両弐分 取替金壱両弐朱渡ス
一侍 壱人 松本栄蔵
五月ヨリ月々壱分弐朱づゝ
金三両
一中間 三人
五月ヨリ 五月ヨリ二 長 助 取替金三分
月々金壱分づゝ 六月ヨリ一 平 助 取替金壱両
五月ヨリ三 喜 助 取替金三分
御証文 弐通
御用書物長持 壱棹
一馬 二疋
是は壱疋にて、壱疋者人足弐人にかへ候事
一人足 弐人
都合人足四人
右駕籠之者にいたし候事
外に三人賃人足、内壱人具足櫃為持、
壱人両掛挟箱、壱人合羽駕籠、
家来壱人、鎗持壱人、草履取壱人、為休挟箱は御用長持へ入候事
これに続けて
一箱根御関所前は駕籠より下り、惣体御用長持具足櫃等一所にまとめ、
侍壱人御番所前へ遣し、大坂銅座御用にて、支配勘定大田直次郎、
上下六人通り候旨断候。
と書いています。
また、落語に詠み人の名前なしで出てくる狂歌で、出処が分かるものを幾つか次に揚げます。
*貧乏の棒も次第に長くなり 振り回されぬ年の暮れ哉
(十代目 桂文治「掛取り」)
『万載狂歌集』天明三年1783 巻第六 冬歌にあります。
ひんぼうのぼうが次第に長くなりふりまハされぬ年のくれ哉
よミ人しらす
*早蕨の握りこぶしを振り上げて 山の横つら春風ぞ吹く
八代目 桂文楽「愛宕山」
大田南畝『巴人集』(天明四年1784序)に
蕨
早蕨のにぎりこぶしをふりあげて 山の横つら春風ぞ吹
*世の中に酒と女が敵なり どうか敵にめぐり逢いたい
五代目 古今亭志ん生「駒長」
大田南畝『巴人集拾遺』に
色と酒
世の中は色と酒とが敵なり どうぞ敵にめぐりあいたい
*味噌こしの底に溜まりし大晦日 こすにこされずこされずにこす
十代目 桂文治「掛取り」
秋廼屋望成編集『蜀山狂歌叢談』(明治廿七年序)附録に
除夜
味噌こしのそこにたまれる大晦日 こすに越されずこされずにこす
*酒飲めばいつか心も春めきて 借金取りも鶯の声
三代目 三遊亭金馬「節分」
篠原文雄『日本酒仙伝』(昭和四十六年)
酒のめばおのづ心も春めきて 借金取もうぐいすの声 唐衣橘洲
『蜀山狂歌叢談』『日本酒仙伝』は出処が省略されていますので確認できません。
*楽しみは春の桜に秋の月 夫婦仲良く三度喰うめし
五代目 三遊亭円楽「垂乳根」
『万載狂歌集』(天明三年1783 巻第十五 雑歌)に
田舎興
たのしミハ春の桜に秋の月 夫婦中よく三度くふめし 花道つらね
ところがこの歌は大田南畝『巴人集拾遺』にも
一家和合
楽しみは春の桜に秋の月 夫婦中よく三度喰ふめし
と載っていてます。ただ『巴人集拾遺』は南畝没後に後人が遺文と思われるものを集めたもの。一方『万載狂歌集』は
「朱楽菅江を共編者とし、菅江の序をのせている。しかし版下は赤良の字だし、文も赤良と思われ、実際の編集は赤良が独力で済ましたに相違ない。」 (『大田南畝全集第一巻』濱田義一郎氏の「南畝の狂歌・狂文」解説)
というものですから、花道つらねの方が正しいように思われます。
因みに、花道つらね(五代目市川團十郎白猿)の狂歌を少々あげておきます。
寛政十午年1798の顔みせに、三芝居とも元のごとく、中村勘三郎、市村卯左衛門、森田勘弥座本なり。木挽町にも操芝居、吹屋町河岸に子供など出来て、いづれも繁昌時を得たり。此顔みせより六代目市川団十郎年若なれども、数代の名家にて贔屓多かりしかば、中村座の座頭らと成。仍て隠居白猿は座着口上に出る。大当りに付狂歌白猿一首といふ本出たり。是は座付の口上之内、毎日白猿狂歌一首づゝいだせしをしるせし本なり。其狂歌は取に足らずといへども、一二を爰にしるしぬ。伜団十郎廿一歳にて座がしらに成し有難さに、そろばんの親玉子だま目ぱちぱちしめて三七二十市川牛島をもう出まじとこもりしにひき出されたるはなのかほ見せ鼻たかき人とや我をうはさせんあきはの山のちかくに遊べば(以下略)(著者未詳『梅翁随筆』巻之五 享和頃1801-03?)
布袋
経山寺(きんざんじ)ミそかしらすのたのしみハ本来くうてねたりおきたり
『万載狂歌集』
十三夜月
人もたゞこのやうにこそありたけれすこしたいらでまめの名月
『狂歌才蔵集』
天明六のとし葺屋町桐座の顔見世狂言に白ます婆と北条時政との
はやがはりの二役つとめし時芝居の三階にてよみ侍りける
三がいをくるしといふもことはりや生死流転の早がはりして
『狂歌才蔵集』
「吾妻曲狂歌文庫」より
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