落語の中の言葉275「お歯黒どぶ」
古今亭志ん生「首ったけ」より
かつて、落語の中の言葉80「お歯黒」続で、
「首ったけ」(五代目古今亭志ん生)でお歯黒どぶのことを「あのお歯黒どぶてエものは、汚ねエのなんのって、真っ黒だから、お歯黒に似ているからお歯黒どぶという」といっているが、二千人以上の遊女がお歯黒をするのであるからどぶが真っ黒になって当然である。
と書きました。今回はこの「お歯黒どぶ」をとりあげます。
お歯黒どぶに面して建物があるのは京町と伏見町くらいで、それ以外の町は、お歯黒どぶへは面していません。東西の河岸通りは道幅が四・五間もあり、河岸見世でも窓から道の向こうにあるどぶへ投げ捨てることはできません。また江戸の下水には屎尿は流しません。(落語の中の言葉246「どぶ(下水)」)
新吉原ではゴミと屎尿は毎朝搬出していたそうです。
『吉原十二時』は吉原の一日を卯から寅の十二時に分けて擬古文で記したもの。十二支で時刻を表していますが、おそらく定時法ではなく時の鐘の時刻と思われます。辰時も午前八時ではなく朝五つの意味でしょう。
「お歯黒どぶ」は新吉原の惣下水の俗称です。
一 吉原町囲外惣下水之儀、右替地ニ相成候節出来仕候儀ニ御座候、里俗おはぐろどぶと唱申候 (「新吉原町書上」巳九月 安政四年1857)
日本橋からの所替えの際に惣下水を掘り、その土で田圃に土盛りをして造成しました。そのへんの事情を『洞房古鑑』(宝暦四年1754)から紹介します。
『洞房古鑑』は「江戸町一丁目の轡天満屋竹嶋仁左衛門が、寛延元年1748閏十月名主役に就任したについて、役目執行上参考になるべき古例を集めたものである。」(『随筆百花苑』第十二巻の野間光辰氏の解題)
「本柳町」とは江戸町のことです。「惣堀幅五間」などとある「間」は京間です。吉原は京間で町割りが行われています。江戸の初期は京間と田舎間の両方が使われていますが、日本橋の本町通り、日本橋通り辺の町割りも京間です。
『洞房古鑑』には江戸町壱丁目西側の家屋敷の伝来に関する記述があり、すべて京間になっています。例えば
惣堀の幅五間は32尺5寸=約9.85m、深さ九尺は約2.7mです。ネット上では五間を9mとするものが多いですが、これは一間=六尺という思い込みからきたもので、誤りです。水は大門口のある北東の一辺から日本堤(吉原土手)の手前にある幅九尺の大下水に繋がっていて、道哲庵(西方寺)の近くで山谷堀に流れ込んでいたようです。江戸の下水へ流すのは雨水と生活雑排水です。「遊女三千人御免の場所」などと云われるように女性が集中している場所で、禿や振袖新造は白歯ですが遊女はお歯黒をしていますから、他の下水とは違っていたと思われます。
このお歯黒どぶは、時に排水が十分でなく廻りの田圃に溢れることもありました。
「どぶ」や下水は浚いが必要です。雨水とともに泥やゴミが流れ込むからです。享保期には大規模な浚いが行われています。
享保元年1716ヨリ取懸リ、同三年八月浚終申候。金四百両相懸リ候。(同書)
安永八年1779以降は芸者見番の正六が浚を行っていました。これは芸者見番をたて、そこからでる収益で各種の負担をすることを正六が願出て認められたためです。
最初京間五間(=32尺5寸)もあったお歯黒どぶも後には半分以上埋められて狭くなっています。
「新吉原之図」
一番広いのは江戸町一丁目の前ですが、それでも一丈五尺(15尺)で当初の半分以下、西河岸で一丈二尺、京町で一丈、羅生門河岸(新町河岸)が七尺、東河岸(江戸町弐丁目河岸)が一番狭く六尺二寸(当初の五間の五分の一以下)、伏見町で七尺です。
この「新吉原之図」は変なところがあります。総下水の幅です。文字では「壱丈五尺」「六尺弐寸」とか書かれていますが図は同じ幅です。東側の河岸通り「五間三尺五寸」と東河岸の下水幅「六尺二寸」が同じ幅になっています。一方、伏見町の「道巾弐間」、「境町道巾壱丈」はそれなりの幅になっています。おそらく総下水の幅が五間あった頃の図に、その後出来た伏見町と境町道を相当する縮尺で書き加えただけで、それに数字を書き込んだように思われます。
この「新吉原之図」は、いつのものか判りませんが、伏見町が有って、境町が無くて江戸町弐丁目になっていること、又境町通りが残っていることから、明和六年1767から文化十一年1814の間、又は享和三年1803から文化十一年の間のどちらかでしょう。いづれにしても文化十二年より前にはこれほど狭くなっていました。
またこれもいつからかは判りませんが、お歯黒どぶには跳ね橋が設置されています。
広重「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」より
お歯黒どぶに関する川柳にはこの他、次のものがあります。
おはぐろを越したが跡の六つかしさ 柳多留三二
おはぐろへ有夜ひそかに恋のはし 柳多留七三
おはぐろは外泥水は内にあり 柳多留七八
跳ね橋の数も時代によって違っていたようで、寛政七年1795十二月の『新吉原町遊女屋規定證文』には火災時の避難についての規定のなかに「拾ヶ所の用心口」とあります。
一 出火之節遊女とも為立退方之儀は、兼而最寄之場所其外寺院等方角教置、家内男共幷平生立入候諸商人諸職人等江兼而申談置、欠付次第附添、風筋見斗、大門口其外拾ヶ所之用心口ゟ為立退、怪我過チ無之様、常々心懸ケ可申事
蛇足ながらこの『新吉原町遊女屋規定證文』は新吉原の遊女屋が相談の上まとめた多項目にわたるもので、その最後には「一統厚相守可申候、為後證、連判致置申処、仍如件」として新吉原江戸町壱町目から揚屋町、五拾間道の者まで、さらに年寄役七人が連印し、名主四人が奥印しています。
ところで気になることがあります。それはお歯黒どぶは「遊女の逃亡を防ぐ目的」で作られたと一般に云われていることです。落語の中の言葉246「どぶ(下水)」でとりあげた通り、江戸の町屋敷の廻りには雨水等を流すため必ず下水があります。町と町の境にも下水があります。道は中央を高くして両側に下水をつくります。新吉原の廓の周りにも下水があって当然です。下水がないことはありえません。お歯黒どぶが流れ込む大下水は幅が9尺しかありませんから、お歯黒どぶもそれ以下の幅で十分なはずです。それなのに幅5間、深さ9尺という巨大なものであることが不自然なので、「遊女の逃亡を防ぐ目的」だろうと思われているのでしょう。しかし、新吉原は田圃に作られた町です。田圃を埋立てるには大量の土が必要です。その土の量をを計算した結果が幅5間、深さ9尺の下水になったのではないかと想像しています。お歯黒どぶを造るために掘り出した土で埋立てるとどのくらいの厚さになるか極大雑把に計算してみました。約1尺2寸でした。田のあぜ道と同じか少し高いくらいでしょうか。土地の造成が済んでしまえばこんな巨大な「どぶ」は必要なくなります。それでどんどん埋められて狭くなったのではないかと思っています。「どぶ」は雨が降れば周りから土やごみが流れ込みますから浚うことが必要で、浚った土を置いておく場所も五十間道の後ろに用意されていました。
浚いによる揚げ土が大量に溜まると、今度はそれを処分する必要があります。溜まった揚げ土を処分する為に不必要に巨大なお歯黒どぶを埋めたのではないかとも思っています。
幕府によって許可された遊郭は江戸の吉原に限りません。京都にも大坂にも長崎にもありました。江戸以外のことは知りませんのでわかりませんが、下水はすべての遊郭に必要です。特に、埋立てる必要のない土地に成立した遊郭にも、吉原同様必要以上に大きな下水が作られているのであれば、江戸の新吉原を含めて「遊女の逃亡を防ぐ目的」であったといえましょう。その場合私の想像は単なる妄想にすぎなかったことになります。さてどうなのでしょうか。
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かつて、落語の中の言葉80「お歯黒」続で、
「首ったけ」(五代目古今亭志ん生)でお歯黒どぶのことを「あのお歯黒どぶてエものは、汚ねエのなんのって、真っ黒だから、お歯黒に似ているからお歯黒どぶという」といっているが、二千人以上の遊女がお歯黒をするのであるからどぶが真っ黒になって当然である。
と書きました。今回はこの「お歯黒どぶ」をとりあげます。
おはぐろどぶというのは、新吉原の周辺にある幅五間(のちに三間)ほどの下水をいう。廓の遊女が鉄漿を用いた残りを、窓からこの溝に捨てたので、水の色が鉄漿色になったのに由来するとされている。鉄漿も流れこんだであろうが、そのほかの汚物も流れたまったのであろう。汚くてとうてい泳いで渡ることなどできなかったという。遊女の逃亡を防ぐ手段である。新吉原への出入は大門だけに限られたのである。もっとも、非常用には九ヵ所に刎ね橋が備えてあったが、ふだんはあげてあって、大門だけが唯一の通路であった。(石井良助『吉原』)
お歯黒どぶに面して建物があるのは京町と伏見町くらいで、それ以外の町は、お歯黒どぶへは面していません。東西の河岸通りは道幅が四・五間もあり、河岸見世でも窓から道の向こうにあるどぶへ投げ捨てることはできません。また江戸の下水には屎尿は流しません。(落語の中の言葉246「どぶ(下水)」)
新吉原ではゴミと屎尿は毎朝搬出していたそうです。
吉原では不浄なものは、長く置かなかった。その日に出た不浄物は翌朝早く廓外に運び出してしまう。
人間社会の廃棄物、悪臭を放つゴミ、不用な物品をためておくゴミ溜がない。
わいだめもはきだめもない五丁町(柳多留八十五)
わいだめとは思慮分別をいう。わいだめとははきだめの語呂を合わせた句案であって、吉原に遊ぶ人々は思慮分別がなく、その吉原には、江戸の町屋敷には必ず設備してあった掃溜がない。
人間の生理上の老廃物である不潔な糞尿も、その日のものは翌朝早く遊客が来る前に廓外へ搬出してしまう。
大門をおつぴらかせて掃除馬(俳諧觹・嘉永本)
糞(こ)ひ取に込朝の大門(俳諧觹十九)
大門を馬も出這る朝朗(あさぼらけ)(みつめぎり)
(花咲一男『川柳江戸歳時記』)
此吉田屋のお職にて、印(二つ山形一つ星)のおいらん夕霧ときこへしは、神崎一の全盛にて、木地から磨た面屋の木偶、夜光珠の昼見ても、光りのうせぬすがたなり。朝がへりの客を茶屋まで送てかへりしとみへ、〔夕ぎり〕ヲヽつめた。卜はしごを上る。跡より振袖新造〔そらね〕さむそうななりにて、あたまのしらがもとゆひのさき、両ほりを紙にていはえ、おいらんの中をりの駒げたと、じぶんのげたと、さげて来る。 ヲヤもふ、そふじがきたさふだ。いつそ匂ふよ。(山東京伝『青楼昼之世界 錦之裏』寛政三年1791 )
辰時 ものこふ法師ばらうちつれて、はち々々とよひつゝいりもてく、むづかしげなるをけさしになひて、きたなげなる男どもいりくるもみゆ。(以下略) (石川雅望『吉原十二時』刊年未詳)
『吉原十二時』は吉原の一日を卯から寅の十二時に分けて擬古文で記したもの。十二支で時刻を表していますが、おそらく定時法ではなく時の鐘の時刻と思われます。辰時も午前八時ではなく朝五つの意味でしょう。
「お歯黒どぶ」は新吉原の惣下水の俗称です。
一 吉原町囲外惣下水之儀、右替地ニ相成候節出来仕候儀ニ御座候、里俗おはぐろどぶと唱申候 (「新吉原町書上」巳九月 安政四年1857)
日本橋からの所替えの際に惣下水を掘り、その土で田圃に土盛りをして造成しました。そのへんの事情を『洞房古鑑』(宝暦四年1754)から紹介します。
『洞房古鑑』は「江戸町一丁目の轡天満屋竹嶋仁左衛門が、寛延元年1748閏十月名主役に就任したについて、役目執行上参考になるべき古例を集めたものである。」(『随筆百花苑』第十二巻の野間光辰氏の解題)
一 同年(明暦二年)十一月廿七日被召出、金一萬五百両被下置候。内金三百両ハ奈良屋ニテ請取候。
本柳町一丁目、間数百廿間一尺六寸分
金千六百八十三両壹分 銀九匁六分
同二丁目以下略
〆金九千八百六拾貳両銀八匁
残金百廿四両貳分銀五匁一分
右者茶屋三人分、此金曾所ニ有
残金五百両
右者惣下水普請料ニ被下ニ付、退置申候。
都合金一萬五百両
小間一間ニ付、金十四両ヅヽ割取。
尤當年餘日無之間、来春三月迄ニ引拂可申旨被仰渡候。
新 地
一 日本堤ヨリ五十間餘入りニ、町割有。
一 大門ハ東向ニ定。
一 大門ヨリ水道尻迄百三十五間。
一 江戸町一丁目、二丁目、川岸ヨリ川岸迄百八十間。
一 中之町道幅十間。
一 町々道幅五間。
一 惣堀幅五間、深サ九尺、堀向犬走三尺餘。
明暦三年酉二月下旬ヨリ惣堀ヲホラセ、其土ヲ以二町ニ三町ノ深田ヲ埋、地形ヲ築立候。(以下略)
「本柳町」とは江戸町のことです。「惣堀幅五間」などとある「間」は京間です。吉原は京間で町割りが行われています。江戸の初期は京間と田舎間の両方が使われていますが、日本橋の本町通り、日本橋通り辺の町割りも京間です。
『洞房古鑑』には江戸町壱丁目西側の家屋敷の伝来に関する記述があり、すべて京間になっています。例えば
江戸町壱丁目西側
明暦三年
一 京間十六間四尺八寸、裏行町並貳拾間。
明暦三年元吉原ヨリ引移候節、喜多川甚右衛門替地請取、其後忰三良右衛門江相譲、甚右衛門は致薙髪宗知卜名ヲ改候。
現在、一間(けん)というと、曲尺(かねじゃく)(三〇・三㎝)で六尺(一八一・八㎝)のことで、これは田舎間とも呼ばれている。だが、この一間=六尺が支配的になるのは、近世の後半ないし近代になってからのことで、近世の初めの段階ではむしろ六尺五寸(一九七㎝)を一間とする京間と呼ばれる間(けん)のほうが、一般に使われていたとみられる。(玉井哲雄『江戸 失われた都市空間を読む』1986)
惣堀の幅五間は32尺5寸=約9.85m、深さ九尺は約2.7mです。ネット上では五間を9mとするものが多いですが、これは一間=六尺という思い込みからきたもので、誤りです。水は大門口のある北東の一辺から日本堤(吉原土手)の手前にある幅九尺の大下水に繋がっていて、道哲庵(西方寺)の近くで山谷堀に流れ込んでいたようです。江戸の下水へ流すのは雨水と生活雑排水です。「遊女三千人御免の場所」などと云われるように女性が集中している場所で、禿や振袖新造は白歯ですが遊女はお歯黒をしていますから、他の下水とは違っていたと思われます。
このお歯黒どぶは、時に排水が十分でなく廻りの田圃に溢れることもありました。
一 享保十六年亥1731、龍泉寺門前田畑へ惣下水ノ悪水アフレ候由度々申来ニ付、九月廿八日五丁相談ノ上、江戸町一丁目通り五十間跡裏下水ヨリ向江長サ十六間ニ、此度新規ニ樋ヲ付樋ノ蓋車通ル。右十三本鋪申候。
一 延享五年辰1748三月、惣下水田畑ヘアフレ候旨龍泉寺門前ヨリ申来ニ付、五十間道樋此度石ニテ仕直申候。 (『洞房古鑑』)
「どぶ」や下水は浚いが必要です。雨水とともに泥やゴミが流れ込むからです。享保期には大規模な浚いが行われています。
享保元年1716ヨリ取懸リ、同三年八月浚終申候。金四百両相懸リ候。(同書)
安永八年1779以降は芸者見番の正六が浚を行っていました。これは芸者見番をたて、そこからでる収益で各種の負担をすることを正六が願出て認められたためです。
一、吉原町男女芸者之儀、前々名主より札相渡、稼為致候処、十七年以前、安永八亥年中、角町家持正六儀、新吉原町附日本堤土手聖天町角四角寺前より、御榜示杭壱丈二尺、馬踏五間、築立、衣紋坂下より御高札塚前通五拾間道、幷大川口際迄地形一式、但石橋より大門口迄之間、道造り、幷吉原町四方惣下水浚、柵堰板修復、水道尻に有之火之見番人給分仕払、右入用手当、吉原町之内男女芸者、遊女屋抱、素人抱、幷自分稼之儀は、其当人より証文取置、雇口引受、男女芸者札数、永々百枚に相極、名題札相渡、以前名主より渡置候名題札は不残引上、稼為致候旨、吉原町名主町人共一同対談相極、為取替、致証文置候通、以後、人数名題札之儀は、定之通百枚に相究、右之高に限、不相増様に致可甲事、(『新吉原町定書』寛政七年1795)
最初京間五間(=32尺5寸)もあったお歯黒どぶも後には半分以上埋められて狭くなっています。
「新吉原之図」
一番広いのは江戸町一丁目の前ですが、それでも一丈五尺(15尺)で当初の半分以下、西河岸で一丈二尺、京町で一丈、羅生門河岸(新町河岸)が七尺、東河岸(江戸町弐丁目河岸)が一番狭く六尺二寸(当初の五間の五分の一以下)、伏見町で七尺です。
この「新吉原之図」は変なところがあります。総下水の幅です。文字では「壱丈五尺」「六尺弐寸」とか書かれていますが図は同じ幅です。東側の河岸通り「五間三尺五寸」と東河岸の下水幅「六尺二寸」が同じ幅になっています。一方、伏見町の「道巾弐間」、「境町道巾壱丈」はそれなりの幅になっています。おそらく総下水の幅が五間あった頃の図に、その後出来た伏見町と境町道を相当する縮尺で書き加えただけで、それに数字を書き込んだように思われます。
この「新吉原之図」は、いつのものか判りませんが、伏見町が有って、境町が無くて江戸町弐丁目になっていること、又境町通りが残っていることから、明和六年1767から文化十一年1814の間、又は享和三年1803から文化十一年の間のどちらかでしょう。いづれにしても文化十二年より前にはこれほど狭くなっていました。
またこれもいつからかは判りませんが、お歯黒どぶには跳ね橋が設置されています。
広重「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」より
おはぐろどぶ 寛文の吉原地図によりますと、溝の幅が五間と記してあり、どぶといっても田んぼの余り水を集めたものらしく絵でみますと流れがあったようで、たまり水ではないと考えられます。
遊女の逃亡を防ぐ目的で作られたものでありますが、後期になってから廓の者の生活の便宜か、或は火災の場合の逃げ道か、はね橋をつけ、次の句によると、ある程度は、その娼家の自由な差配で実用されていたもののようであります。
○はねて置鉄漿どぶのわたしがね (ケイ二六47オ)
○おはぐろへ或夜恋路の渡しがね (樽九六31ウ)
おはぐろをつける時、はんぞう(耳盥)の上に金属製の板を渡す。この板を、はね橋になぞらえた。
(花咲一男『川柳 江戸吉原図絵』)
お歯黒どぶに関する川柳にはこの他、次のものがあります。
おはぐろを越したが跡の六つかしさ 柳多留三二
おはぐろへ有夜ひそかに恋のはし 柳多留七三
おはぐろは外泥水は内にあり 柳多留七八
跳ね橋の数も時代によって違っていたようで、寛政七年1795十二月の『新吉原町遊女屋規定證文』には火災時の避難についての規定のなかに「拾ヶ所の用心口」とあります。
一 出火之節遊女とも為立退方之儀は、兼而最寄之場所其外寺院等方角教置、家内男共幷平生立入候諸商人諸職人等江兼而申談置、欠付次第附添、風筋見斗、大門口其外拾ヶ所之用心口ゟ為立退、怪我過チ無之様、常々心懸ケ可申事
蛇足ながらこの『新吉原町遊女屋規定證文』は新吉原の遊女屋が相談の上まとめた多項目にわたるもので、その最後には「一統厚相守可申候、為後證、連判致置申処、仍如件」として新吉原江戸町壱町目から揚屋町、五拾間道の者まで、さらに年寄役七人が連印し、名主四人が奥印しています。
ところで気になることがあります。それはお歯黒どぶは「遊女の逃亡を防ぐ目的」で作られたと一般に云われていることです。落語の中の言葉246「どぶ(下水)」でとりあげた通り、江戸の町屋敷の廻りには雨水等を流すため必ず下水があります。町と町の境にも下水があります。道は中央を高くして両側に下水をつくります。新吉原の廓の周りにも下水があって当然です。下水がないことはありえません。お歯黒どぶが流れ込む大下水は幅が9尺しかありませんから、お歯黒どぶもそれ以下の幅で十分なはずです。それなのに幅5間、深さ9尺という巨大なものであることが不自然なので、「遊女の逃亡を防ぐ目的」だろうと思われているのでしょう。しかし、新吉原は田圃に作られた町です。田圃を埋立てるには大量の土が必要です。その土の量をを計算した結果が幅5間、深さ9尺の下水になったのではないかと想像しています。お歯黒どぶを造るために掘り出した土で埋立てるとどのくらいの厚さになるか極大雑把に計算してみました。約1尺2寸でした。田のあぜ道と同じか少し高いくらいでしょうか。土地の造成が済んでしまえばこんな巨大な「どぶ」は必要なくなります。それでどんどん埋められて狭くなったのではないかと思っています。「どぶ」は雨が降れば周りから土やごみが流れ込みますから浚うことが必要で、浚った土を置いておく場所も五十間道の後ろに用意されていました。
一 享保二年酉1717三月十四日、奈良や懸リニテ、五十間道空地坪數并入用之譯書上候樣ニ被申渡候ニ付、書上候。
南側空地、表京間十間、裏幅同断、西ノ方裏行四間、東之方同二間。
右ハ惣下水サライ候節、土揚場ニ支配仕来候。 (『洞房古鑑』)
浚いによる揚げ土が大量に溜まると、今度はそれを処分する必要があります。溜まった揚げ土を処分する為に不必要に巨大なお歯黒どぶを埋めたのではないかとも思っています。
幕府によって許可された遊郭は江戸の吉原に限りません。京都にも大坂にも長崎にもありました。江戸以外のことは知りませんのでわかりませんが、下水はすべての遊郭に必要です。特に、埋立てる必要のない土地に成立した遊郭にも、吉原同様必要以上に大きな下水が作られているのであれば、江戸の新吉原を含めて「遊女の逃亡を防ぐ目的」であったといえましょう。その場合私の想像は単なる妄想にすぎなかったことになります。さてどうなのでしょうか。
落語の中の言葉一覧へ
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