落語の中の言葉273「比翼塚の小紫・中」
次に実在の三浦屋抱えの太夫小紫について考えます。
『北女閭起原』には三浦屋の太夫小紫(濃紫)は三代あり、その二代目が比翼塚の小紫だとしていますが、忍頂寺務編の「小紫年代記」は、時代ごとに次の八代をあげて、延宝小紫を比翼塚の小紫としています。
明暦小紫 「吉原丸鑑」、寛文の頃「当世武野俗談」
延宝小紫 「吉原大雑書」・「北里見聞録」
天和小紫 「吉原あくた川」・「吉原買物之調」
貞享小紫 「吉原源氏五十四君」・「色里三所帯」
元禄小紫 「傾城草摺引」・「傾城色三味線」中の名寄せ
宝永小紫 宝永二年吉原細見
正徳小紫 「えにし染」・「傾城手管三味線」
享保小紫 「両巴巵言」・「浮舟草」
但し、明暦小紫については「明暦から寛文まで前後十八年に亘るから、此間に二人あったかも知れぬが、詳細判明せない。」
天和小紫については「或は前代かも知れぬが兎に角揚げておく。」としています。元禄小紫以降は比翼塚の小紫に無関係のため省略します。
「吉原丸鑑」は享保五年1720の遊女評判記で、当時の薄雲の評文中に「そもそも、うすぐもと申は、明暦年中、うすぐも濃紫とて名君あり、そのころ高尾と全勢位をともにして、おしもおされもせぬきこゑ世上にあまねく、是を称して三浦の三美人と申せしとかや、云々」とありますが、「吉原丸鑑」以外には明暦期に小紫太夫があったことを示すものはないようです。小野晋『近世初期 遊女評判記集』研究篇には「小紫の名が初めて評判記に見えるのは、寛文末延宝初刊かと思われる二三の評書においてである。尤も、寛文十二年正月刊の『吉原丸裸』は未見であるが、それ以前の寛文度のものには絶えてその名を聞かない。」とあります。それで『吉原丸鑑』は除き、貞享小紫までの遊女評判記等を一覧にすると以下のようになります
三浦屋内小紫太夫
資料 小紫太夫 太夫数
1667寛文七年頃 「讃嘲記時之太鞁」 なし
1672-寛文末延宝初 「吉原天秤」 あり
1672-寛文末延宝初 「吉原袖かゝみ」 あり 13
1675延宝三年 「吉原大雑書」 あり 13
(1679延宝七年十一月 平井権八処刑)
1680延宝八年秋冬 「吉原人たばね」 あり 9
1681天和元年正月 「吉原あくた川」 あり 5
1681天和元年三月 「吉原下職原」 あり 10
1682天和二年 「吉原買もの調」 なし 太夫→格子
1683天和三年初夏 「吉原大豆俵評判」 なし 5
1686貞享三年? 「吉原酒てんとうじ」 あり 二代目の名よごし
1687貞享四年 「吉原源氏五十四君」 あり
1689元禄二年 絵入大画図 なし 格子小紫 3
「吉原酒てんとうじ」は新造(艘)の遊女のみをとりあげたもので、その中に
「 太夫 こむらさき 同(京町 三浦四郎左衛門)うち
二代目の名よごし。此ころの小哥に、もろこしだんごおといたといふは、此きみははなにあるさうな。(以下略)」
とあって、三代目であることを示しています。「吉原天秤」「吉原袖かゝみ」が初代、「吉原人たばね」から「吉原買もの調」までは二代でしょう。問題は延宝三年の「吉原大雑書」の小紫です。初代なのか二代目なのか、初代と二代の代替わりが何時なのかということです。
小野晋氏は、「初代二代の代替り襲名はいつの頃であったか。延宝二年の『吉原失墜』に小紫の名がみえないのを重視すれば、初代は寛文十一二年頃に出世し、早くもその頃までには亡くなっていたのであろう。そして延宝三年の『大ざつしよ』以前に二代目は襲名したものと思われる。」としています。
もしそうであれば、二代目小紫は延宝三年1675から天和二年1682まで三浦屋に存在したことになり、延宝七年1679十一月に刑死した権八への初七日や三十五日の後追い自殺はなかったことになります。
それで小野晋氏は次のように書かれています。
小紫と平井権八との情事や東昌寺での跡追心中については、巷説が流布されているが、『甲子夜話』や『萍花漫筆』はこれを妄説として退けている。大口屋助八と江戸町大松屋小紫とのことが附会されて、歌謡や芝居に仕組まれたことを明らかにしているのである。しかしこのことによって、かえって後人に美化され追慕されるようになり、「傾城に誠なしとは情(わけ)知らず目黒に残せし比翼塚」などと、その心中立てを礼讃され、嬌名を今日に伝えているのである。
ただ、「吉原大雑書」の小紫を二代目とすることには小野氏自身も疑問を持っています。
「しかし、(「吉原買もの調」に)年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ御求め可被成候」と言う二代小紫については、さきに延宝二三年頃襲名説を出したけれども、十四歳の出世とみても天和二年はもはや廿一二歳である。」
とも書かれているからです。江戸時代には廿一二歳は年増であって「年若」とは言いません。
ちなみに「吉原買もの調」は
買 物 こむらさき
内々被仰候、我等出入之屋敷に安き払物候はゝ御調被成度由、御尤に存候。京町三うら内に、こむらさきと申物御座候。去比まて上官にて候へ共、御さかりにて、ふりかゝりにもなり申候。生れつきほそなかく、うつくしく候。心ね、うは気に面白候。君来すはねやへもいらしといふ古哥も、身あかり計のやうにそんし候。しかし、年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ、御もとめ可被成候。安きもの御たつね候間、申進候。一笑々々。
私は「吉原大雑書」の小紫を初代と考えます。初代が延宝三年か四年に若死にして、その後それ程間を置かずに二代目が襲名したものと考えます。それなら「吉原買もの調」の「年若」にも矛盾しません。延宝二年の『吉原失墜』は徒然草の注釈書「鉄槌」のパロディであって、遊女評判記ではありません。遊女の名前が多数おりこまれていますが、そこに小紫の名前がないからと言って小紫が存在しなかったとは言い切れません。「吉原大雑書」の小紫を初代と考える理由の一つは、「吉原天秤」の評に「もつはらにはりつよし」とあり、「吉原大雑書」にも「今は、としまの君もまなひかたきいきはり」とあって、ハリの強さを特徴としているのに対し、「人たばね」「あくた川」「下職原」にはそれがないこと。二つには「袖かゝみ」と「大雑書」と「あくた川」には小紫の紋が載っていますが「袖かゝみ」と「大雑書」は木瓜の中に菊で同じであるのに対して「あくた川」は木瓜と菊になっていることです。
「あくた川」(天和元年=延宝九年1681)は小紫の不義・不差配を多数数え上げてこき下ろしていますが、そのなかに「五年いせん極月七日に、きゝやうやおもてにかいにて、もとさくしやに申ひらき有、小ながとふぎなるよしをそうす。」とあって延宝四年1676頃には二代目小紫が(太夫かどうかは分かりませんが)存在していたことがわかります。
いづれにしても少なくとも延宝四年1676頃から権八処刑後二年以上経過した天和二年1682まで小紫は三浦屋に存在しましたからその間の自害はありません。天和二年以降に自害した可能性はあります。しかし「吉原あくた川」「下職原」に書かれている二代目小紫は、後追い心中をするようなものには思えないのです。
「吉原あくた川」は小紫について次のようにいいます。
ひとたばねのことくひいきいやなり。つみなきたかをかぎちらすふてきじんたれば、此ひやうばんかなふまじ。われかはりて、むかしよりの不義をかきあらはさん。(以下多くの不差配の例をあげていますが略します)
しりのはやき事あかかねなべにて候。一さんごくいちのほれずきにて、ちらと見そめしよし、しづこゝろなきこひといふ手くだにて、大人のてきとみればくみとめうりたがり申候所、みなみなしやうこある事うたがひなし。数ぶさはいくだんのことく、(以下略)
また「吉原あくた川」の評を
「おほくは、みうら、山もと、りやうけのうわさばかりにて、御ぜんせいのきみたちまゝあれど、そこそこにいひすてぬ。さくしやの心げれつにして、画工がまいなひやとりぬらん。または一座のなじみをもつて、あがり膳をいたゞくわけあるか。人もえしらぬものどりを、高ひ山もとの女郎といひそだて、すこしのうらみあれば、やごとなき君たちを谷そこまでもつきおとす事、おのがこゝろのあくた川とは、げにげに爰にてあらはれたり。」
と厳しく批判する序をもつ「吉原下職原」ですが、小紫については
左大身従一威太夫
こむらさき
この官、吉原にて一二をあらそふ君にあらずむば、にんずべからず。この君、しよ人にこうしよくにすぐれ給へるによりこむらさきとは申せ、めんていすこししやくみたりといへども、よの人には似べからず、ふうぞくかわりたるめいたいものなり。され共あくしやうの名をとりたまふ事、よしはら一ばん也。町内にねんころをもつ事はこの君ばかりにあらねども、名たかき女郎の一度ならずかれ是とし給ふも、にあはぬ事なり。第一しさいらしくて人のにくむよりて云ひろむるなり。
と書いているのです。
また二代目小紫が廓を出た後の天和三年1683初夏刊の「吉原大豆俵評判」における小若狭の評には、次のようにあります。
小若狭 角町 久右衛門内
面躰吉。誠に其さまいたゐけに、心形ちもこ若さの、とかふ申へきなんあらす。何れも宜御わたり候へ。かく申出すを、世のひとひゐきといへる、さにあらす。(中略)
小紫悪人たれともぜんせゐをしたりといわん。小紫吉原開ひやく此方の出来物也。かの君ふさはいになくをわさは、江戸の名物高尾か名をけして吉原の伝へと成へし。さのことく小紫か不義故、出たる跡迄うらむる物はあれとも、恋しきといへる人一人もなし。又高尾かなき跡をとう人はをほう有。能名は取共あしき名を取なと申せは、万御たしなみ候へ。近付ならねは、をとなしき君はいとしく筆取候へ。
柳亭種彦は「吉原買もの調」の刊年を天和二年と推定する文のなかにこの小紫について
如此人に悪まれし故に客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし。それを此買物調の作者こゝろよく思ひ、第一に買物によそへ小紫を謗り、標題も彼が事より名つけしにやあらん、小紫も格子へおりたるを恥てや、此年出廓したり。年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。
と記しています。
この二代目小紫は若くして傑出した存在だったのでしょう、不差配による悪評判にもかかわらず全盛だったようです。柳亭種彦は「客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし」と云っていますが、三浦屋主人は客は多くとも三浦屋の太夫としてはふさわしくないと判断して格子へ格下げしたのではないかと思います。また、種彦は天明三年1783生まれ、天保十三年1842歿ですから二代目小紫が後追い心中をしたという話は知っているはずですが、小紫の出廓について、「年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。」とのみ書いています。
不差配さえなければ高尾に代わって吉原の伝説的太夫になり得る逸材が自害すれば、同時代に様々採り上げられるはずですがそれが全くなく、七八十年後の噂話をまとめたような書しか存在しないのは、実在の小紫から見て、後追い自殺は作り話の可能性が高いように思われます。
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