落語の中の言葉272「比翼塚の小紫・上」

    古今亭志ん生「幾世餅」枕より

 志ん生師匠は「幾世餅」の枕で、新吉原三浦屋の太夫小紫について、平井権八と心中したと話しています。小紫が平井権八の墓の前で後追い自殺したという話は広く知られていました。

遊女とて操の正しき有。後年に三浦屋四郎左衛門が抱に濃紫といへる三代有。二代目濃むらさきは、賊平井権八に逢染しが、権八悪事露顕ありて被召捕、御仕置被仰付しが、由緒のもの、其遺骸を目黒の里に葬りて、一堆の土と成しぬ。 しかせし後、濃紫は何気なき風情に苦界して、ある豪夫にしたしみ、終に請出されぬ。濃紫は、その請出されし夜にそこなる宿をぬけ出、目黒へゆき、権八が墓の前にて自殺したり。自殺の後、其趣意を知れるもの不便がりて、権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて、世に能知る所なり。賊とは知れど連理の契りうしなわず、死を以て報ず。遊女の貞操、このかぎりにはあらねども、因に爰に記。(石原徒流『北女閭起原』成立は天明年間1781~89、或いは享和二年1802)

この他にもさまざま書かれています。こむらさきの名は「小紫」とも「濃紫」とも書かれていますが、以下引用文以外は「小紫」に統一します。まずは話の内容から考えてみます。権八の処刑日・刑の種類・小紫自害の時期・自害の場所・その時の小紫の身分・比翼紋・幡随院長兵衛の登場有無について表にすると以下の通りです。
小紫と比翼塚.jpg
 
〇「安楽寺留書」は始めに
「 延宝五丁巳年1677
  平井権八郎一件
             武州多摩郡上布田大光山三照院
                安楽寺留書寫 」
とあって最後は
「 右筆記一冊鈴法寺前住満応老より借写せしとて小泉忍斎子みせらる。
  天保八年1837丁酉二月廿九日当直写校竟 椎   園 」
です。「安楽寺留書」では、権八は安楽寺で虚無僧になったとしています。
〇「石井明道士」は石井兄弟による亀山の敵討の実録物で、そのなかに挿話として平井権八の話が出て来ますが、安永九年1780の写本には権八の記事はないそうです(及川季江「変遷する逸話」)。とすれば権八物が加わったのはその後ということになります。
〇「烟花清談」は序に「金竜山下の茶店に、往来の里語雑談を聴て、書集たる旧章(ほうく)より、見出るまゝ書ちらしぬ」とあるように、吉原に関する話を集めたもので、「三浦や小紫貞操之事付タリ平井権八比翼塚事」はその中の一話です。その文末に「末世に残す比翼塚とて目黒行人坂の西の方、冷光寺といへる虚無僧寺に印を今に残しける」とあります。
〇「麻布黒鍬谷」は「北里見聞録」に「予麻布黒鍬谷と云書を見るに」としてその内容が書かれているもので、引用文ではありませんので、「北里見聞録」に書かれていることだけしか分かりません。
〇「久夢日記」は「延宝より貞享に至る十五年間の、江戸・京都・大坂三都の風俗巷談を、後人が古書を渉猟して編纂したもの」(「続日本随筆大成 別巻」解題)と云われ、小紫の話はその中の一つです。そしてその内容から「北女閭起原」に拠っているようです。

 因みに東昌寺・鈴法寺・安楽寺はすべて虚無僧寺です。東昌寺は下目黒にありますが、鈴法寺・安楽寺は多摩郡です。
享保二十年1735序の『続江戸砂子温故名跡志』巻之四には浄土宗十八壇林並諸宗役寺の最後に
  虚無僧番所
 金龍山梅林院一月寺 普化禅宗触頭  下総小金 江戸番所 浅草東中丁
 神明山青山寺            同州舟橋 同    橘町
 廓嶺山鈴法寺    普化禅宗触頭  武州青梅 同    市谷田町
 安楽寺 甲州            同州布田 同    鈴法寺兼帯
 東昌寺 目黒    神奈川西光寺末
江府虚無僧住居の所を番所と号、或風呂屋と云。斯徒(このと)は虚無空寂を宗とす。故に虚無僧と称す。云々。
とあります。
三寺とも江戸府外ですから『新編武蔵風土記稿』に記載があります。
〇東昌寺 境内年貢地百五十六坪下目黒町ノ西ニアリ普化宗ニテ龍渓山ト號ス橘樹郡神奈川宿西向寺末本堂五間半ニ三間半  比翼塚 境内ニアリ断碑ナリ比翼塚ノ三字ヲ彫ル白井云侠客トソノ懸想セシ遊女ヲ合葬ノ墓ニシテ普ク世ニ知ル所ナリ側ニ梅樹アリ比翼ノ梅ト呼フ(『新編武蔵風土記稿』巻四十七荏原郡)

〇鈴法寺 境内除地五段六畝二十九歩普化宗諸流ノ触頭ナリ、廓嶺山ト稱ス、本堂三間半ニ三間、本尊弥陀ヲ安ス、長一尺餘ノ木像ナリ、客殿ハ三間半ニ四間、開山養風、是モ慶長十九年吉野織部起立トイフ 薬師堂九尺四方、境内ニアリ(『新編武蔵風土記稿』巻百十八 多摩郡新町村)

〇安楽寺 境内除地三段六畝八歩上宿南裏ニアリ大光山ト號ス普化宗本郡新町村鈴法寺末、開山開基詳ナラス、客殿破壊シテイマタ再興セス、本尊ハ今假ニ永法寺ニ置、木像ノ薬師ニシテ長七八寸(『新編武蔵風土記稿』巻九三 多摩郡上布田宿)

江戸番所のうち浅草東仲町の一月寺番所だけ町方書上に見つかりました。
〇一月寺番所 浅草東仲町
                    宿主文右衛門店
                        一月寺番所
普化禅宗惣本寺触頭下総国小金宿一月寺番所の儀は、御入国の砌より御府内へ罷りあり 御用向き相勤め来り候。もっとも、御府内へ地所御座なく候につき、借地または店借にて罷りあり候。これにより、場所替えなど致し候節は、その時々寺社 御奉行所にお届け申し上げ候。もっとも、古来より所々に罷りあり、当東仲町へは享保年中に罷り成り候。
右の通りに御座候。この段申し上げ候。以上。
                       一月寺院代
  (文政八年1825)酉十一月十九日        西 向 寺
               (『江戸町方書上』浅草東仲町)

石井良助氏は『第二江戸時代漫筆』に
江戸時代の普化宗の総本山は下総小金の一月寺と武蔵青梅の鈴法寺の二つであって、各寺はいずれも末寺があり、虚無僧はこのいずれかの寺に属したのでした。普化宗の寺の住持は剃髪の場合には住職、有髪のときは看主(かんす)と呼びました。(中略)
 普化宗の末寺を風呂屋とか風呂寺とかいいました。これは二代目の祖が寺中に風呂をたてて、諸人に施しましたが、その中、志ある者が薪木料を志として置いたのを申請けましたので、それが言伝えられて、風呂寺という称呼ができたといわれます。

と書かれています。

 安楽寺留書を除くと平井権八の処刑から百年程後に書かれたものです。権八の処刑日を「石井明道士」「幡随院長兵衛一代記」は貞享元年九月廿七日と誤っており、その他の書には日付がありません。刑の種類も「石井明道士」「麻布黒鍬谷」「幡随院長兵衛一代記」が磔としている他は明記されていません。これらの話が書かれた頃には、処刑されたことだけが伝わっていて、処刑の年月日も磔だったことも不明になっていたものと思われます。安楽寺留書が権八処刑前の延宝五年になっているのも、それらが不明になった頃に書かれたからでしょう。延宝五年に書かれたものではありえません。椎園は天保八年の時点で権八の処刑日と磔だったことを知らなかったために、この留書写を本物と思い「平井権八郎事実」として記録しています。
 また、「平井権八と幡随院長兵衛」で紹介したように、幡随院長兵衛は平井権八が磔になる二十数年前に死亡していますから、小紫の自害の場に登場するはずはありません。以上からどうも事実に基づいて書かれたものではない可能性が高いように思われます。しかし小紫の自害自体が無かったということにはなりません。そこで次に、実在した小紫と比翼塚について検討してみます。



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