落語の中の言葉271「幡随院長兵衛追補2」

 幡随院長兵衛の生業について
WEB上には幡随院長兵衛の生業を「口入業」としているものもありますが、正確ではありません。幡随院長兵衛の生業は武家奉公人の一般口入ではなく、小普請高割人足の請負だったようです。『昔々物語』(享保十七1732・十八年1733頃八十歳程の老人の著)に幡随院長兵衛の時代の一般の武家奉公人の口入と小普請高割人足の請負のことが書かれています。

一般の武家奉公人の口入については
むかしは家来春替り二月二日也、寛文申年(寛文の申年は八年1668)より三月五日成、出替の日奉公人肝煎の宿来り、御家へ何様の御奉公人何人御用候哉と家々に来り問答夫々申會かへす、また外のものも右の通申来、幾人も可掛御目とて男女五六人も召連来、其内人柄気に入候者有之候得は、宿何と申者大屋は誰、先主は誰と尋、切米の高取替、夏貸等極め、男女共に食に付、先一日召仕色々奉公申附、女には縫物其外藝致させ、又早朝より参り候様申付返す、男女共に同前也。翌日もまた呼ひ終日奉公申付、又明日も参り候様に申付、如斯五日も六日も毎日呼出召仕其内外にも宜者参り候へは、引替るもあり、五日も十日も呼候へは、奉公人最早幾日相勤候、願くは御請状可被下と願ふ時、請状致させ、男は其晩引越、女は翌晩引越、三日も四日も能働時、奉公今まてはよく勤候、おのれは新参、七十日と申にてはなきかなとゝ油断せす、其頃奉公人は食に付是もはつし候得は、殊外むつかしく成て奉公人も構て宿迠も及迷惑、惣して男の奉公人は、少しも悪舗事あり慮外するなれは、家々にて手討にする。欠落すれは、尋出させためしものにする故、家々のためしもの、爰かしこに壹ヶ月には二三度も有之ゆへ、下々作法もよく、刀脇差の身の心見も調(とゝのふ)なり。

小普請高割人足の請負については
八九拾年以前の昔は、小普請の面々御破損の人足を出す、百石已下は御免にて不出、百石(以上)斗出す、五百石以上より杖突とて侍壱人たち付に羽織を着し、人足を引連出、人足の出し様大かた萬(百)石に付一ケ年に貳三人出す。杖突一年に五六度出、人数の扶持かた一ヶ月に壱人扶持つゝ被下、手前の中間御城の人足に出す故、春中間召抱候時小普請の中間は江戸中大屋請とて、請人に差添て大屋請に立、文言は此誰様御内御仲間御城に普請に於て何様の悪事仕候か、又は御奉行様方少も慮外仕候はゝ、當人の儀は不及申上請人幷大屋迠何様に被仰付候共、少も御恨に存間敷候と文言、出入の有人数、當る前日に誰々内杖突誰よりとて小普請の用人方へ手紙を明日何方の御普請に人足何人申候由、小普請奉行より被仰付候、御高割其元様の御高にて、明日何壱人(何処へ何人)と成共二人と成共人足御出し候節に御申上候間、明日何時何分何所へ人足御出可被成候、其節私罷出差圖致御普請場へ同道仕可申と申来る。相心得申由返事仕、扨其日夜の内主人も起其人足遣、仲間御普請大切に相勤候様にと申付出す、其日の晩方七つ過帰る迠気遣ひ致し相待、夫より後は手前の仲間出る事止み、町人に普請人足請合候者出来、請合の町人に金子渡す、譬へは百石に付金子何程にて請合可申と申者有之候へは、下直成るは百石に付貳朱斗にて請合も有、亦二三百石にて壱歩貳朱も有、尤慥成家屋舗持たる町人を請合、尤人足毎日御扶持方其町人の方へ請取也。方々故大分の金高成候付、請合たる町人夥しく有、尤請状毎年仕直し御普請場人足少も間違相違仕間敷、人足慥成者出し可申候。萬一少しも悪事仕出し候はゝ人足は不及申、私等請人まて何様の曲事被仰付候様にと證文致させ取置候也。寛文の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る。其後亦小普請金上り、百石に付壱両貳歩に成、百石以下も出す。

 深井雅海氏の「御庭番の隠密活動」(徳川林政史研究所監修『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』)に、小普請組支配船越駿河守景範に関する御庭番中村与八郎惟寅の風聞書の解説があり、その中に小普請についての簡潔な説明がありますので紹介します。
小普請とは、旗本・御家人の内、家禄三〇〇〇石未満の無役の士をいう。幕府では、無役の士のうち家禄三〇〇〇石以上、あるいはかつて布衣以上の役職に就いていた者を寄合に編入し、家禄三〇〇〇石未満、および本来は寄合の資格を持つ者でも処罰された者を小普請に編入した。
 その名称の起源は、はじめ老人や幼少で無役・無勤の者が、日頃の奉公にかわるものとして殿中その他の小普請の際に夫役を負担し、家士や奉公人を人夫として差し出したところにあるという。これは元禄三年(一六九〇)より役金の上納に変わり、それを小普請金と称し、家禄五〇〇俵(石)以上の者は、一〇〇俵(石)につき金二両を上納した(それ以下の者は軽減)。
 小普請ははじめ留守居の支配に属したが、享保四年(一七一九)六月には小普請組支配(役高三〇〇〇石、布衣役)を新設して、家禄三〇〇〇石未満二〇〇石以上の士をその配下となし(二〇〇石未満の士は従前のように留守居支配)、さらに宝暦三年(一七五三)六月には留守居の支配を廃止して、二〇〇石未満の士も小普請組支配の所属とした。
 以後は御目見以上の士(旗本)を小普請支配、御目見以下の士(御家人)を小普請組ととなえることになったという。その頭である小普請組支配は一〇人前後置かれ、各組に小普請組支配組頭(役高二〇〇俵、御目見以上)一人、小普請組世話役(役高五〇俵、御目見以下)三人の他、小普請組世話取扱・小普請金上納役・小普請医師などが所属した。

文政元年1818の武鑑には
  御小普請支配
    御老中御支配 布衣 中之間 三千石高
    当御役享保四ヨリ新規 前八組宝暦ヨリ十二組
    〔同組頭〕
    焼火之間 高無構 御役料三百俵 延享三ヨリ新規
    〔同世話役〕
    五十俵高 御役扶持三人扶持
とあって、御小普請支配として次の八名をあげています。
朝比奈河内守昌始・石川右近将監忠房・松平石見守正卜・大島肥前守義徳・近藤左京政風・松平内匠頭乗譲・米津小太夫田朝・堀田伊勢守一知
各御小普請支配には組頭一名と世話役三名が載っています。

 高割人足の請負業については三田村鳶魚氏が『武家の生活』で分かりやすく説明しています。
小普請というのは御役に出ないやつで、つまり非役の分になる。ですから、小普請になりますと、百石の者は百石、百俵の者は百俵、持高でいるのです。閑職のわけだ。小普請奉行とか、小普請方とかいって、本当に普請する役回りではない。無役ということになるのです。小普請という言葉は、屋根の瓦が壊れたとか、垣根が壊れたとかいうような小さい工事 ― 補修工事の意味で、そういうことをやるのが、小普請奉行の仕事なのですが、無役でいる旗本・御家人は、御役をつとめませんから、この小普請工事に参加させたのです。それを後には、小普請金を持高に割り当てて出させて、工事に参加することに代えたのです。(中略)
 小普請金というものは、七月に三分ノ一、十一月に三分ノ二納めるのですが、これはどういう標準で出すかといいますと、知行を取っている者でも一石一俵の割、すなわち俵取りも一俵を一石として勘定するのです。扶持は総締にして俵に換算するので、前に申した老年小普請を除くほか、二十俵未満の人を取り除けて、他は皆出すのです。二十俵から五十俵までは金二分、百俵以内は一両、百俵から五百俵までは百俵ごとに一両二分、五百俵以上は百俵ごとに二両、ということになっております。

   小普請の夫役―割元業の成立と消滅、遊侠の掃蕩

 この定は元禄二年1689からと聞いておりますが、延宝三年1675までは夫役でありました。その時は、百石一両と押えて金を納める。夫役の時代には、工事のある場合には、小普請奉行から人足を割当てたのですが、百石以下には当てません。百石以上は百石ごとに二三人ずつ出させるので、五百石になると、そのほかに杖突が一人出る。杖突というのは人夫の小頭みたいなもので、これは士ですが、他の人夫は中間です。しかし、寛永度になりますと、もう人夫は持っていない。実際人がないのだから、人夫を出せといわれても人が出せない。臨時に雇うよりほかに仕方がないので、どこかから雇って、従来いたような顔をして、小普請奉行の指図通りに人を出す。この出した人については、工事に出る時だけ雇った者でありましても、とにかく家来のわけなのですから、何か仕損いがあれば主人に責任がくる。相手が幕府だけに、なかなか面倒臭い。随分これを出した旗本の身分に関係するようなことがありましたから、普通の雇入請状の請人は勿論、本人の尊属の住っている土地の町役人に加判させる。恐しい格高な雇人になったわけです。
 それでも、不断用のない人間を抱えておくわけにはゆきませんから、そういうふうにしていたのですが、とてもこれは続きません。そこで、慶安頃からは、町人が引き受けるようになりました。こうなると費用も安くなり、百石について二朱、二三百石について一分二朱くらいで引き受けてくれる。これは、幕府から、出した人数の各々に一人扶持をくれるので、それは町人に渡します。その上に、二朱とか、一分二朱とかいうものを払うのですが、請け負わせるだけは請け負わせても、幕府へは請負人誰の名義で出すのではない。何の某という士の名義で出すのですから、間違った場合には、腹を切らなければならぬ。よっぽど請負人に信用がなければ、頼むわけにはいかない。
 また、これを引き受ける割元なるものの方でも、いつそう言われても差し出し得るだけの人数を持っていなければならない。常に元気のいい若い者を持っていて、たとえば、松平備後守から言って来れば、直ちにその家来として人を出す。松平美濃守から命令があれば、またその名義で直ちに人を出す。そういうわけですから、手に始終それだけの寄子を持っていなければならぬのみならず、寄子はその割元の言うことを聞くようでなければならない。割元は、旗本からの信用と、寄子からの信用と、両方釣り合わして行くのだから、非常に骨が折れる。こういう次第で割元業が成立したのですが、その中に、例の幡随院長兵衛がおりました。割元業者は幾人もおったのだけれども、最も人に知られたのが長兵衛で、あれはただの侠客なんていうものではありません。それが、小普請金の制度が出来るようになると、長兵衛の稼業は上ったりで、割元業も延宝度からなくなったわけであります。これは遊侠掃蕩が行われたので、小普請金になるに先立って、割元業が滅亡したのです。

 金納に変わった時期について、『昔々物語』には「寛文(1661~1673)の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る」とありますが、小普請金の最初の規定は延宝三年1675十二月で
 小普請人足金ノ定
小普請人足御用千石拾両百石付壱両、知行高下其割を以請負被仰付候(割注:按延宝八年九月ヨリ小普請百石付金弐分改正アリ) (『徳川禁令考』巻17)
とあり、詳細な規定が出来たのは元禄三年1690です。
戸田茂睡『御当代記』には、
元禄二年1689極月十六日、小普請衆、人足料之事、二十俵御切米より百石迄金二分ヅヽ、百石より九百石迄百石付金壱両二分ヅヽ、千石より九千石迄千石付二十両ヅヽ、竹村九郎左衛門・松田又兵衛方迄遣し可申由

『常憲院殿御実紀巻廿一』には
元禄三年1690六月 此月小普請金上納の制を定めらる。例年小普請金出す輩。金は後藤包。銀は常是包とし。七月三分一。十一月三分二出すべし。金銀上納の事は。その役人より元方金蔵に納むべし。七十歳以上にて老免の輩は。この小普請金出すに及ばす。尤前々より小普請にて金出し来りしは。七十歳に餘りたりとも出すべし。小普請の輩。致仕あるは病死して其子家つぎ。其まゝ小普請たらば。小普請金出すべし。分地せしもこれにおなじかるべし。但し子役つとめ来り。家つぎし後も役つかふまつらば。家督命ぜられし月より。小普請金出すべからず。父役つとめ。子いまだ役つかふまつらずして家督命ぜられ。小普請にいる輩は。その月より小普請金出すべしとなり。(憲教類典)

とあります。さらに詳しい内容は、『御触書寛保集成』元祿三午年1690十一月の「小普請金取立之事」に書かれています。


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