落語の中の言葉270「幡随院長兵衛追補1」

一、幡随院長兵衛の歿年

幡随院長兵衛の歿年は同じ三年でも、古碑・寺の過去帳では慶安1650、徳川実紀では明暦1657としていて七年の開きがあります。 古碑は長兵衛の妻の父親が建てたものですから長兵衛の死後間もなくのことと思われます。寺の過去帳も特別のことがない限り、書き写して新しくすることもないでしょうから長兵衛の死と同時代のものと考えられます。一方『徳川実紀』は吉川弘文館『新訂/増補 国史大系』の『徳川実紀』第一篇凡例に次のようにあります。


徳川実紀は家康以来家治に至る江戸幕府将軍の実紀にして、一代ごとに将軍の言行逸事等を別叙し、之を附録とせり。大學頭林衡総裁の下に成島司直旨を奉じて撰述し、文化六年1809に稿を起し、嘉永二年1849に至りその功を成したり。総じて之を御実紀と稱し、各代将軍の廟號に因りて題し、東照宮御実紀を始め、台徳院殿御実紀以下俊明院殿御実紀に終る。今こゝに徳川実紀といへるは、世に行はるゝ通稱に從ふなり。
註:俊明院=第十代将軍家治 宝暦十年1760九月将軍宣下、天明六年1786九月歿


 『続徳川実紀』第一篇 凡例

本書は家康より家治まで徳川氏歴代将軍の實紀の後を承け、更に第十一代家齊の實紀より漸次稿を起して第十五代慶喜に及べり。然るに業半ばにして戊辰の變に遇ひ、家齊・家慶の二代は、編述僅に成りたれども、其功を完くするに至らず、家定以後に至りては、たゞ資料を蒐集按排して、簡單なる綱文を附したるのみ、遂に未定稿のまゝに傳はれり。さきに續徳川實紀と題して経済雑誌社よりこれを刊行せしが、文恭院殿御實紀の中、天明六年より文化十四年までを、こゝに新訂増補国史大系第四十八巻として公刊す。

 因みに『徳川実紀』第一篇 凡例には「嘉永二年1849に至りその功を成したり」とありますが、『慎徳院殿御実紀巻七』(『続徳川実紀』第二篇)には

天保十四年1843十二月廿二日 儒臣林大学頭御実紀編集の事。父大内記申上しむねも。こたび全部たてまつりしによて時服を賜ひ。その事にあづかりしともがら二十五人賜物差あり。
とあって、天保十四年には「俊明院殿御実紀」まではほぼ完成しているようです。

『徳川実紀』は「文化六年1809に稿を起し」とありますから明暦三年1657からでも約150年後に編集が始まったもので、古い記録を基にまとめられたものです。

「厳有院殿御実紀巻十四」にある

明暦三年1657七月 此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記)
 という短い記述も「日記、御側日記、尾張記」から作られたもののようです。

事件発生の年月が三つの史料のすべてに書かれているのか、あるいは一つだけにあるのかは元史料を見ないとわかりません。

幡随院長兵衛の歿年は、現在のところいずれが正しいかは不明です。もっともこれ以外にも例えば『久夢日記』(文化四年1807頃)には、武士男達の部に

 水野十郎左衛門、大小神祇組、幡随院長兵衛に意恨ありて、たばかりころしぬ、長兵衛子分ども、十郎左衛門殿を吉原の土手にてさいなまれ、屋敷帰り御しおきになりぬ、
 幡随院長兵衛、(割註:下谷幡随院境内に住す、)六法組、よき男なり、花房大膳殿もの、浪人してみじかきあい口に大刀さし、名高き男達なり、寛文五乙巳年1665より十八年の間男達をし、一度もひけをとらざるところ、水野十郎左衛門いこんあるゆへよびよせ、いろいろちそういたし、大酒いださせこゝろをゆるさせ、大勢にて切ころしぬ、時に天和二壬戌年1682のことなり、長兵衛三十六歳にて、水野がために横死す、
 などとあります。


二、幡随院長兵衛病死説に十方庵が何もコメントしていない事


此長兵衛といふもの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名だゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、云々(『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年1825)
とだけ云って、二説とも「病死」としていることについては触れていません。


演劇でおなじみの侠客幡随院長兵衛の一件。三千石の旗本水野十郎左ヱ門が、身持不行跡の理由で切腹となるのが寛文四年(一六六四)で 長兵衛は、その一四年前の慶安三年(一六五○)に十郎左ヱ門の邸の湯殿で殺害された、とされている。
 長兵衛に関する出版物がずっと後代になって、演劇などによって有名になるまで発行されなかったのは、長兵衛の行跡には常に水野十郎左ヱ門その他の旗本武士が関係していて、これらの旗本の行跡を記すことは、出版界の禁忌(タブー)とされていたからであって、以下に記す川柳なども、筆写・転写による実録本(奇癖道人序『幡随院長兵衛』等)もしくは幕末の中形読本(『幡随長兵衛一代記』等)あるいは、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』などの歌舞伎脚本によったもので、その真偽を確かめることはできない。(花咲一男『江戸入浴百姿』)

『江戸入浴百姿』に取り上げられている川柳は

   爼板へ乗るもあづまの男達     一〇七24オ   文政十二年刊

   まな板へ乗て男をたて通し     明八天2

   爼板へ乗て男の骨を見せ      樽一三五17ウ  天保五年刊

   男を磨き居風呂で落命し      天満宮狂句合48ウ

   顔をよごされ白柄は湯の支度    入船狂句合106ウ

   長兵衛の迎ひ焼場へいそぐやう   樽一〇六22ウ  文政十二年刊

   早桶の迎は江戸の花川戸      樽七八37    文政六年刊

   迎ひ早桶院号のつくをとこ     樽一〇六22   文政十二年刊

です。ただし出版年は引用者の追記。奇癖道人序『幡随院長兵衛』『幡随長兵衛一代記』が書かれた時期は不明です。黙阿弥の『極附幡随長兵衛』は明治十四年1881十月東京春木座で初演といいます。

川柳のうち出版年は柳多留しか分かりませんが、文政六年刊1823(樽七八)もあります。十方庵の『遊歴雑記』五編巻の中の二年前です。

さらに古くは、明和の頃(1764~1771)に関宿藩士和田正路が著した『異説まちまち』には


男伊達のはやりたるには、水野十郎左衛門名高し。幡随院長兵衛といふ町男、伊達には及ばざりしかば、たばかりて殺せしといふ。水野の悪事侠気、人口に余る計り也。後切腹被仰付、金の水引にて髪を結、腹を十文字にきりけるといふ。白無垢にしらみを縫紋にして登城したりと云。其外のこと不可勝計。

とあって、一部の人には知られていましたが、十方庵は文政八年の時点で知らなかったようです。広く知れ渡るようになったのはいつ頃からなのでしょうか。


三、幡随院長兵衛の住所について

『遊歴雑記』では浅草花川戸町と下谷幡随意院門前町の二説をあげていますが、これもはっきりしたことは、わかりません。

源空寺の過去帳には「金五十両供養代、花川戸所々朋友より」とあり、後に掘り出した古碑を祀ったのも花川戸に住んでいたという巷説から花川戸の者です。

一方、浅草幡随院門前については確かな資料を見ていません。反対に浅草幡随院門前の町方書上には、


一門前惣家数、表裏家とも八十四軒に御座候。
一町内南北八十四間三尺、東西四十間
  但し、幡随院の表門構いの分相除き申し候。
(下げ札)
 門前町屋表家五十五間(軒)御座候

一幡随院(長)兵衛当所に住居致し候由、世俗種々申し伝えなども候えども、取りとめ候義いっさい御座なく候。住居の義も是以て相知れ申さず候。土地の義も右同断に御座候。
  文政九戌年     名主これなく
    二月十五日     月行事 五郎兵衛

と書かれています。

 嘉永六年の尾張屋板切絵図から幡随院と源空寺の部分をあげます。上野と浅草寺の中間にあります。


源空寺.jpg




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