落語の中の言葉269「平井権八と幡隨院長兵衛」

    十代目桂文治「湯屋番」より


 文治師匠は、平井権八が幡隨院長兵衛のところで居候をしていたことから、居候のことを江戸では「権八」と言ったと話しています。幡隨院長兵衛と平井権八の話は広く知られていたようです。しかし これは芝居等によって広まったもので、実在した平井権八と幡随意院長兵衛を結びつけて作り上げた物語であって、小野小町が鎮西八郎為朝に出した手紙と同様のものです。

 平井権八は身元も年齢も不明です。


誰でも知っている平井権八、あれは鳥取の城主松平相模守光仲の家来、平井正右衛門という、六百石取る者の総領子で、寛文十二年の秋に、親仁に対し暴言を吐いて辱めた本庄助太夫という者を斬殺して、ところを立ち退いた。それから江戸へ来て、渡り徒士になり、忍の城主であった阿部豊後守正武、信州高遠の鳥居左京亮忠常などのところを、渡り奉公をしているうちに、だんだん江戸慣れてきて、辻斬りやら強盗やらを働くようになり、吉原の遊女の小紫に馴染んだ。この小紫に馴染んだという話は、嘘でもないらしく思われる。けれども、今鳥取の池田侯爵家の方で調べてみると、平井正右衛門などという六百石取りの士は分限帳にない。従って、本庄助太夫と喧嘩が出来るということもないわけで、池田家の方では、平井権八に関しては、記録もなければ証拠もない。全く事実無根だといっている。
 それからまたある伝えによれば、権八は熊本在の白梅村というところから出てきたもので、白梅権八といっていたのを、後に白井権八と言い伝えたのである、ともいっている。権八の伝説については、たしかなことは一向わかりません。だが、平井権八が、延宝七年十一月三日に品川で磔にかかった、ということだけはたしかだ。磔にかかった時の捨札というのが残っておりまして、これは疑うべきものでない、たしかなものであります。(中略)
 権八の墓なんていうものも、今では目黒の名物になっておりますけれども、あれも実はいくつもいくつも墓があるのです。小紫という女は、金持に身請されていたのが、目黒の虚無僧寺の東昌寺に権八の墓がある、その墓に詣でて、そこで自殺した、という話があって、いわゆる比翼塚なるものが出来た。(中略)権八・小紫の連理塚は、目黒権之助坂に、中根六右衛門という者がある、この者の庭の中に、高さ四尺ばかりの自然石の連理塚がある、明治三十四年に、六右衛門の後家が亡くなって、跡を相続する者がないから、菩提寺である桐ヶ谷の安楽寺へ移した、ともいう。墓がわからないどころの話じゃない、人間の筋道がわかっていないのですが、捨札にも平井権八とあり、苗字があるのを見れば、士出の者であるには相違ない。士出の者で、泥坊を働いて磔になるほどの罪科を犯す者があったことはたしかです。(三田村鳶魚『江戸の白浪』)

大田南畝は『一話一言』巻之三十八にその捨札を記録しています。


延宝七未1679十一月三日断
一平井権八年不知 此者武州於大宮原小刀売を切殺し金銀取候者、於
 品川磔。
  札文言
  此者追はぎの本人、其上宿次之証文たばかり取、剰手鎖をはづし
  欠落仕に付て如此行ふもの也。
     十一月

曲亭馬琴も同文を『兎園小説 余録』(天保三年)に載せています。

 また十方庵敬順は『遊歴雑記』五編巻の中(文政八年1825)に次のように書いています。

御仕置の御書付左のごとし
  延宝七未年1679十一月三日御仕置
  此もの儀、武州大宮原に於て小刀売を切殺、金銀奪取、或は熊谷
  土手にて絹売馬士共切殺金銀奪取、其上常々追剥し本人並宿次之
  証文謀り取、是迄数多辻切致し剰手鎖を迦(ママ)し迯去候始末
  重々不届至極に付、於品川磔可申付、

磔になった時の年齢も諸説あります。

終に鈴ヶ森にて磔付に被仰付ける、十六才にて国を出、年二十三歳に至る迄、人を殺す事百八十五人也、(寛閑楼『北里見聞録』巻之六 文化十四年1817刊)


評定相極まり九月廿七日御仕置あるべしとて鈴が森へと引れ行、真先に平井権八生年弐拾五年、(『石井明道士』巻の拾)


平井権八について確かなことは延宝七未年1679十一月三日に品川において磔になったことだけです。


 一方幡随意院長兵衛には碑がありました。


 幡随意(ママ)長兵衛墓 源空寺境内記。下谷源空寺境内に幡随意長兵衛の墓といふ石地蔵をほり付たる碑二基有。山脇惣右衛門といひしものゝ立てし由彫付けてあり。
 幡随碑.jpg 此の通りの地蔵二躯あり。年号法名等全く 
  同じくて、たゞ左右に書付しばかりなり。 
  地蔵の古色実に竒古のものなり。〔割註〕 
  歿日は四月十三日といへり、伝馬町村田長 
  兵衛鏡師といふもの今の施主なり。」
芝居年代記。寛保四(甲子)年1744春中村座碝 
(サヾレイシ)末広源氏江戸男立の親分ばんずい 
長兵衛、大谷広治、小性梅之丞に玉沢才次、ば 
んずい長兵衛梅之丞に、むたいに衆道をいひか 
け、恋塚の門兵衛と出入立合の所、大評判大当 
り。〔割註〕芝居狂言に、幡随意長兵衛を出せ 
しはじめなるべし。」(栗原信充 手録『柳庵随 
筆』波字篇(巻之三) 柳庵は、寛政六年1794 
生、明治三年1870歿)


  源空寺中幡隨長兵衛が墓
一、武城下谷新寺町源空寺浄土は東本願寺添地の北に隣り、貳編に鐘の銘及び源空上人の木像より、本號引地の譯など具に述しかど、此拾餘年前幡隨院長兵衛が墓碑を掘出し、淺草花川戸町に住居せしといふ巷談より、花川戸町の好事の者一流して古碑を取繕ひ建、聊法事の学びせしより猶芝居がゝりの者、就中優伎古松本幸四郎錦幸は、幡ずい長兵衛が狂言して度々当たるより、当時の幸四郎錦升もこれに縋りて、両三度まで幡隨長兵衛が役廻りにて評判の能かりし程に、件の石碑の後へ卒都婆を営み、しらぬ人にも回向追福にあひしは仕合者といふべし、その頃古碑の模形を写し置しを、爰に図する事左のごとし、
幡隨長兵衛碑遊歴.jpg右、慶安三庚寅年1650より文政八乙の酉年 
1825にいたりて百七十七年に及べば、親族 
も絶て施主山脇惣右衙門といふものも疾家 
名断絶也しけん、無縁の碑ゆへ土中へ埋め 
たりしを、近頃掘出したる也、但し年號の 
み鍛付て、帰空の日のしれざるは、存命の 
内建しかと思えば、施主の名あるは歿後建 
しとも思はれて未審(イブカシ)、道散とい 
ふは長兵衛にて、壽散(ママ)といふは妻 
の戒名やらん、歿故の月日源空寺の過去帳 
には定て記しありぬべし、此長兵衛といふ 
もの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名たゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、(十方庵敬順『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年(1825)


その源空寺の過去帳の写が、加藤曳尾庵『我衣』巻十三(文政元年1818)にあります。


 慶長十二年1607二月五日
 忠信院大休義心居士              塚本長兵衛父
   右肥前国の住人也
  当寺旦那山脇惣右衛門を以、法事頼に来る。是より長兵衛檀家と成り金五両寄附
 善譽壽教勇士                 幡隨長兵衛
  慶安三年1650寅四月十三日、吊(弔)二十六日
幕四ッ六役十二僧、施主は朋友大勢。江戸に名高き長兵衛也。俗に幡隨長兵衛と云。本名、塚本惣右衛門。引付檀那也。
金五十両供養代、花川戸所々朋友より。石塔は(山脇)惣右衛門より建る。後代に及ても無縁に不相成と申事。尤地蔵尊二躰被造立。
  慶安三寅二月十四日
 善譽道敬(ママ)信女             山脇惣右衛門娘
  右源空寺過去帳の写

 幡随院長兵衛の末孫について、菅園『そらおぼえ』(明治十五年)には次のようにあります。


幡随院長兵衛の末孫 大伝馬町弐丁目南がわ中程也、むかし江戸の花と呼れし、町奴大親分ん幡隨院長兵衛の末孫は、代々村田長兵衛と称し、大伝馬町弐丁目南がわ中程の表店にて、銅鏡、眼鏡を売りて家業とす、菩提所は下谷五台山源空寺にて、浄土宗也、男伊達ばんずい長兵衛の墓も、同寺卵塔の内に現存す、村田の家にて、仏事、年回等今に絶へず、
村田長兵衛は、明治十五午年、本町三丁日南がわ西角へ転宅す。

文政八年十二月の源空寺の寺社書上は以下の通りです。

  善譽壽教勇士  俗幡随長兵エ

          本名塚本長兵衛

    慶安三寅年四月十三日死去

  善譽道散信女   山脇惣右衛門娘

           長兵衛妻とも云

    同年二月十四日死去


 長兵衛が死亡した年は古碑と寺の過去帳では慶安三寅1650としていますが、徳川実紀には明暦三年1657とあります。

明暦三年七月
此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記)

徳川実紀にも「處士」とありますから、幡随長兵衛は武家出身であることは確かなようです。

幡隨院長兵衛の歿年は慶安三年1650四月十三日(古碑・寺の過去帳)、あるいは明暦三年1657七月(徳川実紀)。一方、平井権八は延宝七年1679十一月三日処刑

つまり平井権八が磔になったのは幡隨院長兵衛の死後29年後あるいは22年後なのです。


 ところで疑問点が二つあります。一つは長兵衛の歿年に二説あること。今一つは十方庵が長兵衛の住所・生業について二説をあげ、「何れが是なるやしらず」と云いながら、二説とも長兵衛を病死としていることについては何も触れていないことです。



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