落語の中の言葉268「鼠小僧」

     十代目桂文治「お血脈」より

 落語には泥坊の咄も多くありますが、錚錚(そうそう)たるところは出てきません。この咄には珍しく石川五右衛門が登場します。信濃の善光寺から血脈の御印を盗み出す役を務める者を選ぶところに、日本の有名な泥坊の名前が出てきます。袴垂保輔、熊坂長範、石川五右衛門、それに鼠小僧次郎吉です。袴垂保輔以外は実在の人物です。袴垂保輔は袴垂と藤原保輔の二人を一つにしたもので、「袴垂保輔」は実在しません。これらの泥坊は伝説や芝居等で有名であるものの、その実像は不明です。最も現代に近い鼠小僧も真の姿はよくわかりません。
 次に鼠小僧の、生まれと生業・捕縛時の様子・首の晒された場所について江戸時代の風聞を紹介します。
一、生まれと生業
○曲亭馬琴『曲亭雑記』巻四下編
此もの元来木挽町の船宿某甲(なにがし)が子なりとぞ、いとはやくより放蕩無頼なりけるにや。家を逐(おは)れて武家の足軽奉公などしけり。文化中箱館奉行より町奉行に転役して程なく死去せられし荒尾但馬守の供押(ともおさへ)を勤め、其後荒尾家を退きて處々の武處(ぶけ)に渡り奉公したり。依て武家の案内に熟したる歟といふ一説あり。
 最後のところに「虚実知られ(ね)ど風聞のまゝ記すのみ」とあります。

○塵哉翁『巷街贅説』寛政三年1791から安政四年1857の巷街雑話贅説
右次郎吉、初めは建具渡世いたし、日々五六匁の作料は取候よし、当時深川辺徘徊いたし居、博奕渡世にいたし罷在候由、鼠子(ママ)僧と申触し盗賊に有之、父は堺町中村勘三郎座芝居木戸番、定七と申者にて、大坂町に住居致し、十三ケ年程已前勘当いたし候よし、

○鈴木棠三『藤岡屋ばなし』
右次郎吉出生新和泉町也。
勘三の木戸番目かち定吉の悴也。新和泉町内田の裏て生也。

二、捕縛時の様子
○『曲亭雑記』
かく今茲(ことし)(割註:天保三年壬辰)五月廿日の夜。濱町なる松平宮内少輔殿屋敷へしのび入り。納戸金をぬすみとらんとて。主侯の臥房(ふしど)の襖をあけし折。宮内殿目を覚して。頻に宿直の近習を呼覚して。云々の事あり。そこらをよく見よといはれしにより。皆承りて見つるに。戸を引あけたる所あり。さて盗人の入りたらんとて。是より家中までさわぎ立て。残す隈なくあさりしかば。鼠小僧庭に走り出。屏を乗て屋敷外へ摚(たう)と飛をりし折。町方定廻り役(割註:榊原殿組同心大谷本七兵衛)夜廻りの爲。はからずもその處へ通りかゝりけり。深夜に武家の屏を乗て飛をりたるものなれば。子細を問ふに及ばず立地に搦捕たり。扨宮内殿屋敷へしのび入りしよし白状に及びしかは。留守居に届けて掛合に及びしに。途中捕もの趣に取計くれ候様頼(たのみ)に付。右の趣に執行ひて。向寄(もより)の町役人に預け。明朝町奉行所へ聞えあげて入牢せられ。(以下略)

○『藤岡屋ばなし』
右五月八日松平宮内少輔方て捕押へ候て、南組同心相場半左衛門方へ案内之有り候へども、半左衛門方より北組同心豊田磯右衛門へ通達及び、磯右衛門召捕り候よし。

○未詳(大坂の医師?)『浮世の有様』(文化三年1806起筆、弘化年中に至る天変・地異・人事を記録)
大坂川口與力首藤四郎右衛門が実況を慥に聞きしとて、予に語りぬるには、すべて賊へ仰渡されの始末にて、賊を召捕つて差出したる諸侯の名をば忘れしが、何分小大名の様に覚えたり、此賊、此屋敷奥向へ忍び入りしを、更に之を知る者なかりしに、一人の女ふと目を覚して、密に殿へ告げしかば、其殿起出でて近習の者共を引起し、召捕にかゝりしかば、賊は少しもわるびれたる事なくて、「是迄斯樣に盜して世を渡りぬる事なれば、召捕へらるゝ事は素よりの覚悟なり。されども陪臣の手には決して捕へらるまじく思ひしに、大名の直に召捕へらるゝ事故、此場を逃るゝの心なし。故に少しも手向せざれば早く繩掛けよ」とて、尋常の事なりしといふ。

○未詳(大御番の旗本?)『事々録』(天保二年1831から嘉永二年1849に至る風聞雑説を記録)
か程の大賊も天網もらさす、時来り松平宮内少輔の深殿の天井に、日頃の大胆をもて深更をまつうち、眠りにつき大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者や有けん搦捕られたり

三、首を晒された場所
○『曲亭雑記』
八月十九日牽廻しの上鈴森(すゞがもり)に於て梟首せられけり。

○『浮世の有様』巻之四
申渡書の最後、「引廻之上於浅草獄門申付候」

○『藤岡屋ばなし』
鼠小僧次郎吉は、天保三年五月五日夜に捕われ、同月十日に北町奉行榊原主計頭役所に差出しになり、八月十九日浅草で獄門になった、というのが、藤岡屋日記に載せる一連の記録にあらわれる要領である。

 江戸時代に記録された風聞でさえ、区々です。確かなのは天保三年八月十九日に引廻しの上獄門に処されたということだけです。

 申し渡し
                       異名鼠小僧事
                        無宿入墨
                         次 郎 吉
 其方儀、十年已前未年以来、諸所武家屋鋪二十八ケ所、度数三十二度、塀を乗越又は通用門より紛入、長局奥向等へ忍入、錠前を固辞明け、或は土蔵の戸を鋸にて挽切、金七百五十一両一分、銭七貫五百文程盗取遣捨候後、武家屋敷へ這入候得共盗不得候処、被召捕数ケ所にて盗致し候儀は押包、博奕数度致し候旨申立、右依科入墨の上中追放相成候処、入墨を消紛し悪事不相止、尚又武家方七十一ケ所、度数九十度、右同様の手続にて、長局奥向等へ忍入、金二千三百三十四両二分、銭三百七十二文、銀四匁三分盗取、右体御仕置に相成候前後共、盗ケ所都合九十九ケ所、度数百二十二度の内、屋敷名前失念又は不覚、金銭不得盗も有之、凡金高三千百二十一両二分、銭九貫二百六十文、銀四匁三分の内、古金五両、銭七百文は取捨、其餘は不残酒食遊興、又は博奕を渡世同様にいたし、在方諸所へも持参、不残遣捨候始末、不届至極に付、引廻しの上獄門申付之、
  八月十九日          (『巷街贅説』)

『曲亭馬琴日記』第三巻、天保三年八月十九日癸巳の条中
一当五月上旬、召とられ候夜盗鼠小僧次郎太夫、今日刑罪、江戸中引まされ候付、処々見物群集のよし、覚重物がたり也。(以下略)

 ついでに「引廻しの上獄門」についても触れておきます。
江戸時代の町人の場合、死刑の方法は三つです。カッコ内は江戸時代の刑罰の名です。槍で突く(鋸挽・磔)、火あぶり(火罪)、刀で首を切り落とす(獄門・死罪・下手人)。
鋸挽は、『御定書百箇条』百三 御仕置形之事 に
一鋸挽
 一日引廻。両之肩に刀目を入。竹鋸に血を附。側に立置。二日晒。挽可申
 と申もの有之時は為挽候事。
とありますが、
(七十一)人殺并疵附御仕置之事 には
一主殺     二日晒一日引廻鋸挽之上磔
とあって、磔にする前に日本橋での二日晒しを磔に付加したものです。
死罪と下手人の違いは33「十両盗むと首がとぶ・下」に書きましたので繰り返しません。
「引廻し」は火罪には必ず付きますが、磔と獄門と死罪には「引廻し」が付く場合と付かない場合があります。下手人には「引廻し」はつきません。

 獄門とは
獄門台.jpg

獄門に処する罪人は先づ馬喰町の牢屋に於て首を刎ね、非人をしてこれを洗はしめ、かねて用意の俵に入れ、獄門検使町方年寄同心抔立会の上、これを牢屋より請取り捨札を押し立て(もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ)検使同心差添ひて刑場(犯罪人日本橋以北の者なれば千住小塚原、日本橋以南の者なれば品川鈴ヶ森)に送り、上図の如き獄門台に乗せ置くなり。
 獄門場には獄門台の側に三道具、捨札(罪状を記す)を建て、また番小屋を設く。首級は三日二夜これを曝したる上、弾左衛門より町奉行所へ伺の上取捨るなり。但し捨札は三十日間これを建置の例なり。     (『江戸町方の制度』)


 獄門について浅草(小塚原)あるいは品川(鈴ヶ森)で処刑されたと表現されることがありますが、斬首するのは牢屋敷内の刑場(切り場とも土壇場とも云います)であって、小塚原・鈴ヶ森は首を晒すだけです。ここに「もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ」とあるのは、獄門首を晒場へ送るときにも引廻しの時と同様に紙幟を立てるということで、「引廻しの上獄門」の罪人は、まず引廻しをして牢屋敷へ戻り、牢屋敷内の刑場で首を刎ね、その首を小塚原または鈴ヶ森へ送って晒すのです。
 
牢屋敷平面図T.jpg
 小伝馬町牢屋敷平面図 石井良助『江戸の刑罰』(『古事類苑』より)

 また「引廻し」には「江戸中引廻し」と「五ケ所引廻」があり、「江戸中引廻し」は江戸の中心部の狭い範囲だけを引廻すもので、広範囲を引廻すのは「五ケ所引廻」の方です。幕末から明治まで町奉行所与力を務めた佐久間長敬(おさひろ)氏が問答形式で著した『江戸町奉行事蹟問答』に次のように書かれています。

問 引廻し検使は如何
答 引廻しの上死罪になるものは平民の刑にて、検使は前日掛り奉行所へ南北与力呼出し相成、検使の命令を奉行より受るなり。(中略)牢屋敷の表門外より囚人を乗馬せしめ、谷の者、非人附添、真先に罪科を記せし幟りを立、三道具非人これを携へ、前後左右同心にて固め警衛す。掛り組与力は跡に添、乗馬にて警衛す。引廻すべき町々定めあり。死刑獄門の如きは帰路牢屋の裏門へ入る。此処にて下乗し直に刑場へ入るなり。刑場の躰は前々陳へし如く違ふことなし。

問 引廻しケ所の区別は如何
答 引廻ケ所に江戸中引廻と云あり。五ヶ所引廻と云あり。江戸中引廻と云は、江戸の真中を引廻すと云略言にて、日本橋・江戸橋荒和布橋筋辺今の日本橋区を一周して引廻なり。五ヶ所と云は大城の外曲輪を引廻ものにて、日本橋区を巡りて南は品川、西は赤坂・四谷、北は小石川・浅草の五ヶ所を引廻し、定めたる刑場へ至るなり。亦宛て場所と唱るは、本人江戸産なれば出生の町其他犯罪地を引廻し、被害者に示し他人の戒めとする趣意なり。



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