落語の中の言葉266「天地人のおみくじ」
八代目 林家正蔵「中村仲蔵」より
中村座での忠臣蔵で、名代になった仲蔵についた役は、五段目山崎街道の斧定九郎一役。仲蔵は宮地へ落ちようか上方へ行って修行のやり直しをしようかと考えるが、女房の意見に発奮し、新しい役作りを工夫しようとする。しかしいい考えが出ない。日頃信仰する柳島の妙見さまに願掛けするが、満願になっても工夫が付かない。柳島からの帰りに俄雨に遭い、雨宿りに入った蕎麦屋で格好のモデルとなる貧乏旗本に出会う。
「とって返してお礼参り。みくじをひいてみるとその時分は、天地人のおみくじで、人人の人(じんじんのじん)という誠によいみくじが手に入った。これが後年の仲蔵の定紋になりましたんですが、人という字を三つ重ねた源氏模様。」
と正蔵師匠は咄ています。咄家により、おみくじの事が出てこないものもあります。
私はまだおみくじをひいたことがありませんので、実際のことはわかりませんが、おみくじのひき方も、手にする紙のみくじも場所によって様々なようです。漢詩が書かれた物、和歌が書かれた物、漢詩も和歌も書かれていない物に分かれるようです。
江戸で有名だったおみくじは元三大師の観音籤で一番から百番まであり、漢詩が書かれているものです。その元は中国の古い天竺霊籤で、元三大師信仰と結びついて「元三大師みくじ」「観音籤」などと呼ばれています。その解説本(御籤本)も多数出板されたといいます。明治になってからも出版は続いています。国会図書館のデジタルコレクションにも明治のものは多数公開されています。
観音韱第56と第57
一方和歌のおみくじは
そして明治三年1870刊行の『神籤五十占』のついて
「寺や神社にお参りするたびにまずは何をさておき、おみくじを抽く癖がついてしまった」という中村公一氏は『一番大吉!』で、自らひいたおみくじのことをいくつも書かれています。京都の清水寺のおみくじについては
「元三大師みくじ」の元祖である比叡山横川の元三大師堂でも中村公一氏はおみくじをひいています。
「中村仲蔵」にある天地人のおみくじとは、第一番から第六十四番まであるもの。
分かり易く例えれば、コインを9枚用意して、3枚には表に「天」字を書き、3枚には「地」、3枚には「人」字を書く。この9枚のコインを振って出る目は、すべて表(天天天地地地人人人)からすべて裏(無字)までの64通りです。
第一番から六十四番までの番号をつけたみくじ竹の入ったみくじ筒を振って、出た番号の紙のみくじ札をもらうのではないかと思われます。
柳島妙見堂の天地人のおみくじが狂訓亭主人(為永春水)の『春色梅兒誉美』(天保三年板)巻之六に出て来ます。
恋が窪(実は吉原で、名前だけ変えている)の遊女屋唐琴屋の御職此糸は間夫のことでおみくじをひく、といっても遊女で外出はできず、人に頼んでひいてもらっています。
そのみくじは二十四番「天天天人地」で下の通り。
中村公一氏も妙見みくじをひいています。場所は藤沢市片瀬の龍口寺。ひいたみくじは第四十九番「人」
現代のものは漢文は省略して和文だけを載せているようです。
残念ながら「人人人」の妙見みくじは何番でどういう内容なのかはわかりません。
因みに『春色梅兒誉美』にある「いつものとは違ヒスね」には、二つ可能性が考えられます。一つはいつもと違う場所のおみくじ、今一つは同じ柳島妙見でも違う種類のおみくじ。
柳島妙見堂は日蓮宗の法性寺にあり、日蓮宗はおみくじが盛んで、妙見みくじのほかにもおみくじがあったからです。
法華経御鬮霊感韱は「日蓮宗所依の法華経の中から重要な経文を選び、九十六のみくじとしたものである。」(『一番大吉!』)
妙法御鬮というものもあり、これは「妙法御鬮絵鈔」でみると、一番から百番まであり、元三大師観音籤や妙見御鬮と同様、漢文が書かれています。
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中村座での忠臣蔵で、名代になった仲蔵についた役は、五段目山崎街道の斧定九郎一役。仲蔵は宮地へ落ちようか上方へ行って修行のやり直しをしようかと考えるが、女房の意見に発奮し、新しい役作りを工夫しようとする。しかしいい考えが出ない。日頃信仰する柳島の妙見さまに願掛けするが、満願になっても工夫が付かない。柳島からの帰りに俄雨に遭い、雨宿りに入った蕎麦屋で格好のモデルとなる貧乏旗本に出会う。
「とって返してお礼参り。みくじをひいてみるとその時分は、天地人のおみくじで、人人の人(じんじんのじん)という誠によいみくじが手に入った。これが後年の仲蔵の定紋になりましたんですが、人という字を三つ重ねた源氏模様。」
と正蔵師匠は咄ています。咄家により、おみくじの事が出てこないものもあります。
私はまだおみくじをひいたことがありませんので、実際のことはわかりませんが、おみくじのひき方も、手にする紙のみくじも場所によって様々なようです。漢詩が書かれた物、和歌が書かれた物、漢詩も和歌も書かれていない物に分かれるようです。
江戸で有名だったおみくじは元三大師の観音籤で一番から百番まであり、漢詩が書かれているものです。その元は中国の古い天竺霊籤で、元三大師信仰と結びついて「元三大師みくじ」「観音籤」などと呼ばれています。その解説本(御籤本)も多数出板されたといいます。明治になってからも出版は続いています。国会図書館のデジタルコレクションにも明治のものは多数公開されています。
観音韱第56と第57
一方和歌のおみくじは
和歌のおみくじは、和歌による神の託宣歌や巫者の歌占の伝統をふまえつつ、『元三大師御籤』や易占の影響を受けてつくられたと考えられる。歌占系の御籤本の早い例が『天満宮六十四首歌占御鬮抄』(以下、『天満宮歌占』)で、『宝暦四年刊書籍目録』に同書が載ることから江戸中期の宝暦四年(一七五四)には刊行されていたと知られる。この御籤は天満天神の歌占とされ、天神と十一面観音を信仰することが説かれる。これは天神が観音と同体であるという信仰をふまえたもので、その点でも観音籤から派生した御籤本といえよう。(平野多恵「おみくじの近代」)
そして明治三年1870刊行の『神籤五十占』のついて
序文によれば、明治維新以前は神社でも元三大師御籤を用いていたが、明治維新で神仏分離令が発せられて神仏習合の両部神道が廃止されたため、神社は神社にふさわしい神歌による占法を用いるべきだという。神仏分離令の影響で、それまで元三大師御籤を用いていた神社が仏教色のない神籤を必要とするようになったのである。(同書)
この歌占の占い方は、くじ筒に納めたくじを三度抽き、そこに書かれた一、二、三、四の番号の組み合わせを、
大吉 一一一 別かれたる子に尋ね逢ふ親のごとし。
闇ならぬ道に迷ふも今ははや
子に逢坂の関のあけぼの
から、
吉 四四四 悲しき夢のさめたるごとし。
声むせぶ涙の雨に夢さめて
物憂き事のあとかたもなし
までの六十四首に照らし合わせて判断するものだが、各首のはじめに吉凶の判定の辞があり、次に「~のごとし」という中国の霊籤に見られたような補助的な注がつけられていること、「縁談」「病」「旅立」などの運命の「内訳」の項目が添えられていることなど、ここでは歌占が元三大師観音籖などのおみくじと、まったく変わりのないものとなってきている。(中村公一『一番大吉!おみくじのフォークロア』)
「寺や神社にお参りするたびにまずは何をさておき、おみくじを抽く癖がついてしまった」という中村公一氏は『一番大吉!』で、自らひいたおみくじのことをいくつも書かれています。京都の清水寺のおみくじについては
昨今はあちこちの寺や神社を訪れても、赤い郵便ポストのようなおみくじの自販器が幅を利かせていて、味気のない思いをさせられることが多い。しかしうれしいことに、ここ清水さんのおみくじは「観音霊籤」としるされた古めかしいみくじ筒から、抽き手がみくじ竹を振り出し、年配の堂守がみくじ竹の番号に該当する紙くじを一枚一枚、くじ箪笥の抽出から取り出してくれる、昔ながらの懐しいスタイルである。
第二十九 吉
憂轗漸(ようや)く消融し
名を求めて再び通ずることを得たり
宝財、禄位に臨み
当(まさ)に主人公に遇(あ)うべし
(大意) 志を得ず落魄(おちぶれ)ていた状態が漸く
解消し、再び名誉が回復できた。財産も、地位と名誉に
ふさわしく手に入り、よい主人にも出会えて、運はます
ます上向きとなろう。
「元三大師みくじ」の元祖である比叡山横川の元三大師堂でも中村公一氏はおみくじをひいています。
元三大師堂はシャトルバスの横川停留場から、如宝堂、中堂を経て、さらに歩いて二十分ほどのところにある。門を入り堂の階の前に立つて、みくじを抽かせて欲しいと申し出ると、奥から応待の僧があらわれ、「当堂のみくじは一般と異なり、経を誦し祈念をこらしてから抽かれる。少々時間がかかるが、それでもよろしいか」との、注意があった。了解の旨を伝え堂に上ると、中には先着の依頼者が僧から抽いたみくじの判断を仰いでいるところで、その場の情景はどこか古い名所案内記の挿絵と重なる。
やがて、僧は当方の占いの趣を質(ただ)すと、大師を祀った壇に向かい、おもむろに経を誦し始めた。そして、呪を唱えつつみくじ筒を振ることしばし、示されたのは第五十六番の末小吉で、僧は手元のみくじ本(原本は川越喜多院蔵版『元三大師百籖和解』らしかった)をひもときながら、「このみくじを抽いた者は、中年過ぎまでは万事におもわしくないが、老年になって漸く安堵できる境遇に落ちつくことができる」などと、懇切に解説を施してくれた。
元三大師観音籤(天竺霊籤)
第56 末小吉
生涯喜又憂 生涯喜び又憂う
未老先白頭 未だ老いずして先ず白頭
労心千百度 心を労すること千、百度
方遇貴人留 方(まさ)に貴人の留むるに遇わん
〔大意〕浮いたり沈んだり、安定しない生活が続く。/まだ若いのに、心配ごとが多く髪が白くなった。/そんな心配ごとが百度、千度と多く続くが、/やがて目上の引き留めにあって、運勢も好転してゆくであろう。(『一番大吉!』)
「中村仲蔵」にある天地人のおみくじとは、第一番から第六十四番まであるもの。
分かり易く例えれば、コインを9枚用意して、3枚には表に「天」字を書き、3枚には「地」、3枚には「人」字を書く。この9枚のコインを振って出る目は、すべて表(天天天地地地人人人)からすべて裏(無字)までの64通りです。
第一番から六十四番までの番号をつけたみくじ竹の入ったみくじ筒を振って、出た番号の紙のみくじ札をもらうのではないかと思われます。
柳島妙見堂の天地人のおみくじが狂訓亭主人(為永春水)の『春色梅兒誉美』(天保三年板)巻之六に出て来ます。
恋が窪(実は吉原で、名前だけ変えている)の遊女屋唐琴屋の御職此糸は間夫のことでおみくじをひく、といっても遊女で外出はできず、人に頼んでひいてもらっています。
此糸が新造いと花はいきせきと二階へ来り、何か紙に書きしものを出し、花「今お針さんが、おいらんにあげてくれろとよこしイした。」トみくじをいだす。おいらんはうろたへて披きながら、この「オヤこりやアいつものとは違ヒスね。」 花「妙見さんのざますとサ。」
そのみくじは二十四番「天天天人地」で下の通り。
中村公一氏も妙見みくじをひいています。場所は藤沢市片瀬の龍口寺。ひいたみくじは第四十九番「人」
みくじは第一番の天厄課(遅)から第六十四番の向明課(吉)まで、「吉」「栄」「宜」「遅」「恐」「凶」などのランクに分かたれている。筆者の抽いたくじは第四十九番・孤道課の「恐」で、次のような詩がしるされていた。
人
進退共に吉ならず
心事尽(ことごと)く相遅し
月を逾(こ)えて必ず意の如くならん
精誠更に祈る可し
「孤道課」とは、おそらく「人」という天地人の組合せから付けられた課(卦)の名で、和文の読みやわらげにも「しらぬみちを、ひとりたどるがごとし」とある。(『一番大吉!』)
現代のものは漢文は省略して和文だけを載せているようです。
現在、特に神社で引かれているおみくじには和歌が記されているものも多く。これらは漢詩が記されたおみくじとは別系統のものであるが、漢詩か記されておらず、和文のみで運勢が示されているおみくじの場合でも、そこに示されている運勢が、実は当該の番号の漢詩に基づくものであることも多くある。漢文に対する素養が失われてしまった現代の日本人では、たとえ漢詩を記しておいても、ほとんどの人が理解することができないため、漢詩から導き出された運勢のみを分かり易く示すといった配慮に基づくものであると思われる。(大野 出「おみくじ」 林 淳・小池淳一編著『陰陽道の講義』)
残念ながら「人人人」の妙見みくじは何番でどういう内容なのかはわかりません。
因みに『春色梅兒誉美』にある「いつものとは違ヒスね」には、二つ可能性が考えられます。一つはいつもと違う場所のおみくじ、今一つは同じ柳島妙見でも違う種類のおみくじ。
柳島妙見堂は日蓮宗の法性寺にあり、日蓮宗はおみくじが盛んで、妙見みくじのほかにもおみくじがあったからです。
妙見大菩薩 同じ川端、橋を越えて向かふ角にあり。日蓮宗法性寺に安ず。本尊の来由詳らかならず。近世霊験著しとて、詣人つねに絶えず。(『江戸名所図会』)
日蓮宗の寺院で出すみくじは、法華経御鬮霊感韱、妙見御鬮など、比較的その種類は豊富である。実際、仏教系のみくじとしても元三大師観音韱についで盛んに行われてきたが、(以下略)(『一番大吉!』)
法華経御鬮霊感韱は「日蓮宗所依の法華経の中から重要な経文を選び、九十六のみくじとしたものである。」(『一番大吉!』)
妙法御鬮というものもあり、これは「妙法御鬮絵鈔」でみると、一番から百番まであり、元三大師観音籤や妙見御鬮と同様、漢文が書かれています。
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