落語の中の言葉265「投込み」

      八代目三笑亭可楽「らくだ」より

 らくだの兄貴分と屑屋の長さんが、らくだの死骸を早桶代わりの菜漬けの樽に入れたところで、らくだの兄貴分が寺が分からないというと、長さんは、元屑屋仲間で落合で隠坊をしている者がいるから、それに頼めばいい、「投込み」で沢山だと云うところがあります。「投込み」という弔い方がありました。
「投込み」というと「投込み寺」と関連付けて説明されることが多いようです。
例えば、『江戸語の辞典』(前田 勇 編)には次のようにあります。

なげこみ【投込】①投込み寺に埋葬すること。②投込寺の略。
なげこみでら【投込寺】死んでも引取人のない遊女や行倒れなどを埋葬する寺。
 共同墓地のある寺。新鳥越の西方寺、三の輪に清閑寺、新宿の成覚寺などが
 それ。あらかじめ掘ってある穴へ死骸を投げ込むのでいう。

 別の説もあります。西木浩一氏は『江戸の葬送墓制』(『都史紀要』三十七)で、明治三〇年一一月から一二月にかけて『報知新聞』に連載されたルポルタージュ「昨今の貧民窟」の一部の引用として次の文章をあげています。

  投げ込み葬式
貧民社会に行わるる葬式は俗に「投げ込み」と称うる最も簡略なる式なるが、これは徳川家盛んなる頃より諸侯の中間折助を始め市内の貧民間に広く行われたる風俗にして、今日もなお貧民社会に行われつつあるなり。古来投げ込み寺を以て有名なるは向両国の回向院にしてその頃は一分と二百文を普通の相場となせり。さて投げ込みといえば死体を無限の穴の中へでも投げ込むかの如く何となく無惨に聞ゆれども決して然る惨酷なるものにはあらず、一分と二百文を投げ込みて埋葬供養一切の事を依頼するの意味にして、高恩受けたる亡き父母の遺骸を投げ込みて埋葬するは彼らの取り分け人に優るる親愛の情において大いに忍ぶ能わざる所、されども一銭の蓄えなき悲しさには投げ込み葬式さえなかなか容易の事にあらざる由にて、まず近隣より贈られたる香奠やら日用必需の家具までをも売り払いて多少の金を得、茶箱を購(あがな)いて棺の代りに死体を納め、荒縄にて縛りこれを担いて同寺に運び一分と二百文を紙に包みて差し出せば、僧侶は墨染の衣に念珠をつまぐり少さき鈴(りん)を持ちて導きをなし、投げ込み墓地に到れば墓地は深さ四尺ばかりの溝のようなもの二筋または三筋に掘りありてその溝の中へ棺を納め、僧侶はその傍に立ちて暫時読経し終わりてその上に土を載するが習いなり。またその後に来れる者あればその棺に並べて埋むるという。寺にては初七日より七日七日の供養をなし、三十五日、四十九日、百ヶ日にはことに読経供養をなすなり。当今はかくの如く溝を掘りて埋むることはなけれども府下朱引き外の各寺院中有名なるものを除くのほかは皆投げ込みの依頼に応ずるなり。
 
 落語ではらくだの死骸を火葬にしているのですから、掘ってある穴に死骸を投げ込むことはありません。落語を拠り所にはできませんが、一分と二百文を投げ込んで一切を済ませるという説の方が当たっているようにも思います。
浅草御蔵前片町では一八三三年(天保四)行倒れ死人が発見されたとき、西福寺へ金一分と二〇〇文、死骸片付人足賃などに三貫三七二文、届出の費用や番人世話料、名主挨拶などで一両一分二朱と銭二貫二二九文を支出している。(片倉比佐子『江戸住宅事情』都史紀要三十四)

 ただ、報知新聞の記事では向両国の回向院に死骸を運んだように云っていますが、江戸の早い時期から向両国の回向院には埋葬せず(埋葬する余地がなくなったため)、小塚原の回向院下屋敷に埋葬しています。この事は151「行倒れ」で書きましたが、触れなかったこともありますので、一部を繰り返します。

(貞享二年1685)丑十二月廿日
   樽屋藤左衛門殿町々名主被申渡候趣
一町々而行倒相果候者有之、御番所御訴訟申上、御下知相済、死骸片付候節は、本所回向院之下屋敷、浅草御仕置場之近所有之候間、右之所遣シ可取置候、尤其町々名主判形之一札、回向院遣し差図を請、下屋敷遣候義付、町々名主之判鑑、回向院遣置可申旨被申渡候 (『江戸町触集成』第二巻)

    一札の事
一、伊勢町市左衛門屋敷の前に、年頃四十四五歳相見申候男の非人倒れ、相果て申候に付、御月番大岡越前守様御番所へ御訴へ申上候処に、野非人紛無之に付、死骸片付候様に被仰付候。仍て貴院御下屋敷遣し度存じ候。尤も総身に疵少しも無御座候。重て以箇様に六ヶ敷儀御座候共、貴院御苦労相懸け申間敷候。証文仍如件。
                  伊勢町
  享保七年(1722)寅二月四日    月行司 新   七
                   五人組 五郎左衞門
                   名 主 勘 解 由
 回向院御納所            (『伊勢町元享間記』)

町々たおれ者、さらしの上回向院へ遣す。弔料壱貫文より安きは無之。町名主印鑑を以書状相添遣候へば切手出。其切手を持て回向院下屋敷へ遣也。江戸中名主の印鑑回向院にも有之。(『我衣』)

「取置」も「片付」と同様、弔って埋葬することです。
(元禄十五年1702)午十月廿一日
一南伝馬弐丁目三丁目之堺四ツ辻、今暁七ツ半過、年来四十四五才相見へ候乞食男壱人参懸り倒相果候間、近所之非人も見せ申候処、近頃之乞食之由申候、依之両角家主喜兵衛・次郎兵衛・名主新右衛門代平兵衛・名主善右衛門立合、越前守様御番所御訴申上候処、乞食無紛段御聞届之上、死骸取置候儀被仰付候、此段両御帳付申候、
右之死骸回向院遣シ、下屋敷埋申候、 (『南伝馬町/名主高野家 日記言上之控』)

    往来手形の事
一、此の庄蔵と申す男、天台にて拙寺檀那に紛れ御座無く候。然る処に此の度他国へ稼ぎ等に罷り出で申し候間、御関所海陸共に、相違無く御通し下さる可く候。若し此の者相煩ひ、相果て候はば、其の御村御役人衆中、御慈悲を以て御取り置き下さる可く候。尤も此の方へ御届け申さず候とも構御座無く候。後日の為に往来手形、仍て件の如し。
   寛政二年戌二月     信州佐久郡松原村 天台宗神光寺
 諸国御関所御番衆中
   国々村々御役人中   (北原進『百万都市 江戸の生活』)

 身元不明の行倒れ人の弔いこそ最も「簡略」なものと思われますが、町年寄の申渡と回向院への一札に「片付」と出てきます。この言葉は一般用語ではなく特殊用語です。幕府の死体処理の方法に弔いをしない「取捨」と軽い弔いをする「片付」の二つがありました。「取捨」は死刑執行後の死骸と相対死(心中)の死骸の処理に、「片付」は身元不明者の死骸の処理に適用されました。また、刑が決まって執行前に病死した場合、死罪・遠島は「取捨」、下手人・重追放以下は「片付」でした。

  『御定書百箇条』
  五十 男女申合相果候者之事
  一不義にて。相対死いたし候もの    死骸取捨為弔申間敷候
   但一方存命に候はゞ。        下手人

  百三 御仕置形之事
  一 死罪
    首を刎。死骸取捨様者(ためしもの)に申付。 

  一 下手人
    首を刎。死骸取捨
     但様者には不申付。

『祠曹雑識』天保五年1834成立
享和元酉1801ノ四月脇坂淡路守伺済罪人死骸ノこと明和九辰1772ノ六月四日一座申合、囚人吟味相済御仕置決候後牢溜而病死之節死骸之義、死罪遠島取捨、下手人重追放以下取片付トイフニ据ル

 「取捨」と「片付」の内容について南町奉行所の牢屋見廻与力は次のように書上げています。

死骸片付并取捨相成候手続取調申上候書付
                  牢屋見廻

死骸片付并取捨相成候手続何れへ遣候哉取調可申上旨被仰渡候儀、左之通御座候。
一死骸片付御証文参候得小塚原回向院寮遣し申候。尤死骸受取帳と
 唱候帳面名前認遣し候得は、請取印形いたし差越儀御座候
   但、右死骸埋置、同寺而名前札建置候趣有之候
取捨死骸は小塚原非人小屋頭市兵衛方差遣申候。請取方之儀は是又
 帳面遣し印形為致候義而御座候
   但、名前札等建不申、其儘同所取捨候趣御座候
 右之通従古来之手続取扱方御座候。此段御尋付申上候。以上。
  天保九年
   戊四月       小原 清次郎
             秋山八左衛門
           (『南撰要類集』一座心得之部十六ノ三)

 「片付」が早桶に入れられたのかどうか分かりませんが、「取捨」はそのまま葬られたようです。しかも穴は深くは掘らず、土をかける程度だったと云われます。

平成14年度に小塚原刑場跡地の一部の発掘調査が行われました。
死者を弔うための副葬品は、六道銭以外にも数珠や塔婆などが見つかっていて、このエリアが埋葬や供養の場所でもあったことがわかります。他の墓地と違う点は、人骨が、早桶などの棺には入っておらず、直に葬られ、累々と積み重なるように土中から見つかっていることです。中には、穴を掘ったところに何人かを一度に入れられたように見受けられる遺構もありました。いわばむき出しの骨の側から六道銭が出てきました。どの人のための六道銭か特定できない銭もあります。通常、刑場という言葉から得られるイメージは、罪人(死罪・牢死など)が葬られる場所で、副葬品と結びつかない人もいると思います。しかし、刑場は刑死者のみならず行倒れ人の埋葬地でもあり、その供養を回向院が行っていたことから、副葬品が出てくることは不思議ではないのです。 (八代和香子「小塚原にみる六道銭」『荒川ふるさと文化館だより』第23号 平成22年3月〉

江戸時代、「小塚原の犬」といえば、「人を食った奴」の隠語だった。犬が食す物はドッグフードと相場の決まった現在では考えがたいが、当時の犬は、刑場に埋葬された死骸をも`餌”にしていたのである。(亀川泰照「小塚原の犬」『荒川ふるさと文化館だより』第11号 平成15年10月)

どふで手前も借金の、淵にはまつて死なふより、心中したといはれたは、女郎の身の誉れぞと、おもはぬ客と死ぬもあり、よしや誠の心中でから、小つかばらへ捨られ、あられもせぬざまを見せ、犬やからすに賞味せられ、親兄弟になげきをみせ、親かたには損をかけ、(以下略) (柳堤居 皆阿『花菖蒲待乳問答』巻之四 宝暦五年1755序)

 「投込み」という弔い方は「片付け」に準じたごく簡易なものだったと思われます。

 また『江戸語の辞典』に「共同墓地」とありますが、これも現在の共同墓地とは違います。
『江戸の葬送墓制』には新宿区若葉町三丁目・新宿区立若葉高齢者在宅サービスセンター建設工事に先立つ発掘調査の結果が記載されていますが、ここは江戸時代には四谷鮫河橋と呼ばれた所で、調査地点は黄檗宗寺院大覚山円応寺の寺域でした。
 ここには二ヵ所の埋葬遺構が認められましたが、一ヵ所は「T字形に走る墓道に沿う形で整然と配置されて」いる一方、もう一ヵ所は次のようでした。
埋葬遺構の密集度際立って高い。調査者は当時の様子を「早桶の小山のような状況」と表現しているが、新たに埋葬される棺は既存の棺を壊しながら積み重なっていたと考えられている。もとより墓道のようなものはなく、墓域の中心部に近づくことも困難であったと思われる。当然、地下埋葬遺構に対応した地上の墓石が建てられていたとは考えられない。墓標なき墓地の光景が広がっていたことになる。

おそらく、これが「投込み」や「片付け」葬が行われた墓地なのでしょう。どういう人たちが葬られたのかは分かりませんが、その手がかりになるものに、深川万祥寺の過去帳があると云います。
深川万祥寺は本寺・海福寺に併合されて消滅しますが過去帳が残りました。その分析によると「住所と俗名がはっきりしている事例」の他に、「頼」「願」「一札」「口入」「子分」「寄子」などと記されている事例があり、その多くは軽き武家奉公人や下層民衆で檀家でない者たちでした。なかには俗名の記載の無い者もあり、その「一札」は月行事・五人組・名主のもので、おそらく身元不明の行倒れと思われます。江戸時代は寺請制度でいずれかの寺の檀家になることになっていましたが、諸国の吹きだまりである江戸には、寺の無い者もかなりいて、その埋葬を引き受ける寺も回向院に限りませんでした。


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*追補 棺桶代
「『片付』が早桶に入れられたのかどうか分かりませんが、」と書きましたが、滝口正哉「信仰と宗教」(竹内 誠 編『江戸文化の見方』)に、次のようにありました。
安政六(一八五九)年四月二〇日夕方七ッ時(午後四時ごろ)、浅草寺本堂後方で六一ー六二歳くらいの旅人風の女性が行き倒れているのが発見された。(中略)栄周という医師に手当てを頼むが、ほどなくしてこの女性は死去してしまう。そこでまず寺社奉行所に届出をおこない、寺社奉行の家臣が検死役として現場に現れる。検死が済んだあとは埋葬と葬儀である。遺体は桶に入れて雇った人足が運ぶ。そして所定の場所に穴を掘り、埋葬する。それと同時に、このときは子院の遍照院が法要を営み、塔婆を上げている。この一連の取り扱いに要した費用は、医師への謝礼が金百疋、棺桶代が金二朱と銭二〇〇文、遍照院の回向料と塔婆代に穴掘料を加えた費用が金一分と銭三〇〇文、提灯・蝋燭費用が銭四三〇文、寺社奉行所の役人への茶代など検死役派遣に伴う諸費用が銭三貫四八文、そして遺体を担ぐなど、埋葬までに雇用した人足への代金が銭四貫二〇〇文で、合計して金二分二朱と銭八貫一八〇文もの金額がこのときかかったことがわかる。


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