落語の中の言葉264「狂歌―狂歌師の名前」

     十代目桂文治「掛け取り」より

 年の瀬に掛けが溜まって首の回らない八つんは、相手の好きなものを並べて払いを待って貰おうとする。その最初が狂歌好きの大家さんです。

江戸の狂歌は、明和六年(一七六九)に唐衣橘洲が大田南畝や平秩東作らを自宅に招いて狂歌会を催したのがその濫觴であった。(『新編日本古典文学全集79』「黄表紙 川柳 狂歌」の宇田敏彦氏の解説)

 この狂歌会について大田南畝は『奴師労之(やつこたこ)』(文化十五年1818自序)に次ぎのように書いています。
江戸にて、狂歌の会といふものをはじめてせしは、四ッ谷忍原横町に住める小島橘洲なり、其とき会せしもの、わづかに四五人なりき、大根太木、馬蹄、大屋裏住、東作、四方赤良等なり、

小島橘洲以下人物の割り注に次のようにあります。

小島橘洲 源之助と称す、田安府の小十人なり
大根太木 山田屋半右衛門といへる町人、辻番請負なり、飯田町中坂下に住
     す、松本氏、俳名雁奴
馬  蹄 後に飛鹿の馬蹄と号す、咲山氏、田安府の士なり
大屋裏住 金吹町の大屋なり、後萩の屋と号す、
東  作 四谷内藤新宿の煙草屋なり、稲毛屋金右衛門といふ、へづゝ東作
     なり、
四方赤良 予はじめ赤人といひしが、後に赤良と改む、

また、こうも書いています。
酒の上熟寐は狂名のはじめにして、大根太木は狂歌の歳旦摺物のはじめなり、二人とも先立てうせぬれば、木あみ、菅江、橘洲、赤良が門人の盛りなるを、みるに及ばず、

江戸の狂歌運動は、唐衣橘洲と四方赤良との確執などはあったものの、天明三年(一七八三)正月に江戸狂歌最初で最大の詞華集たる『万載狂歌集』が刊行されたことによって幕を切って落とし、その最盛期が天明年間であったことにより、天明狂歌の名でよばれることも多い(宇田敏彦氏の解説)

 寛政の改革による弾圧で狂歌をはじめ文芸の中心的担い手であった武士が一斉に身を引き、江戸の狂歌も町人がその中心になります。

町人出身の鹿都部真顔、宿屋飯盛が職業的狂歌師としてそれぞれの門戸を拡大して江戸狂歌壇を二分し、文化・文政の一大盛期へと移行するが、大衆化による狂歌意識の衰退振りはいかんともし難く、狂歌壇はその形骸だけを引っ張って、天保以降の時代へと続いて行くのである。江戸狂歌を生み出し、はぐくみ育てた基盤ともいうべき教養は、読書を日常的営為とするもので、本来的に積み重ね、積み重ねられるべきものであって、知識人の教養に則った遊びは、同程度もしくはそれ以上の教養があってこそ、初めて共有し得るものであったことを強調して置きたい。(宇田敏彦氏の解説)


 ところで、天明狂歌をよむ時に使った名前にはヘンテコなものが多くあります。むしろほとんどがそうです。狂歌大流行のきっかけとなったとされる『万載狂歌集』にあるものを主にその他からも少し加えて拾うと次の通りです。

⑴通用語ほぼそのまま
四方赤良(よものあから)・石部金吉(いしべきんきち)・もとの木あミ・目黒粟餅(めぐろのあわもち)・朝寝昼起(あさねのひるおき)・かくれん坊目隠・佐倉はね炭・くさやの師鰺(もろあじ)・峯松風(みねのまつかぜ)・王子詣のきつね・紺屋麻手(こんやのあさつて=紺屋の明後日)・沢辺帆足(さわべのほたる=沢辺の蛍)・腹可良秋人(はらからのあきんど=腹からの商人)
⑵通用語のひねり
朱楽菅江(あけらかんこう=あっけらかん)・浜辺黒人(はまべのくろひと=山辺赤人)・鹿津部真顔(しかつべのまがお=しかめっつら)・酒上熟寐(さけのうえのじきね=武内宿禰)・山手白人(やまてのしろひと=山辺赤人)・子子孫彦(このこのまごひこ=子々孫々)・月夜釜主(つきよのかまぬし=月夜に釜を抜く)・三畳たゝ見(=三畳畳)・読み人しれ多(=読み人知らず)・富士鷹なす(=一富士二鷹三茄子)・藪本医止成(やぶのもとのいしなり=藪医者)・智恵内子(ちゑのないし=勾当内侍)・尻焼猿人(しりやけのさるんど=お猿のお尻は真っ赤いな)
⑶職業から
壁中塗(かべのなかぬり=御大工頭)・大家裏住(おおやのうらずみ=日本橋金吹町の大家)・花道つらね(はなみちのつらね=五代目市川團十郎白猿)・宿屋飯盛(やどやのめしもり=小伝馬町三丁目の旅籠屋)・野見てうなごんすみかね(大工棟梁)
⑷その他
臍穴主(へそのあなぬし)・紀のたらんど・物事明輔(ものごとのあけすけ)・腮長馬貫(あごながのうまづら)・大根太木(おおねのふとき)・紀野暮輔(きのやぼすけ)・好原真図伎(すきはらのまずき)・竹杖為軽(たけつえのすがる)・手柄岡持(てがらのおかもち)・酒上不埒(さけのうえのふらち)・大の鈍金無(だいのどんかねなし)・加保茶元成(かぼちやのもとなり)

智恵内子は、もとの木あミの妻で、朱楽菅江の妻も節松嫁嫁(ふしまつのかか)の名で狂歌を詠んでいます。

通用語ほぼそのままの中で説明されないと分かりにくいのは、四方赤良・目黒粟餅・佐倉はね炭でしょうか。

*四方赤良
四方の赤ら (あからは酒の児童語)酒店四方の酒。すなわち四方の滝水。
(前田勇編『江戸語の辞典』)

明和年代のシヤレ言葉に「鯛の味噌津に四方の赤」と云うのがありますが、これは、「鯛の味噌汁に、四方久兵衛で売っている赤と云う酒が、当時の食物の極上」と云う意味合から、〈この上なし〉と云う風に用いられたが、酒の銘の〈赤〉が、後には、この店で売った〈赤味噌〉を謂うようになった、と朝倉無聲氏がいっております。(『此花』東京版七号)(花咲一男『川柳 江戸名物図絵』)
 
四方久兵衛.jpg
          『江戸買物独案内』の四方久兵衛の店
 味噌問屋にも「滝水」とありますから、酒の方が主だったようです。

下り絵本はあるとき赤本・黒本をまねき、鯛のみそづに四方のあかをふるまひ、赤本はちつとのむとあかくなるゆへ、ひきの屋のどら印いたし、四方山のはなしのうへにて、(以下略)(北尾政演(山東京伝)『御存商売物』天明二年1782刊)

人皇五十七代陽成院の御宇、天下日照りして万民大きに苦しむにより、神泉苑にて雨乞ひあるべき由にて、小野の小町を召す。
(帝)「いかに小町。此度の雨乞ひ、首尾よく参れば、褒美は四方のあかか、ひきの屋のあんころじゃ。合点か、合点か」(岸田杜芳『草双紙年代記』天明三年1783刊)

朝比奈「ほんに野暮だぞ。コレ兄イ、女嫌ひも不具のうち。おれも同じ仲間だが、二つ取りなら剣菱か、四方の赤ならお辞儀はない。(以下略)(鶴屋南北『八重霞曾我組絲』文政六年1823の曾我狂言)

以上の例では「四方の赤」はすべて酒を指しています。

*目黒粟餅
目黒粟餅 同所の名物也。むかしはまことの粟餅なりしが、ちかきほどは常の餅を粟のいろに染たる也。(菊岡沾凉『続江戸砂子温故名跡志』巻之一 享保二十年1735刊)

そもそも目黒不動尊は霊験いちじるしく、あまねく諸人の知るところなり。本尊は慈覚大師の作にして、寺号を龍泉寺といふ。このところの名産、粟餅ならびに餅花といふものあり。(恋川春町画作『金々先生栄花夢』安永四年1775刊)
 
金々先生栄花夢.jpeg
    『金々先生栄花夢』

*佐倉はね炭
十方庵は下総国印旛郡佐倉の名産として、蒟蒻 ・やたら漬の醤に続けて次のように云います。

取分佐倉炭は関東にての名産とす。(中略)武州よりも秩父・八王子・飯能・青梅・神奈川等より若干武城に於てひさぐと雖、下総佐倉の産を上品とし、その余は八王子をよしとす、炭の出処同じからねど、皆通じて佐倉炭と称せり、(以下略)(十方庵敬順『遊歴雑記初編之中』文化十年1813)

次に、以上に揚げた狂歌師のうち、狂歌以外でも高名な者の略伝を『戯作者小伝』から紹介します。
○四方赤良
名覃、字子耜、南畝と号し、又蜀山と号す、杏花園、石楠斎、遠桜山人等は別号也、通称大田七左衛門(初曰直次郎)と云ふ、牛込に居住し、後駿河台に移る、初め狂名を四方赤人といひ、後赤良と改む、唐衣橘洲と共に狂歌の旗上して、海内を風靡す、(以下略)

○竹杖為軽
姓は中原、名は中良、字は虞臣、号桂林、初称森島甫斎といふ、桂川甫周法眼の舎弟也、天明四年より稗史の作あり、平賀源内の門人にして、森羅万象の号を譲らる、又二代目風来山人と号し、天竺浪人とも号す、狂名を竹杖の為軽(スガル)といふ、蘭学の業余、已にまさるの戯作をなす、悉皆巧手にして、師の風来と伯仲せり、(以下略)

○手柄岡持
秋田侯の士、通称平沢平格といひ、朋誠堂と号す、戯名喜三二、又亀山人といふ、狂歌に手柄岡持の名あり、俳諧に月成、狂詩に韓長齢、また天寿といふ、晩年仕を辞して.剃髪して後、苦なき人となりし、と戯れて、自ら平荷と名づく、喜三二の称号は芍薬亭に譲らる、(以下略)

○酒上不埒
姓は源、名は格、通称を倉橋寿平といふ、狂歌を好みて、其名を洒の上の不埒、又寿山人と号す、戯作に恋川春町と名のる、駿州小島侯の家臣にして、小石川春日町に邸あり、恋川といふは、住居する地名によれる也、絵を鳥山石燕に学びて、自画作の冊子多し、他の冊子をも画けり、一説に、勝川春章に学ぶともいふ、安永四未年の著述「金銀(金)先生栄花夢」二冊と題号し、邯鄲の趣向大に行れ、同五申年「高慢斎行脚日記」是又大当りにて、宝暦已来の草双紙は爰に至りて一変す、是より春町の名大に鳴る、(以下略)

○宿屋飯盛
   六樹園
名雅望、字子相、五老と号し、又蛾術斎と号す、通称石川五郎兵衛と云、狂名を宿屋飯盛となのる、小伝馬町三丁目の旅人宿糠屋七兵衛(画名石川豊信)が男也、故ありて四ッ谷内藤新宿へ移住し、後霊岸島東湊町中村屋梅太郎が家に寓居す、六樹園の号は、往昔小伝馬町三丁目を六本木と云るによりて、しかなづけられたる也、(以下略)

また『黄表紙 川柳 狂歌』の宇田敏彦氏の解説によれば
○加保茶元成
通称を村田市兵衛、文楼と号した。新吉原京町一丁目の妓楼大文字屋の二代目主人で、狂名は奇行家で有名な先代の仇名を加保茶といったのに因み、元成はその一番子といったほどの意。

 また、江戸の戯作者の中にも狂歌師同様にヘンテコなペンネームを使う者があります。少し紹介しましょう。
鈍苦斎・品動堂馬乗・海月菴無骨・田舎老人多田ノ爺・北左農山人・変手古山人・真赤堂大嘘・田にし金魚・道蛇楼麻阿・山手の馬鹿人(大田南畝)・桃栗山人柿発斎(烏亭焉馬)・南蛇(陀)加紫蘭・大飯喫・頓多斎無茶坊・閣連坊・十方茂内・根柄金内・異海呉句堂・正徳馬鹿輔・関東米・井之裏楚登美津・異双楼花咲・渋柿直頂紀(まづき) ・薬鑵頭光・途呂九斎主人・五面奈斎真平


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