落語の中の言葉263「百か日仕切り」
「黄金餅」より
金山寺売りの金兵衛が西念の死骸を木蓮寺に持ち込み、和尚に法要の値段を交渉するところに、「百か日仕切りでいくらでやってくれる」とあります。江戸時代には百か日までを一纏めにして値を決めることがあったようです。
葬儀関連のお布施については僅か5例しか知りませんが、そのうち4例が「百か日仕切り」です。これが一般的であったかどうかは分かりませんが、少なくとも特別なことではなかったようです。
その5例というのは
『江戸の葬送墓制』(西木浩一著、都史紀要三十七 平成十一年)にある次の3例
①播磨屋中井家(両替商)当主(火葬) 天明七年1787
『史料館叢書4 播磨屋中井家永代帳』より
②住友泉屋(札差)手代(火葬)
『住友史料叢書 浅草米店万控帳(上)』より
③白木屋木綿店支配役二人目(土葬)嘉永六年1853
林玲子『江戸店犯科帳』(白木屋『万歳記録』)より
及び
④森山孝盛の養父(土葬) 安永四年1775 『森山孝盛日記』
⑤馬琴の息子宗伯(土葬) 天保六年1835 『曲亭馬琴日記』
です。
①から③は葬儀費用項目中、一部を抜粋します。
①播磨屋中井家(両替商)当主(火葬)
通夜・葬儀は別払いです
七日七日百ヶ日迄之志 浄見寺へ 金壱両
智証坊へ右同断 金100疋
喜三郎名前で、一七日ニ付寺参布施 浄見寺へ 金100疋
伴僧5人但智証坊共 銀15匁
隠居他3名で、一七日ニ付寺参布施 銀4両 当日読経之御方4人へ銀4両
御火葬ニ付別火屋入用 金3両3分
非人へ 百ヶ日迄仕切、忌中立番共 銭6貫文
②住友泉屋(札差)手代(火葬)
通夜・葬儀は別払いです
本坊へ中陰中回向料 200疋
初七日より百ヶ日迄回向料、卒塔婆料等一切仕切、玉泉院へ 300疋
棺桶 2朱と100文
別部(ママ)屋火葬料 金1両2分と1貫文
③白木屋木綿店支配役(三人いる支配役の二番目)(土葬)
通夜・葬儀は別払いです
初七日より百ヶ日迄回向料 金600疋 外に白米一斗、
当日白米一俵、酒一樽、醤油一樽
棺桶・蓮台・湯灌桶共惣入用 金2分と銀7匁
④森山孝盛の養父
これについては『森山孝盛日記』から関連する記載を抜き書きします。
安永四乙未年1775
正月 大
廿一日 御隠居様御不出来之由為知来候間、早々罷越候処間ニ合不申、
四時頃御病死候由。
廿二日 養父病死、今暁七ッ時之積り、与頭知久七郎兵衛殿へ届書遣ス。
廿三日 春岳院様御葬送無滞相済。
一 御七日々ニ参詣
一 代々法名浄之字を用候処、御遺言も無之、跡ニ而も心附不申、
忠山嶽道ト有之、追而序を以可改之。
廿五日 知行所江春岳院様御不幸之儀申遣ス。
廿七日御初七日ニ付、志之品申付、所々江遣ス。所々よりも野菜・
油上等来、
百ヶ日迄之法事料代々例格之ごとく銀拾枚・白米三俵目録を以
銀右衛門遣し宗参寺納所へ対談為致候、此節役僧智乗ト申出家也。
廿七日 春岳院様御初七日於宗参寺讖法之法事修行。
二月廿一日 御初月忌ニ付智乗相招斎振廻。
昨廿日 ほた餅申付所々へ遣ス。
三月十日 春岳院様四十九日之御法事於宗参寺執行。
五月二日 春岳院様百ヶ日ニ御当りニ付、宗参寺参詣廻向有之。
七月九日 連々春岳院様御形見所々江配達。
安永五丙申年
正月廿一日 春岳院様一周忌ニ付於宗参寺歓仏之法事執行。
但法事料弐両弐俵、一昨十九日志之牡丹餅申付所々江遣ス。
註:「御隠居様」=「養父」=「春岳院様」=孝盛の兄盛明(盛芳の養子)
孝盛(盛芳の実子)は兄盛明の養子となり家督を継いでいる。
孝盛は四百石の旗本(采地三百石、廩米百俵)で明和八年家を継ぐ、
安永四年時点は大番士、その後、寛政三年1791目付、寛政六年1794
御先鉄炮の頭、同七年五月から加役火盗改
⑤馬琴の息子宗伯
馬琴の男宗伯は天保六年五月八日辰の上尅(五時)卒 享年三十八歳。
これも『曲亭馬琴日記』から抜き書きします。
五月八日
一宗伯戒名の事、何誉琴嶺居士といたしくれ候様、深光寺へ申遣ス。
并ニ先塋成正様御墓へ祔葬、已然の瓶をそのまゝほり出し、一丈ほり
下げ、古瓶を安し、その上へ新葬のつもり也。
五月十四日
一初七法事、深光寺組合寺、光学寺和尚出座。過日送葬之節も、此光学寺
和尚也。外ニ所化四人、阿弥陀経読誦、回向し畢。施主男女出席、太郎
をはじめ皆焼香畢。
一今日、深光寺へ布施。過日送葬之節ト今日分、〆金壱両弐分ト五百文、
納所へ渡之。五百文は穴掘り両人分也。委細別帳ニ記之。納所より請取
書取之。外ニ、昼食代十七人分、金壱分ト弐匁遣之。壱人前壱匁ヅヽ。
註:先塋成正様 先塋(せんえい)とは父母の墓のこと、成正は馬琴の父興義の戒名
太郎 宗伯の息子
①から③は通夜と葬儀の日の分は別に支払い、初七日から百か日までを一括して支払っています。④では通夜から百か日までを一括して支払っているようです。
馬琴の家では通夜から初七日までの分をまとめて払っています。
五月十六日以降は抄写のため宗伯法事関連の記載がなく、これ以外はわかりません。
因みに金額の表記についても触れておきます。
○金100疋は金一分の通称
銭100文を10疋、銭1貫文を100疋といいます。江戸の前期には
金1両=銭4貫文、金一分=銭一貫文と決められていました。金1分=
銭1貫文=銭100疋です。金1分を100疋という言い方ができて、
銭が変動相場になった後もそのまま使われています。
○銀4両 銀1両は銀4匁3分 金1両は銀60匁
○銀拾枚 銀1枚は包み銀で、銀座或いは両替商が銀43匁を紙に包んだ
もの
また「百か日仕切り」とは関係ありませんが、少し付け加えます。
*森山家の法名(戒名)について
次に紹介するのは村越英裕氏の「戒名・法名の形式」というタイトルの文章ですが、氏は最初に次のようにことわっています。
「戒名・法名の形式」について話を進める前に、まず次の点を了承してください。
一、戒名の歴史や由来などには諸説ある。
二、各宗派によって戒名についての定義や形式に違いがある。
三、時代による変化がある。
四、同宗同派であっても日本全国、画一的に統一されてるわけではない。
五、戒名を授ける住職による個人差がある。
したがって、これからお話することは私の属している宗派、禅宗の臨済宗を一つの基準に置き、あくまで個人的な意見を添えながらまとめさせていただいたものです。
森山孝盛は「法名」と書いています。現在でもWEB上などで行われている説明では、「戒名」が一般的で浄土真宗では「法名」、日蓮宗では「法号」と呼ばれているとしています。しかし『寛政重修諸家譜』ではそうなっていません。数人のものしか見ていませんが、すべて「法名」と書かれています。
大岡越前守忠相は「興誉崇義松運院と号す」とだけあって、法名とも戒名とも書かれていません。岡本玄冶諸品は「法名陶出」、倉地忠見(笠森おせんを妻にした満済の養父)は「法名常照」、徳山五兵衛重政は「法名浄雲」、根岸肥前守鎮衛の養父衛規は「法名心覚」、長谷川平蔵宣以は「法名日耀」。
倉地満済と根岸鎮衛は寛政期には存命です。
旗本森山家では戒名二文字のうち一文字は「浄」を使う家例のようです。森山盛明の法名は「嶽道」から「浄義」へ換えられたようで、『寛政重修諸家譜』は「浄義」になっています。因みに森山家の代々の当主の実名と法名は次の通りです。カッコ内は法名
盛勝(浄見)─ 盛照(浄水)─ 盛壽(浄泰)─ 盛芳(浄超)─ 盛明(浄義)
実名に同じ一文字を使う家例はよく見られますので、それが戒名(法名)に波及したものと思われます。
*馬琴家の埋葬施設について
埋葬施設には身分階層により様々なものがありました。檀家に上級武士の多かった新宿区自證院遺跡の発掘では
①石室に棺を納めたもの六基
②棺の下に木炭・漆喰をしくか、棺を木炭・漆喰で覆い槨をつくったもの
木炭・漆喰床・槨の木棺墓九基、木槨甕棺墓八基
③木槨に甕棺を納めたもの一四基
④火葬蔵骨器を木槨に納めたもの一基
⑤甕棺墓一六基
⑥木棺墓一八基
檀家に一般町民が多かった港区増上寺子院群では
土葬の棺には甕棺、方形木棺(箱形)、円形木棺(早桶)があり、身分階層の上下に対応しています。そして更に上級では甕棺・木棺を石室や木槨に収めています。江戸時代の棺は座棺です。馬琴日記には「先塋成正様御墓へ祔葬、已然の瓶をそのまゝほり出し、一丈ほり下げ、古瓶を安し、その上へ新葬のつもり也」とありますので、滝沢家では甕棺を使っています。また江戸は土葬が多かったこと、現代と比べ平均寿命が大幅に短かったこと、町人人口だけで50万もあったことから墓地が不足で、以前に埋葬された古い棺の上に新しい棺を埋葬することも普通に行われていたようです。
追補
「初月忌」について
森山孝盛日記には「御初月忌ニ付智乗相招斎振廻」とあります。今日では「初月忌」という言葉はあまり聞きませんが、江戸時代には普通だったようです。例えば徳川将軍家の初代家康から十一代家斉の最初の月命日の日の記載を見ますと、四代家綱には関連記事が無いだけで、それ以外は新廟詣で又は法会があり、家光・家宣・家斉には「御初月忌」、家継・吉宗には「初ての忌辰」の文字があります。
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金山寺売りの金兵衛が西念の死骸を木蓮寺に持ち込み、和尚に法要の値段を交渉するところに、「百か日仕切りでいくらでやってくれる」とあります。江戸時代には百か日までを一纏めにして値を決めることがあったようです。
葬儀関連のお布施については僅か5例しか知りませんが、そのうち4例が「百か日仕切り」です。これが一般的であったかどうかは分かりませんが、少なくとも特別なことではなかったようです。
その5例というのは
『江戸の葬送墓制』(西木浩一著、都史紀要三十七 平成十一年)にある次の3例
①播磨屋中井家(両替商)当主(火葬) 天明七年1787
『史料館叢書4 播磨屋中井家永代帳』より
②住友泉屋(札差)手代(火葬)
『住友史料叢書 浅草米店万控帳(上)』より
③白木屋木綿店支配役二人目(土葬)嘉永六年1853
林玲子『江戸店犯科帳』(白木屋『万歳記録』)より
及び
④森山孝盛の養父(土葬) 安永四年1775 『森山孝盛日記』
⑤馬琴の息子宗伯(土葬) 天保六年1835 『曲亭馬琴日記』
です。
①から③は葬儀費用項目中、一部を抜粋します。
①播磨屋中井家(両替商)当主(火葬)
通夜・葬儀は別払いです
七日七日百ヶ日迄之志 浄見寺へ 金壱両
智証坊へ右同断 金100疋
喜三郎名前で、一七日ニ付寺参布施 浄見寺へ 金100疋
伴僧5人但智証坊共 銀15匁
隠居他3名で、一七日ニ付寺参布施 銀4両 当日読経之御方4人へ銀4両
御火葬ニ付別火屋入用 金3両3分
非人へ 百ヶ日迄仕切、忌中立番共 銭6貫文
②住友泉屋(札差)手代(火葬)
通夜・葬儀は別払いです
本坊へ中陰中回向料 200疋
初七日より百ヶ日迄回向料、卒塔婆料等一切仕切、玉泉院へ 300疋
棺桶 2朱と100文
別部(ママ)屋火葬料 金1両2分と1貫文
③白木屋木綿店支配役(三人いる支配役の二番目)(土葬)
通夜・葬儀は別払いです
初七日より百ヶ日迄回向料 金600疋 外に白米一斗、
当日白米一俵、酒一樽、醤油一樽
棺桶・蓮台・湯灌桶共惣入用 金2分と銀7匁
④森山孝盛の養父
これについては『森山孝盛日記』から関連する記載を抜き書きします。
安永四乙未年1775
正月 大
廿一日 御隠居様御不出来之由為知来候間、早々罷越候処間ニ合不申、
四時頃御病死候由。
廿二日 養父病死、今暁七ッ時之積り、与頭知久七郎兵衛殿へ届書遣ス。
廿三日 春岳院様御葬送無滞相済。
一 御七日々ニ参詣
一 代々法名浄之字を用候処、御遺言も無之、跡ニ而も心附不申、
忠山嶽道ト有之、追而序を以可改之。
廿五日 知行所江春岳院様御不幸之儀申遣ス。
廿七日御初七日ニ付、志之品申付、所々江遣ス。所々よりも野菜・
油上等来、
百ヶ日迄之法事料代々例格之ごとく銀拾枚・白米三俵目録を以
銀右衛門遣し宗参寺納所へ対談為致候、此節役僧智乗ト申出家也。
廿七日 春岳院様御初七日於宗参寺讖法之法事修行。
二月廿一日 御初月忌ニ付智乗相招斎振廻。
昨廿日 ほた餅申付所々へ遣ス。
三月十日 春岳院様四十九日之御法事於宗参寺執行。
五月二日 春岳院様百ヶ日ニ御当りニ付、宗参寺参詣廻向有之。
七月九日 連々春岳院様御形見所々江配達。
安永五丙申年
正月廿一日 春岳院様一周忌ニ付於宗参寺歓仏之法事執行。
但法事料弐両弐俵、一昨十九日志之牡丹餅申付所々江遣ス。
註:「御隠居様」=「養父」=「春岳院様」=孝盛の兄盛明(盛芳の養子)
孝盛(盛芳の実子)は兄盛明の養子となり家督を継いでいる。
孝盛は四百石の旗本(采地三百石、廩米百俵)で明和八年家を継ぐ、
安永四年時点は大番士、その後、寛政三年1791目付、寛政六年1794
御先鉄炮の頭、同七年五月から加役火盗改
⑤馬琴の息子宗伯
馬琴の男宗伯は天保六年五月八日辰の上尅(五時)卒 享年三十八歳。
これも『曲亭馬琴日記』から抜き書きします。
五月八日
一宗伯戒名の事、何誉琴嶺居士といたしくれ候様、深光寺へ申遣ス。
并ニ先塋成正様御墓へ祔葬、已然の瓶をそのまゝほり出し、一丈ほり
下げ、古瓶を安し、その上へ新葬のつもり也。
五月十四日
一初七法事、深光寺組合寺、光学寺和尚出座。過日送葬之節も、此光学寺
和尚也。外ニ所化四人、阿弥陀経読誦、回向し畢。施主男女出席、太郎
をはじめ皆焼香畢。
一今日、深光寺へ布施。過日送葬之節ト今日分、〆金壱両弐分ト五百文、
納所へ渡之。五百文は穴掘り両人分也。委細別帳ニ記之。納所より請取
書取之。外ニ、昼食代十七人分、金壱分ト弐匁遣之。壱人前壱匁ヅヽ。
註:先塋成正様 先塋(せんえい)とは父母の墓のこと、成正は馬琴の父興義の戒名
太郎 宗伯の息子
①から③は通夜と葬儀の日の分は別に支払い、初七日から百か日までを一括して支払っています。④では通夜から百か日までを一括して支払っているようです。
馬琴の家では通夜から初七日までの分をまとめて払っています。
五月十六日以降は抄写のため宗伯法事関連の記載がなく、これ以外はわかりません。
因みに金額の表記についても触れておきます。
○金100疋は金一分の通称
銭100文を10疋、銭1貫文を100疋といいます。江戸の前期には
金1両=銭4貫文、金一分=銭一貫文と決められていました。金1分=
銭1貫文=銭100疋です。金1分を100疋という言い方ができて、
銭が変動相場になった後もそのまま使われています。
今の世に壱歩金といふものひとつを百疋といへり、これハ此金をはじめてつくらせたまえるとき、百疋にうりもしかひもしけるによりていひそめたることとぞおもハるゝ、百疋といふハ銭壱貫のことになん、(以下略) (藤井高尚『松の落葉四の巻』 藤井高尚は天保十一年1840歿)
○銀4両 銀1両は銀4匁3分 金1両は銀60匁
○銀拾枚 銀1枚は包み銀で、銀座或いは両替商が銀43匁を紙に包んだ
もの
また「百か日仕切り」とは関係ありませんが、少し付け加えます。
*森山家の法名(戒名)について
次に紹介するのは村越英裕氏の「戒名・法名の形式」というタイトルの文章ですが、氏は最初に次のようにことわっています。
「戒名・法名の形式」について話を進める前に、まず次の点を了承してください。
一、戒名の歴史や由来などには諸説ある。
二、各宗派によって戒名についての定義や形式に違いがある。
三、時代による変化がある。
四、同宗同派であっても日本全国、画一的に統一されてるわけではない。
五、戒名を授ける住職による個人差がある。
したがって、これからお話することは私の属している宗派、禅宗の臨済宗を一つの基準に置き、あくまで個人的な意見を添えながらまとめさせていただいたものです。
そもそも戒名はすべての宗派に共通している呼び名ではありません。浄土真宗では法名、日蓮宗では法号といいます。
また戒名は各宗派ごとにかなりの違いがありますから、全宗派共有の基本パターンを整理分類し、解説することは不可能なことです。
しかし、あえて多くの宗派に共通している戒名の基本形をわかりやすく分類するならば、「院号のある戒名」と「院号のない戒名」とに分けることができます。
あくまで代表的な例で示すならば、次のような戒名になります。
院号のある戒名 院号のない戒名
男性 ○○院○○○○居士 男性 ○○○○信士
女性 ○○院○○○○大姉 女性 ○○○○信女
そして、基本的な構造と名称は次のようになっています。
院号 道号 戒名 位号
○○院 ○○ ○○ 居士
○○ ○○ 居士
今日ではこれらすべてを戒名と呼んでいますが、歴史的にいうならば位号の上にある二文字が戒名に相当します。そもそも戒名は二文字だったのです。(村越英裕「戒名・法名の形式」 『大法輪』第六十六巻(平成十一年)第九号)
森山孝盛は「法名」と書いています。現在でもWEB上などで行われている説明では、「戒名」が一般的で浄土真宗では「法名」、日蓮宗では「法号」と呼ばれているとしています。しかし『寛政重修諸家譜』ではそうなっていません。数人のものしか見ていませんが、すべて「法名」と書かれています。
大岡越前守忠相は「興誉崇義松運院と号す」とだけあって、法名とも戒名とも書かれていません。岡本玄冶諸品は「法名陶出」、倉地忠見(笠森おせんを妻にした満済の養父)は「法名常照」、徳山五兵衛重政は「法名浄雲」、根岸肥前守鎮衛の養父衛規は「法名心覚」、長谷川平蔵宣以は「法名日耀」。
倉地満済と根岸鎮衛は寛政期には存命です。
旗本森山家では戒名二文字のうち一文字は「浄」を使う家例のようです。森山盛明の法名は「嶽道」から「浄義」へ換えられたようで、『寛政重修諸家譜』は「浄義」になっています。因みに森山家の代々の当主の実名と法名は次の通りです。カッコ内は法名
盛勝(浄見)─ 盛照(浄水)─ 盛壽(浄泰)─ 盛芳(浄超)─ 盛明(浄義)
実名に同じ一文字を使う家例はよく見られますので、それが戒名(法名)に波及したものと思われます。
*馬琴家の埋葬施設について
埋葬施設には身分階層により様々なものがありました。檀家に上級武士の多かった新宿区自證院遺跡の発掘では
①石室に棺を納めたもの六基
②棺の下に木炭・漆喰をしくか、棺を木炭・漆喰で覆い槨をつくったもの
木炭・漆喰床・槨の木棺墓九基、木槨甕棺墓八基
③木槨に甕棺を納めたもの一四基
④火葬蔵骨器を木槨に納めたもの一基
⑤甕棺墓一六基
⑥木棺墓一八基
檀家に一般町民が多かった港区増上寺子院群では
埋葬施設は早桶、木棺、甕棺、火葬蔵骨器、遺体を棺に入れずに直葬したものに分類される。そのなかでは、早桶が全体の約八〇%を占め、次に火葬蔵骨器が多いが一〇%に満たない。他はわずかである。 (谷川章雄「江戸の墓地の発掘」『甦る江戸』)
土葬の棺には甕棺、方形木棺(箱形)、円形木棺(早桶)があり、身分階層の上下に対応しています。そして更に上級では甕棺・木棺を石室や木槨に収めています。江戸時代の棺は座棺です。馬琴日記には「先塋成正様御墓へ祔葬、已然の瓶をそのまゝほり出し、一丈ほり下げ、古瓶を安し、その上へ新葬のつもり也」とありますので、滝沢家では甕棺を使っています。また江戸は土葬が多かったこと、現代と比べ平均寿命が大幅に短かったこと、町人人口だけで50万もあったことから墓地が不足で、以前に埋葬された古い棺の上に新しい棺を埋葬することも普通に行われていたようです。
江戸時代の墓地を発掘すると、甕棺・円形木棺・方形木棺・素焼きの骨壺などとさまざまなタイプの埋葬施設が確認される。
この中でも、甕棺には一般に金銭的に余裕のあった人々が納められ、円形木棺にはそうでない人が入れられることが多い、とされている。(中略)
実際に江戸の墓を掘ってみると、驚かされることが多い。最初に甕棺が出てきたかと思うと、そのすぐ下に重なるようにして他の埋葬施設が出てくる。
要するに、先に埋められていた人の棺を少し壊して、新しい棺を埋めているのだ。ちょっと考えると、大胆なことをしているようだが、限られた土地しかない江戸の町では、こうでもしないと墓をつくることが難しかったという事情もあったようだ。(谷畑美帆『江戸八百八町に骨が舞う』)
追補
「初月忌」について
森山孝盛日記には「御初月忌ニ付智乗相招斎振廻」とあります。今日では「初月忌」という言葉はあまり聞きませんが、江戸時代には普通だったようです。例えば徳川将軍家の初代家康から十一代家斉の最初の月命日の日の記載を見ますと、四代家綱には関連記事が無いだけで、それ以外は新廟詣で又は法会があり、家光・家宣・家斉には「御初月忌」、家継・吉宗には「初ての忌辰」の文字があります。
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