落語の中の言葉262「旅-往来手形・関所手形」

 落語には旅の話がいろいろありますが、往来手形や関所手形はほとんど出てきません。旅をしているのが男性だからかもしれません。江戸の町人(男性)の場合は往来手形・関所手形は簡単に手に入りました。往来手形は旦那寺に、関所手形は大家に書いてもらうことができました。
『東海道中膝栗毛初篇』にも次のようにあります。

独身(ひとりみ)のきさんじは鼠の店賃いだすも費(ついへ)と身上残らず風呂敷包みと為したるも心やすし、去ながら旦那寺の仏餉袋を和(やは)らかにつめたれば、外(ほか)に百銅地腹をきつて往来の切手をもらひ、大屋(おほや)へ古借をすましたかわり、御関所の手形をうけとり、ふめるものはみたをしやへさづけて金にかへ、がらくた物は店(たな)うけにしよはせて礼をうけ、漬菜のおもしと、すみかき庖丁は隣へのこし、(以下略)

 また男性の場合、江戸から上方へ向かう時でも、手形無しで箱根の関所を通ることは出来ましたが、取調を受けることになるため準備したようです。箱根関所の定番人が尋ねに対して出した文書に次のようにあります。(『箱根御関所日記書抜・下』)

一、町人大屋、百姓名主より相断罷通候哉之㕝(こと)
  此趣箱根御関所おゐて、下り通候町人百姓之義前々より
  不及改通申候、

一、町人百姓罷登候者共相改候趣左之通
   町人百姓罷通候ニハ、其処之大家・名主、又所縁之者より
   之手形持参仕候付、相改通申候、又手形持参不仕候者、遂
   吟味不審之躰無御座候ヘ相通申候
、右之通相改来申候、
右之通此度松平主計頭様より箱根御関所上下改之儀、御尋被遊候、就夫改之次第右書附之通、稲葉古丹波守様御代以来先定番人之者共、私共申伝相改来候趣相違無御座候、以上、
   宝永二年六月     箱根御関所
                 定御番人

 松平主計頭は女性の関所手形(女手形とも云う)を発行する幕府の留守居役です。
箱根の関所では、「下り」つまり上方方面から江戸へ向かう場合には関所手形の改めなしに通ることが出来て、江戸方面から上方方面へ通る時だけ関所手形が無いと吟味を受けたということです。女性の場合も「入り鉄砲に出女」と言われるように、江戸へ入る場合には関所手形は不要です。但し、登り下りとも、乱心・手負・首・死骸は男女とも留守居の手形が必要ですから乱心・手負でないことの改めは行われます。
 往来手形と関所手形の実例を紹介します。往来手形は関所へ提出しませんから手元に残りますが、関所手形は関所へ提出しますから手元に残りません。往来手形も村方のものは残っているものも多いですが、江戸の町人のものは、それを紹介したものを見ていません。
 そこで、村方の旦那寺が発行した往来手形の一つを油井宏子『そうだったのか江戸時代』から紹介します。

   往来手形之事
    藤堂和泉守様領分
     山城国相楽郡上狛村
         女りゑ男子
           宇之助
            当卯二十一才
右之もの宗旨代々浄土宗而則拙寺旦那紛無御座候然ル処此度心願之儀有之候付四国順拝致度候間、国々御関所無相違御通可被下候、万一行暮候ハヽ一夜之宿御頼申候、但病気取逢候節は養生被仰付可被下候、若死去致候 ヽ此方不及御附届候間、其所之 御作法通御取片付可被下候、為後日往来手形依而如件
             同村
  安政二卯年二月     法蓮寺印

  国々
  御関所
   御役人中様
     村々御役人中

 男の関所手形は、町役人である大家が書きますから記録が残っていることがあります。その内容も往来手形に比べ極めて簡単です。

   差上申手形の事
一 此者 壱人
  右は遠州秋葉山へ参詣仕度奉存候、依之何卒其御関所無相違御通
  し被 遊可被下候、為後日の差上申一札手形、依如件
  文化七午年八月十六日
             江戸四谷塩町一丁目
                  家主  大 助
   箱根御関所
     御役人衆中様
   (「御奉行所/御役所向 言上帳」『四谷塩町一丁目御用留』)


 往来手形は提出しませんから「国々御関所 御役人中様 村々御役人中」のようになっていますが、関所手形はそれぞれの関所へ提出しますから「箱根御関所 御役人衆中様」のようになっています。箱根・荒井両関所宛ての手形では取調を受けなければ通れなかったようです。

 明和四年四月廿四日
一、上田三左衛門様御家来之由、手形致持参候処、箱根・荒井両様之宛手形故、只今迄様之取扱致候儀無之、定番人共も一切覚無之趣付、手形取直し被参候様と申候、夫共差掛難儀迷惑ヾ、爰許御大法改受候而も不苦、相通被申度候ヾ、格別之儀と申達候処、其手形而難相通旨候ヘ、取直し罷越可申旨申答罷帰申候、    (『箱根御関所日記書抜・上』)

 また、例えば東北地方の住民が江戸見物をしてから伊勢参宮をする場合、江戸の旅籠屋で出してもらった関所手形で箱根の関所を通っている例を山本光正氏があげています。(「旅と関所」)

     指上申手形之事
 一此者六人奥州三春岩井沢村ゟ伊勢参宮仕候、御 関所無相違御通シ被遊可被下候、為後日仍而如件
   享保八年卯六月十五日        江戸馬喰町三丁目
                           宿 吉兵衛印
箱根御番所衆中様

 一方、町人の母妻娘等が江戸から箱根の関所を通る場合は、幕府の留守居役が発行する関所手形が是非必要で、その手続きはおおよそ次のようだったと思われます。
 人主(親・夫等)に許可を得て家主に町年寄宛の願書を作成して貰う(人主
 家主及び五人組 連印)
 名主の吟味を受け奥印を貰い町年寄へ提出
 町年寄の吟味を受け、町奉行宛の申請書を作成して貰う(人主・家主・五人
 組連印、名主奥印)
 町年寄(代理)同道で町奉行所へ提出。万治二年六月以前は直接留守居役の
 屋敷へ提出

 その手続きの一端を知ることが出来る記録が「御奉行所/御役所向 言上帳」(『四谷塩町一丁目御用留』)にあります。町年寄役所への願書。

    乍恐以書附を御願奉申上候
  一女上下四人        四谷塩町壱丁目
                    家持五兵衛母
    髪長く櫛摺并咽廻り           き  せ
    申分無之、白髪交り            五拾壱才
                    五兵衛伯母
    右同断に御座候             ゆ  き
                         四拾七才
                    従弟女
    右同断、但し髪の内           志  津
    釣はげ三ヶ所有之候            四拾壱才
                    下 女
    右同断、髪の内釣はげ          き  し
    壱ヶ所有之候、但し            五拾六才
    口中歯前壱本欠け有之
右女上下四人此度勢州山田へ参宮仕度奉存候、依之箱根・今切両御関所の御手形頂戴仕度奉願上候、右伯母・従弟女両人共、五兵衛方に厄介之仕差置候者に相違無御座候、尤家主・五人組・名主立合の上、吟味仕候所相違無御座候、以上
   寛政三亥年三月八日
             四谷塩町壱丁目家持
                  人主   五兵衛
                  五人組  吉兵衛
                  同    利兵衛
               拾五番組の内
                  名主   孫右衛門
                  同    茂八郎
   樽 御役所


このケースは人主が家持なので大家の名はありません。奉行所への願書及び女手形そのものは載っていませんので、別の女手形(証文)の写しを参考にあげます。

  御証文写
女弐人、内髪薄短髪之中櫛摺并釣はけ有之、頬出来物之跡有之女壱人、髪薄短髪先不揃而髪之中釣はけ有之女壱人、従江戸京都西本願寺参詣、箱根関所無相違可被通候、山王町家主善太郎店庄次郎母、同伯母之由証人共致請状町年寄加判、其上池上筑後守殿・小田切土佐守殿断付如斯候、以上
  寛政七年卯二月十四日  伊賀
              因幡
              内膳
              肥前

            箱根 人改中
            (『箱根御関所日記書抜・下』)

女手形は留守居役の連名で出されています。普通は女手形が御関所日記に記録されることはありませんが、手形中にある「池筑後守」は誤字で、正しくは「池筑後守」で南町奉行です。軽微な誤字として通してよいか、藩に伺っているため記録されたものです。因みにこのケースは付添人に話した上でそのまま通しています。

 女手形の場合には手形発行人の名前と印が事前に関所に渡されているため、それと照合して手形が本物であることを確認した上で記載内容と通行する人物の一致を確認するのですが、百姓町人(男性)の場合は、手形発行人が百姓は名主、江戸の町人は大家ですからその手形が本物であるかどうかは関所では確認は出来ません。旅人自身が書いたものであってもわからないのです。男性の関所手形の改めは全く形式的なものでした。それに対し女性の改めは女手形の取得が煩雑なだけなく、実質的なものでした。
 この女手形も、幕末に人質としての大名の妻子の江戸居住強制が解除されると、基本的には男同等に簡素化されます。つまり大家発行の手形ですむことになります。

慶応三卯年八月
     申渡
              小口世話掛名主共
今般御関所通行之義御変革被仰出、婦人通行之義は、惣而男子同様之振合ヲ以通行可致旨御触被仰出候、就而は男子之分は已前之如く、家主調印手形ヲ以御関所通行相成候付、以後婦人通行之義も同様は勿論候得共、女性之義付心取違有之候而は以之外候間、以来別而旅行帰着共家主相届ケ、御触面之趣心得違無之様、名主共支配限壱人別申聞置候様可致候、若所用有之婦人旅行之義、往先承り糺、家主調印手形、無延引当人相渡可申候、尤出立致候ヘ其都々之名前出先等、月番之町年寄相届ケ可申候、右御奉行所相伺、其上申渡候間、其旨可相心得候、尤組合中不洩様早々可申通候
  卯八月          (『江戸町触集成』第十八巻)

 ついでながら、往来する人数の多い箱根の関所では、日々多数の手形を受け取ることになります。手形のうち留守居発行の女手形は文化五年の時点では、九月・三月に半年分をまとめて小田原藩から留守居へ返却しています。そのため女手形の現物は関所にも残りません。一般の手形は三年間は関所で保存し、その後は反古として使ったようです。『箱根御関所日記書抜・上』に次のような記載があります。
 宝暦八年1758八月晦日
一、御関所手形反古、其元御後方御入用候間、差遣候様被仰越致承知候、然る処、前格三ヶ年分ハ、囲イ置候、其余は御関所入用而遣申候、反古無之候、夫共三ヶ年内而も不苦候事候ハヾ、差遣可申候事、右之段蒔田権大夫方申遣候、


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