落語の中の言葉260「髪結床2(下)」
今回は「駆付人足役」についてです。
天保の改革で組合が廃止されるまでは、町奉行所の近火の際に駆付けて書類等を持ち出す役を髪結は勤めていました。しかし町奉行所からの命令でいやいや行っていたのではありません。また駆付役は髪結だけでもありません。
そもそも江戸における髪結床は
町家が増えると町内にも髪結床は出来ます。そしてかなり早い時期から仲間組織が作られています。無札無役の忍髪結の差止めを求める寛政三亥年1791十月廿五日の髪結仲間の願書には次のようにあります。
寛永及び万治の髪結札 『諸問屋再興調』十五之一より
仁左=朝倉仁左衛門在重、寛永当時、北町奉行
治左=村越治左衛門勝吉、万治当時、北町奉行
備前=神尾備前守元勝 寛永万治とも南町奉行
神尾備前守は寛永十五年1638五月十六日長崎奉行から町奉行になり、
万治四年1661(四月寛文へ改元)三月八日「七十にあまり、老衰せ
しとて、乞うまゝに職をゆるさる」まで町奉行を勤めています。
(『徳川実紀』)
この「駆付け役」の成立経緯は次の通りです。
明暦三年1657の大火の後、万治二年1659に、それまで営業していた振売りや髪結に鑑札が出されると共に新規開業は禁止され、札銭が徴収されました。但し五十歳以上と十五歳未満は札銭免除。札銭が何時まで続いたのかは分かりません。
享保六年1721に、現在橋台で営業している髪結と商人から地代を取り、また現在空き地となっている橋台に髪結と商人を入れてそこからも地代を取り、それを原資に幕府が管理する橋の火消し役を務めたいという願書が本八町堀四丁目清七店三右衛門から町奉行所に出されました。これに対し橋台にいる髪結と商人は、地代を取られるのを迷惑として、自分たち及び髪結仲間の加勢を受けて三右衛門同様の火消し役を勤めたいと願い出ます。奉行所は、防ぎ方が粗略で橋が焼失した場合には三右衛門へ替えること、その際に異議を申し立てないことを条件に髪結たちの願いを認めます。
享保八年1723、髪結仲間のうち橋台から遠く橋火消しに出
ない者たち75人が町奉行所近くの火災の際には町奉行所
へ駆け付けて書類等の運び出しをしたいと願い出て許可さ
れます。これが「駆付け役」の始めです。翌九年には山之
手筋の239人が同様の駈付を願出て許可されています。
「駆付け役」は町奉行所の書類等の持ち出しだけで消火作
業はしませんが、「橋火消役」は橋の類焼防止と消火作業
を行います。
享保十九年1734、御公儀橋の新規・修復とも永島町白子
屋勘七・元飯田町菱木屋喜兵衛が定請負となり、橋火消役
は御免になります。そこで橋火消役を御免になった髪結も、
町奉行所への駆付け役を願い出て享保二十年に許可されま
す。それを聞いた橋台にいる商人たちも髪結同様駆付け役
を願い出てこれも許可されます。
そして駆付け役であることを証明する焼印札を交付されま
した。 左、享保札 『諸問屋再興調』十五之一より
明和四年1767に湯島聖堂掃除屋敷髪結組合の行事から、組合に入らず無役無札の床番屋があるので、仲間入りと駆付け役を勤めるように命じてほしいという訴えがなされましたが、これに対し町奉行所は
その後、
その後、天明の打壊しを経た後の寛政五年1793には幕府は政策を変更し、髪結組合の要望をいれて、髪結組合に入っていない者は髪結渡世を禁止する町触を出しています。これにより髪結組合による統制が強化され稼ぎ場が確定されていきます。元禄1688-1703の頃から稼ぎ場と駆付札を抵当にした金融は「家質」(不動産を抵当にした金融)に準ずる扱いになっていましたが、髪結の株は高値で売買されるようにもなります。『江戸の職人』に載っている道寿屋敷(出床一ヵ所、場所一人前)都合二人前の実際の売買金額の変遷は次の通りです
一七一四(正徳四)年八月 金 一七両
一七二二(享保七)年六月 金 七両
一七七九(安永八)年八月 金 八〇両
一七九七(寛政九)年三月 金一三〇両
一八二四(文政七)年一一月 金三三〇両
一八三五(天保六)年一〇月 金三二〇両
ところが天保十二年1841十二月の株仲間の禁止にともない、駆付役も廃止となり、翌年三月には焼印札も取上げられてしまいます。駆付御用は町名主へ命じられています。大混乱の後、嘉永四年1851再び組合が許可されますが、新しい組合は自由加入で勝手な内部取り決めのできないもので、天保までのものとは別物です。それでも髪結の組合は再結成され、駆付役も焼印札も復活します。これにより町名主の駆付御用は廃止されます。
嘉永札 『大江戸八百八町』図録より
「駆付役」は奉行所に強制されたものではありませんし、当初は橋台の商人も「駆付役」を勤めていました。その後橋台の商人の「駆付役」は無くなったようですがいつから廃止されたかは不明です。
以上が「駆付役」の経緯です。
以下に主な資料を揚げておきますので、必要な方はお読みください。
○慶長札関係
慶長十四年1609正月二日立春。」けふ令せらるゝは。(中略)もとより商人の外。仕官をやめ處士となりし者か。または農民臨時にものうりひさぎて。一銭たりともとるべからず。但先々よりさることなし来りたる者は。町奉行米津勘兵衛田政及び土屋権右衛門重成の券をこひうけて其事なすべし。(以下略)(「台徳院殿御実紀」巻八)
慶長十八年1613三月 是月市井に令せらるゝは。(中略)武家の従者等俄につかへをやめ商人となるか。又は農民不時に物うりあるき。一銭をとるべからず。もとよりそれを生産となし来る者は。町奉行米津勘兵衛田政。島田兵四郎利正の牌を受くべし。(以下略)(「台徳院殿御実紀」巻廿二)
○万治札関係
一振売之者五拾以上拾五以下并かたわ者ニ今度振売御札被下候間、只今迄振売
仕候者共斗、年数偽無之様町中吟味仕、書付上可申候、家持札取候事又は新
規ニ振売商企札取候者、堅停止之事
一絹紬木綿麻布并かやしてう振売仕候者ニ、御札被下候間、人数相改書上可申
事
一古着買せんし茶売候者有之候ハ、吟味仕、其町々人数書付上可申候、是は札
銭壱ヶ年ニ金壱両ツヽ被召上候事
一髪結壱ヶ年ニ師匠は金弐両、弟子ハ金壱両宛、札銭被召上候間、人数相改書
付上ヶ可申事
一今度振売御札被下候以後、札なしニ振売商仕候者於有之ハ、御改之上当人は
曲事ニ被仰付、其上家主より過料拾貫文宛被召上候間、此旨急度相守可申事、
并髪結札なし右可為同前事
(万治二年1659)亥正月 (『江戸町触集成』第一巻)
○髮結床書入の扱いは家質に準ずる
覚
一奉公人給金、巳年以前之出入も、請人只今迄之通可申付事、
一請人辨濟之上、下請人えかゝり候儀、辨濟之分量程ハ下請人え可申付事、
一大屋立替候金子、店請人え可申付候事、
一什物金銀祠堂金銀は、出家出世金ニ准シ、年月之かまひなく可申付候事、
一髮結床船床金書入候て、金銀出入申出候ハヽ、家質之類ニ相准、可申付事、
一養子幷妻持参金出入、父方より養子相返シ候か、夫之方より妻ニ暇とらせ候
ハヽ、持参金相返シ可申候、養子又は妻女方より暇を取候ハヽ、持参金相対
次第可仕由可申付候、
右は前々之通向後も申付筈ニ、相談之上相極候間、申上置候以上、
(元祿十五午年1702)閠八月 (『寛保御触書集成』)
○享保六丑年1721からの橋火消関係
(享保七年1722)寅三月六日
一所々橋台ニ罷在候髪結并床商人共之儀、其橋続之町内江致相対、橋掃除其外相対ニ而役をいたし、渡世致来候所、去丑十月、本八町堀四町目清七店三右衛門と申者、所々橋台ニ有之髪結床商床より地代請取、并橋台明場ニ新規ニ髪結床商床差出シ、其助成を以、町方所々ニ有之御公儀橋之分、橋火消可仕段、大岡越前守様御番所江御願申上候ニ付、髪結并床商人共江御尋之所、右之通被為仰付候而ハ難儀仕候ニ付、右三右衛門御願申上候橋火消、髪結并床商人共相勤可申候間、地代差出候儀御免被成下候様御願申上、且又橋台ニ不罷在候髪結共儀も、仲ケ間一同之儀ニ付、致加勢、橋火消可仕段御願申上候ニ付、御吟味之上、今日越前守様御内寄合江右三右衛門并髪結床商人共被召出、髪結并床商人共江願之通橋火消被仰付候段、越前守様被仰渡候
差上申証文之事
所々橋台ニ罷有候髪結并床商人共申上候、今度本八町堀四町目清七店三右衛門と申者御願申上候ハ、所々御公儀橋橋火消可仕候間、只今橋台ニ居来候髪結床商床之者共ゟ地代を請取、并橋台明キ場ニ新規ニ髪結床商床差出可申段御願申上候ニ付、拙者とも迷惑至極仕候間、右橋火消之儀、三右衛門相勤候通ニ拙者共相勤可申候、勤方之儀ハ
一長柄杓
一縄釣瓶
一大はしこ
一水鉄炮
一大鳶口
一斧
一御橋両袂ニ四斗樽拾宛水溜置可申候
右之通火防道具栫置、火事之時分風並悪敷橋江ハ、所々之髪結共床商人共馳集、橋焼失不仕候様可仕旨、拙者共奉願候所、段々御吟味之上、享保七年寅三月六日、越前守様御内寄合江、右三右衛門井拙者共被召出、三右衛門願之儀ハ、拙者共何れも迷惑仕候ニ付、不被仰付候、然上ハ拙者共奉願候通、自今橋火消可相勤候、勤方之儀ハ最前申上候通、火消道具拵置、火事之時分風並悪敷橋々江は、所々髪結共床商人共馳集火防可申候、若防方疎略ニいたし、橋焼失いたし候ハヽ、其橋台ハ願人三右衛門方江御渡可被成旨被仰渡、奉畏難有奉存候、且又橋台ニ不罷在候髪結共之儀も、仲間一同之儀、其上公儀御橋之事ニ御座候間、橋台ニ罷有候髪結共ニ致加勢、橋火消可仕旨申上候ニ付、右之通被仰渡候上ハ、橋台ニ罷在候髪結共ハ不及申、床商人共迄、随分情出相勤、風並悪敷橋々江ハ所々より馳集火防可申候、若致疎略、橋焼失仕候ハヽ、其橋台之儀ハ願人三右衛門方江御渡可被遊候、其節少も御願申上間敷候、為後日、証文差上申候、仍如件
享保七年壬寅三月 惣橋台
髪結共
惣連判
床商人共
惣連判
加勢髪結共
惣連判
末ッ
一同月廿七日、大岡越前守様御内寄合江、右三右衛門被召出、三右衛門儀、此度御公儀橋火消之儀存付御願申上候ニ付、段々御吟味之上、橋火消之儀ハ所々橋台ニ罷有候髪結并床商人共江被仰付候得共、御公儀橋火消之儀、存付申上候段宜筋ニ付、柳原和泉橋同所新シ橋両所橋台ニ而九尺四方之商床場所五ヶ所被下置候段、越前守様被仰渡候
附録
右御橋火消之儀、橋台之者共大勢ニ御座候得ハ、橋台ニ不罷在、加勢之者共ハ出火之節、両御番所江駈付相勤申度段、右加勢之者共、享保九辰年二月、大岡越前守様御番所江御願申上候得ハ、御吟味之上、願之通被仰付、尤駈付候節、銘々提罷出候御焼印札被下置候、然所享保十九寅年三月、町御奉行様御掛り之御公儀橋之分新規修覆共ニ、永島町白子屋勘七元飯田町菱木屋喜兵衛江定請負被仰付候故、前書御橋火消御免被成候ニ付、橋台髪結共儀、先達而より相勤候加勢之者同様ニ、出火之節両御番所江駈付相勤申度段御願申上、享保二十卯年二月三日、奈良屋市右衛門殿ニ而右髪結共願之通、出火之節、両御番所江駈付候様被仰付候段被申渡、右之儀髪結共より橋台床商人共江も申通有之候由ニ而、床商人共儀も、向後出火之節、両御番所江駈付相勤申度段、左之通願書差出候
乍恐以書付奉願上候
一江戸橋北御橋台、京橋南御橋台、稲荷橋北南御橋台、木挽町五町目御橋台、西東ニ罷有候床見世商人共申上候、私共去寅年ゟ拾四年之内、髪結共と一同ニ御橋火消被為仰付候ニ付、只今迄御大切ニ相勤罷在候所、此度髪結共被為召出、右御橋火消御免被為成、両御番所様江欠付被為仰付候段承知仕候、依之私共儀も出火之節ハ、早速両御番所様江欠付、相勤申上度奉存候、右之通被為仰付被下置候様奉願上候、以上
享保二十年卯二月
江戸橋御橋台商人共
弐拾弐人
願人 久治郎
京橋御橋台南方商人共
拾弐人
願人 庄右衛門
稲荷橋北南御橋台商人共
拾弐人
願人 藤 七
真福寺橋御橋台商人共
弐人
願人 六兵衛
汐留橋御橋台商人共
壱人
願人 九右衛門
木挽町五町目御橋台西東商人共
弐拾五人
願人 源 七
右願書、同卯二月九日、奈良屋市右衛門殿迄差出候得ハ、同月十九日床商人共同所江被呼、右願之通被仰付候段被申渡、尤御番所江駈付候節、提ヶ出候御焼印札御渡可被成候間、札を拵可致持参段被申渡候ニ付、右床商人共札七拾四枚拵、同月廿四日ニ差出、且又八町堀中之橋北橋台床商人三人、六助橋床商人弐人も一同相勤申度段、致追願候所、同卯五月六日髪結共床商人共、奈良屋市右衛門殿江被呼、右追願之分共ニ右之御焼印札被相渡、左之通連判之帳差出候様被申渡候
差上申一札之事
一私共儀、所々御橋台ニ罷有商売仕候ニ付、只今迄出火之節ハ御橋火消相勤申候所、此以後御橋火消御入用ニ無御座候ニ付、向後出火有之節ハ、両御番所様江欠付可申旨、当卯二月中被仰付奉畏候、依之両御番所様江欠付候時分提候御焼印札被下置、慥奉請取候、出火有之候ハヽ、早々欠付可申候、尤遅滞不仕候様組合申合、急度相勤可申候、不調法之儀も御座候ハヽ、何分ニも可被仰付候、為後日連判帳面差上申所如件
亨保二十年卯五月 木挽町五町目西東御橋台
商人
弐拾六人組
江戸橋御橋台北之方
同
弐拾四人組
稲荷橋北南御橋台
同
拾五人組
京橋南御橋台
同
拾四人組
右連判帳、同五月九日ニ差出候旨ニ候 (『江戸町触集成』第四巻)
○享保八年1723奉行所駈付役
享保八卯年十二月十四日御用覚帳書抜
一 向後火事之節両番所風並悪敷候得は町々髪結共組合有之駈付申筈ニ付、人別書奈良屋市右衛門差上候間、帳面写出置候、風筋能キ番所江は不相詰候、勿論両番所共ニ風並悪敷時は此人数相分り両番所ニ詰候筈ニ候事。帳面御番所ニ出有之候事
四谷組 拾弐人 麹町組 拾弐人
麻布組 拾壱人 市谷組 四人
下谷組 拾三人 旅籠町 八人
本郷湯嶋天神組 拾五人
人数合七拾五人 (『諸問屋再興調』十五之二)
翌享保九年にも四谷山之手筋の髪結仲間二百三十九人が願出て申付けられています。(史料省略)
○髪結組合に不入の者は髪結渡世禁止
寛政五丑年1793七月の町触
町方髪結共は組合ヲ定、役ヲも勤来候処、近来組合江も不入、無役ニ而所々江入込、髪結渡世致候者共増長致、猥ニ成候段相聞不埒之至り候、向後仲ケ間江不入もの髪結渡世決而致間敷候、此上若相背もの於有之は吟味之上急度可申付候
右之通町中可触知もの也
右之通町中家持借屋店借裏々迄不洩様、入念可被触候、以上
七月十九日 町年寄役所 (『江戸町触集成』第九巻)
寛政六寅年1794七月の町触
町方髪結共江は、組合候而、定役ヲも勤来候処、近来組合江も不入、無役ニ而所々入込、髪結渡世致候もの共増長致、猥ニ成候趣相聞不埒之至ニ而、向後仲ヶ間江不入者、髪結渡世決而致間敷候、此上若相背候もの於有之は、吟味之上急度可申付候
寅七月 (『江戸町触集成』第九巻)
天保六年1835十二月にも同様の町触が出されていますが史料省略。
○天保十二年1841株仲間禁止とそれによる焼印札取上げ
天保十二年1841十二月
菱垣廻船積問屋共ゟ是迄年々金壱万弐百両宛冥加上金納致来候所、問屋共不正之趣も相聞候ニ付、以来上納ニ不及候、尤向後右仲間株札は勿論、此外にも都而問屋仲間幷組合抔と唱候義は不相成候、右ニ付而は是迄右船ニ積来候諸品は勿論、都而何国ゟ出候何品ニ而も、素人直売買勝手次第たるへく候、且又諸家国産類其外惣而江戸表江相廻し候品にも、問屋ニ不限銘々出入之者共等引受売捌候義も、是又勝手次第候
十二月 (『江戸町触集成』第十三巻)
天保十三寅年三月五日
今日拙者共館市右衛門殿江被相呼、御同人御逢之上、四拾八組髪結名前帳御渡被成、両御番所駈附御焼印取上、右名前当人印形致消印、右御焼印札は南御番所江可相納、尤此義諸色掛名主一同ニ而取扱候様、南御奉行様御沙汰之旨御談御座候、依之日限相極候上、前々日ニ御同役組分ニ而御達可申候間、御組合限髪結共御召連、本町壱丁目河岸松之尾江各様御出席可被成候、尤拙者共も罷出可申候、此段御相談旁得貴意候、以上
南北小口
三月五日 諸色掛り
(『江戸町触集成』第十四巻)
○嘉永四年組合再結成による髪結の駆付役復活関係
嘉永四年1851十月
壱番組ゟ
弍拾壱番組迄
新吉原町
品川拾八ヶ寺門前
世話掛名主共
右は両御役所幷牢屋敷近辺出火之節、御用書物持退之ため、去ル寅年此者共平日病気又ハ差支之砌、御用取扱候代之もの江駈付申付置候処、今般問屋組合再興被仰出、髪結共儀如以前駈付之儀相願、願之通申付候間、此もの共代之もの駈付は差免
右之通組合不洩様早々可申通旨被仰渡奉畏候、為後日仍而如件
世話掛名主
亥十月十日 八人名前
右は昨日南御番所江被召出、御年番所ニおゐて被仰渡候間、御達申候、以上
十月十一日 組合世話掛
一髪結持主共、両御番所牢屋敷町年寄衆最寄出火之節欠付、当月十日ゟ可相勤旨、今日館市右衛門殿被申渡候間、此段御達申候、以上
十月六日 小口諸色掛
(『江戸町触集成』第十六巻)
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天保の改革で組合が廃止されるまでは、町奉行所の近火の際に駆付けて書類等を持ち出す役を髪結は勤めていました。しかし町奉行所からの命令でいやいや行っていたのではありません。また駆付役は髪結だけでもありません。
そもそも江戸における髪結床は
髪結床
江戸にての始は、大高札場六ヶ所の側(かたわら)の床なり。御入国の砌、町並もまばらなりしかば、御高札の番所にねがひて、御免をかうぶる。所謂六ヶ所は、日本橋、常盤橋、筋違橋、浅草橋、麹町、芝牛町等なり。 (菊岡沾凉『本朝世事談綺』享保十八年1733刊)
町家が増えると町内にも髪結床は出来ます。そしてかなり早い時期から仲間組織が作られています。無札無役の忍髪結の差止めを求める寛政三亥年1791十月廿五日の髪結仲間の願書には次のようにあります。
乍恐私共家業之義寛永年中初而御当地之髪結親方共両御番所江被為召出、髪結惣仲間相極可申旨被為仰付候、依之紙札被為下置候、為御役、向寄橋番被為仰付候ニ付、奉畏御請申上候而惣仲間四拾八組ニ相定、違乱之者無之難有渡世仕来候処、明暦三酉年1657正月十八日御当地御町中類焼仕候ニ付、右之紙札焼失仕候処、髪結場所之義他町より入乱又は町人の贔屓を以髪結場所奪取候者も有之候ニ付、及喧嘩口論ニ候義間々御座候而、私共仲間定も此時一旦相乱候所、神尾備前守様村越次左衛門様両御奉行所御勤役之節、御吟味有之、万次(万治)弐亥年1659三月御当地髪結親方共被為召出、永代髪結親方共場所為御定、木札ニ両御奉行所御名判御居被為遊被下置候ニ付、髪結場所堅相定違乱之者無之、難有渡世仕来候処、享保弐拾年ニ至り大岡越前守様御勤役之節、奈良屋御役所ニ而御焼印札銘々頂戴仕、出火之節両御奉行所様江駈付御役唯今ニ大切ニ相勤来候故猶又仲間申合も相定家業ニ付違乱申者決而無之、一同難有渡世仕来候(以下略) (『類集撰要』)
寛永及び万治の髪結札 『諸問屋再興調』十五之一より
仁左=朝倉仁左衛門在重、寛永当時、北町奉行
治左=村越治左衛門勝吉、万治当時、北町奉行
備前=神尾備前守元勝 寛永万治とも南町奉行
神尾備前守は寛永十五年1638五月十六日長崎奉行から町奉行になり、
万治四年1661(四月寛文へ改元)三月八日「七十にあまり、老衰せ
しとて、乞うまゝに職をゆるさる」まで町奉行を勤めています。
(『徳川実紀』)
この「駆付け役」の成立経緯は次の通りです。
明暦三年1657の大火の後、万治二年1659に、それまで営業していた振売りや髪結に鑑札が出されると共に新規開業は禁止され、札銭が徴収されました。但し五十歳以上と十五歳未満は札銭免除。札銭が何時まで続いたのかは分かりません。
享保六年1721に、現在橋台で営業している髪結と商人から地代を取り、また現在空き地となっている橋台に髪結と商人を入れてそこからも地代を取り、それを原資に幕府が管理する橋の火消し役を務めたいという願書が本八町堀四丁目清七店三右衛門から町奉行所に出されました。これに対し橋台にいる髪結と商人は、地代を取られるのを迷惑として、自分たち及び髪結仲間の加勢を受けて三右衛門同様の火消し役を勤めたいと願い出ます。奉行所は、防ぎ方が粗略で橋が焼失した場合には三右衛門へ替えること、その際に異議を申し立てないことを条件に髪結たちの願いを認めます。

ない者たち75人が町奉行所近くの火災の際には町奉行所
へ駆け付けて書類等の運び出しをしたいと願い出て許可さ
れます。これが「駆付け役」の始めです。翌九年には山之
手筋の239人が同様の駈付を願出て許可されています。
「駆付け役」は町奉行所の書類等の持ち出しだけで消火作
業はしませんが、「橋火消役」は橋の類焼防止と消火作業
を行います。
享保十九年1734、御公儀橋の新規・修復とも永島町白子
屋勘七・元飯田町菱木屋喜兵衛が定請負となり、橋火消役
は御免になります。そこで橋火消役を御免になった髪結も、
町奉行所への駆付け役を願い出て享保二十年に許可されま
す。それを聞いた橋台にいる商人たちも髪結同様駆付け役
を願い出てこれも許可されます。
そして駆付け役であることを証明する焼印札を交付されま
した。 左、享保札 『諸問屋再興調』十五之一より
明和四年1767に湯島聖堂掃除屋敷髪結組合の行事から、組合に入らず無役無札の床番屋があるので、仲間入りと駆付け役を勤めるように命じてほしいという訴えがなされましたが、これに対し町奉行所は
髪結い床が町内持ちで駆け付け人足を勤めていないのは、本所一丁目をはじめとして数多く存在している。また駆け付け人足は公儀から命じたものではなく、髪結い共から願い出たので認めたものである。それ故、奉行所側から人足役を勤めよと申し付ける筋合いではない。(中略)
というものであった。結局髪結い組合行事は「今後とも右両町四ヵ所床番屋の儀に付き妨害がましきことは一切しない」という一札を入れて、吟味の願い下げをおこない、髪結い仲間側の全面的な敗北となっている。(乾 宏巳『江戸の職人』)
その後、
安永六年1777には、町年寄役所へ駆け付けて火事から御用書物などを避難させる「持除け人足」が実現しているし、一八一二(文化九)年には牢屋駆け付けが許可されている。このように髪結い仲間は町奉行所との特殊な関係を強め、町方寄りの強い職種とされているが、これも髪結い仲間による営業独占を狙っての努力にほかならず、すすんでこのような駆け付け人足役の負担を願い出ているのである。(『江戸の職人』)
その後、天明の打壊しを経た後の寛政五年1793には幕府は政策を変更し、髪結組合の要望をいれて、髪結組合に入っていない者は髪結渡世を禁止する町触を出しています。これにより髪結組合による統制が強化され稼ぎ場が確定されていきます。元禄1688-1703の頃から稼ぎ場と駆付札を抵当にした金融は「家質」(不動産を抵当にした金融)に準ずる扱いになっていましたが、髪結の株は高値で売買されるようにもなります。『江戸の職人』に載っている道寿屋敷(出床一ヵ所、場所一人前)都合二人前の実際の売買金額の変遷は次の通りです
一七一四(正徳四)年八月 金 一七両
一七二二(享保七)年六月 金 七両
一七七九(安永八)年八月 金 八〇両
一七九七(寛政九)年三月 金一三〇両
一八二四(文政七)年一一月 金三三〇両
一八三五(天保六)年一〇月 金三二〇両
ところが天保十二年1841十二月の株仲間の禁止にともない、駆付役も廃止となり、翌年三月には焼印札も取上げられてしまいます。駆付御用は町名主へ命じられています。大混乱の後、嘉永四年1851再び組合が許可されますが、新しい組合は自由加入で勝手な内部取り決めのできないもので、天保までのものとは別物です。それでも髪結の組合は再結成され、駆付役も焼印札も復活します。これにより町名主の駆付御用は廃止されます。
嘉永札 『大江戸八百八町』図録より
「駆付役」は奉行所に強制されたものではありませんし、当初は橋台の商人も「駆付役」を勤めていました。その後橋台の商人の「駆付役」は無くなったようですがいつから廃止されたかは不明です。
以上が「駆付役」の経緯です。
以下に主な資料を揚げておきますので、必要な方はお読みください。
○慶長札関係
慶長十四年1609正月二日立春。」けふ令せらるゝは。(中略)もとより商人の外。仕官をやめ處士となりし者か。または農民臨時にものうりひさぎて。一銭たりともとるべからず。但先々よりさることなし来りたる者は。町奉行米津勘兵衛田政及び土屋権右衛門重成の券をこひうけて其事なすべし。(以下略)(「台徳院殿御実紀」巻八)
慶長十八年1613三月 是月市井に令せらるゝは。(中略)武家の従者等俄につかへをやめ商人となるか。又は農民不時に物うりあるき。一銭をとるべからず。もとよりそれを生産となし来る者は。町奉行米津勘兵衛田政。島田兵四郎利正の牌を受くべし。(以下略)(「台徳院殿御実紀」巻廿二)
○万治札関係
一振売之者五拾以上拾五以下并かたわ者ニ今度振売御札被下候間、只今迄振売
仕候者共斗、年数偽無之様町中吟味仕、書付上可申候、家持札取候事又は新
規ニ振売商企札取候者、堅停止之事
一絹紬木綿麻布并かやしてう振売仕候者ニ、御札被下候間、人数相改書上可申
事
一古着買せんし茶売候者有之候ハ、吟味仕、其町々人数書付上可申候、是は札
銭壱ヶ年ニ金壱両ツヽ被召上候事
一髪結壱ヶ年ニ師匠は金弐両、弟子ハ金壱両宛、札銭被召上候間、人数相改書
付上ヶ可申事
一今度振売御札被下候以後、札なしニ振売商仕候者於有之ハ、御改之上当人は
曲事ニ被仰付、其上家主より過料拾貫文宛被召上候間、此旨急度相守可申事、
并髪結札なし右可為同前事
(万治二年1659)亥正月 (『江戸町触集成』第一巻)
○髮結床書入の扱いは家質に準ずる
覚
一奉公人給金、巳年以前之出入も、請人只今迄之通可申付事、
一請人辨濟之上、下請人えかゝり候儀、辨濟之分量程ハ下請人え可申付事、
一大屋立替候金子、店請人え可申付候事、
一什物金銀祠堂金銀は、出家出世金ニ准シ、年月之かまひなく可申付候事、
一髮結床船床金書入候て、金銀出入申出候ハヽ、家質之類ニ相准、可申付事、
一養子幷妻持参金出入、父方より養子相返シ候か、夫之方より妻ニ暇とらせ候
ハヽ、持参金相返シ可申候、養子又は妻女方より暇を取候ハヽ、持参金相対
次第可仕由可申付候、
右は前々之通向後も申付筈ニ、相談之上相極候間、申上置候以上、
(元祿十五午年1702)閠八月 (『寛保御触書集成』)
○享保六丑年1721からの橋火消関係
(享保七年1722)寅三月六日
一所々橋台ニ罷在候髪結并床商人共之儀、其橋続之町内江致相対、橋掃除其外相対ニ而役をいたし、渡世致来候所、去丑十月、本八町堀四町目清七店三右衛門と申者、所々橋台ニ有之髪結床商床より地代請取、并橋台明場ニ新規ニ髪結床商床差出シ、其助成を以、町方所々ニ有之御公儀橋之分、橋火消可仕段、大岡越前守様御番所江御願申上候ニ付、髪結并床商人共江御尋之所、右之通被為仰付候而ハ難儀仕候ニ付、右三右衛門御願申上候橋火消、髪結并床商人共相勤可申候間、地代差出候儀御免被成下候様御願申上、且又橋台ニ不罷在候髪結共儀も、仲ケ間一同之儀ニ付、致加勢、橋火消可仕段御願申上候ニ付、御吟味之上、今日越前守様御内寄合江右三右衛門并髪結床商人共被召出、髪結并床商人共江願之通橋火消被仰付候段、越前守様被仰渡候
差上申証文之事
所々橋台ニ罷有候髪結并床商人共申上候、今度本八町堀四町目清七店三右衛門と申者御願申上候ハ、所々御公儀橋橋火消可仕候間、只今橋台ニ居来候髪結床商床之者共ゟ地代を請取、并橋台明キ場ニ新規ニ髪結床商床差出可申段御願申上候ニ付、拙者とも迷惑至極仕候間、右橋火消之儀、三右衛門相勤候通ニ拙者共相勤可申候、勤方之儀ハ
一長柄杓
一縄釣瓶
一大はしこ
一水鉄炮
一大鳶口
一斧
一御橋両袂ニ四斗樽拾宛水溜置可申候
右之通火防道具栫置、火事之時分風並悪敷橋江ハ、所々之髪結共床商人共馳集、橋焼失不仕候様可仕旨、拙者共奉願候所、段々御吟味之上、享保七年寅三月六日、越前守様御内寄合江、右三右衛門井拙者共被召出、三右衛門願之儀ハ、拙者共何れも迷惑仕候ニ付、不被仰付候、然上ハ拙者共奉願候通、自今橋火消可相勤候、勤方之儀ハ最前申上候通、火消道具拵置、火事之時分風並悪敷橋々江は、所々髪結共床商人共馳集火防可申候、若防方疎略ニいたし、橋焼失いたし候ハヽ、其橋台ハ願人三右衛門方江御渡可被成旨被仰渡、奉畏難有奉存候、且又橋台ニ不罷在候髪結共之儀も、仲間一同之儀、其上公儀御橋之事ニ御座候間、橋台ニ罷有候髪結共ニ致加勢、橋火消可仕旨申上候ニ付、右之通被仰渡候上ハ、橋台ニ罷在候髪結共ハ不及申、床商人共迄、随分情出相勤、風並悪敷橋々江ハ所々より馳集火防可申候、若致疎略、橋焼失仕候ハヽ、其橋台之儀ハ願人三右衛門方江御渡可被遊候、其節少も御願申上間敷候、為後日、証文差上申候、仍如件
享保七年壬寅三月 惣橋台
髪結共
惣連判
床商人共
惣連判
加勢髪結共
惣連判
末ッ
一同月廿七日、大岡越前守様御内寄合江、右三右衛門被召出、三右衛門儀、此度御公儀橋火消之儀存付御願申上候ニ付、段々御吟味之上、橋火消之儀ハ所々橋台ニ罷有候髪結并床商人共江被仰付候得共、御公儀橋火消之儀、存付申上候段宜筋ニ付、柳原和泉橋同所新シ橋両所橋台ニ而九尺四方之商床場所五ヶ所被下置候段、越前守様被仰渡候
附録
右御橋火消之儀、橋台之者共大勢ニ御座候得ハ、橋台ニ不罷在、加勢之者共ハ出火之節、両御番所江駈付相勤申度段、右加勢之者共、享保九辰年二月、大岡越前守様御番所江御願申上候得ハ、御吟味之上、願之通被仰付、尤駈付候節、銘々提罷出候御焼印札被下置候、然所享保十九寅年三月、町御奉行様御掛り之御公儀橋之分新規修覆共ニ、永島町白子屋勘七元飯田町菱木屋喜兵衛江定請負被仰付候故、前書御橋火消御免被成候ニ付、橋台髪結共儀、先達而より相勤候加勢之者同様ニ、出火之節両御番所江駈付相勤申度段御願申上、享保二十卯年二月三日、奈良屋市右衛門殿ニ而右髪結共願之通、出火之節、両御番所江駈付候様被仰付候段被申渡、右之儀髪結共より橋台床商人共江も申通有之候由ニ而、床商人共儀も、向後出火之節、両御番所江駈付相勤申度段、左之通願書差出候
乍恐以書付奉願上候
一江戸橋北御橋台、京橋南御橋台、稲荷橋北南御橋台、木挽町五町目御橋台、西東ニ罷有候床見世商人共申上候、私共去寅年ゟ拾四年之内、髪結共と一同ニ御橋火消被為仰付候ニ付、只今迄御大切ニ相勤罷在候所、此度髪結共被為召出、右御橋火消御免被為成、両御番所様江欠付被為仰付候段承知仕候、依之私共儀も出火之節ハ、早速両御番所様江欠付、相勤申上度奉存候、右之通被為仰付被下置候様奉願上候、以上
享保二十年卯二月
江戸橋御橋台商人共
弐拾弐人
願人 久治郎
京橋御橋台南方商人共
拾弐人
願人 庄右衛門
稲荷橋北南御橋台商人共
拾弐人
願人 藤 七
真福寺橋御橋台商人共
弐人
願人 六兵衛
汐留橋御橋台商人共
壱人
願人 九右衛門
木挽町五町目御橋台西東商人共
弐拾五人
願人 源 七
右願書、同卯二月九日、奈良屋市右衛門殿迄差出候得ハ、同月十九日床商人共同所江被呼、右願之通被仰付候段被申渡、尤御番所江駈付候節、提ヶ出候御焼印札御渡可被成候間、札を拵可致持参段被申渡候ニ付、右床商人共札七拾四枚拵、同月廿四日ニ差出、且又八町堀中之橋北橋台床商人三人、六助橋床商人弐人も一同相勤申度段、致追願候所、同卯五月六日髪結共床商人共、奈良屋市右衛門殿江被呼、右追願之分共ニ右之御焼印札被相渡、左之通連判之帳差出候様被申渡候
差上申一札之事
一私共儀、所々御橋台ニ罷有商売仕候ニ付、只今迄出火之節ハ御橋火消相勤申候所、此以後御橋火消御入用ニ無御座候ニ付、向後出火有之節ハ、両御番所様江欠付可申旨、当卯二月中被仰付奉畏候、依之両御番所様江欠付候時分提候御焼印札被下置、慥奉請取候、出火有之候ハヽ、早々欠付可申候、尤遅滞不仕候様組合申合、急度相勤可申候、不調法之儀も御座候ハヽ、何分ニも可被仰付候、為後日連判帳面差上申所如件
亨保二十年卯五月 木挽町五町目西東御橋台
商人
弐拾六人組
江戸橋御橋台北之方
同
弐拾四人組
稲荷橋北南御橋台
同
拾五人組
京橋南御橋台
同
拾四人組
右連判帳、同五月九日ニ差出候旨ニ候 (『江戸町触集成』第四巻)
○享保八年1723奉行所駈付役
享保八卯年十二月十四日御用覚帳書抜
一 向後火事之節両番所風並悪敷候得は町々髪結共組合有之駈付申筈ニ付、人別書奈良屋市右衛門差上候間、帳面写出置候、風筋能キ番所江は不相詰候、勿論両番所共ニ風並悪敷時は此人数相分り両番所ニ詰候筈ニ候事。帳面御番所ニ出有之候事
四谷組 拾弐人 麹町組 拾弐人
麻布組 拾壱人 市谷組 四人
下谷組 拾三人 旅籠町 八人
本郷湯嶋天神組 拾五人
人数合七拾五人 (『諸問屋再興調』十五之二)
翌享保九年にも四谷山之手筋の髪結仲間二百三十九人が願出て申付けられています。(史料省略)
○髪結組合に不入の者は髪結渡世禁止
寛政五丑年1793七月の町触
町方髪結共は組合ヲ定、役ヲも勤来候処、近来組合江も不入、無役ニ而所々江入込、髪結渡世致候者共増長致、猥ニ成候段相聞不埒之至り候、向後仲ケ間江不入もの髪結渡世決而致間敷候、此上若相背もの於有之は吟味之上急度可申付候
右之通町中可触知もの也
右之通町中家持借屋店借裏々迄不洩様、入念可被触候、以上
七月十九日 町年寄役所 (『江戸町触集成』第九巻)
寛政六寅年1794七月の町触
町方髪結共江は、組合候而、定役ヲも勤来候処、近来組合江も不入、無役ニ而所々入込、髪結渡世致候もの共増長致、猥ニ成候趣相聞不埒之至ニ而、向後仲ヶ間江不入者、髪結渡世決而致間敷候、此上若相背候もの於有之は、吟味之上急度可申付候
寅七月 (『江戸町触集成』第九巻)
天保六年1835十二月にも同様の町触が出されていますが史料省略。
○天保十二年1841株仲間禁止とそれによる焼印札取上げ
天保十二年1841十二月
菱垣廻船積問屋共ゟ是迄年々金壱万弐百両宛冥加上金納致来候所、問屋共不正之趣も相聞候ニ付、以来上納ニ不及候、尤向後右仲間株札は勿論、此外にも都而問屋仲間幷組合抔と唱候義は不相成候、右ニ付而は是迄右船ニ積来候諸品は勿論、都而何国ゟ出候何品ニ而も、素人直売買勝手次第たるへく候、且又諸家国産類其外惣而江戸表江相廻し候品にも、問屋ニ不限銘々出入之者共等引受売捌候義も、是又勝手次第候
十二月 (『江戸町触集成』第十三巻)
天保十三寅年三月五日
今日拙者共館市右衛門殿江被相呼、御同人御逢之上、四拾八組髪結名前帳御渡被成、両御番所駈附御焼印取上、右名前当人印形致消印、右御焼印札は南御番所江可相納、尤此義諸色掛名主一同ニ而取扱候様、南御奉行様御沙汰之旨御談御座候、依之日限相極候上、前々日ニ御同役組分ニ而御達可申候間、御組合限髪結共御召連、本町壱丁目河岸松之尾江各様御出席可被成候、尤拙者共も罷出可申候、此段御相談旁得貴意候、以上
南北小口
三月五日 諸色掛り
(『江戸町触集成』第十四巻)
○嘉永四年組合再結成による髪結の駆付役復活関係
嘉永四年1851十月
壱番組ゟ
弍拾壱番組迄
新吉原町
品川拾八ヶ寺門前
世話掛名主共
右は両御役所幷牢屋敷近辺出火之節、御用書物持退之ため、去ル寅年此者共平日病気又ハ差支之砌、御用取扱候代之もの江駈付申付置候処、今般問屋組合再興被仰出、髪結共儀如以前駈付之儀相願、願之通申付候間、此もの共代之もの駈付は差免
右之通組合不洩様早々可申通旨被仰渡奉畏候、為後日仍而如件
世話掛名主
亥十月十日 八人名前
右は昨日南御番所江被召出、御年番所ニおゐて被仰渡候間、御達申候、以上
十月十一日 組合世話掛
一髪結持主共、両御番所牢屋敷町年寄衆最寄出火之節欠付、当月十日ゟ可相勤旨、今日館市右衛門殿被申渡候間、此段御達申候、以上
十月六日 小口諸色掛
(『江戸町触集成』第十六巻)
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