落語の中の言葉259「髪結床2(上)」

 髪結床については、すでに落語の中の言葉59「髪結床」で採りあげましたが、見世の様子・作業内容・料金・通う間隔についてで、その制度面には触れませんでした。今回はその制度面です。というのも、例えば

江戸時代になると、『厳有院殿御実紀』の時期あたりから「町」の制度が整備されてくるのに従って、男性専門の髪結床の建物・場所は江戸の町では町有施設として一町に一ヵ所は必ず設置されるようになっている。髪結床は、毎日町内各層の成人男性全員の月代を剃ることで人別と人数の確認「役」を果たしていたのである。
(中略)
髪結いは、町内の人別監視役と共に、町奉行所の付近に火災が発生すると駆けつ付けて書類を持ち出す「駆付人足役」が義務だった。また場所によっては橋の「見守り役」も果たした(消火行為は絶対にしなかった。あくまで書類の持出し役であり、見守り役だった)。また髪結いには、火災時の非常線通行許可証としての木の鑑札と提灯が与えられていた。(鈴木理生『大江戸の正体』)

などと言われるからです。「髪結床は、毎日町内各層の成人男性全員の月代を剃ることで人別と人数の確認『役』を果たしていた」とありますが、初耳で、何に拠るのか分かりません。毎日髪結床で髪を結うのは少数派でしょう。また町年寄を通して渡されたのは焼印札だけで、両御番所駈付と認めた幟、高張提灯、弓張提灯は髪結仲間が作ったものです。

 今回採りあげるのは、「一町に一ヶ所」(上)と「駆付人足役」(下)についてです。
まずは「一町に一ヶ所」について。
こう言われるのは、

万治元戌年1658八月
八月江戸中髪結株、一町に一ヶ所づゝ八百八株に定まる。按ずるに江戸町数八百八町といふ事、此の時代の事也(寛永の「あづまめぐり」にも、八百八町の事を記せり)。今は千七百余町に及べり。 (『増訂 武江年表1』)

髪結床 『雍州府志』に曰く、およそ町ごとに髪結床あり。諸人来たりて、これに結はしむ。また市中を巡りて、銭を取りて月額(さかやき)を剃る。これを一銭剃と謂ふ、云々。 (『守貞謾稿』巻之二十五)

などとあるからでしょうか。

一七三二(享保一七)年、日本橋通一丁目宇兵衛店三左衛門が万治札を根拠に稼ぎ場所取り戻し訴訟をおこした。
   通一丁目に隣接する万町平兵衛店髪結い善八の申し口
私は組合の定めた「一町切り」を守り長らく家業を続けてきた。しかるに私場所の木戸内へ他の髪結いが引っ越してきて、商売を始めたので納得できません。
   三左衛門の申し口
私は通一丁目を稼ぎ場所とする万治札を所持しているし、現在も髪結いを家業としています。ところが親の代に、万町へ入り込んでいる通一丁目の奥行一〇間の場所(万町の木戸内に通一丁目の一部が含まれているのであろう)を角兵衛というものに預けて稼がせ、揚銭(権利の貸付料)をとってきた。その角兵衛から善八が権利を買い取って木戸内はすべて自分の稼ぎ場と称しているので、本来の権利者である私が場所取り戻しを訴え出た次第です。
 奉行所での吟味の結果は、万治札を所持しているからには通一丁目から万町に入り込んだ一〇間の地面は三左衛門持ち場に相違ない。ただし長く善八が家業を続けている場所であるため、善八一代限りは稼ぎ場として認めるというものであった。
 髪結い職の稼ぎ場が町単位に厳密に定められ、他の入り込み稼ぎを認めないという強力な仲間協定が結ばれていることを示すとともに、その根拠が万治札を所持しているかどうかにかかわり、一種の権利証として通用していたことが奉行所裁決によっても裏付けられているのである。(乾 宏巳『江戸の職人』)

一つの町には髪結床は一つだけと、組合で取り決めていたようです。しかしすべての町に必ず髪結床があったわけではありません。「一つの町に一カ所」と「すべての町に一カ所」とは違います。

 天保十四年の江戸の町数は1719で(内藤昌『江戸と江戸城』)、それに対し天保十二年に廃止された髪結床の旧株の数は、嘉永四年1851の旧株所有者の願書によると内床442、出床639の合わせて1081です。

一出床之分六百三拾九ケ所
  右出床町境河岸地橋台其外空地等建有之候分御座候
 (中略)
一内床之分四百四拾弐ケ所
  是町内地面内借請渡世致候分、内床と唱候
 (中略)
一新床
  但、新床之分凡七百軒程、当三月九日以来相始候もの凡八軒程(以下略)
                  (『江戸町触集成』第十六巻)

 内床とは「町内地面内」すなわち民有地にある髪結床です。道路、河岸地、広小路、また橋の袂(江戸では「橋台」と呼んでいます)など火除けのための空き地等は幕府の所有で、許可を得てそこに建てた髪結床は「出床」です。町の木戸番小屋を兼ねた髪結床は町の入口や出口、あるいは町境にあっても「出床」です。したがって「出床」になかには町の内にあるものも多いでしょう。
 木戸番小屋は町木戸とともに道路上に建てられますから、町が町奉行所に願い出て許可を受け、町の費用で建てられます。その番人も町が雇います。木戸番小屋のなかには昼間は駄菓子や生活雑貨の販売を町が認めているもの(商い番屋)もあり、番人を兼ねて髪結を置いているところ(床番屋)もあります。組合に入っていない髪結を木戸番人として置いているものも寛政(1789-1800)以前にはありました。

(寛延二年1749)巳八月九日
   奈良屋而年番名主被申渡
一、町内より番屋建置、髪結床致し、親方も無之、仲ケ間へも入不申、御焼印札も所持不仕髪結、町内ゟ髪結を兼番人申付置候類有之哉、勿論似寄候儀も有之哉、致吟味書出可申旨被申渡候
 末ツ
 同月十七日
  右付左之通返答書相認差出候
町内ゟ番屋建置、髪結床致し、親方も無之、仲間も入不申、御焼印札も所持不仕候者、町内之髪結を兼番人申付置候類有之哉、吟味仕書上候様被仰渡候付、左申上候
            小網町弐町目髪結床番人  七 助
            若松町髪結床番人     小治郎
            芝浜松町土手跡髪結床番人 八兵衛
            檜物町祐徳屋敷髪結床番人 兵 助
            高田四家町髪結床番人   治兵衛
                         佐兵衛
  右六人之者、町々番屋町内より建置、髪結床致し、則髪結仕、仲ヶ間も入不申、親方も無之、御焼印札も所持不仕、番人仕、髪結致候者共而御座候 (『江戸町触集成』第五巻)

 この組合に入らない髪結については、その後、幕府は組合の要望をいれてこれを禁止する町触を出しています。

寛政五年1793七月の町触
 町方髪結共は組合ヲ定、役ヲも勤来候処、近来組合も不入、無役而所々入込、髪結渡世致候者共増長致、猥成候段相聞不埒之至り候、向後仲ケ間不入もの髪結渡世決而致間敷候、此上若(もし)相背もの於有之は吟味之上急度可申付候
 右之通町中可触知もの也
 右之通町中家持借屋店借裏々迄不洩様、入念可被触候、以上
   七月十九日         町年寄役所

同様の町触は、その後確認できるものでは翌寛政六年と天保六年1835の二度です。この町触は博打禁止や隠売女禁止の町触と違い、実効性が高かったものと思われます。というのは、自分の営業範囲内に組合不加入の髪結が入り込んできた場合、すぐに奉行所に訴訟を起こし、止めさせることが出来たと思われるからです。この町触は髪結組合にとってはとても重要なものでした。
 しかし、天保十二年に株仲間等が廃止されてからは、新たに開業する床(新床)も急増し、髪結床の数は町数を上回るようにはなりますが、「一町切り」の規制もなくなりますから「一町に一ヶ所は必ず」というわけではありません。

 ついでに「大江戸八百八町」にも触れておきましょう。万治元年1658頃の江戸の町数は808もありません。寛永(1624~43)頃までに成立した町は「古町」と呼ばれていますが、300程です。万治直前の明暦(1655~57)頃は500程と言われています。町数がはっきりしているのは万治元年から50年以上後の正徳三年1713の933ですが、これは代官支配の村方のうち町化した所(町並地)を町奉行支配に組み入れたことで大幅に増えたためです。この時町奉行支配に組み入れられた町並地の数は259です。つまり元々の町数は正徳三年1713時点でも674なのです。
「八百八町」という言葉は『武江年表』にあるように、万治より前の寛永二十年1643刊の『あづまめぐり』で既に使われています。古くから云われていた言葉のようです。

みちあるかたにとほり町、しばよりいでゝみな人の、ゑいぐわをこゝにすだ町へ、そのあいながきありさまは、げうしゆん御代にあひおなじ、町のならびをたづぬれば、八百八町ありとかや、かずをいはんはかぎりなし、

「八百八町」とは、数え切れないほど多いという意味で、実数の808ではありません。江戸の八百八町に対して大坂八百八橋、京八百八寺。日本語では多いことを表すのに「八」という数字が使われます。八百万(やおよろず)、徳川家の所領八百万石、旗本八万騎、うそ八百、娘一人に婿八人、口も八丁手も八丁等々。
反対に数がすくないことには「三」が使われます。二束三文、三日坊主、小糠三合、舌先三寸、三寸流れて水清し、三つ子の魂百まで等々。


            落語の中の言葉 一覧へ

この記事へのコメント