落語の中の言葉258「苅豆屋・続-玄冶店」
前回、「苅豆屋」のなかで玄冶店に触れ、新和泉町の一部が「玄冶店」と呼ばれているのは謎だと書きました。というのは新和泉町は「元」吉原遊郭の跡地に出来た町で、元吉原が立ち退かされたのは明暦三年1657六月です。一方拝領したとされる岡本玄冶は、明暦三年から十年以上前の正保二年1645に既に歿しているからです。
しかし、『日本橋区史』には寛保沽券図の引用を含め次のようにあります。
寛保沽券図に「地主御医師岡本玄冶法眼拝領屋敷」とあることから、明暦三年1657から寛保年間(1741-44)の間に拝領したことになります。前回は、家光の治療に当たった岡本玄冶が何時拝領したのかを知るために「寛政重修諸家譜」の岡本玄冶の部分だけを見ましたが、今回は明暦三年から寛保年間まで岡本家の当主だった者を見ました。そこにも町屋敷拝領の記載はありませんでした。別の史料にもあたってみましたが見つかりませんでした。しかし気付いたことがあります。「寛政重修諸家譜」の概要は、家光の治療に当たった岡本玄冶を含め次の通りです。
諸品(しょひん) 宗什 玄冶 啓迪庵 啓迪院 法眼 法印
慶長年中伏見において家康に拝謁
元和四年法眼に叙す
元和九年大猷院上洛還御に供奉し江戸に至る。後月俸五十口をたまふ
寛永四年より番をつとむ。これより隔年に江戸に勤仕する事十年
寛永五年台徳院のおほせにより法印に昇る。院号勅許ありて啓迪院と号
す。
寛永十年大猷院殿御不豫のとき、諸医術を尽すといへども効験なし。
諸品御薬をたてまつりて平癒あり、十一年正月二十九日白銀二百枚を
たまふ。
寛永十四年御違例のとき、御薬を献じて御本復あり、十五年二月二十六
日これを賞せられて山城国葛野、武蔵国都筑、両郡のうちにをいて采地
千石をたまふ。
正保二年1645四月二十日死す。年五十九。
介球(かいきう) 主膳 玄琳 啓迪院 法眼 致仕号肖軒
寛永十五年初めて大猷院に拝謁し、後御脉を診したてまつる。
寛永十六年十二月晦日法眼に叙し、十七年より奥の御番をつとむ。
寛永二十年十二月十八日廩米三百俵月俸三十口をたまふ。
正保二年1645七月二十三日遺跡を継ぐ
慶安四年九月十五日より番医に列す。
延宝三年1675五月致仕す。このとき隠栖の料月俸五十口をたまふ。
後、病によりこふて京師に赴く。
貞享元年九月二十二日彼地にをいて死す。年六十八。
裕品(いうひん) 猪之助 壽仙 啓迪院 法眼 実は諸品が二男
はじめ廩米三百俵月俸三十口を賜ひ、番医に列し、後介球が嗣となる。
延宝三年1675五月十六日家を継ぎ、千石を知行し、月俸五十口は父が
養老の料にたまふ。
延宝五年閏十二月二十六日法眼に叙し、
元禄六年三月二十七日番を辞す。
元禄六年1693十二月致仕し、十四年正月九日死す。年七十八。
壽品(じゆひん) 主膳 玄冶 啓迪院 法眼 法印 致仕号泰軒
天和二年七月十一日はじめて常憲院殿にまみえたてまつる。
元禄六年1693十二月六日家を継、寄合となり
元禄七年十一月二十一日番医に列し
元禄十三年十月十九日奥医にすゝみ
元禄十四年二月廿九日奥の務をゆるさる
享保二十年十二月十六日法眼に叙し
延享二年閏十二月十六日法印に昇る
延享二年閏十二月二十六日仰をうけて萬安方を謄写してたてまつりしに
より、時服二領白銀五十枚をたまふ。
延享三年1746十二月六日致仕
寛延二年十一月十日死す。年八十三。
篤敬(とくけい) 猪之助 壽仙 玄冶 啓迪院
延享三年1746十二月六日家を継、宝暦二年1752十二月二日死す。
年四十五。
松山(せうざん) 忠五郎 玄冶 啓迪院 法眼 致仕号養軒
宝暦二年1752十二月二十六日遺跡を継、十一年十二月十八日法眼に叙
す。
安永八年1779五月二十九日致仕。
介壽(かいじゆ) 主膳 玄琳 宗什 玄冶 啓迪院 法眼
安永八年1779五月二十九日家を継(割註:時に十九歳)。天明五年十二
月二十四日法眼に叙す。
介福(すけよし) 恒三郎 介壽が養子となりて其女を妻とす。妻は介壽が
女。
続徳川実紀によれば
天保九年1838七月、寄合醫岡本玄治(ママ)養子玄琳、父死して家を継ぐ
弘化三年1846十二月、寄合醫岡本玄冶、法眼に任ず
万延元年1860十二月、寄合醫師岡本玄冶、法印被仰付
武士やそれに準ずる人々は本名(実名)のほかに通称を使っています。普通は通称を使います。他人がひとの本名を呼ぶことは無礼に当たるため通常はしなかったようです。これについては、落語の中の言葉49「寿限無」で触れました。
「諸品」「介球」「壽品」などが本名で、その下に書かれている「宗什」「玄冶」などが通称です。
寛政重修諸家譜及び続徳川実紀によれば、壽品以降の当主は皆「玄冶」を名乗っています。岡本玄冶は一人ではありませんでした。
『日本橋区史』には「元和中(引用者註:元和1615~1623)幕府の医員岡本玄冶の受領地」とありますが、私も最初そう思ったように「岡本玄冶」を家光の治療に当たった岡本玄冶諸品と思い込むことからきた誤りでしょう。岡本玄冶諸品が存命中は吉原であった場所ですから拝領できるはずはありません。
新和泉町の土地を拝領した可能性のある明暦三年から寛保までの間当主であったのは、介球・裕品・壽品の三人です。そのうち「玄冶」を名乗っていたのは壽品だけです。また法印にまで昇ったのも壽品だけです。寛保沽券図の「地主御医師岡本玄冶法眼拝領屋敷」を「現在の地主である御医師岡本玄冶法眼が拝領した町屋敷」という意味に解すれば壽品が拝領者になりますが、「現在の地主は御医師岡本玄冶法眼で、岡本家の拝領屋敷」と解すれば介球・裕品が拝領した可能性も残ります。地主が代々「岡本玄冶」を名乗っているところから「玄冶店」と呼ばれた可能性もあるからです。そして「岡本玄冶」が拝領したことから「玄冶店」と呼ばれたという場合でも、その「岡本玄冶」は、岡本玄冶壽品であって、家光を治療した岡本玄冶諸品ではありません。
また、玄冶店に「岡本玄冶」の子孫が代々住んでいたように思っている人もあるようですが、ここは拝領町屋敷であって、居屋敷ではありません。元禄期以降の武鑑を見ても「あさふ」「市兵衛町」「六本木」などとあって、下にあげる安政五年1858の武鑑では居屋敷を「あざぶ六本木」としています。
尾張屋板嘉永四年1851切絵図「東都麻布之絵図」と元治二年1865「今井谷/市兵衛町 赤坂全図」に「岡本玄冶」の屋敷が載っていますので次にあげます。
「東都麻布之絵図」には●が付いていますが、これは下屋敷の印です。旗本のなかには大名同様に下屋敷を拝領する者もあることは知っていましたが、医師でも下屋敷を拝領していたことは、この切絵図を見て初めて気付きました。
小川恭一氏の『江戸の旗本事典』には「下屋敷…高家・御側衆・大番頭・留守居を勤める時には下賜され子孫に相続します。」とあり、
大野廣城『武家/必冊 青標紙』前篇(天保十一年1840刊)には拝領屋敷の面積について述べたところに
「享保十巳年1725四月十五日左近将監殿御渡被成候御書付
一、二千坪 御側/大番 下屋敷 一、千五百坪 高家衆 下屋敷」
とあります。
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しかし、『日本橋区史』には寛保沽券図の引用を含め次のようにあります。
新和泉町 吉原旧地の一なり。寛永江戸図には江戸町とあり。町の横町を玄冶店といふ。元和中幕府の医員岡本玄冶の受領地たりし時の遺称なり。寛保沽券図に「表京間六十間、裏巾同断、裏行京間二十五間。坪数千五百坪。此沽券七千二百両、小間に付百二十両、地主御医師岡本玄冶法眼拝領屋敷。」とあり。今の一番地に当れり。当町は明暦三年吉原退転後の開設にかゝり、町名は堺町に対する称呼なるべし。(以下略)
寛保沽券図に「地主御医師岡本玄冶法眼拝領屋敷」とあることから、明暦三年1657から寛保年間(1741-44)の間に拝領したことになります。前回は、家光の治療に当たった岡本玄冶が何時拝領したのかを知るために「寛政重修諸家譜」の岡本玄冶の部分だけを見ましたが、今回は明暦三年から寛保年間まで岡本家の当主だった者を見ました。そこにも町屋敷拝領の記載はありませんでした。別の史料にもあたってみましたが見つかりませんでした。しかし気付いたことがあります。「寛政重修諸家譜」の概要は、家光の治療に当たった岡本玄冶を含め次の通りです。
諸品(しょひん) 宗什 玄冶 啓迪庵 啓迪院 法眼 法印
慶長年中伏見において家康に拝謁
元和四年法眼に叙す
元和九年大猷院上洛還御に供奉し江戸に至る。後月俸五十口をたまふ
寛永四年より番をつとむ。これより隔年に江戸に勤仕する事十年
寛永五年台徳院のおほせにより法印に昇る。院号勅許ありて啓迪院と号
す。
寛永十年大猷院殿御不豫のとき、諸医術を尽すといへども効験なし。
諸品御薬をたてまつりて平癒あり、十一年正月二十九日白銀二百枚を
たまふ。
寛永十四年御違例のとき、御薬を献じて御本復あり、十五年二月二十六
日これを賞せられて山城国葛野、武蔵国都筑、両郡のうちにをいて采地
千石をたまふ。
正保二年1645四月二十日死す。年五十九。
介球(かいきう) 主膳 玄琳 啓迪院 法眼 致仕号肖軒
寛永十五年初めて大猷院に拝謁し、後御脉を診したてまつる。
寛永十六年十二月晦日法眼に叙し、十七年より奥の御番をつとむ。
寛永二十年十二月十八日廩米三百俵月俸三十口をたまふ。
正保二年1645七月二十三日遺跡を継ぐ
慶安四年九月十五日より番医に列す。
延宝三年1675五月致仕す。このとき隠栖の料月俸五十口をたまふ。
後、病によりこふて京師に赴く。
貞享元年九月二十二日彼地にをいて死す。年六十八。
裕品(いうひん) 猪之助 壽仙 啓迪院 法眼 実は諸品が二男
はじめ廩米三百俵月俸三十口を賜ひ、番医に列し、後介球が嗣となる。
延宝三年1675五月十六日家を継ぎ、千石を知行し、月俸五十口は父が
養老の料にたまふ。
延宝五年閏十二月二十六日法眼に叙し、
元禄六年三月二十七日番を辞す。
元禄六年1693十二月致仕し、十四年正月九日死す。年七十八。
壽品(じゆひん) 主膳 玄冶 啓迪院 法眼 法印 致仕号泰軒
天和二年七月十一日はじめて常憲院殿にまみえたてまつる。
元禄六年1693十二月六日家を継、寄合となり
元禄七年十一月二十一日番医に列し
元禄十三年十月十九日奥医にすゝみ
元禄十四年二月廿九日奥の務をゆるさる
享保二十年十二月十六日法眼に叙し
延享二年閏十二月十六日法印に昇る
延享二年閏十二月二十六日仰をうけて萬安方を謄写してたてまつりしに
より、時服二領白銀五十枚をたまふ。
延享三年1746十二月六日致仕
寛延二年十一月十日死す。年八十三。
篤敬(とくけい) 猪之助 壽仙 玄冶 啓迪院
延享三年1746十二月六日家を継、宝暦二年1752十二月二日死す。
年四十五。
松山(せうざん) 忠五郎 玄冶 啓迪院 法眼 致仕号養軒
宝暦二年1752十二月二十六日遺跡を継、十一年十二月十八日法眼に叙
す。
安永八年1779五月二十九日致仕。
介壽(かいじゆ) 主膳 玄琳 宗什 玄冶 啓迪院 法眼
安永八年1779五月二十九日家を継(割註:時に十九歳)。天明五年十二
月二十四日法眼に叙す。
介福(すけよし) 恒三郎 介壽が養子となりて其女を妻とす。妻は介壽が
女。
続徳川実紀によれば
天保九年1838七月、寄合醫岡本玄治(ママ)養子玄琳、父死して家を継ぐ
弘化三年1846十二月、寄合醫岡本玄冶、法眼に任ず
万延元年1860十二月、寄合醫師岡本玄冶、法印被仰付
武士やそれに準ずる人々は本名(実名)のほかに通称を使っています。普通は通称を使います。他人がひとの本名を呼ぶことは無礼に当たるため通常はしなかったようです。これについては、落語の中の言葉49「寿限無」で触れました。
「諸品」「介球」「壽品」などが本名で、その下に書かれている「宗什」「玄冶」などが通称です。
寛政重修諸家譜及び続徳川実紀によれば、壽品以降の当主は皆「玄冶」を名乗っています。岡本玄冶は一人ではありませんでした。
『日本橋区史』には「元和中(引用者註:元和1615~1623)幕府の医員岡本玄冶の受領地」とありますが、私も最初そう思ったように「岡本玄冶」を家光の治療に当たった岡本玄冶諸品と思い込むことからきた誤りでしょう。岡本玄冶諸品が存命中は吉原であった場所ですから拝領できるはずはありません。
新和泉町の土地を拝領した可能性のある明暦三年から寛保までの間当主であったのは、介球・裕品・壽品の三人です。そのうち「玄冶」を名乗っていたのは壽品だけです。また法印にまで昇ったのも壽品だけです。寛保沽券図の「地主御医師岡本玄冶法眼拝領屋敷」を「現在の地主である御医師岡本玄冶法眼が拝領した町屋敷」という意味に解すれば壽品が拝領者になりますが、「現在の地主は御医師岡本玄冶法眼で、岡本家の拝領屋敷」と解すれば介球・裕品が拝領した可能性も残ります。地主が代々「岡本玄冶」を名乗っているところから「玄冶店」と呼ばれた可能性もあるからです。そして「岡本玄冶」が拝領したことから「玄冶店」と呼ばれたという場合でも、その「岡本玄冶」は、岡本玄冶壽品であって、家光を治療した岡本玄冶諸品ではありません。
また、玄冶店に「岡本玄冶」の子孫が代々住んでいたように思っている人もあるようですが、ここは拝領町屋敷であって、居屋敷ではありません。元禄期以降の武鑑を見ても「あさふ」「市兵衛町」「六本木」などとあって、下にあげる安政五年1858の武鑑では居屋敷を「あざぶ六本木」としています。
尾張屋板嘉永四年1851切絵図「東都麻布之絵図」と元治二年1865「今井谷/市兵衛町 赤坂全図」に「岡本玄冶」の屋敷が載っていますので次にあげます。
「東都麻布之絵図」には●が付いていますが、これは下屋敷の印です。旗本のなかには大名同様に下屋敷を拝領する者もあることは知っていましたが、医師でも下屋敷を拝領していたことは、この切絵図を見て初めて気付きました。
小川恭一氏の『江戸の旗本事典』には「下屋敷…高家・御側衆・大番頭・留守居を勤める時には下賜され子孫に相続します。」とあり、
大野廣城『武家/必冊 青標紙』前篇(天保十一年1840刊)には拝領屋敷の面積について述べたところに
「享保十巳年1725四月十五日左近将監殿御渡被成候御書付
一、二千坪 御側/大番 下屋敷 一、千五百坪 高家衆 下屋敷」
とあります。
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