落語の中の言葉257「苅豆屋」
落語「御神酒徳利」は、馬喰町の江戸宿「苅豆屋」が咄の発端です。旅籠屋の屋号が「苅豆屋」とは珍しいと感じていました。
花咲一男氏の『江戸あらかると』には「かり豆だな」という項目があり、次のように書かれています。
また、増田太次郎氏は『引札絵ビラ風俗史』で次のような考えを示されています。
増田氏の考えを合わせると、花咲氏の推測が当たっているように思われます。
ただ、明治十六年刊の『東京繁昌目鏡』に載せる旅人宿には商品名を屋号とするものはわずかで、国名が多いようです。この書は序に「顧ふに編者の其意にはまだ事なれぬ旅人や田舎でたての人々に所謂人をはめると云ふ悪しき徒輩(やから)に掛らぬ為め心得させて用向は総て慥(たしか)な店々へ案内得さす老婆心云々」とあって、安心して利用できる繁昌店だけを選んだようです。旅人宿の項目のうち馬喰町の旅籠屋だけをあげると次の通りです。
馬喰町一丁目 刈豆屋茂右衛門、下総屋文蔵、中田屋八右衛門、
大松屋佐兵衛
同二丁目 桝屋重兵衛、羽前屋半兵衛、鍵屋四郎兵衛、三島屋多都馬、
山城屋彌市、加藤屋要蔵
同三丁目 中屋太吉、會津屋利兵衛、梅屋治兵衛、福島屋仙太郎、
丸屋三四郎、桝屋三右衛門、森田屋藤七、美濃屋五郎兵衛、
伊勢屋宇次郎、幸手屋治良兵衛、和泉屋支店、
信濃屋清右衛門、
同四丁目 伊勢屋重兵衛、藤屋市左衛門、
また、苅豆に関する川柳には次のようなものがあります。
かり豆の中から馬は首を出し 柳多留一六
おつぱじけさうに苅豆馬へ付け 柳多留二九
馬喰町草わけらしい苅豆や 柳多留八五
はじめの二句は小山のように苅り豆をつけた馬の姿をよんだもの。最後の句は、単に馬・草・苅豆という縁語を使っただけのように思われます。
ところで、「○○だな」と俗称される場所は「同業種」「同国人」の他にもあります。「○○だな」と聞いてすぐ思い出すのは「玄冶店」です。
これは幕府の医官岡本玄冶の拝領町屋敷から来たものと云われています。
著者未詳の『寛天見聞記』(寛政1789-1800から天保1830-43の世相を記録)には、
「新和泉町に玄冶店と云大裏あり、是は昔御医師岡本玄冶老の拝領せる町屋敷也とぞ、横竪にいく通りも路次有、此処に、役者、芝居者多く住居す、則四方と云酒屋の本家の裏なり、」
とあって、寛政年間の地図も載せています。安政六年1859再板の尾張屋板切絵図と並べて下に示します。
岸井良衛氏は『江戸の町』で近吾堂板切絵図に基づき「新和泉町の玄冶店」について、次のように述べています。
芝居「与話情浮名横櫛」では、文字は「源氏店」です。また「京間にしろ実は三尺」にもちょっとひっかかります。一間という長さは京間では6尺5寸、田舎間では6尺ですが、1尺の長さは同じだからです。
また、岡本玄冶がこの土地を拝領したとされる理由は次のようなものと云われます。
岡本玄冶が家光の重病を治療したのは、寛永六年の疱瘡の時の他に二度あったといいます。
玄冶は当時名医として並び称されたもう一人の医玄琢をそねむことなく正しく評価できる人物だったようです。
玄冶がいつこの町屋敷を拝領したのか『寛政重修諸家譜』にあたってみました。寛永十年の時は翌年に「白銀二百枚をたまふ」とあり、寛永十四年の時は、同じく翌年に「山城国葛野武蔵国都筑両郡のうちにおいて采地千石をたまふ」とだけあって、新和泉町の拝領町屋敷のことは載っていません。
そもそも、この土地を玄冶が拝領したということ自体があやしいのです。ここは元和四年1618以来吉原遊廓の一部でした。『異本洞房語園』にある元吉原の図と安政六年の尾張屋板切絵図を並べてあげます。
「元吉原は、今の和泉町、高砂町、住吉町、難波町、此所方二町四方也。竈河岸は其時の小堀なり。今の大門通りは、其時の大門口通り也。」(『異本洞房語園』)
したがって誰かがこの土地を拝領できのは、吉原が所替のため山谷の仮宅へ立ち退いた後でなければなりません。吉原がここを立ち退いたのは明暦三年1657六月です。
ところが岡本玄冶はその十数年前の正保二年1645四月にすでに歿しています。つまり元吉原が日本堤へ移転した跡地を岡本玄冶が拝領することはあり得ないのです。
なぜここが玄冶店と呼ばれていたのか、「岡本玄冶拝領の町屋敷だったところ」という説はどこから出てきたのか謎です。
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花咲一男氏の『江戸あらかると』には「かり豆だな」という項目があり、次のように書かれています。
この語については、既刊の近世語辞典については記述がないように思えるので、ここにとりあげてみることにする。
苅豆店とは、現在の四谷二丁目の北側大通りにあった苅豆販売業者の集落をよんだ俚俗名で、日本橋にあった同業種の集落の呼称である「釘だな」、同国人の集合場所を指す「近江だな」と同じ理由による名称である。
この苅豆店は、寛永年中には五軒の店があったが、文政町方書上の時点には一軒だけに減ってしまっていたが、その一軒の岩田屋又右衛門が営業していた一円の場所を、古称を変えることなく、苅豆店とよんでいたのである。(『御府内備考』六二・四谷二)
小学館の国語大辞典によると、苅豆とは「青苅大豆」の方言であるという。青苅大豆とは「豆の収穫を目的とせず、茎葉を緑肥や飼料とする大豆」とされている。(『広辞苑』三版)
江戸市への出入口としての四谷には、交通・運送のために使役する牛・馬の飼料としてのものと、近在の農家で緑肥として使用する苅豆を販売する店の集落があって、その一帯を苅豆だなと称したものであろう。
(中略)
日本橋馬喰町での旅宿で苅豆屋を屋号としたのは一軒だけではないらしいが、関東大震災まで残っていた。
(中略)
この馬喰町の旅宿の苅豆屋も、四谷の苅豆屋と同じ性格であったと思う。日本橋馬喰町は江戸開府以前からの古い奥州路への駅舎であったといわれる。
この宿には、緑肥・牛馬飼料としての苅豆販売業者が軒を並べていたものと思う。江戸開府以来、中心区の発展につれて馬喰町が駅舎としての機能を、千住方面に分離するに従って、肥料・飼料の販売業種から、人間を宿泊させる旅館へと、転業をしてゆく過程のうちに、かつての販売品目を、形見としてその屋号に残して行った、一つの例ではあるまいか。
また、増田太次郎氏は『引札絵ビラ風俗史』で次のような考えを示されています。
さてこれから宿屋の引札をいろいろ見てゆくわけであるが、その前に、引札に現われている宿屋広告の特色というか傾向のようなものを、私の意見として二、三挙げてみたい。
まず宿屋の屋号について、そのネーミングについてだが、私が蒐集した引札だけでなく、浪花講などの定宿帳(講に加盟して各宿屋の共同広告ともいえるもの)まで眺めて気づいたことだが、業種別の商店名を見ているように、商品名を屋号に使っている宿屋がたいへん多いということである。その例を並べてみると、
扇や、絣や、桝や、もちや、油や、てつや、なべや、米や、八百や、帯や、竹や、酒や、豆腐や、うどんや、綿や、たばこや、道具や、紺や、材木や、俵や、かじや、すみや、鍵や、合羽や、茶や、糀や、柏や、ろうそくや、紙や、十三や、麻や、糸や、笠や、布や
といったぐあいである。むろんこの他にも一般商店の屋号にも見られるように、出身国(伊勢屋、近江屋、みのや)、花と植物(松屋、つたや、もみじ屋)、エンギ(布袋や、えびす屋、亀や)、立地条件(角屋、辻や、港や)などから名づけた屋号の宿屋もあるが、宿屋の屋号に各種商店を思わすような商品名の屋号が多いということは、宿屋のネーミングの特徴といえよう。そして、このことはどういうことかと考えてみると ─
江戸後期になってから各宿場とも旅籠屋がふえてくるのだが、それら旅籠屋の前身は、前記屋号に見られるような小商売を営んでいたのではなかったか、いや前身がそうであっただけでなく、前記のような商売の傍ら旅籠屋を営んでいたのではなかったか、そういうことが推測できるのだ。ちょうど在郷商店の多くが半農であったようにである。もっとも旅籠屋にも遊女を抱えている「飯盛旅籠」と、そうでない「平旅籠」とがあって、私が引用した浪花講定宿は、飯盛女を置かない安心して泊れる平旅籠のほうである。これらの平旅籠にも格差はあったろうが、小規模のものは宿屋といっても他の商売を兼業しており、今日における民宿のようなものであったろう。
増田氏の考えを合わせると、花咲氏の推測が当たっているように思われます。
ただ、明治十六年刊の『東京繁昌目鏡』に載せる旅人宿には商品名を屋号とするものはわずかで、国名が多いようです。この書は序に「顧ふに編者の其意にはまだ事なれぬ旅人や田舎でたての人々に所謂人をはめると云ふ悪しき徒輩(やから)に掛らぬ為め心得させて用向は総て慥(たしか)な店々へ案内得さす老婆心云々」とあって、安心して利用できる繁昌店だけを選んだようです。旅人宿の項目のうち馬喰町の旅籠屋だけをあげると次の通りです。
馬喰町一丁目 刈豆屋茂右衛門、下総屋文蔵、中田屋八右衛門、
大松屋佐兵衛
同二丁目 桝屋重兵衛、羽前屋半兵衛、鍵屋四郎兵衛、三島屋多都馬、
山城屋彌市、加藤屋要蔵
同三丁目 中屋太吉、會津屋利兵衛、梅屋治兵衛、福島屋仙太郎、
丸屋三四郎、桝屋三右衛門、森田屋藤七、美濃屋五郎兵衛、
伊勢屋宇次郎、幸手屋治良兵衛、和泉屋支店、
信濃屋清右衛門、
同四丁目 伊勢屋重兵衛、藤屋市左衛門、
また、苅豆に関する川柳には次のようなものがあります。
かり豆の中から馬は首を出し 柳多留一六
おつぱじけさうに苅豆馬へ付け 柳多留二九
馬喰町草わけらしい苅豆や 柳多留八五
はじめの二句は小山のように苅り豆をつけた馬の姿をよんだもの。最後の句は、単に馬・草・苅豆という縁語を使っただけのように思われます。
ところで、「○○だな」と俗称される場所は「同業種」「同国人」の他にもあります。「○○だな」と聞いてすぐ思い出すのは「玄冶店」です。
これは幕府の医官岡本玄冶の拝領町屋敷から来たものと云われています。
著者未詳の『寛天見聞記』(寛政1789-1800から天保1830-43の世相を記録)には、
「新和泉町に玄冶店と云大裏あり、是は昔御医師岡本玄冶老の拝領せる町屋敷也とぞ、横竪にいく通りも路次有、此処に、役者、芝居者多く住居す、則四方と云酒屋の本家の裏なり、」
とあって、寛政年間の地図も載せています。安政六年1859再板の尾張屋板切絵図と並べて下に示します。
岸井良衛氏は『江戸の町』で近吾堂板切絵図に基づき「新和泉町の玄冶店」について、次のように述べています。
堺町から人形町通りを距てて新和泉町が細長く二区画、その隣りに「岡本玄冶拝領地」と細長くある。
ここは元吉原の江戸町一丁目が浅草へ移った跡にできた町である。そして、この岡本玄冶拝領地というのが、お富、与三郎で有名になった玄冶店である。
寛保の沽券図を見ると、南側と北との間の道幅は京間で三尺、長さは六十間と記している。玄冶店の露地が、京間にしろ実は三尺の道幅しかないということである。
芝居「与話情浮名横櫛」では、文字は「源氏店」です。また「京間にしろ実は三尺」にもちょっとひっかかります。一間という長さは京間では6尺5寸、田舎間では6尺ですが、1尺の長さは同じだからです。
また、岡本玄冶がこの土地を拝領したとされる理由は次のようなものと云われます。
日本橋人形町交差点近く(中央区日本橋人形町三ー八)に「玄冶店」という碑がある。
その碑のうしろ側一帯は、公儀(幕府のこと)の医官であった岡本玄冶に与えられた町屋敷であった。玄冶は将軍家光の痘瘡(天然痘)を全快させたことで一躍名医となり、この地のほかにも麻布に居屋敷を拝領している。この町屋敷とは、武士ではない幕臣に、賑やかな町場に土地を与えて主に町人に貸しつけ、その地代収入を得させて安定した生活ができることを目的とした土地のことである。居屋敷の方は、一般の武士と同じようにその居住用の地所をいった。(鈴木理生『江戸っ子歳事記』)
岡本玄冶が家光の重病を治療したのは、寛永六年の疱瘡の時の他に二度あったといいます。
岡本玄冶法印新知拝領の事
一、問て云、家光将軍様御不例以の外なる御様躰の御座有たると申候は、いつ比の義と其元には被聞及候哉。答て云、我等の承り及び候は、寛永十年と同十四年両度御大切なる御不例に御座被成候由、其内二度めの御不例と申は、至て重き御様躰にて、御医者衆何れも共に御療治御叶ひ被遊間敷かと有旨、被申上候に付御三家にも御気遣思召候処に、前方御不例の節も岡本玄冶法印御薬にて御快然被遊候間、今度も玄冶薬を可被召上旨上意の処に、玄冶被申上候は以前の御不例とは御違ひ被成、今度の義は御大切なる御様躰にも御座候得は、私御薬を差上候義は仕り難き旨御断被申上候処に、其方御薬を可被召上旨被仰出、其上御様躰の儀御医者衆一同大切の旨被申上には辞退被致に不及旨、御三家方にも仰の由御老中方御申に付、玄冶御薬を調合被差上候処、其御薬を被召上やいなや御快と有上意の以後、段々御愉快被遊候に付て、玄冶法印夫迄は五十人扶持被下置候を新知千石拝領被仰付候と也。(大道寺友山『落穂集』巻之九 享保二十年1727)
玄冶は当時名医として並び称されたもう一人の医玄琢をそねむことなく正しく評価できる人物だったようです。
寛永中ニ医名ヲ世ニ擅(ホシヒママニ)スル者ハ、唯玄冶、玄琢耳(ノミ)。然ニ人皆言、玄冶が学精(クハシ)。其術ノ行ルヽコト宜(ヨロシ)。琢が学麁(ソ)ナリ、術ノ行ルヽコトヤ幸ナリ矣ト。冶聞之其子姪(シテツ)及門人ニ語テ曰、人ノ言所故ナキニ非(アラズトイヘドモ)。我昔琢卜倶(トモ)ニ、業ヲ東井翁(トウゼイヲウ)ニ受。渠ハ富、我ハ貧ナリ。貧ナル者ハ能(ヨク)労ス。富者ハ逸シ易シ。是乃人ノ常情ナリ。琢が同門ノ為ニ疑(ウタガハ)ル所以ナリ。然ニ渠ハ明敏甚我ニ過タリ。且其勤所ノ者嘗(モトヨリ)力ヲ不用ハ未有(アラズ)。学術曷(ナンゾ)我ニ減ゼン。爾曹(ナンヂタチ)人言ヲ勿信(シンズルコトナカレ)ト。冶が此言、之ヲ諸医ノアイ嫉ム者ニクラブレバ有間。(藤井懶斎『閑際筆記』巻之上 歿後六年の正徳五年1715刊)
玄冶がいつこの町屋敷を拝領したのか『寛政重修諸家譜』にあたってみました。寛永十年の時は翌年に「白銀二百枚をたまふ」とあり、寛永十四年の時は、同じく翌年に「山城国葛野武蔵国都筑両郡のうちにおいて采地千石をたまふ」とだけあって、新和泉町の拝領町屋敷のことは載っていません。
そもそも、この土地を玄冶が拝領したということ自体があやしいのです。ここは元和四年1618以来吉原遊廓の一部でした。『異本洞房語園』にある元吉原の図と安政六年の尾張屋板切絵図を並べてあげます。
「元吉原は、今の和泉町、高砂町、住吉町、難波町、此所方二町四方也。竈河岸は其時の小堀なり。今の大門通りは、其時の大門口通り也。」(『異本洞房語園』)
したがって誰かがこの土地を拝領できのは、吉原が所替のため山谷の仮宅へ立ち退いた後でなければなりません。吉原がここを立ち退いたのは明暦三年1657六月です。
明暦丁酉(三年)六月十四日、十五日には、遊女共浅草三ヶ所の旅宿へ移るとて、浅草寺まうでながら、殊に花麗に粧ひて、歩行より往もあり、或は智音の方より、送り迎ひの屋形ふねを出し、浜町の河岸より乗りて、駒形へ着けるもあり。(中略)
同じく八月上旬には、代地の普請大方出来たり。(中略)遊女どもは八月十四日より、はじめての約束也。 (『異本洞房語園』巻之二)
ところが岡本玄冶はその十数年前の正保二年1645四月にすでに歿しています。つまり元吉原が日本堤へ移転した跡地を岡本玄冶が拝領することはあり得ないのです。
なぜここが玄冶店と呼ばれていたのか、「岡本玄冶拝領の町屋敷だったところ」という説はどこから出てきたのか謎です。
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