落語の中の言葉255「しゃぐま・立兵庫」

 落語には廓咄が多くありますが、遊女の髪形に言及したものは少ないようです。
「しゃぐま」「立兵庫」ぐらいでしょうか。八代目桂文楽師匠は、文金、しゃぐま、立兵庫をあげています。文金とは文金島田でしょう。
男の髪形に「辰松風」が享保期に流行し、享保に続く元文元年頃に「辰松風」を少し発展させた髪形を宮古路豊後掾が結いはじめ「文金風」と呼ばれました。その風俗は独特で、旗本は次のように言い、画もあげています。その姿は羽織の回に紹介した宮古路豊後掾の錦絵にそっくりです。
文金風武士.jpg義太夫節は、有廟の御代より流行出しといへり、されば、豊後節の流弊次第に淫風に移りて、遊士俗人の風俗あらぬものに成行て、髮も文金風とて、わげの腰を突立、元結多く巻て、巻鬢とて髪の毛を下より上へかきあげ、月代のきはにて巻こみてゆひたり、衣類対尺の羽織を着、長きひもを先にちひさく結び、下駄の歯にかゝるやうにして、腰の物は落しざしにさし、懐手して駒下駄はきて、市中をぶらりぶらりと歩行たり云々、(森山孝盛『賤のをだ巻』享和二年1802自序)

それが女髪に波及して根が高くなり、辰松島田・文金島田となります。
 今日もあるあの文金の高島田、思い切り根の上ったのが、元文の初めから行われた。女ばかりでなく、男の方にも、宮古路風・文金風といって、油で堅めた短いハケへ竹串を入れて、元結一重で根を上げて結った。これは豊後節の太夫等の好みであった。豊後節の流行に連れて、太夫の好みまでが、一般から喜ばれるようになったのである。(中略)
 文金風の髪型の前に、出遣い人形で有名な辰松八郎兵衛を真似た辰松風というのが、享保度に流行して、男ばかりでなく、女の方にも辰松島田が結われた。その辰松風を拡大したのが宮古路風である。(三田村鳶魚『花柳風俗』)

「辰松島田」・「文金島田」は、またの名を「針打ち」といいました。
「針打ち」というわけは、文金島田が髷に針を使っているからである。文金風の男髷は、髷の刷毛先に竹串を入れて芯にしたが、最初は針を使っていた。女髷にこの風を応用したとき、針では怪我をする虞れがあるとして、針の代わりに小さな楊枝などを入れたが、針を使った起原から名前はやはり「はりうち」(針打ち)と呼んだのである。(金沢康隆『江戸結髪史』)

しかし、この「針打ち」すなわち「文金島田」は、主に禿が結っていた髪形です。
(こちらの牛台にはかぶろがをちさうにこしをかけ、きんかんのほうづきをもちあそびにしながら、かみをいつてもらつてゐる○もつともかぶろのかみは男のかみゆひがかみをゆふなり)〔かみゆひ吉平〕コレじつとして居ねへか、手めへのやうにいごくものはねへ (そばにまつてゐる)〔かぶろ〕吉平どん、おれうはモウ奴島田はよして針うちにいつてくだせへ、おいらんがさういはしつた(山東京伝『錦の裏』寛政三年刊1791)

『江戸結髪史』には江戸後期の高島田のところに次のようにあります。
「奴島田」や「文金島田」が、そのまま「高島田」のうちに発展的解消をとげたのではなく、それらは後期もそのまま残っていたのである。吉原で遊女に使われる少女(禿)は、小さいときは「奴島田」、やや長じて「文金島田」に結っていたし、京坂でも豪家などで使う腰元は文金島田であったし、御殿勤めの少女は「針打ち」が正装になっていた。

 ところで「立兵庫」は浮世絵などでよく見ますが、「しゃぐま」は江戸のものでは見た事がありません。『江戸結髪史』にも出てきません。明治・大正期に流行した髪形なのかも知れません。
 『江戸結髪史』では、複雑多岐にわたる江戸の女髷を四つの系統とその他に分け、また江戸時代を前期・中期・後期の三期に分けて解説しています。その四系統とは、兵庫髷系・島田髷系・勝山髷系・笄髷系です。そして「なお、これらの分類は、便宜上基本的な結髪の系統を示したもので、実際には、江戸時代の女髪の様式的な複雑性から、これら四系統の分類からはみ出すもの、二、三の系統の混在するものなどが多く、混乱をきわめる。」と書かれています。
 また戦国時代以降、女髪は垂髪から髷へ変わったとして次のように述べています。
上古以来、女性風俗の主流であった垂髪は、きわめて簡素自然、しかも優美な風俗であったが、戦国以降ようやく多忙な生活を迎えるに至って、垂髪ではいかにも不便を感じるようになり、それまでは、身分の軽い人びとが労働時に際してのみ結髪していた風俗が、しだいに一般の中にも進出することになったのである。
(中略)
異風を好む気分が、戦乱後にあり勝ちな現象として織田・豊臣時代にかけて、一般の人びとの心を風靡したのである。かぶき踊りなどは、その異風が売り物になって見物を引きよせていたので、女のお国は男装、男の山三は女装して観衆の前に登場した。
(中略)
この異風趣味の結果として、女性たちの間に、男髷模倣の風が移入されたのである。はじめは、遊女とか、そういった方面の商売女の間に人目を引く手段として流行していったが、のちには、一般の中にもその影響が波及していった。若衆髷から島田髷が生まれ、兵庫髷の源流が稚児の結った唐輪髷であったように、女髷は男髷を模倣、改良することによって結髪中心となるべき趨勢にいっそう拍車をかけたのである。

 そして四系統を次のように説明しています。後ろに比較的初期の形と思われる画を揚げます。

兵庫髷の特徴は、頭頂に高く輪を作って根を結んだことで、(中略)時代が下るにつれて髷の形は小型に均整のとれたものに変化し、(中略)総体に地味な風格を具えてきた。同時にはじめは、遊女だけの髪容であったのが、徐々に民間一般女性の内に流行しはじめた。(中略)そして島田髷流行に随って、華やかな島田髷が若い女性の好尚に合致したと見えて、若い女性はしだいに島田髷を結うようになり、兵庫髷は年増の髪とされることになった。(中略)元禄時代になると、もう兵庫髷は、すっかり地味な髪容と考えられるようになり、商売女などには向かぬ古風な質実な髪となっていた。
兵庫髷は、この時代(江戸後期)に一大変遷して、俗に「立兵庫」という遊女の象徴のような髪形に発展したのである。それと共に、従来の兵庫髷は、この期内に全く姿を没し、随って一般女性と兵庫髷とは無縁となり、兵庫髷は遊里専門の髪形になった。
 
兵庫髷京山T.jpg
慶長頃の春画巻物(奥書は慶長十五辛未年、但し慶長十五年1610は庚戌)

島田髷は兵庫についで流行し、ついにはそれを圧倒したばかりではなく、江戸時代を通じて女性の髪の代表として、終始愛好されつづけた(中略)
「島田髷」もまた、その沿革は古く、兵庫髷とおなじく男髷を基礎として成立した結髪である。(中略)
島田髷は、はじめその形状が若衆髷に似通って、水平な髷の状態であったが、のちに徐々に変移し、髷の前部が上り、後部が下るように傾斜し、又元結で結ぶ中央部が極端にくびれたような形のものなど、いろいろの種類を分化した。貞享から元禄時代になると、それらは、おのおの特色を表わした名称をもって呼ばれている云々
(中略)
後期の島田髷は中期末のやや髷先の大きくなりはじめた形をそのまま継承したものが最初のもので、それが、寛政六年ごろから髷先が極端に大型となって、一時は顔の幅の倍もありそうな畸形を見せた。この状態は、歌麿の風俗画その他に詳しい。
 
清水寺遊楽図.jpg
  「清水寺遊楽図」 女歌舞伎 女歌舞伎は慶長元年に禁止

勝山髷は、後世種々の変遷を経て現代の丸髷その他として遺ったが、この髷の歴史もすこぶる古く、承応・明暦(一六五二ー五八)のころ、遊女勝山が結いはじめて以来流行して元禄時代には盛んに結われ、のちには遊女ばかりではなく、市井一般の女性たちの間に行きわたっていったのである。(中略)
勝山の結った髪の形は、(中略)諸種の資料によって考勘すれば、根で結んだ髷を後ろから前へ曲げて輪を作り、髪の先を髷の内側へ折り返し、根の部に元結で結びつける、大体そういった結い方であると思うが、屋敷風というからは下げ髪から工夫したもので、ちょっと「片外し」などに似た形であったろうと思う。
 
勝山髷京山T.jpg
      山東京山『歴世女装考』 落款に宝永乙酉1705春

笄髷は、御殿女中や宮廷女性たちの間から発生したのである。(中略)官女や御殿女中たちは公式の席にいるとき、すなわち勤務中は当然下げ髪でいなければならない(中略)しかし私室へ帰って休息するときは、下げ髪では動きも不自由である(中略)
笄一本を使ってそれへぐるぐると下げ髪を巻きつけて留めておけばいいのだから、結い方はきわめて簡単、さらにこわすのは一層楽である。笄一本引きぬけば、元結も何も使っていないのだから、髷はたちまち下げ髪に変わる。(中略)
この笄を使って結った髷の形が固定して平常行われるようになったのが「笄髷」である。
 
笄髷女用.jpg
      奥田松柏軒『女用訓蒙図彙』貞享四年1687


 ここでは遊女の髪形に限った上で、先ず絵画資料から時代を追って眺めてみます。
①寛永二十年1643刊の『あづま物語』
②承応元年1652~明暦二年1656頃(黒田日出男説)の『江戸名所図屏風』
③元禄八年1695刊の菱川師宣画『和国百女』
④享保八年1723の西川裕信画『百人女郎品定』
⑤寛政六年1794~七年1795の喜多川歌麿『青楼七小町』


①寛永二十年1643刊の『あづま物語』 「垂髪」「根結垂髪」「兵庫髷」
 
あづま物語連続.jpg


②『江戸名所図屏風』 「束ね髪」「根結垂髪」
 
江戸名所図屏風.jpg

『江戸名所図屏風』は現実を正しく反映したものではないといいます。寛永十一年1634頃の『江戸図屏風』には吉原は描かれていませんが、描かれている女性の髪形は、『江戸名所図屏風』とは大きく違っていて、黒田日出男氏によれば、その原因は『江戸名所図屏風』の方にあるといいます。氏は両屏風に描かれた女性の髪形を次のように名付け、分類集計しています。

          垂髪    束ね髪   兵庫髪 根結垂髪  禿
 江戸図屏風    105   168   15    0   0
 江戸名所図屏風   57眉無  68眉無  3  111  45

そして、次のように書かれています。
この屏風(『江戸名所図屏風』)に描かれている女の特徴は、根結垂髪と禿の大量表現なのであった。(中略)このように多くのポニーテールの女と禿の少女を描くことで、江戸の歓楽が強調表現されている。(黒田日出男『江戸名所図屏風を読む』)

③菱川師宣画『和国百女』 「玉結び」「勝山髷」「島田髷(若衆髷?)」
 
和国百女29.jpg
 『和国百女』のこの画について『守貞謾稿』巻之二十には「女郎は玉むすび、新造は勝山髷。禿は男曲の類か、または島田か。」とあります。

『江戸結髪史』には「玉結び」について次のように書かれています。

(「玉結び」は)下げ髪の先をわがねて垂らした髪形で、髷はなく(中略)下げ髪の中程を背中で結んだだけで、髪の輪が上の方にあって大きいのは下級で、輪が小さく髪の先の方に結ばれたのが品位があるとされていた。髪を結ぶには平元結を使うのが一般だった。

玉結びは同じ師宣の「見返り美人」にも見られます。当時流行の髪形だったようです。
 
見返り美人.jpg
   「見返り美人」の一部

④西川裕信画『百人女郎品定』 「勝山髷」「島田髷?」
 
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⑤喜多川歌麿『青楼七小町』 「立兵庫」「笄髷」「垂髪」「勝山(丸髷)?」「島田?」
 
花紫・篠原・明石.jpg
滝川・喜瀬川・白露.jpg

篠原が結っているのは「立兵庫」、花紫と滝川は「笄髷」、喜瀬川は「垂髪」ですが、明石は「勝山(丸髷)?」、白露は「島田?」でしょうか。

 次に随筆・小説類に出てくる遊女の髪形を見てみます。

○加藤曳尾庵『我衣』巻一
  巻一は寛政(1789~1800)の始めに購入した古書からの抄出
宝永1624~43迄は、結ひ髪とて遊女是を専とす。もみ上、此時始る。長く下げる。下へ引出すたぶ長し。
延宝貞享1673~87の頃より、遊女洗髪を水をしぼりて、髪先を紅羽二重にて包て下たり。
元禄1688~1703より結ひ上る。延宝迄は、有合の絹切にて包む也。元禄より、白き晒し木綿にてしばり、其儘結ぶ。是風、延享の頃迄用ゆ。
其外、嶋田に品々あり。元禄迄、髪長く多きを良とす。
愚案、嶋田といふ風は、承応1652~54の頃駿州嶋田の駅旅籠屋の女、始て此風に結ふ。下卑たる風なりしを、いつか国々に伝へ今は富貴の娘も皆此風也。
また勝山といふ風有。宝永1704~10の始に、大坂より勝山湊といふ若き女形下り、始て髪を大輪に結たり。是風を勝山と云。後、立役に成、勝山文五郎と云。
また元禄の頃より末、吉原の遊女勝山、始て大輪に結て此風流行す。


○柳亭種彦『柳亭筆記』 種彦は天保十三年1842歿
 婦人の髪の名種々
〔姥桜〕〔割註〕元禄年間印本。」二の巻遊女の粧ひをいふ条に「髪はひやうご、かつ山流、ぬれ髪、しやれ髪、つのぐりわげ、かうがい、御所風、なげしまだ、国々のいたり風」〔婦人事始響滝〕〔割註〕宝暦三年1753西川画本。」「むすび髪、かつわ、かた手わげ、しまだ、かつ山、かうかいわげ、ひやうごわげ、其外さまざまのゆひやう今はこと多くなりぬ」云々

○山東京山『蜘蛛の糸巻』弘化三年1846叙言
天明の後廿年ばかり。文化の比まで、おゐらんと称せらるゝは、大方は横兵庫といふ髪の風なりしに、近年此風たえ、むかしを失ふ。さしかざるかんざしは、昔にまさりて、大きになりしなり。天明の比は。いかにも細くかるげなり。されば今の如く、馬蹄は頭にのせざりき。女の髪の結ひぶりの始は、唐輪、其後、兵庫、次に島田、丸髷〔割註〕一名勝山。」次にしひたけ、其沿革は余が歴世女装考に図説を挙げて記しぬ。近きに上梓せん。

 京山の言う「横兵庫」は俗に言う「立兵庫」のことです。「立兵庫」が現れるの前の「横兵庫」は下図のようでした。 

 
当世かもじ47横兵庫.jpg
 「横兵庫」の画 『当世かもし雛形』(阿部玉腕画、安永八年1779刊)

 その他、山東京伝の洒落本には「しのぶ」「ひつつめのしまだ」「手がら」などがでてきます。
 「手がら」については『江戸結髪史』も「てがらは遊女の風だが、内容は不明である」としています。
「しのぶ」は『都風俗化粧伝』(佐山半七丸作・速水春暁斎画文化十年1813刊)に「ふくわげを小さく、たけをみじかくしたる也」とあり、その結い方を『江戸結髪史』は「頭頂で結んだ髻を立て、髪幅を拡げて前から曲げて髷を作り、余りの髪先を二分して根の両わきへ出し、根の左右に小さな輪を作りように、根に白元結をかけて結び、終りに髷の根元に笄を横に差すのである。」と説明しています。勝山髷(丸髷)の一種です。「しのぶ」は『当世かもし雛形』と『都風俗化粧伝』に画がありますので揚げておきます。
当世かもじ60しのぶ.jpg
  『当世かもし雛形』

しのぶ髷都風俗化粧.jpg
『都風俗化粧伝』


        追補あり
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