落語の中の言葉252「火屋」

       十代目柳家小三治「らくだ」より

 屑屋の久さんとらくだの兄貴分は、菜漬けの樽にらくだの屍を入れて、差し担いで落合の火屋へ向かいます。
 火屋とは火葬場のことです。

江戸の火葬場 平常時に武士以外を対象とする火葬場は、寛文九(一六六九)年つまり家康の「江戸入り」から数えて七十九年目に、初めて小塚原に設立が許可されている。このことからも火葬は江戸では一般的ではなかったことがわかる。
 その後、次第に火葬場は増えていった。そして明治六(一八七三)年七月十八日に太政官の「火葬禁止令」の布告ですべて廃止された。しかし、明治八年五月三十一日からそれらの火葬場は復活している。

○小塚原の火葬寺
 〈天台宗〉安楽院。〈一向宗〉永安寺、西秀寺、教受坊、随円寺。
 〈浄土宗〉称名寺、秀保院、恵日院。〈禅宗〉清光院。〈真言宗〉
  浄光院。〈法華宗〉宗源寺、高雲寺、乗蓮寺、宝林寺。
○深川
 〈浄土宗〉霊巌寺。〈法華宗〉浄心寺。
○砂村新田
 〈浄土宗〉阿弥陀堂。
○今里村
 〈浄土宗〉芝増上寺下屋敷。
○代々木狼谷火葬場。
○上落合
 〈法華宗〉法界寺。
○桐ヶ谷村
 〈浄土宗〉霊源寺。
    (鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』2004 ちくま学芸文庫)

 この明細は明治八年に復活した時のもののようです。21カ所のうち14カ所が小塚原です。文化文政頃の小塚原の火葬寺は18、19程ありました。
 江戸時代の火屋は次のようでした。

江戸の寺では「火屋」、あるいは「荼毘所」と称する火葬場を設け、必要に応じて火葬を行なった。しかし、薪を燃やして焼くため、人口が増え、市街地が広がっていくにつれ、煙や異臭に悩まされ、大きな社会問題となった。
 そこで寛文六年(一六六六)、幕府公認の武家以外を対象とする火葬場が、小塚原(荒川区南千住)、千駄木(文京区千駄木)、桐ヶ谷(品川区)、代々木狼谷(渋谷区代々木)、焙烙新田(江東区南砂)の五か所につくられ、これらを総称して「五三昧」といった。「三昧」とは三昧場、死者の冥福を祈るために設けた墓地近くの堂のことだが、火葬場の別称としても使われた。
 こうして火葬は普及していったが、まだまだ土葬が多く、明治中期でも火葬の普及率は二六・八パーセント程度だった。
   (中江克己『江戸の冠婚葬祭』2004)

 火葬場は寛文年間に初めて小塚原に創られた訳ではありません。それまで散在していた火葬を行っていた寺を一カ所に集めたのです。
小塚原龕薦堂御坊寺 皆本寺アリ
正保慶安の比迄は浅草下谷の寺院、皆境内に龕堂ありし。一とせ東叡山御成のみぎり、臭気東風にさそはれ御山にうつる。常に此臭煙霊場にかゝる事をわづらはしく思しめさせられ、煙を避べき地へ引べしと鈞命あり、よつて今の所方一町の地を賜り、浅草下谷辺の諸寺五ヶ寺七ヶ寺一ッに統て其寺々の葬場とせり。其時下火の寺二十余ヶ寺それかれの末寺とす。其後破壊して今十八寺あり。今は昼中に葬ス事を禁じ、日没にしらせの喚鐘をつきて一統に点ず。
(菊岡沾凉『続江戸砂子温故名跡志』巻之四 享保二十年1735刊)

  同書にある挿絵及び小塚原近辺の絵図は下記の通りです。
火葬寺江戸砂子.jpg

慶応大絵図火葬寺.jpg
 また、火葬場は江戸のごく初期からありました。四谷千日谷には文禄年間1592~95からありました。それが千駄ヶ谷へ移動し、さらに寛文四年1664に代々木狼谷へ移されています。

 代々木村
火屋 村ノ西ニアリ、此邊ヲ狼谷ト云、廣サ九百坪非人ノ家三軒アリ、四ッ谷西念寺勝興寺戒行寺麹町栖岸院心法寺五ヶ寺ノ拝領地ニシテ荼毘所ナリ、文禄年中マテ四谷千日谷ニアリシカ、後年千駄ヶ谷村ニ移リ、寛文四年八月当所ニ移サレシト云
    (『新編武蔵風土記稿』巻之十一)

 火屋の詳しい様子はわかりませんが、寺門静軒の『江戸繁昌記』五編(天保七年1836刊)によれば小塚原の火屋は次のようでした。原文はわかりにくい漢文なので、竹谷長二郎氏の現代語訳で紹介します。
 火葬場 浄土寺の後ろに、焼き場がある。江戸繁昌の余煙がたなびき、日にどれだけの死骸を焼くかわからない。夜、火を焚き、朝、灰を吹く。今日は回向院、明日は永代寺、何寺、何院、みなここに寺から送ってくる。銭の多少によって焼き方を異にし、銭が多いと棺を並べて灰とするので、その場所は別火屋(べつひ や)という。銭が少ないと直接に死骸を焼く。この方は火屋の中を掘って、深さは一尺ほどの、人の身体をいれるくらいの広さの穴とし、中は大きな薪(まき)が敷かれて、すぐ焼かれるようにしてある。日はすでに西に傾いたころ、死骸を送ってくる人がある。数人の親類が棺について火屋に入ると、火葬人が性別と名前を問い、棺を受け、これをあなのそばに置く。と同時に足をあげて、棺の木を粉ごなに砕く。そのあと、すぐに死骸を引きぬいて薪の上に投げ出し、引きぬくやいなや、こもでこれをおおう。そのときやっと火が吹きはじめ、そこで、送ってきた人を出し、去らせる。翌日、親類は夜明けを持って骨をおさめるのだが、一塊の血肉が数寸の温かな灰となってしまっているのは、情けないことだ。さっそく箸で骨を拾い、ひとにぎりの大きさに砕いて、小さい壺に盛る。みな「さっぱりきれいになった。うまく焼けてよかった」と言う。人の心として、気持ちのよくないはずはない。私も、このきれいさっぱりを希望するのだ。そのうえ、すでにこうなってしまえば、地獄があっても、極楽があっても、極楽によじのぼる手、地獄におちる足が、ともにもうないのだから、私にとっては安心だ、安心だ。

 また、狼谷(大瓶谷)の火葬場については、寺社奉行の家臣は次のように書いています。

相応の住居にて松真木をは問屋の如く積置ぬ、扨焚場の体を伺ふに広く高く其内に輿焼の場、釣焼の場、別火屋、惣火屋の階級あり、入口に厚板に記せる定法値段書あり、駕籠焼金拾五両、釣焼金七両二歩、瓶焼三両、別火屋焼壱両二歩、惣火屋焼三歩或二歩といふ、彼是する間に別火屋へ桶のまゝ入置真木を立掛るを見て施主は帰ることなり、若長く見る者あれは断てこれを返す、それでも聴されは別に掛合となりて増金を出す、其訳は死者の衣類及種々の物を剥取て焚くことなれは施主を早く退去ること宜なり、駕籠焼釣焼等は見届の人も留り居て去ることなし、只二歩なといふ下等に至ては竹鎗を以て体中を突破り津液を除き菰を掛て焼けは薪の費を省くなりとそ、云々
      (『祠曹雑識』天保五年1834)
  火葬の費用は随分高かったようです。

 火屋といっても単なる火葬場ではありません。『江戸の町は骨だらけ』が掲げる21カ所のうち寺でないのは代々木狼谷火葬場だけです。「火葬寺」と云うように火葬場を備えた寺ですから墓もあります。火葬は少数派でしたから、墓の大部分は土葬の墓です。
 平成十二年に南千住の工事現場から人骨が出て発掘調査が行われています。

平成12年8月10日、南千住警察署から一本の電話が入った。南千住五丁目のある工事現場から人骨が出土したとの旨だった。工事現場などで人骨が出土した場合、事件性の有無を確かにするため、まず警察署へ届け出ることになっている。この骨には事件性がないということで、当館に連絡が来たわけだ。そこで埋蔵文化財担当の事務職員と専門員が現場に直行した。当該地は、南千住五丁目の一角。近世火葬場があった場所として、あらかじめ地域社会に遺跡として知られている土地=周知の埋蔵文化財包蔵地である。近世の絵図などによれば、火葬寺の一つ、乗蓮寺(法華宗)のあった地点だった。(「試掘・人骨・火葬場の歴史像」 『荒川ふるさと 文化館だより』第6号 平成十三年三月)

出土したのは「細々した白い粉」(火葬骨)のほか「未火葬の人骨、古銭やキセルの吸い口、あるいは、徳利や土製の人形など」でした。
『荒川ふるさと 文化館だより』第6号はまた、次の浅草寺日記も載せています。

一昨廿八日夜何時共不相知、返照院末小塚原寺町安楽院檀家之石碑四本、年号又は家名戒名之所計或は正面壱円磨候間、今朝見附候、組合之内ニ浄僧(ママ)清光院浄土宗円音院方ニも磨有之怪敷義ニ付御届申上候旨安楽院申出候ニ付、此段御届奉申上候、以上 (『浅草寺日記』第一八巻)
  安楽院・清光院は小塚原の火葬寺です。


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