気になる言葉21「竹屋の渡し」
「竹屋の渡し」については、御厩河岸の渡しを採りあげた146「渡し」のなかに次のように書きました。
江戸時代後期の隅田川の渡しは、川上から橋場の渡し、竹町の渡し、御厩河岸の渡しの三つである。佃の渡しは船松町と佃島を結ぶ渡しで隅田川の両岸を結ぶ渡しではない。
この他に今戸と三囲稲荷辺を結んだ竹屋の渡しがあったというが、よくわからない。文化八年1811の分間図にも嘉永三年1851の近吾堂板切絵図、嘉永六年1853の尾張屋板切絵図にも載っていない。
追補
「竹屋の渡し」 安政三年1856新刻の尾張屋板切絵図「隅田川向嶋絵図」には三囲稲荷前の土手下に小さく「竹屋ノ渡」と書かれている。ここは以前から船を着けることが出来るようになっていた。
竹屋の渡しについて台東区教育委員会の案内板には次のようにあります。
竹屋の渡し以外の三つの渡しには、江戸時代の確かな史料があります。幕府は文化文政期に「新編武蔵風土記稿」と「御府内風土記」の地誌を編纂しています。「御府内風土記」は府内を対象とし、「新編武蔵風土記稿」は江戸府外を対象としたものです。「御府内風土記」は明治に焼失して現存しませんが、その主要な元資料である「御府内備考」は現存します。これは江戸の町名主(又は月行事)に命じて各町の地誌を書き上げさせたもの(町方書上と総称しています)を基にしています。報告の形式がほぼ同じであるところから書き上げるべき項目が指定されていたものと思われます。その項目はお城よりの方角・距離、町名の由来をはじめ多数に及びますが、その中に「渡し」も含まれています。
竹屋の渡し以外の三渡しについては「町方書上」又は「新編武蔵風土記稿」に記載があります。
御厩河岸の渡し
浅草三好町の町方書上、 文政八年
南本所外手町の町方書上、文政十一年
竹町の渡し
浅草材木町の町方書上、文政八年
中之郷竹町の町方書上、文政十一年
橋場の渡し
浅草橋場町の町方書上、文政八年
『新編武蔵風土記稿巻之二十一』寺島村の項
橋場の渡しに関する記載は短いものなので全文を次にあげます。
浅草橋場町の町方書上
一渡船場 浅草橋場町より西葛西領寺嶋村へ渡り申し候。船数二艘、舟守二人、舟場高札御座なく、百姓渡しに御座候。町の北はずれにこれあり候。
(文政八年)酉十月 橋場町
名主 伝右衛門 印
『新編武蔵風土記稿巻之二十一』
寺島村 〇渡船場(割注:橋場渡と称す、是古の隅田渡の残りしならん、御上り場の南にあり、 渡船のこと往古は村民権右衛門か進退なりしか、今は対岸橋場村の持となれり、)
ところが竹屋の渡しについては、尾張屋板「隅田川向嶋絵図」安政三年1856新刻に見えるだけで確かな史料がありません。
尾張屋板「隅田川向嶋絵図」と「今戸/箕輪 浅草絵図」
竹屋の渡しがあったと思われる浅草側の町の文政八年の町方書上を見ると
浅草金龍山下瓦町
一、橋 これなし
一、渡船場 これなし
山之宿六軒町
町の所在・家数(惣家数十七軒)と隣町・町の規模・反別のみ記載
「右のほか、お調べの廉々御座なく候」
山之宿町
一、橋 御座なし
一、渡船場 御座なし
向島の村々はというと『新編武蔵風土記稿巻之二十一・二十二』には
須崎村 牛御前社・弘福寺等の記載あり。渡船場の記述なし。
小梅村 三囲稲荷社・常泉寺等の記載あり。渡船場の記述なし。
文政八年1825の町方書上には「なし」とありますから竹屋の渡しが出来たのはその後です。
文政十一年1828刊の誹風柳多留一〇一篇には
梅から松へ気が替り竹屋ア引
が載っています。この句は、梅若塚だけで帰るつもりが気が変わって吉原(松の位の太夫職)へ行くことにし、「竹屋ア引」と呼んでいるのですから、まだ渡しは出来ていなかったのでしょう。この句は「亥二月廿日開」とありますから文政十亥年のものです。
また狂訓亭主人(為永春水)の人情本『春色梅兒誉美』三編 巻之八(天保四年1833孟春板)には次の部分があります。
天保四年正月出板ですから、この文章が書かれたのは前年の天保三年1832で、その時点では渡しが出来ていること、しかも「昨今(きのふけふ)まで竹屋を呼に声を枯した」とありますからつい最近出来たということになります。文政は十三年1830十二月に天保に改元されています。したがって竹屋の渡しは文政十年1827から天保三年1832の間に出来たようです。
台東区教育委員会の案内板には、創設年代は不明、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図にありとありますが、その地図が確認できません。その地図がなぜ文政年間と判るのか、なぜ年が判らないのか、詳しい事は不明です。
『隅田川とその両岸(下巻)』(豊島寛彰著、昭和三十九年刊)には
とあります。 因みに豊島氏は「あとがき」に次のように記しています。
実地調査を含めかなり調べたうえで書かれたものと思われますが、いくつか疑問があります。
この渡しの正式の名は「待乳の渡し」である
竹やの渡しの呼び名は安政ごろからである
広重の絵でうかがうと船は両岸に一そうずつ、航行中の一そうと三ぞう
正式名称が「待乳の渡し」というのはなにに拠るのか
安政(1854~1860)ごろというのは美声で鳴るお美代という女将が掛茶屋「都鳥」にいた時期ではないのか。
普通は客が船宿に出向いて舟を仕立ててもらうのですが、船宿の竹屋は向島から声をかけても舟を仕立てているようです。
竹屋呼ぶ声うづもれて隅田の雪 柳多留八八篇(文政八年1825刊)
とありますから、少なくとも文政八年頃には対岸から「竹屋」と呼ぶことは行われていたわけです。その近くに文政の末頃から天保のはじめ頃に渡しが出来たのですから、この渡しが「竹やの渡し」と呼ばれたのは渡しが出来た当初からの可能性があります。
また、「船は両岸に一そうずつ、航行中の一そうと三ぞうで渡し」という広重の絵は確認できません。
大正三年の東京市浅草区編『浅草区誌 上巻』には
とあります。
天保三年の船頭は六人(『春色梅兒誉美』)、明治十年の渡船は四艘(東京市浅草区編『浅草区誌 上巻』)です。天保三年の竹屋の渡しの渡船数は分かりませんが、明治十年と同じ四艘の可能性もあります。他の三渡しの船頭と舟の数をみると
御厩河岸の渡し 渡船八艘 船頭十四人 番人四人
(文政十一年1828御厩河岸渡船書上)
竹町の渡し 渡船十艘 船頭番人二十人
(宝暦二年1752渡銭弐銭五年延長願書)
安永三年1774大川橋架橋後は
渡船六艘 大川橋掛替時四艘増船
(文政十一年中之郷竹町町方書上)
船頭と番人の内訳は不明ですが、番人を御厩河岸の渡しと同数の
四人とすれば船頭は十六人となります。大川橋架橋後の渡船六艘
の時の船頭の数は記載がありません。
橋場の渡し 渡船二艘 船頭二人(文政八年1825橋場町町方書上)
です。
ところで絵図を見ると、安政三年1856新刻の尾張屋清七板『隅田川向嶋絵図』景山致恭著には「竹屋ノ渡」とあるものの、
天保八年1837須原屋茂兵衛板『分間江戸大絵図』
嘉永元年1848山城屋平助板『嘉永御江戸絵図』高柴三雄訂
嘉永三年1850冬の金吾堂板『下谷三ノ輪浅草三谷辺之絵図』
嘉永六年1853新鐫の尾張屋清七板『今戸/箕輪 浅草絵図』戸松昌訓著
安政三年1856大和屋万助板『万宝御江戸絵図』高柴三雄訂
には御厩河岸の渡しと竹町の渡しはありますが、竹屋の渡しは載っていません。
安政五年1858出雲屋万次郎板『安政改正御江戸大絵図』高井蘭山図
には御厩河岸の渡しはありますが、竹町の渡しと竹屋の渡しはありません。
146「渡し」に竹屋の渡しのことはよくわからないと書きましたが、今現在も確かな資料に出会いません。人情本と川柳というあまり確実とはいえないものから、渡しの出来た時期が文政十年1827から天保三年1832の間らしいということがわかるだけです。
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江戸時代後期の隅田川の渡しは、川上から橋場の渡し、竹町の渡し、御厩河岸の渡しの三つである。佃の渡しは船松町と佃島を結ぶ渡しで隅田川の両岸を結ぶ渡しではない。
この他に今戸と三囲稲荷辺を結んだ竹屋の渡しがあったというが、よくわからない。文化八年1811の分間図にも嘉永三年1851の近吾堂板切絵図、嘉永六年1853の尾張屋板切絵図にも載っていない。
追補
「竹屋の渡し」 安政三年1856新刻の尾張屋板切絵図「隅田川向嶋絵図」には三囲稲荷前の土手下に小さく「竹屋ノ渡」と書かれている。ここは以前から船を着けることが出来るようになっていた。
竹屋の渡しについて台東区教育委員会の案内板には次のようにあります。
竹屋の渡し
台東区浅草七丁目一番 隅田公園
隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島三丁目)の前あたりを結んでいた。明治四十年刊『東亰案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。
「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
昭和三年言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。
平成十四年三月
台東区教育委員会
竹屋の渡し以外の三つの渡しには、江戸時代の確かな史料があります。幕府は文化文政期に「新編武蔵風土記稿」と「御府内風土記」の地誌を編纂しています。「御府内風土記」は府内を対象とし、「新編武蔵風土記稿」は江戸府外を対象としたものです。「御府内風土記」は明治に焼失して現存しませんが、その主要な元資料である「御府内備考」は現存します。これは江戸の町名主(又は月行事)に命じて各町の地誌を書き上げさせたもの(町方書上と総称しています)を基にしています。報告の形式がほぼ同じであるところから書き上げるべき項目が指定されていたものと思われます。その項目はお城よりの方角・距離、町名の由来をはじめ多数に及びますが、その中に「渡し」も含まれています。
竹屋の渡し以外の三渡しについては「町方書上」又は「新編武蔵風土記稿」に記載があります。
御厩河岸の渡し
浅草三好町の町方書上、 文政八年
南本所外手町の町方書上、文政十一年
竹町の渡し
浅草材木町の町方書上、文政八年
中之郷竹町の町方書上、文政十一年
橋場の渡し
浅草橋場町の町方書上、文政八年
『新編武蔵風土記稿巻之二十一』寺島村の項
橋場の渡しに関する記載は短いものなので全文を次にあげます。
浅草橋場町の町方書上
一渡船場 浅草橋場町より西葛西領寺嶋村へ渡り申し候。船数二艘、舟守二人、舟場高札御座なく、百姓渡しに御座候。町の北はずれにこれあり候。
(文政八年)酉十月 橋場町
名主 伝右衛門 印
『新編武蔵風土記稿巻之二十一』
寺島村 〇渡船場(割注:橋場渡と称す、是古の隅田渡の残りしならん、御上り場の南にあり、 渡船のこと往古は村民権右衛門か進退なりしか、今は対岸橋場村の持となれり、)
ところが竹屋の渡しについては、尾張屋板「隅田川向嶋絵図」安政三年1856新刻に見えるだけで確かな史料がありません。
竹屋の渡しがあったと思われる浅草側の町の文政八年の町方書上を見ると
浅草金龍山下瓦町
一、橋 これなし
一、渡船場 これなし
山之宿六軒町
町の所在・家数(惣家数十七軒)と隣町・町の規模・反別のみ記載
「右のほか、お調べの廉々御座なく候」
山之宿町
一、橋 御座なし
一、渡船場 御座なし
向島の村々はというと『新編武蔵風土記稿巻之二十一・二十二』には
須崎村 牛御前社・弘福寺等の記載あり。渡船場の記述なし。
小梅村 三囲稲荷社・常泉寺等の記載あり。渡船場の記述なし。
文政八年1825の町方書上には「なし」とありますから竹屋の渡しが出来たのはその後です。
文政十一年1828刊の誹風柳多留一〇一篇には
梅から松へ気が替り竹屋ア引
が載っています。この句は、梅若塚だけで帰るつもりが気が変わって吉原(松の位の太夫職)へ行くことにし、「竹屋ア引」と呼んでいるのですから、まだ渡しは出来ていなかったのでしょう。この句は「亥二月廿日開」とありますから文政十亥年のものです。
また狂訓亭主人(為永春水)の人情本『春色梅兒誉美』三編 巻之八(天保四年1833孟春板)には次の部分があります。
イヱ向島も自由は自由になりましたネ。渡り越の舟が今じやア六人でかはりがはりに渡しますぜ 藤「くわしく穿(うが)つの。舩人(せんどう)の數まではおれも知らなんだ。昨今(きのふけふ)まで竹屋を呼に声を枯したもんだツけ。それだから故人になつた白毛舎が歌に(割注:文々舎側にて当時のよみ人なりし万守が事なり)
須田堤立(たち)つゝ呼ど此雪に寐たか竹屋の音さたもなし
藤「この哥も今すこし過ると、こは山谷舟を土手より呼て、堀へ乗切し頃の風情を詠りと、前書が無(ねへ)とわからなくなりやす。(以下略)
天保四年正月出板ですから、この文章が書かれたのは前年の天保三年1832で、その時点では渡しが出来ていること、しかも「昨今(きのふけふ)まで竹屋を呼に声を枯した」とありますからつい最近出来たということになります。文政は十三年1830十二月に天保に改元されています。したがって竹屋の渡しは文政十年1827から天保三年1832の間に出来たようです。
台東区教育委員会の案内板には、創設年代は不明、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図にありとありますが、その地図が確認できません。その地図がなぜ文政年間と判るのか、なぜ年が判らないのか、詳しい事は不明です。
『隅田川とその両岸(下巻)』(豊島寛彰著、昭和三十九年刊)には
三囲の鳥居の下から山谷堀にかかっていた竹やの渡しは、掛茶屋「都鳥」にお美代というおかみがいて船客があると対岸の船宿「竹屋」に持前の美声で「竹や―あ」と声をかけた。その呼び声はいうにいわれぬ味で、江戸人がその美声にききほれた。それが渡しの呼び名になったが、この渡しの正式の名は「待乳の渡し」である。そして俗称が本名のように使われたことも江戸人の面目を伺う一つであろう。
したがって竹やの渡しの呼び名は安政ごろからである。渡し場の位置をすこし詳細にのべるならば、三囲神社の石鳥居からほんのちょっと上手に石段があり、その下に船だまりがあった。
″竹やの渡し”の様子を広重の絵でうかがうと、川の中央に洲があって航路をおのずと左右に分けていた。船は両岸に一そうずつ、航行中の一そうと三ぞうで渡し、昭和三年二月に言問橋がかかるまで営業をつづけていた。(以下略)
とあります。 因みに豊島氏は「あとがき」に次のように記しています。
隅田川の中巻を刊行した時、下巻の分をすでに八割方は書き終えていたが、あとの二割がなかなか調べきれずに二年が経過した。
いまとなっては、どう探しても歴史がかえってこないものもあり、調べれば調べるほど疑問が湧くものもあった。また追いきれないで、ついに放棄せざるを得ない資料もあり、それを調べていたら筆者の生命があと百年のびても、二百年延びても書き上げられるものではなく、それこそ体の方がのびてしまいそうである。(中略)
いままでにも多くの人々が、いろいろと書いていて既刊のものも百五十種を下らない。それを読んで結論的にいえることは、古書は多く散見的で、見たまま、きいたままを書いているに過ぎないし、新しい本は実地の見分よりも、ひきうつし、孫引きが多いのにも驚いた。
(中略)
それではお前の書いた本はどうだ……と反問されると、あまり大きなこともいえないもので、稿を終え、読み返してみると、筆者自身がものたらぬ点を諸所に発見する。ただ自信をもっておこたえ出来るのは一つ一つ実地にあたって調査検討をし、その顛末を綴ったことである。
実地調査を含めかなり調べたうえで書かれたものと思われますが、いくつか疑問があります。
この渡しの正式の名は「待乳の渡し」である
竹やの渡しの呼び名は安政ごろからである
広重の絵でうかがうと船は両岸に一そうずつ、航行中の一そうと三ぞう
正式名称が「待乳の渡し」というのはなにに拠るのか
安政(1854~1860)ごろというのは美声で鳴るお美代という女将が掛茶屋「都鳥」にいた時期ではないのか。
普通は客が船宿に出向いて舟を仕立ててもらうのですが、船宿の竹屋は向島から声をかけても舟を仕立てているようです。
竹屋呼ぶ声うづもれて隅田の雪 柳多留八八篇(文政八年1825刊)
とありますから、少なくとも文政八年頃には対岸から「竹屋」と呼ぶことは行われていたわけです。その近くに文政の末頃から天保のはじめ頃に渡しが出来たのですから、この渡しが「竹やの渡し」と呼ばれたのは渡しが出来た当初からの可能性があります。
また、「船は両岸に一そうずつ、航行中の一そうと三ぞうで渡し」という広重の絵は確認できません。
大正三年の東京市浅草区編『浅草区誌 上巻』には
竹屋の渡は一に待乳の渡と稱し、金龍山瓦町即ち山谷堀南岸より向島三圍に渡るもの。舊時吉原通ひの山谷堀に往来せし時より渡せるものなるべし。明治十年渡河百二十三間、渡銭人別三厘、牛馬一銭二厘、人車一銭、大車一銭五厘、小車七厘五毛、荷物六厘渡船四艘なりき。
とあります。
天保三年の船頭は六人(『春色梅兒誉美』)、明治十年の渡船は四艘(東京市浅草区編『浅草区誌 上巻』)です。天保三年の竹屋の渡しの渡船数は分かりませんが、明治十年と同じ四艘の可能性もあります。他の三渡しの船頭と舟の数をみると
御厩河岸の渡し 渡船八艘 船頭十四人 番人四人
(文政十一年1828御厩河岸渡船書上)
竹町の渡し 渡船十艘 船頭番人二十人
(宝暦二年1752渡銭弐銭五年延長願書)
安永三年1774大川橋架橋後は
渡船六艘 大川橋掛替時四艘増船
(文政十一年中之郷竹町町方書上)
船頭と番人の内訳は不明ですが、番人を御厩河岸の渡しと同数の
四人とすれば船頭は十六人となります。大川橋架橋後の渡船六艘
の時の船頭の数は記載がありません。
橋場の渡し 渡船二艘 船頭二人(文政八年1825橋場町町方書上)
です。
ところで絵図を見ると、安政三年1856新刻の尾張屋清七板『隅田川向嶋絵図』景山致恭著には「竹屋ノ渡」とあるものの、
天保八年1837須原屋茂兵衛板『分間江戸大絵図』
嘉永元年1848山城屋平助板『嘉永御江戸絵図』高柴三雄訂
嘉永三年1850冬の金吾堂板『下谷三ノ輪浅草三谷辺之絵図』
嘉永六年1853新鐫の尾張屋清七板『今戸/箕輪 浅草絵図』戸松昌訓著
安政三年1856大和屋万助板『万宝御江戸絵図』高柴三雄訂
には御厩河岸の渡しと竹町の渡しはありますが、竹屋の渡しは載っていません。
安政五年1858出雲屋万次郎板『安政改正御江戸大絵図』高井蘭山図
には御厩河岸の渡しはありますが、竹町の渡しと竹屋の渡しはありません。
146「渡し」に竹屋の渡しのことはよくわからないと書きましたが、今現在も確かな資料に出会いません。人情本と川柳というあまり確実とはいえないものから、渡しの出来た時期が文政十年1827から天保三年1832の間らしいということがわかるだけです。
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