気になる言葉20「雷門」

 浅草の金龍山浅草寺には仁王門とは別に風神像と雷神像を安置する雷門があります。寺院には仁王門はよくありますが、風神雷神門があるのは珍しいように思います。なぜ雷門があるのか気になっていました。


 風神雷神の二像が何時から置かれたのかは不明です。雷門について、浅草寺のホームページには

雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」という。その創建年代は詳らかではないが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わる。
 風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来する。総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。風神と雷神は名のとおり風雨を司る神であり、風水害を除け、伽藍を鎮護するために祀られた。同時に、風雨順時と五穀豊穣の祈りも込められている。
 風雷神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明であるが、文化年間(1804~18)の川柳に、「風の神雷門に 居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようである。

とあります。「風の神雷門にいそうろう」という川柳は文化六年1809刊の柳多留四八編にあるものです。その前年刊の柳多留四一には「門の名で見りや風神は居候」があります。

 柏崎永以『事蹟合考』(延享三年1746起筆)には

「浅草寺雷門と俗にいふは、遙か後の新造なり、むかしは、今の山門、一町はかり前、右の方の道、東北のはづれ、竹門といふもなしに、尋常の往還の街道なり、されば、今も武士馬上にて通るなり、これによつて馬道といふ、」とあり、延享期にはすでに「雷門」と呼ばれています。享保十七年1732の菊岡沾凉『江戸砂子温故名跡誌』巻之三には

風雷神門 額金龍山、三国筆海堂の筆といふ。此門は南の惣門也。此前はむかし松の並木ありしと也、今は町屋也。」とありますが、沾凉が描く浅草寺図には「雷神門」と記されています。


江戸砂子浅草寺.jpg

天和二年1682の戸田茂睡『むらさきの一もと』巻四「花」には東叡山・谷中感応寺の次に浅草観音堂があり、その中に

余りに人多くして、刀脇差の鞘もひたとあたり、行きずりの袖に羽織も破れ、鼻紙袋もぬかれそうなれば、通り道をよけて、廻りなれども脇道を行くなり。石の六地蔵前広小路より鳴神門へ入らんとするに、門より内は見えず。人の上に人立ち重なりて、茶屋町より広小路まで、ひしと人にて詰りて、鳴神門より出でんとする人の気負ひ強きときは、むらむらと打ち出され、また門へ入る人のゑんや声にてつき入る時に、すらすらと押し帰して、出る人も入る人も通りかねて、ただひとつ所にありて揉合ふばかりなり。
 以下混雑の描写が続きますが省略します。戸田茂睡は「鳴神門」と呼んでいます。ちなみに、この頃はまだ隅田堤の桜はなく、上野寛永寺・谷中感応寺と浅草観音が桜の名所だったようです。

 また、浅草寺のホームページでは正式名称を「風雷神門」としていますが、文政八年十一月の「寺社書上」(「浅草寺書上 壱」浅草寺役者金蔵院及び浅草寺領代官本間庄五郎・同代官見習菊池吉一郎)には、次にあげるように「風神雷神門」と書かれています。

   御建立本堂同断

  一、風神雷神門   三間六間半

      風神像丈七尺三寸

      雷神像丈七尺     両躰共雲慶作


「御建立本堂同断」とある本堂には

  一、観世音大堂

  右者

  大猷院様御代寛永十二乙亥年新建立被 仰付、同十九年焼失仕候、

  後慶安二己丑年御再建被成下、元禄五壬申年1692迠御修復被成下候

とあります。


なお、この「浅草寺書上」を書いた浅草寺役者とは浅草寺の寺務責任者です。


 別当代は、浅草寺のいわば副住職のことで御留守居ともいい、当時寛永寺の支配下にあった浅草寺の実質上の総責任者である。この別当代は、元文五年(一七四〇)以後浅草寺の別当(住職)を兼帯していた寛永寺の門跡によって任命され、外部から伝法院に入院、浅草寺を統括した。
 役者は、歌舞伎役者などをとかく連想しがちであるが、そうではない。浅草寺の役者は、別当代を補佐する寺務責任者のことである。定員二名で、別当代と異なり浅草寺寺中から選出され、月番で交代勤務した。(竹内誠「『浅草寺日記』について」 浅草寺日並記研究会編『雷門江戸ばなし』)

 雷門に安置されている雷神は仏教から来たものではないようです。


風神・雷神 日本でも仏教伝来以前より強力な自然神として畏敬され、特に稲作を中心とする農耕文化社会においては豊穣をつかさどるものと見なされた。(中略)雷神はその水神・火神的神質から水利と日照、ひいては一切の民生を支配する強大な最高神とされ、古来天神として畏敬信仰された。御霊の猛威が雷的エネルギーで象徴されることの多いのもその一つの現れである。(以下略)(『岩波 仏教辞典』)

雷神は畏敬信仰されたとはいえ、雷門の雷神像は仁王像と同様に信仰の対象として安置されたものでないことは確かです。

 その雷門は度々焼失しています。

雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返している。寛永12年(1635)に建立された門が同19年(1642)に焼失したのち、徳川三代将軍家光の発願により慶安2年(1649)に再建。旧来の門を上回る美観を呈した。しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767)に駒形町からの失火で焼失。やがて寛政7年(1795)に再建され、この頃から提灯の奉納が行われるようになった。(中略)しかし、幕末の慶応元年(1865)、浅草田原町からの失火により雷門まで延焼してしまう。
 この慶応の焼失より実に95年間も雷門は再建されなかった。現在の門は、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。(中略)
 慶応の火災の際、風神、雷神像は頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を補った。昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、補修・彩色されたのが現在の像である。(浅草寺HP)

「頭部のみ難を逃れ」たことについては、次のような話があります。


上野の仁王門は、明暦の大火に焼失したるが、眼毬に罩せし巨水晶の、金(今?)復び得べがらざる故、終に再建にならず、といひ伝ふ、其信偽は知らずと雖も、浅草の雷門は近頃焼たりしが、其火すでに迫る時に臨み、寺僧命を下し、此雨師、風伯二神の首を斬て立退きたり、是は再建の為めに為せし業にて、身体は何れの仏工にも出来るなれど、頭は名作ゆへ、今の工人には迚も能く造る事能はざればなりと、果して然るや否や、時至らば再建もあるべけれど、今の姿にては、小供等は唯昔し話になす耳(のみ)なり、 (喜多村香城『五月雨草紙』明治元年成)

 雷門設置の目的は「風水害を除け、伽藍を鎮護するため」(浅草寺HP)、「天下太平風雨順時伽藍守護の為といひ伝ふ」(松平定常『浅草寺志』文化十年1813自序 巻六)ともありますが、風水害除・天下太平・風雨順時・伽藍守護などは浅草寺に限りません。他の寺院にはなく浅草寺にだけあるというのは、浅草寺に特別の事情があってのことと思われます。


 雷門は江戸時代に三回焼失ですが、浅草寺観音堂(本堂)は二回です。

  寛永八年1631四月焼失 寛永十二年1635三月二日建立

  寛永十九年1642二月十九日焼失 慶安二年1649極月再建

慶安二年再建後は昭和二十年1945の東京大空襲で焼失するまで二百九十年以上も無事でした。浅草寺の本堂には火が迫ると雨が降って焼失を免れるという伝説があるそうです。


 浅草寺に火がおよびそうになると雨が降るという言い伝えは古くからあったらしく、明和九年1772の行人坂の大火のことを記した別当代善王院覚邦の「雑簿」(『浅草寺日記』第三巻所収)には、避難の折、雨が降ったので、「伝へ聞、失火之節、当所危成候へば雨降候よし、或は火防之水之風に飛にも候はんかと、依て暫立留り、防之水之風に散るか、又雨降る哉と尋候処、何れも雨降候由申し、自分にも疑無き所候へばいと有難く」と述べている。この文化三年1806の大火の折も、別当代是心院海侃は、三囲稲荷に立ち退いたとき「其節は雨降り出し、寔往古より本堂危き節雨降候と申伝に候処、此度も奇瑞にて、疑念頓に止み、感涙を絞り候」と、多少疑いの眼で言い伝えを聞いていたのを、あらためて思いを新たにしている。そして「其上門跡(東本願寺)焼落ちる砌は西南風吹替り、勿ち東風なる事。神変とやいはん、扨々不可思議の威力なりき」と驚き、また還御の折、道筋に荷物を持ち出した人々が、難を免れたのは観音さまのおかげとその功徳に感謝し、御厨子を伏し拝み、口々に「南無観世音菩薩」と唱えているのを見て、「弥有難く、斯神力のいちじるしきこと、末世と雖も大悲之救世、中々禿筆に書顕しがたく、千万分一のみ記」したにすぎぬとしている。
(中略)
 浅草寺観音堂は、こうして慶安三年(一六五〇)再建以来、たびたびの大火にも難を免れ、昭和二十年(一九四五)三月の東京大空襲まで焼けることは一度としてなかった。(池上彰彦「『浅草寺日記』の火事記録」 『江戸浅草を語る』平成二年)

 しかし創建初期はそうではありません。


 「武蔵国浅草寺縁起」(伝応永縁起 応永1394~1428)

舒明天皇御宇正月十八日、神火の余焔天にあかりて連若の一寺地を払ふ。本仏ほのほの底より飛出て相好変し給はす。諸人花のかほはせを拝したてまつるに感涙をさへかたし。かやうの炎上七度に及といへとも、度ことに飛いてたまへり。にこれる末の世にかゝるめつらかなる事あらめやとそたつとひあへりけり。されは炎上の後いよいよ霊験をまし給へるに、本尊示現し給ける、此地多年殺生の所なるかゆへに七度焼除て清浄の砌となさんためなりとそ。いとやむ事なかるへし。又三ヶ月をへて後、先の如く炎上す。か様の回禄七度およふといへとも毎度飛出たまへり。本尊示現したまはく、此地は累年殺生汚穢のところなるかゆへに七度焼のそきて清浄堅固霊地となさんかためなり。され炎上の後いよいよ霊験をまし給り。

『江戸名所図会』巻之六には次のようにあります。

舒明天皇の御宇十年戊戌(六三八)正月十八日、霊告ありて回禄す(その後また三ヶ月を経て炎上し、それより回禄七度に及ぶといへども、本尊はおのづから火焔を免れ出でたまひてつつがなし。(後略)
のち久しく堂宇破壊におよびしを、孝徳天皇大化元年乙巳(六四五)、勝海上人東行の次たまたまここに来つて再営す。

 推古天皇の在位は592~628

   推古天皇三十六戊子年627三月十八日、江戸浦にて観音像網にかかる

 舒明天皇の在位は629~641


 浅草寺縁起絵巻にはその後二回の神火による焼失が載っています。

承暦三年己未1079十二月四日焼失(寛文縁起巻二)と永和四年戊午1378十二月十三日焼失(寛文縁起巻六)です。永和四年の火災については

神火飛来て、伽藍一宇ものこらす回禄す。こゝに壁漢に雲廻り、焔火さかのほるといへとも、仏像は飛出給へり。かくのことくの霊異、往古よりいまにいたるまて既に九ヶ度におよへり。」

とあります。

創建初期の火災は何年間に七度なのかはわかりませんが、頻繁に焼失していることに違いはありません。

 縁起には神火とあって、人間の活動による火事でないことを示しています。縁起では仏が地を清めるために七度焼いたように云っていますが、私は落雷によるものではないかと思っています。度重なる落雷による焼失を除けるために、天にある雷神に対抗して、地上にも雷神像を置いたのではないかと想像しています。つまり雷門の雷神像は鬼瓦や沖縄のシーサーと同様の呪物だったのではないかと考えています。

 ところで、雷門を描いた画を探しましたが、出光美術館蔵の「江戸風俗図屏風」にも国立歴史民俗博物館蔵の「江戸図屏風」にも雷門は描かれていません。「浅草寺縁起絵巻(慶安縁起)」には慶安二年十二月に再建された本堂へ駒形堂の傍らにあった仮堂から本尊を移す儀式を描いた部分にありました。また元禄頃といわれるたばこと塩の博物館蔵の「浅草寺境内図屏風」にもありました。


江戸名所図屏風.jpg
  「江戸名所図屏風」


江戸図屛風.jpg
     「江戸図屏風」


慶安二年再建慶安縁起.jpg
     「慶安縁起」


元禄期浅草寺.jpg
     「浅草寺境内図屏風」


 これらの屏風絵等で気になることが二あります。一つは慶安二年1649に再建され、「旧来の門を上回る美観を呈した」(浅草寺HP)という惣門(雷門)が、「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」には描かれていないことです。

 もう一つは、「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」では本堂に向かって左側(西側)に三重塔があるのに対して、「浅草寺境内図屏風」では本堂に向かって右側(東側)に五重塔が描かれていることです。


「慶安縁起」には家光が「仏閣をろそかなるをいたみ、坊舎朽まされるをかなしひ、人夫を集、古き仏殿堂舎をこほちとりて」寛永十二年三月建立したと書かれていますが、『大猷院殿御実紀巻十七』には「寛永八年四月二日浅草寺炎上す。(江城年録)」とあります。そして寛永十二年に新たに建立された堂宇は七年後の寛永十九年二月十九日焼失しています。「門前の民屋より炎火おこり悪風頻に吹て伽藍一宇も残らず焦土となりぬ」(「慶安縁起」)

新規建立から間もなく自火同然の類焼で諸堂残らず焼失したため「本尊安置仕候本堂斗而も何分も軽被仰付被下候様」(「御当家当山御由緒之覚」)願出たところ「殊寺内よりの出火之儀も有之処消除之手段も無之諸堂不残焼失之段寺僧共不調法之至被思召候、然上は外々之寺院之儀而候は重而御建立有之儀被仰付間敷候得共浅草寺之儀は格別之訳被思召候付以前之通又候本堂幷諸堂共不残御建立被仰付被下候間別当始大衆共難有可奉存旨被仰渡、其年中より御普請始、慶安二年1649極月廿一日成就。同廿三日入佛之規式相済候事」(同書)になりました。


 寛永八年四月の火災で本堂他は焼失しましたが三重塔は無事だったようです。慶安二年の再建は、寛永十二年に徳川家が建立したものだけで、前からあった三重塔は再建されませんでした。つまり

 寛永八年四月までは西側に三重塔、

 寛永十二年三月の新規建立から寛永十九年二月焼失までの間は、西側に

  古い三重塔、東側に新しい五重塔が併存、

 慶安二年以降は東側に五重塔

ということになります。

「寛永時代之浅草寺境内図」には両塔が記されています。また「浅草寺縁起絵巻(慶安縁起)」には寛永十九年二月の焼失の場面に炎に包まれる三重塔と五重塔の両方が描かれています。


寛永時代境内図.jpg
    「寛永時代之浅草寺境内図」


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     「浅草寺縁起絵巻(慶安縁起)」


「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」には本堂と三重塔があって、五重塔がありませんから寛永八年四月より前の姿ということになります。そしてこの時期には後に雷門と呼ばれるようになる惣門はすでに失われていたようです。




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