気になる言葉18「四神相応」

 四神相応については普通次のように云われます。

四神に相応じた最も貴い地相。左方である東に流水のあるのを青竜、右方である西に大道のあるのを白虎、正面である南に汙地(くぼち)のあるのを朱雀、後方である北方に丘陵のあるのを玄武とする。官位・福禄・無病・長寿をあわせ持つ地相で、平安京はこれを持つとされた。(『広辞苑』)

 平安京が四神相応であったと云われますが、四神相応の地につくられた都は平安京に限りません。中国の制度に倣った律令制度下でつくられた都は概ね四神相応であったと云います。風水によって場所を選んでいたと思われるからです。

日本が国家の重要なものごととして風水を扱っていた頃、日本は六つの都を造っている。それは、藤原京(六九四─七一〇)、平城京(七一〇─七八四)、恭仁京(七四〇─七四四)、難波京(第四次難波京、七四四)、長岡京(七八四─七九四)、平安京(七九四─)の六カ所である。(中略)
難波京の土地の選定に陰陽師がかかわっていたかどうかはわからないのだが、ほかの五つの都は律令時代になってから新規に選定された地に造営されており、陰陽師や陰陽寮の官僚が関係したことが考えられる。(鈴木一馨「日本における風水と陰陽道」『陰陽道の講義』)

難波京は大化二年646に孝徳天皇が遷都した「難波宮」と重なるので、その地の選定は律令制に成る前であるためです。
 『広辞苑』にあるように四神に川・道・池などを当てるのは陰陽道の説です。安部博士晴明朝臣撰『三国相伝陰陽軻轄簠簋内伝金烏玉兎集』五巻には「四神相応之地」として次のように書かれています。なおこの書は鎌倉末期の偽書とされています。

東有流水曰青龍、南有澤畔曰朱雀、西有大道曰白虎、北有高山曰玄武、
右此四物具足則謂四神相応地、尤大吉也

「風水」という言葉は日本ではほとんど使われて来ませんでした。それを日本風に変えて陰陽道が取り入れたため、陰陽道の思想と考えられたようです。しかし風水と陰陽道では考え方が違います。
 風水は「気」を重要視します。漢方医学では、人体には「気」が隈なく流れていて、その流れは臓腑と直接関係する幹線とも云うべき十二の「経脈」、そこから派生した十五の「絡脈」、その他に臓腑とは直接関係のない「奇経八脈」があり、「気」が湧き出るところを経穴・井穴等(ツボのこと)と呼んでいます(池上正治『「気」で観る人体』)。
 風水では、大地にも「気」は流れていて、その流れを龍脈といい、山並みとして現れます。「気」が泉のように湧き出るところを龍穴と呼び、龍穴の四方を龍脈が取り囲んでいるところは、湧き出した「気」が流れ去ることなく留まるため、最高の場所とされています。「王者南面」という言葉のように北が高く、南がひらけてその先に山があり、北と東西に山並みがあって、龍穴上に立って見渡すと南前方の山が左右の山並みと一体となって四方を囲まれているように感じられることが重要です。
 
四神相応地と京都地形図.jpg
 左:四神相応の地の図(『風水都市』より) 右:京都地形図

都を囲う土地の条件ということでは、近年よく「平安京が四神相応の地につくられた」ということがいわれる。その内容は、青龍が東の川で鴨川、朱雀が南の池で巨椋(おぐら)池、白虎は西の道で山陰道とされており、歴史書や観光ガイドをはじめとして多くの書物に記されている。「四神相応」については、『続日本紀』和銅元年(七〇八)二月戊寅(十五日)条に記される平城京造営の詔(みことのり)に、「方(まさ)に今平城の地、四禽(しきん)図に叶い、三山鎮(しずめ)を作(な)す。亀筮(きぜい)並び従う。宜しく都邑を建(た)つべし」とあって、このなかの「四禽」が「四神」の別名であることから、平城京が四神相応であることがわかる。また平安京については、覚一本(かくいちぼん)『平家物語』の「都遷(みやこうつり)」の段に藤原小黒麻呂や紀古佐美などがその地を選定した際に、「この地の体を見るに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地也、尤帝都をさだむるにたれり」と時の桓武天皇に報告したと記されている。しかしいずれも、四神相応であるとはいっているが、川や池・道などが「四神」であることは示されていない。
 じつは、東の川を青龍、南の池を朱雀、西の道を白虎などとする四神相応の考え方が日本で最初に示されるのは、十二世紀の成立とされる『作庭記』においてのことである。一方、中国でもその発想は今のところ十世紀をさかのぼることはできない。つまり、一般にいわれる「四神相応」、とくに平安京における青龍が賀茂川、朱雀が巨椋池、白虎が山陰道などとされる四神と地形との対応は、平安京造営の当時にはまだなかったのである。
 では、日本で都が造営されていた当時の「四神相応」とはどのようなものだったのかといえば、四方が山で囲まれていることだったのである。そして北の山が玄武、東の山が青龍、南の山が朱雀、西の山が白虎とされていた。つまり、さきに記したように難波京をのぞく五つの都が造られた山で囲まれた地というのは、それこそ「四神相応の地」ということであって、それを陰陽師が選定していたということになる。(「日本における風水と陰陽道」)

 長岡京選定の際には実地調査のため陰陽師を含む一団を現地に派遣しています。
延暦三年五月丙戌(十六日)。勅遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。従三位藤原朝臣種継。左大弁従三位佐伯宿称今毛人。参議近衛中將正四位上紀朝臣船守。参議神祇伯従四位上大中臣朝臣子老。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督従四位上佐伯宿称久良麻呂。陰陽助外從五位下船連田口等於山背国。相乙訓郡長岡村之地。為遷都也。(『続日本紀』)

「日本における風水と陰陽道」が平安遷都のついて『平家物語』を引用しているのは、歴史書である『日本後紀』が四十巻中十巻しか現存せず、桓武天皇の延暦十一年正月から延暦十四年六月までは散佚しているからです。したがって平安遷都の詳しい状況は知ることが出来ません。
 平城京造営の詔に「四禽図に叶い」に続き「三山鎮を作す」とあることから四神が山であることがわかります。また「亀筮並び従う」とあるのは、風水による撰地が神意に叶うかどうかを亀卜と筮占で占い、ともに叶うという結果が出たことを表しています。

「亀筮並に従う」とは、亀甲による卜占と筮竹による筮占を行った結果、いずれも「逆らわなかった」という意味である。占いは慎重を期すために卜者と筮者が併用された。(中略)
日本における卜筮併用の例としては、藤原宗忠の『中右記』に、行事の吉凶を占う際、卜部と陰陽師を使い、両者に矛盾が生じたため卜部の判断を優先したという一件が見える(天永三年〈一一一二〉一一月一日の条)。卜部優先の習慣は卜占を最上位に置く中国の礼と共通する。日本の古代社会に中国の卜筮礼儀が正確に伝わっていた証である。
 律令では神祇官に亀甲占いの卜部二〇人が置かれ、陰陽寮に筮竹占いの陰陽師六人が置かれた。部署を異にする卜師と筮師が常勤の官員として配備されたのは、卜筮併用の習慣が皇室の儀礼に定着していたからだろう。(来村多加史『風水と天皇陵』)

 因みに古代の日本には占いの方法が四つありました。

 およそ占いの仕方には当時、亀占・筮占・式占・算占の四種が知られ、亀占は亀の甲を焼き、その亀裂の入りようを見て占うもの、筮占は前章で述べたメドハギの茎を用いて占う法で、のち竹が用いられるようになりました。算占は方柱形の長さ三寸ばかりの算木を用いるものです。これらに対して、式占は円と方の二つの盤(式盤)を重ねて廻し、盤の表面に記された十干十二支をはじめ、陰陽道の神々や星神の名前を組み合わせて判定する複雑なもので、その盤も陰と陽の二つがあったといわれますが、十世紀以後次第に衰えて、ついに伝わらなくなった占法であります。
 天武天皇が式占に通じておられたことからすると、当時式盤のような占具や占い方法を記した易書がすでに輸入されていたわけであります。今日、わが国に式盤の現物は遺っておりませんが、大正十四年、北朝鮮平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺蹟石巌里二〇一号墳の槨室と同所の王肝墓北室から発見されたものが知られています。(村山修一『日本陰陽道史話』)

同書は式盤復元図として次の図をあげています。今日風水師が使う羅盤に似ています。
 
式盤復元図.jpg


天武天皇は壬申の乱のとき黒雲を見て自ら式占を使って占っています。
将及横河、有黒雲。廣十餘丈経天。時天皇異之。則挙燭親秉式占曰、天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。(『日本書紀巻第二十八』)

 『作庭記』(後京極摂政良経著、良経は元久三年1206歿、享年38)には四神について次のようにあります。
一 樹事。
人の居所の四方に木をうゑて。四神具足の地となすべき事。
經云。家より東に流水あるを青龍とす。もしその流水なければ柳九本うゑて青龍の代とす。西に大道あるを白虎とす。若其大道なければ楸七本をうゑて白虎の代とす。南前に池あるを朱雀とす。若其池なければ桂九本をうゑて朱雀の代とす。北後にをかあるを玄武とす。もしその岳なければ棯三本をうゑて玄武の代とす。かくのごとくして四神相応の地となして居ぬれば。官位福祿そなはりて無病長壽也といへり。

 「經云」とありますから『作庭記』より前に「經」というものに書かれているわけですが、この「經」がいかなるものかわかりません。
 また四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)というのは、天にあって不動の北極星を含む中心部の「中宮」の四方にある星座の名前です。

二十八宿.jpg
      二十八宿図(『風水都市』より)

四神相応の地といふ事、四神とは、東方を蒼竜、又青竜とも、西を白虎、南を朱雀、北を玄武と号け、四方に此のごとき神在といふにあらず。本天の二十八宿を四ッに割、七星ヅヽ四方に配当し、其星の象より起る名也。星の在所は、時により東にも在、西にもつらなる。夫に拘らず、角、亢、氐、房、心、尾、箕の七星の並びやう、竜のごとし。これを東方とす。斗、牛、女、虚、危、室、壁の七星並びやう、虎のごとし。是を西方とす。奎、婁、胃、昴、畢、觜、参の七星並びやう、短尾の鳥のごとく、是を南方とす。井、鬼、柳、星、張、翼、軫(しん)の七星並びやう、蛇の亀を絡ふがごとし、是を北方とす。又五行に配当すれば、東方は木にして、其色青し。西は金にして、其色白し。南は火にして、其色赤し。北は水にして、其色黒し。是らの星の象、四方の色に配して、青竜、朱雀、白虎、玄武といふ。爾雅の釈天号にも、四方に皆七つの星有、各一つの象をなす。東方竜のごとし、西方虎のごとし、皆南方を首とし、北方を尾とす。南方鳥のごとし、北方亀のごとし、皆西を首とし、東を尾とす。又礼記にも、四神の旗の事有。四神の中に閶闔(しやうかふ)文有、是内裏に準ずる也。淮南子にも、閶闔は本天の紫微宮の門を云。是を借て天子の門に称する也。又楚辞に、天門の閶闔は、禁門の称とすとは、是らの謂に同。四神相応の地とはいふ。(武田信英『草廬漫筆』)

四神相応とは、北極星を中心にその東西南北に青龍・白虎・朱雀・玄武の星座がある配置をそのまま地上に再現した状態をさしていたのではないかと思われます。高松塚古墳やキトラ古墳、平城京や平安京のように四角形の施設では、その四辺が正しく東西南北に向いていることが四神相応のもともとの意味であったように思われます。

 陰陽寮とその役人である陰陽師は奈良時代からありましたが、陰陽道が成立するのはずっと後です。朝廷は遣隋使や遣唐使などにより中国から最新の文化を取り入れて国作りをしていましたが、遣唐使を送らなくなると文化の和風化が起こります、「国風文化」です。漢字から「かな」が作られたようにです。そのような中で陰陽道が成立します。その成立は十世紀頃と云われます。平安京遷都が行われた百年以上あとのことです。陰陽師で有名な安倍晴明も十世紀の人です。

『三国相伝陰陽軻轄簠簋内伝金烏玉兎集』五巻には「四神相応之地」として前述の「東有流水曰青龍、南有澤畔曰朱雀、西有大道曰白虎、北有高山曰玄武、右此四物具足則謂四神相応地、尤大吉也」に続けて次のように書かれています。

若一闕、則災禍自其方至、爰大聖文殊曰、東有鱗魚、以青龍為上首、常居水底、故云爾、若無流水、則柳九本可植之、柳水邊木也、南有禽翎、以鳳凰為上首、常居田邊、故云爾、若無澤畔、則桐七本可植之、桐鳳凰栖巣也、西有走獣、以白虎為上首、常走均途、故云爾、若無大道、則梅八本可植之、梅者虎棲居也、北有甲虫、以鰲亀為上首、常住山壑、故云爾、若無山峰、則槐六本可植之、槐山頭荘木也、中央有裸虫、以人間為上首、居人中、四面安彼斯四物相具足、則富貴自在子孫繁昌也

四神は北極星の周りにある星座がそれらの姿に見えるところから名づけられたに過ぎないにもかかわらず、陰陽道では、それらの動物に関連させて、龍は水底に居るものであるから川に、虎は千里の地を走る獣であるから道にというように当てているのです。宅地等で四神に欠ける場合には代わりに木を植えることで補うことにしていますが、その木の種類も四神の動物に関連付けています。

 この陰陽寮の仕組みは養老二年(七一八)に成立した『養老令(りょう)』の職員令に見られるが、そのなかに風水を扱うことが陰陽寮の役人の職掌として規定されている。その条文は「陰陽師六人。占筮し地を相(み)ることを掌る」(原文は漢文)と記されている。「地を相ること」とはつまり「相地」であって、さきにも記したようにこれは風水術を示している。すなわち、風水術は律令時代には国家の正規の技術として、陰陽寮の技術官僚である陰陽師によって扱われていたということになる。

 陰陽寮で扱ったのは「陰陽道」ではなく方術であるということである。陰陽道は陰陽寮で扱われていたたぐいの方術に日本の精霊観が混ざって十世紀頃に成立した、日本独自の宗教的信仰体系もしくは宗教的技術体系なのである。そして陰陽師というのは、さきにも述べたようにもともとは陰陽寮の技術官僚の職名であつたのが、陰陽道の成立とともに陰陽道の術者を指す言葉として使われるようになった。(「日本における風水と陰陽道」)

 平安京の地は風水によって選ばれたのであって、陰陽道によってではありません。しかし和風化して日本独特に成った風水を含む陰陽道が盛んになると、陰陽道成立前のものも陰陽道の説で解釈されるようになります。四神を川や池や道とするのもその一つです。

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