気になる言葉17「出女-入鉄砲出女(下)」

 今回は出女です。
幕府の関所の内、出女を改めたのは一部です。
出女が御留守居証文を持たないと通れない関所は、相模の箱根・根府川、遠江の今切(新居)・気賀、越後の関川、上野の碓氷・猿ヶ京・杢ケ橋・大戸・五料・大笹、信濃の福島、武蔵の小仏、武蔵と下総の境の小岩市川・金町松戸・房川渡中田、武蔵と上野の境の新郷川俣、下総の関宿の一八ヵ所。江戸から出ようとすると、このうちのどれかの関所に引っかかるように巧みに設置されていた。 (金森敦子『江戸庶民の旅』)

 出女に対する改めが厳しかったことは確かなようです。江戸の町人の妻娘等であっても幕府の留守居発行の手形が必要だった上に、女性には各種の区分を手形に記載する事になっていました。
『青標紙』に載せるところでは。

御関所手形 假令は女上下何人の内
 一乘 物  何 挺
 一禪 尼  是は能人の後家又は妹なとの女髮剃たるを云
 一尼    是は普通の女髮剃たるを云
 一比丘尼  是は伊勢上人善光寺抔の弟子又は能人の召仕に有之其外高野
       比久尼也
 一髮 切  是は髮の長短に不寄少切候とも又は中狹の出来物の上抔狹み
       候共何も髮切なり
       煩髮拔髮はへそろはざるは髮切にて無之但是も髮切と相見取
       候は髮切なり
 一小 女  是當年より振袖の内は小女たるべしかね付小女有併振袖の體
       不審有は改べし但小女の内尼かふろ髮切などは不改之
 一亂 心  男女共  一手 負  男女共  一首  男女共  
 一死 骸  男女共
右之通手形に可書載之、若不審の體於有之は可改、此外は不及改、但欠落等の者有之節は、自此方書付可遣之候間、其趣に隨可改之、次に當月の月附にて、来月晦日迄は可通之、其日限より及延引は不可通、女路次にて煩、又は相果、手形より數不足の分は、其断聞届可有之候、勿論多は不可通之者也
 右貞享三寅年1686七月相極之

女手形に記された区分と実際の姿が一致しないと通れませんでした。児玉幸多氏は『宿場と街道』で次の例をあげておられます。

関所は「出女入り鉄砲」といって、江戸より諸方へ出る女と、江戸方面に向かう鉄砲とを特に改めたというが、今切の関所では入女も同様に改めている。丸亀藩(京極家)の藩士の娘であった井上通女が、藩主母堂の侍講になるために、天和元年(一六八一)十一月に江戸に下った時のことである。丸亀から船で大坂に渡り、それから京都から東海道を桑名・熱田と過ぎて今切に来た。通女は二十歳を越えていたが未婚であったから、関所手形に「小女」と書くべきところを「女」と書いてあった。そのため関所を通れず、使を大坂にやって書き直してもらうために六日間滞在した。既婚者は歯を黒く染め、着物の袖も短かくするので、すぐに判別できた。「小女」と「女」の違いは年齢ではなかった。こうして今切の関所を通れずに滞在を余儀なくされた例は、新居町方記録にはいくつもある。

因みに「既婚者は歯を黒く染め、着物の袖も短かくするので、すぐに判別できた」とありますが、「鉄漿付小女」という言葉があるように、「小女」の判定にお歯黒は関係ありません。「振袖」かどうかが基準です。ただし、この「振袖」という言葉には注意が必要です。今日「振袖」というと着物の裾近くまである長い袖のものをイメージしますが、これは江戸時代には「大振袖」と呼ばれたものです。「振袖」は「平袖(留袖)」に対する言葉で、江戸時代の「振袖」はもっと袖の短いものです。普通の小袖の袖が一尺二寸前後の頃、一尺五寸は振袖でした。それが普通の小袖の袖が長くなって一尺五寸ほどになり、振袖も二尺七、八寸にもなったようです。子供の着物は振袖で脇を開けます。成人すると袖を留め、脇を塞ぎます。しかし、小袖の袖が長くなるのに伴い、女性に限って成人後も脇をあけるようになりました。
『守貞謾稿』には次のように書かれています。
「袖長け、文政前、一尺一寸五分、今は一尺二寸五分あるひは三寸なり。(中略)安政・文久に至りては、江戸婦人袖いよく長くおほむね一尺五寸。昔の振袖に等し。」
「振袖、長け始めおほむね尺五寸、(中略)貞享以来、おほむね二尺。(中略)正徳・享保以来、二尺四、五寸なり。(中略)寛延・宝暦以降今に至りて、二尺六、七寸あるひは二尺八、九寸、その躬の高低に応じまさに地を払はんとす。」
「振袖は、昔時その製なし。しかるに後、振袖ありて止袖の名出づ(振袖に対る言なり。また振袖をきるを止むると云ふ故に名とす)。けだし小児は気熾なるが故に、古来、小児の服は腋を闕けて(今云ふわきあけ、京坂に人形と云ひ、江戸に八くちと云ふ)気を洩らす。腋あけるが故に、やうやく袖を長くす。長袖は特に振り動く故にふり袖と云ふ。振袖、長け始めおほむね尺五寸、(中略)」

 因みに、男女とも小児のうち髪を剃っていたのも「わきあけ」と同様、熱を逃がすためでした。

剃胎髪(うぶぞり)今の世出生の小児は貴賤とも出生より七日にあたる日胎髪(たいはつ)を剃(そる)事古き風儀(ならはし)なり。(中略)
さて生(はゆ)ればはさむ事二歳までなり。かやうにするは小児は熱を以て育(そだつ)事天性なれば盛んなる熱をもらさん為に二歳までは髪を生(はや)しおかず(中略)さて三歳の春より髪を生す、是を髪置とて祝ふ。 (岩瀬百樹『歴世女装考』弘化四年1847)

 大名の国替えの際には、東国から箱根の関所を越えて西国へ移動する場合もあります。その場合、女性の数も多く、また赤ん坊から年寄りまで様々です。そこで特に「小女」についての問い合わせが箱根関所へよせられました。

同年(安永元年1772)八月十六日
一、御留守居神保和泉守様より御問合、
一、当歳之小女御関所罷通候節、振袖着用に及ばず候哉、
  但やつ口明有之候ハハ、宜敷哉之趣、
  此儀は、其(爰?)許御関所には当歳之小女振袖着用及ばず、
  やつ口明候へば宜しきと申儀は無之候、振袖の長緒相限、振
  袖着用致候へば差通申候、
一、小女何歳より振袖着用致さずては、相通申さず候哉之趣
  此儀は、何歳迄ハやつ口、何歳よりは振袖と申儀無之候、当歳
  より振袖着用之内は、小女之改にて差通申候、
一、鉄漿附小女着服振袖着用の事候哉、又は常躰之振袖にても宜敷
  候哉之趣、
  此儀は、鉄漿附小女にても、振袖不致着用候而、差通不申候
      (『箱根御関所日記書抜 上』)

天保二卯年1831六月十五日松平伊豆守様衆より問合、同御答下ケ扎、
一、御家中家内引越之内、小女之儀は、末々御足軽躰之者而も、御
  関所前御改之節は、振袖着用無御座候而は、不相成儀御座候
  哉、
 御書面箱根御関所小女通候節、振袖着用之儀御座候、右平袖
 は八ツ口有之候ヘ、差支無御座候、
        (『箱根御関所日記書抜 中』)

 「平袖而は八ツ口有之候ヘ、差支無御座候」とあるのは、明らかに小女である場合には、振袖でなく平袖であっても八ツ口であれば小女と認めるということでしょう。

 女手形の改めで問題になるのは「小女」の他に「髪切」があります。一つだけ例をあげます。
髪の様子が髪切と紛らわしく差戻しとなりました。

江戸芝金杉通壱町目家持惣兵衛と申者之毋之御証文、才領洗助と申者持参相改候処、髪之様子髪切紛敷候間、非番人見為相改候処、同様申聞候付、差戻申候、右之段年寄中申達候、

その後、留守居の添證文が提出され、通されています。
その女手形と添證文は次の通りです。

   女手形之写
髪之中釣はけ有之女壱人、従江戸鈴鹿郡野村迄、箱根関所無相違可被通候、芝金杉通壱町目家持惣兵衛毋之由、証人共致請状町年寄加判、其上池田筑後守殿断付如斯候、以上、
  寛政五年丑九月廿二日  因幡
              内膳
              伊賀
              肥前
             箱根 人改中

   御添状之写
髪之中釣はけ有之女壱人、芝金杉通壱丁目家持惣兵衛母之由、証人共致請状、町年寄加判、其上池田筑後守殿・小田切土佐守殿断而、従江戸勢州鈴鹿郡野村迄、箱根関所無相違可被通旨、去月廿二日手判差出候処、右髪切紛敷候付差留候由、尤遂吟味候処、右女髪之中釣はけ有之髪短髪切紛敷女無紛候間、其関所無相違可被通候、仍添手形如斯候、以上、
  寛政五丑十月七日 因幡御印
            箱根 人改中  (『箱根御関所日記書抜・下』)

   註:池田筑後守  池田筑後守長恵、南町奉行
     小田切土佐守 小田切土佐守直年、北町奉行

 女性の改めが男性と比べ厳しかったことは確かですが、その目的が、人質である「諸大名の妻女の脱出を防ぐため」だけだったのかは疑問です。今切の関所では出女だけでなく入女も女手形を必要としているからです。
 また、すべての女性が改めを受けたわけでもありません。改め受けずに通ることのできる者もありました。

  寛政三年九月朔日
一、大奥女中万里小路様表使小山様御使番きま様・さつ様御通行付、御先
  大野市蔵と申仁、御証文一通并御断状一通御持参付、相改受取申候、
     御添証文之写
一、万里小路殿・小山殿箱根御関所被通候節、乗物之内改不改可被通候、為
  其如斯候、以上、
    寛政三亥八月七日    石見御印
               箱根 人改中
                   (『箱根御関所日記書抜・下』)

   註:石見=小笠原石見守、留守居
     女手形は留守居の連印ですが、こうした断状や添状は単独印です。

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