気になる言葉16「入鉄砲-入鉄砲出女(上)」
前回落語の中の言葉「旅 ─ 往来手形・関所手形」の中で「入鉄砲に出女」という言葉を使いました。
入鉄砲出女 江戸幕府が、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を箱根などの関所で特に厳重に改めたこと。謀反を警戒して武器の流入と諸大名の妻女の脱出を防ぐため行なった。(『広辞苑』)
と一般に云われていますし、昔学校でもそう教わりました。
ところが、『箱根御関所日記書抜 上』を見ていましたら次のような記載にぶつかりました。
箱根の関所では鉄砲の改めは原則していないというのです。何かの間違いではないかと思いました。ところが箱根の関所は人の改めだけで、鉄砲を含め道具類の改めはしていないという内容のことが何度も出てくるのです。箱根の関所に対しては、通常は鉄砲に関する老中の証文が出されることはなく、例外的に出された時にだけ改める。それも証文中に「改」という文字がなければ箱も開けず「箱之外より様子一通見届」けるだけだったといいます。
江戸の後期に至っても同様です。
徳川幕府が設けた関所は五〇カ所程もあります。天保九年の大成武鑑掲載の関所は下図の通りです。
そのなかで特に重要だったのは箱根・今切・碓氷・(信濃)福島と言われます(児玉幸多『宿場と街道』)。そこでこの四ヶ所の関所について鉄砲の改め方を確かめてみました。
「諸国御関所にて只今迄諸事改様之仕形、御代官并領主より差出候書付を以書抜、
右之通御座候以上、
酉十一月 」
とある享和元年1801と推定される『諸国御関所覚書』によると
箱根 一武具弓鉄炮等、往来共改無之候、
今切 一下り鉄炮者御老中方御證文を以相通、
但御用にて被相通候領主御役人、鉄砲持参之時者、被罷登候時、員数
并手形被改、下り之節引合相通候、此外武具者相改候様と御定書無之
候故、不相改候、然共武具不相応、大分為持候歟、取寄候様成儀者訳
承届、不審之様子に候はゞ、江府え注進仕心得に而罷在候、
碓氷 一下り鉄炮者、公儀御證文にて相通候、但上方え出候鉄炮者改無之、
但御用にて上方筋え罷越候面々帰府之節、弐三挺之鉄炮直判取之相通
す、尤登り之節證文有之候得者、帰府之節引合相通、
福島 一鉄炮之儀、江戸え入候数筒者御老中御證文を以通り候、持筒者自分手
形を以相通候由、此外武具類不相改、
但二條大坂え御用にて罷越候面々者、登り之節員数證文取置、下り之
節引合通す、且又上方え出候鉄炮にても、所替にて出候時者、御老中
御證文を以相通候、
因みに武蔵国の房川渡中田・金町松戸・小岩市川の渡しにある関所では
一鉄炮之儀此御関所出入共に、御老中御留守居證文にて相通、小筒拾挺以下者
持主之證文にて通す、大筒者壱挺にても御老中御留守居證文無之候ては不相
通、武具者持主證文にて通す、
とあって、登り下りとも拾挺以上及び大筒(玉目が拾匁以上のもの)は一挺でも老中又は留守居の證文が必要としています。
『諸国御関所覚書』では、老中の證文が必要なのは入り鉄砲と、大名の所替の出鉄砲としている福島の関所での鉄砲改めについて、小川恭一氏の『江戸の旗本事典』には「墓参りと入り鉄炮」の項目に次のように書かれています。
文政七年の福島の関所では、二挺の出鉄砲にも老中の證文を必要としています。
以上のことから、鉄砲改めは関所によって区々であったこと、また、同じ関所でも時期により変化していることがわかります。
鉄砲改めは何のために行われたのか、箱根の関所で鉄砲を改めなかったのは何故なのか、わかりません。また「入り鉄砲として厳重に改めた」と言われ続けているのも不審です。
最後に箱根の関所宛てに例外的に出された鉄砲証文の実例(覚)をあげておきます。この例では、入り鉄砲は老中より、出鉄砲は老中の差図で留守居から証文が出されています。但し、入り鉄砲でも老中差図により留守居が証文を出しているものもあります。
入り鉄砲
覚
一、鉄砲 五挺
但台附内 四挺ハ、玉目三匁三分、
壱挺ハ、玉目三匁六分、
右は、今度従三州吉田江戸屋敷江取寄申候、箱根関所無相違罷通候様、御裏
印被成可被下候、以上、
寛政元己丙年三月 松平伊豆守御印
届印
松平越中守様
牧野備後守様
鳥居丹波守様
裏書之通鉄砲五挺、関所無相違可相通候、改は本文有之候、以上、
丹波御印
備後御印
越中御印
箱根関所番中 (『箱根御関所日記書抜 上』)
註:丹波(鳥居丹波守忠意)・備後(牧野備後守貞長)・
越中(松平越中守定信)は老中
登り鉄炮
覚
一、鉄炮 四挺
但台附玉目 百目弐挺
内唐銅筒壱挺
五拾目 弐挺
右者、渡辺越中守殿、従江戸屋舗領分和泉国泉郡伯太陣屋迄、箱根関所無相違可被通候、松平和泉守殿御差図ニ付如斯候、以上、
文政九年戌
六月廿五日 山城
佐渡
日向
主膳
甲斐
箱根関所 番中 (『箱根御関所日記書抜 下』)
註:松平和泉守乗寛は老中
山城(室賀山城守)・佐渡(柳沢佐渡守)・日向(曲淵日向守)・
主膳(柳生主膳正)・甲斐(石川甲斐守)は留守居
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入鉄砲出女 江戸幕府が、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を箱根などの関所で特に厳重に改めたこと。謀反を警戒して武器の流入と諸大名の妻女の脱出を防ぐため行なった。(『広辞苑』)
と一般に云われていますし、昔学校でもそう教わりました。
ところが、『箱根御関所日記書抜 上』を見ていましたら次のような記載にぶつかりました。
宝永二年1705六月二日註:秋元但馬守喬知は当時の老中
一、秋元但馬守様より御問合、今切御関所手前より通候鉄砲之儀、箱根御関所ニ而、常々相改来候哉と御尋被遊候、右之規定、御番人之者共呼寄逐吟味候処、鉄砲惣而武具之類御関所登り下り江通候節、前々より相改不申趣、口上書仕差上候、
口上書之覚
今切御関所手前より江戸之方へ参候鉄砲、箱根御関所罷通候節常々相改候哉と、御尋被成候付、
箱根御関所ニ而ハ、鉄砲改前々より無御座候ニ付、今切御関所手前より鉄砲江戸之方江参候而も、往来共ニ前々より改候義無御座候、勿論鉄砲改候義、御条目ニも無御座候、其外武具類迄も往来箱根御関所罷通候節、前々より改候義無御座候、右之通相違無御座候、以上、
箱根御関所定御番人
宝永二乙丑年六月二日 井上惣右衛門
以下略
(『箱根御関所日記書抜 上』)
箱根の関所では鉄砲の改めは原則していないというのです。何かの間違いではないかと思いました。ところが箱根の関所は人の改めだけで、鉄砲を含め道具類の改めはしていないという内容のことが何度も出てくるのです。箱根の関所に対しては、通常は鉄砲に関する老中の証文が出されることはなく、例外的に出された時にだけ改める。それも証文中に「改」という文字がなければ箱も開けず「箱之外より様子一通見届」けるだけだったといいます。
寛政三年1791四月六日
一、以手紙申達候、然は、其(許)御関所武具類通方之儀、先達而吉
田駿河守様より御問合有之候付、別紙之通御達相済候間、各為心
得此段申遣候、
以上、
写
一、箱根御関所武具、於登り下り共一切相改不申候、勿論御定目ニも
無御座候、鉄砲改之儀は、御証文致持参候節、御裏書鉄砲何拾挺
無相違可相通と斗ニ而、改之一字無之候ヘハ、箱入之鉄砲ニ而も、
箱之外より様子一通見届相通申、改可通旨御文言之内ニ有之候節
は、筥入之鉄砲ニ候ヘハ、箱ヲも細ニ相改相通申候、御証文持参無
之候ヘハ、前々より一通様子見届相通申候、尤、武器員数之分前々
差別無御座候、
右之通ニ御座候、以上
四月二日 大久保加賀守内
松下三郎兵衛
(『箱根御関所日記書抜 上』)
江戸の後期に至っても同様です。
天保二卯年1831六月十五日松平伊豆守様衆より問合、同御答下ケ扎、
一、武器之儀は、鉄炮斗御関所ニ而御改御座候哉、右改方は鉄炮ニ具し
候玉薬品籠等ニ迄御座候哉、
但、伊豆守様御道中御供立之内、御先手持筒ニ至迄行列之内ニ候
ヘハ、同様御改ニ御座候哉、
御書面箱根御関所ニ而武器之儀は、改無之候ニ付、通方差支無座候、
(『箱根御関所日記書抜 中』)
徳川幕府が設けた関所は五〇カ所程もあります。天保九年の大成武鑑掲載の関所は下図の通りです。
そのなかで特に重要だったのは箱根・今切・碓氷・(信濃)福島と言われます(児玉幸多『宿場と街道』)。そこでこの四ヶ所の関所について鉄砲の改め方を確かめてみました。
「諸国御関所にて只今迄諸事改様之仕形、御代官并領主より差出候書付を以書抜、
右之通御座候以上、
酉十一月 」
とある享和元年1801と推定される『諸国御関所覚書』によると
箱根 一武具弓鉄炮等、往来共改無之候、
今切 一下り鉄炮者御老中方御證文を以相通、
但御用にて被相通候領主御役人、鉄砲持参之時者、被罷登候時、員数
并手形被改、下り之節引合相通候、此外武具者相改候様と御定書無之
候故、不相改候、然共武具不相応、大分為持候歟、取寄候様成儀者訳
承届、不審之様子に候はゞ、江府え注進仕心得に而罷在候、
碓氷 一下り鉄炮者、公儀御證文にて相通候、但上方え出候鉄炮者改無之、
但御用にて上方筋え罷越候面々帰府之節、弐三挺之鉄炮直判取之相通
す、尤登り之節證文有之候得者、帰府之節引合相通、
福島 一鉄炮之儀、江戸え入候数筒者御老中御證文を以通り候、持筒者自分手
形を以相通候由、此外武具類不相改、
但二條大坂え御用にて罷越候面々者、登り之節員数證文取置、下り之
節引合通す、且又上方え出候鉄炮にても、所替にて出候時者、御老中
御證文を以相通候、
因みに武蔵国の房川渡中田・金町松戸・小岩市川の渡しにある関所では
一鉄炮之儀此御関所出入共に、御老中御留守居證文にて相通、小筒拾挺以下者
持主之證文にて通す、大筒者壱挺にても御老中御留守居證文無之候ては不相
通、武具者持主證文にて通す、
とあって、登り下りとも拾挺以上及び大筒(玉目が拾匁以上のもの)は一挺でも老中又は留守居の證文が必要としています。
『諸国御関所覚書』では、老中の證文が必要なのは入り鉄砲と、大名の所替の出鉄砲としている福島の関所での鉄砲改めについて、小川恭一氏の『江戸の旗本事典』には「墓参りと入り鉄炮」の項目に次のように書かれています。
筆者は、大身の旗本佐藤美濃守信顕が、文政七年(一八二四)に菩提寺の美濃国は日光参(現美濃加茂市)正眼寺(正次開基)に赴いて、先祖の百五十回忌を営んだ記録のコピーを子孫の佐藤任宏氏から入手しました。(中略)
とはいえ法的な手続きの記録は残念ながら存在しません。残っている記録は金銭の支払記録だけですが、やはり生活実状を知るうえで貴重なものです。
信顕は当時、西丸書院番頭(職禄四千石)に在職中でしたが、御暇をいただき一ヵ月弱の墓参に出ました。(中略)
じつはこの墓参の行列に携帯した鉄炮二挺が、関所で問題となりました。佐藤信顕の携帯した鉄炮二挺は、家禄では三挺(軍役表)でもさしつかえないのですが、結果として関所を出られても、帰りの関所で『入鉄炮』になってしまうのです。ことの大筋を金井達雄氏の研究(『中山道碓氷関所の研究』下巻)から紹介します。
五月八日、佐藤信顕一行は、碓氷関所を通行します。一行は関所について不案内らしく、番所に鉄炮の挨拶もなく通り過ぎようとしました。関所の番士は「出鉄炮」なので帰りは「入鉄炮」になるから、老中発行の裏書証文が必要ですよと注意をして通しました。
ところが次の木曽福島の関所では差し止めにされてしまいます。やむなく関所手前の上田村の村役人に頼んで、鉄炮二挺を預け鉄炮なしで通行しました。
帰路は東海道を通ると届けてありますので、上田村は通りません。かりに中山道を通って帰っても、碓氷関所で咎められ老中の裏書証文が必要となります。
そこで佐藤家としては、至急江戸に連絡し六月付で老中裏書証文を手に入れ、上田村役人より江戸に転送してもらうことで、この件を解決しました。
『佐藤家文書』の支出中には、鉄炮二挺と玉箱の転送費用、約八両が計上されておりました。
文政七年の福島の関所では、二挺の出鉄砲にも老中の證文を必要としています。
以上のことから、鉄砲改めは関所によって区々であったこと、また、同じ関所でも時期により変化していることがわかります。
鉄砲改めは何のために行われたのか、箱根の関所で鉄砲を改めなかったのは何故なのか、わかりません。また「入り鉄砲として厳重に改めた」と言われ続けているのも不審です。
最後に箱根の関所宛てに例外的に出された鉄砲証文の実例(覚)をあげておきます。この例では、入り鉄砲は老中より、出鉄砲は老中の差図で留守居から証文が出されています。但し、入り鉄砲でも老中差図により留守居が証文を出しているものもあります。
入り鉄砲
覚
一、鉄砲 五挺
但台附内 四挺ハ、玉目三匁三分、
壱挺ハ、玉目三匁六分、
右は、今度従三州吉田江戸屋敷江取寄申候、箱根関所無相違罷通候様、御裏
印被成可被下候、以上、
寛政元己丙年三月 松平伊豆守御印
届印
松平越中守様
牧野備後守様
鳥居丹波守様
裏書之通鉄砲五挺、関所無相違可相通候、改は本文有之候、以上、
丹波御印
備後御印
越中御印
箱根関所番中 (『箱根御関所日記書抜 上』)
註:丹波(鳥居丹波守忠意)・備後(牧野備後守貞長)・
越中(松平越中守定信)は老中
登り鉄炮
覚
一、鉄炮 四挺
但台附玉目 百目弐挺
内唐銅筒壱挺
五拾目 弐挺
右者、渡辺越中守殿、従江戸屋舗領分和泉国泉郡伯太陣屋迄、箱根関所無相違可被通候、松平和泉守殿御差図ニ付如斯候、以上、
文政九年戌
六月廿五日 山城
佐渡
日向
主膳
甲斐
箱根関所 番中 (『箱根御関所日記書抜 下』)
註:松平和泉守乗寛は老中
山城(室賀山城守)・佐渡(柳沢佐渡守)・日向(曲淵日向守)・
主膳(柳生主膳正)・甲斐(石川甲斐守)は留守居
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