気になる言葉15「お乳母日傘」
「お乳母日傘」という言葉を辞書でひくと、その多くが「大事に」、「大切に」育てる意としています。
おんば・ひがさ
○『広辞苑』
乳母に抱かれ日傘をさしかけられなどして大事に育てられること。「おんばひからかさ」とも。
○前田 勇 編『江戸語の辞典』
ついちょっと外出するにも乳母に抱かれ、そのうえ日傘をさしかけられるの意。大切に育てられること。
おんばひがらかさ
○『日本国語大辞典』
幼児を大切にして、乳母をつけ外出にも日傘をさしかけること。転じて一般に、幼児が大切に育てられることをいう。おうばひからかさ。
○『大言海』
〔乳母ニ抱カレ、日傘ヲサシカケラルル意〕
富有ノ小児ノ、手厚クイツカレ、育テラルルニ云フ語。
さらには、
○三省堂 『新明解四字熟語辞典』
おんば-ひがさ【乳母日傘】
子供、特に幼児が必要以上に過保護に育てられること。乳母(うば)に抱かれ、日傘をさしかけられるなどして、ちやほやされながら大切に育てられる意から。
○岩波『四字熟語辞典』
乳母日傘
幼児が大切に育てられること。「日傘」はヒカラカサとも言う。乳母をつけ、外出には日傘を差しかけられるほど、大事に育てられるという意。何の苦労もない育ち方をしたという意味で使われることが多い。
言葉は時代によって、使われ方も意味も変わってゆくものですから、今日ではここにあげたような意味で使われているのかも知れません。しかし元々は少し違っていたようです。江戸時代前期の画をいくつかあげます。
上にあげるのは、左は『骨董集』上編下之巻前(文化十二年1815)に載せる寛永期のものとされるもの。右は同じく寛永頃1624~43とされる『時代かゞみ』の画です。
下にあげるのは
左は『江戸名所図屏風』(承応元年1652~明暦二年1656頃、黒田日出男氏の説)
右は延宝四年1676の「祇園社額」からの拡大模写として「史料通信協会叢誌第四編」に掲載のものです。
これらが「お乳母日傘」ではないかと思っています。つまり、幼児を抱く乳母と、それに日傘を差し掛けるお付きの者の、最低二人の者に傅(かしず)かれているのです。乳母だけでは「お乳母日傘」になりません。この二人以上という点が前記の辞書類では曖昧です。
もう一つは、『大言海』だけしか「富有」という言葉を使っていませんが、「お乳母日傘」の本質は、裕福な環境に育ったということの方にあるのではないかと思っています。貧しい家でも子供を「大事に」「大切に」育てることは出来ますが、乳母やお付きの者をつけることは出来ないからです。
江戸時代の用例をわずかですがあげます。
○山東京伝『通言総籬』天明七年1787刊
「江戸っ子」を定義したものとして利用されることがある部分です。
○松風亭如琴『風俗通』寛政十二年1800刊
遊女に悪くされた客が、腹を立てて毒づくところに
○時太郎可候(葛飾北斎)『竈将軍勘略巻』寛政十二年1800刊
「西の国百万石の太守多々羅大尽広胸と云ふ大将」は、「日夜奢に長し好淫乱酒に耽り」ために敵に攻められ落城、御台所の覚悟前は
葛飾北斎は専ら画家として有名ですが、戯作もしています。この『竈将軍勘略巻』が北斎の最初の草双紙と云われています。
○河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』三幕目 新吉原丁字屋の場 安政七年1860
剣術使いの侍に化けた長次と修験者に化けた熊蔵がうその喧嘩をし、百姓に化けた金太が廻りの者から紙入れや煙草入れを掏り取るが、その筋立てを考えたお坊吉三が金を独り占めにして逃げ去る。三人はお坊吉三の居場所をつきとめ、新吉原丁字屋の花魁吉野の部屋に押しかけ、割り前をよこせと騒ぐところでのお坊吉三の科白
いずれも裕福な環境に育ったことを意味しています。『竈将軍勘略巻』のケースでは「ちりちりになりけれバ」とあって、二人や三人でないことを示しています。
前に掲げた延宝四年の「祇園社額」について「史料通信協会叢誌第四編」は次のように云っています。
また岩瀬醒(山東京伝)は考証随筆『骨董集』上編下之巻前(文化十二年1815)に、上に掲げた画を載せて次のように書いています。
京伝によれば、「お乳母日傘」は「いやしき者」が人に誇る時に使う言葉であり、小児に日傘を差し掛ける習俗は文化期には既に絶えていて、言葉だけになっている、ということになります。
日傘については、
これらによれば、
下々のものが日傘を使うようになったのは小児用が初めで、後に女性が使い
始めた。
小児用の日傘には、昔はお守りを付けたり絵を描いていた。
小児に日傘を差し掛けることは、当時は絶えていて、その余風が祭礼に残って
いる。
ということになります。
「お乳母日傘」の日傘は直射日光を避けるためだけのものではなく、お守りを付けたり絵を描いたりすることで魔除けの働きをしたもののようです。
今日でも祭礼にでる稚児に、お守りなどは付いていませんが長柄の日傘を差し掛ける神社もあります。下に載せる写真は香取神宮の御田植祭のものです。
最後に「お乳母日傘」の読み方について
『デジタル大辞泉』は「この句の場合、『乳母』を『うば』と読むのは誤り。」と断言していますが、京伝は天明七年1787刊の洒落本『通言総籬』では「乳母日傘」に「おんはひからかさ」と振り仮名を付け、文化十二年1815刊の考証随筆『骨董集』では「お乳母日傘」の「乳母日傘」に「うバひがらかさ」と振り仮名を付けています。どういう意図によるのかは分かりませんが、元々「乳母」は「うば」であり、「お」を付けて「お乳母」になると「おんば」と発音するのであって、『江戸語の辞典』にあるように
日常語としては「おんばひがらかさ」という。
の方が穏当のように思います。
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おんば・ひがさ
○『広辞苑』
乳母に抱かれ日傘をさしかけられなどして大事に育てられること。「おんばひからかさ」とも。
○前田 勇 編『江戸語の辞典』
ついちょっと外出するにも乳母に抱かれ、そのうえ日傘をさしかけられるの意。大切に育てられること。
おんばひがらかさ
○『日本国語大辞典』
幼児を大切にして、乳母をつけ外出にも日傘をさしかけること。転じて一般に、幼児が大切に育てられることをいう。おうばひからかさ。
○『大言海』
〔乳母ニ抱カレ、日傘ヲサシカケラルル意〕
富有ノ小児ノ、手厚クイツカレ、育テラルルニ云フ語。
さらには、
○三省堂 『新明解四字熟語辞典』
おんば-ひがさ【乳母日傘】
子供、特に幼児が必要以上に過保護に育てられること。乳母(うば)に抱かれ、日傘をさしかけられるなどして、ちやほやされながら大切に育てられる意から。
○岩波『四字熟語辞典』
乳母日傘
幼児が大切に育てられること。「日傘」はヒカラカサとも言う。乳母をつけ、外出には日傘を差しかけられるほど、大事に育てられるという意。何の苦労もない育ち方をしたという意味で使われることが多い。
言葉は時代によって、使われ方も意味も変わってゆくものですから、今日ではここにあげたような意味で使われているのかも知れません。しかし元々は少し違っていたようです。江戸時代前期の画をいくつかあげます。
上にあげるのは、左は『骨董集』上編下之巻前(文化十二年1815)に載せる寛永期のものとされるもの。右は同じく寛永頃1624~43とされる『時代かゞみ』の画です。
下にあげるのは
左は『江戸名所図屏風』(承応元年1652~明暦二年1656頃、黒田日出男氏の説)
右は延宝四年1676の「祇園社額」からの拡大模写として「史料通信協会叢誌第四編」に掲載のものです。
これらが「お乳母日傘」ではないかと思っています。つまり、幼児を抱く乳母と、それに日傘を差し掛けるお付きの者の、最低二人の者に傅(かしず)かれているのです。乳母だけでは「お乳母日傘」になりません。この二人以上という点が前記の辞書類では曖昧です。
もう一つは、『大言海』だけしか「富有」という言葉を使っていませんが、「お乳母日傘」の本質は、裕福な環境に育ったということの方にあるのではないかと思っています。貧しい家でも子供を「大事に」「大切に」育てることは出来ますが、乳母やお付きの者をつけることは出来ないからです。
江戸時代の用例をわずかですがあげます。
○山東京伝『通言総籬』天明七年1787刊
「江戸っ子」を定義したものとして利用されることがある部分です。
金の魚虎(しやちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、拜搗(おがみづき)の米を喰(くらつ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひとゝなり)、金銀の細螺(きさご)はじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、
○松風亭如琴『風俗通』寛政十二年1800刊
遊女に悪くされた客が、腹を立てて毒づくところに
おいらアきやつと生れるやいな、おんば日からかさておそたちなすつた江戸ッ子の正銘ましりなしの通人のしやうかにやア、とこへいつても色男一疋の通用はするは。てめへたちのよふに二階もねへ裏店でそたち、まさきの葉でこしらへたぴいぴいをふいて、うとん屋のしるつきを持て醤油を買にあるいたとはちかふそよ(以下略)
○時太郎可候(葛飾北斎)『竈将軍勘略巻』寛政十二年1800刊
「西の国百万石の太守多々羅大尽広胸と云ふ大将」は、「日夜奢に長し好淫乱酒に耽り」ために敵に攻められ落城、御台所の覚悟前は
かくごのまへハおもハぬなんぎにあいたまひ、いとけなきときしたがいしおんばひからかさもちりちりになりけれバ、かゝるときひきずりといわれんも口おしくこづまかいがいしく、みづからてなべをさけおもはずもはだうすにておちゆきたまふ
葛飾北斎は専ら画家として有名ですが、戯作もしています。この『竈将軍勘略巻』が北斎の最初の草双紙と云われています。
葛飾為一(北斎)
古今唐画の筆意を以て、浮世絵を工夫せしは、此翁を以て祖とす。爰において世上の画家、其家風を奇として、世俗に至る迄大にもてはやせり。又戯作の草双紙多く、寛政の頃草双紙の画作を板刻す。作名を時太郎可候と云り。(竜田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』慶応四年)
○河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』三幕目 新吉原丁字屋の場 安政七年1860
剣術使いの侍に化けた長次と修験者に化けた熊蔵がうその喧嘩をし、百姓に化けた金太が廻りの者から紙入れや煙草入れを掏り取るが、その筋立てを考えたお坊吉三が金を独り占めにして逃げ去る。三人はお坊吉三の居場所をつきとめ、新吉原丁字屋の花魁吉野の部屋に押しかけ、割り前をよこせと騒ぐところでのお坊吉三の科白
元はれつきとした扶持人、お乳母日傘でそやされた、お坊育ちのわんぱくが異名になった此吉三、悪い事なら親譲り見よう三升(みます)に一年増し、其御贔屓を笠に着て、形(なり)より肝が大きくなり、怖いとふ事しらねえ己(おれ)だ、
いずれも裕福な環境に育ったことを意味しています。『竈将軍勘略巻』のケースでは「ちりちりになりけれバ」とあって、二人や三人でないことを示しています。
前に掲げた延宝四年の「祇園社額」について「史料通信協会叢誌第四編」は次のように云っています。
此小児にさしかけたる日傘ハ、古へ乳母を持ちたるほどの者ハ必す小児に此の如き日傘をさしかけさせし也。是をお乳母日傘といふ。画く所を見るに多くハ惣地をぬり、好む處の絵をかきたり。寛永の頃の絵より見へたり。
此日傘、享保の頃まてありと見えて、西川裕信か千代見草にも見えたり。
また岩瀬醒(山東京伝)は考証随筆『骨董集』上編下之巻前(文化十二年1815)に、上に掲げた画を載せて次のように書いています。
お乳母日傘といふ諺
今の世、いやしき者の人にほこるに、お乳母日傘にてそだちたる者ぞといふ諺あり。昔は乳母をめしつかふほどのしかるべき者の児には、日傘をさしかけさせたるゆゑにさはいふめり。そのからかさは、丹青もてさまざまの絵をかきしなり。ことに菱川が絵におほく見えて、延宝、天和、貞享の比もはらもちひたり。これ近き世までもありしが、今はたえて諺にのみのこれり。
京伝によれば、「お乳母日傘」は「いやしき者」が人に誇る時に使う言葉であり、小児に日傘を差し掛ける習俗は文化期には既に絶えていて、言葉だけになっている、ということになります。
日傘については、
日傘ふるくは日でりがさといへり。「舞のさうし」さがみ川に、「大将殿〔割註〕頼朝をいふなり。」其日の御しやうぞくは、木賊色の狩衣、風にたほめる立えぼし、足毛の御馬にしろぐらおかせ、御身いうにぞめされける。御馬ぞへには五郎丸、もえぎにほひの腹巻、こがね作りの太刀をはき、君をしゆごしたてまつる。日でりがさの御役は大膳の大夫のちやくし云々」と見えたり。「舞のさうし」は、室町家の頃の作なれば、日でりがさといふ事ふるし。さて是を下々にもちふるは、小児にさしかくるが初にて、婦人の青傘は又それより後のものなり。〔割註〕青傘の事下にあり。」寛永の頃より元禄の頃迄の古画を見るに、彼小児へさしかくる日傘に、鶴亀松竹のたぐひの絵をかけり。紋所をつけたるもまれにあり。(柳亭種彦『足薪翁記』 種彦は寛政八年1796歿)
日傘は古来より有とみゆ。小児日傘も天和頃より下る。地にても作る。五色の彩色したるもの也。青紙のあつらへ也。藍紙にて一色に染めたるも有。近来、大人もさす。僧医者の類ひ、上方にては前々より有由。
△日傘は婦人に限るべき歟。髪のそこねるをいとへば也。僧医のたぐひは、冠傘を用ても可ならんものを。
寛保(1741~43)の比よりさす日傘、皆青紙張也。また小児、山王、八幡、明神、天王の祭礼にねり子供さす傘は皆、丹染一色也。他人さして子供を覆ふゆへ、柄長し。のきには鈴、または絹をはり、内には絵守り、ふくろ等をつける。△此餘風、今祭礼に残るもの歟。 (加藤曳尾庵『我衣』巻一上)
巻一上は寛政頃曳尾庵が購入した古写本からの抄出で、△は曳尾庵のコメントでしょう。
寛永ころの絵に、小児の傘さまざまの紋かきたるに、護身(マモリ)また絹ぎれをさげたるは、今も神祭に出る子供にさしかくる傘は、筒まもりをさげて縁に絹を付る。これ古躰也。むかしの祭礼図に、筒まもり・服紗・扇などを風流(フリウ)に付たるもみゆ(風流傘は『文永加茂祭の古画』にみゆ。もと此遺風か)。(以下略)(喜多村筠庭『嬉遊笑覧』巻之二上 文政十三年1830(天保元年)自序)
これらによれば、
下々のものが日傘を使うようになったのは小児用が初めで、後に女性が使い
始めた。
小児用の日傘には、昔はお守りを付けたり絵を描いていた。
小児に日傘を差し掛けることは、当時は絶えていて、その余風が祭礼に残って
いる。
ということになります。
「お乳母日傘」の日傘は直射日光を避けるためだけのものではなく、お守りを付けたり絵を描いたりすることで魔除けの働きをしたもののようです。
今日でも祭礼にでる稚児に、お守りなどは付いていませんが長柄の日傘を差し掛ける神社もあります。下に載せる写真は香取神宮の御田植祭のものです。
最後に「お乳母日傘」の読み方について
『デジタル大辞泉』は「この句の場合、『乳母』を『うば』と読むのは誤り。」と断言していますが、京伝は天明七年1787刊の洒落本『通言総籬』では「乳母日傘」に「おんはひからかさ」と振り仮名を付け、文化十二年1815刊の考証随筆『骨董集』では「お乳母日傘」の「乳母日傘」に「うバひがらかさ」と振り仮名を付けています。どういう意図によるのかは分かりませんが、元々「乳母」は「うば」であり、「お」を付けて「お乳母」になると「おんば」と発音するのであって、『江戸語の辞典』にあるように
日常語としては「おんばひがらかさ」という。
の方が穏当のように思います。
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