落語の中の言葉・番外10「天水桶ー再び」下
⑤について
92「火の用心」続では「水溜桶についてはその後も繁々桶の数、水切れ、青みがでないよう汲替、凍結防止などの町触が出されている。」としただけで史料は示しませんでしたので、以下に掲げます。
寛政九巳年1797
水溜桶之儀、氷候而火事之節不都合之趣も有之候旨、御沙汰有之候間、手当可申合旨、樽与左衛門殿御申聞有之候ニ付、町々入念、別而桶損候分取替、蓋等何様ニも手当致置、時々心付、先達之通町内改番相立、取調無怠懈致候様、町々江御申渡可被成候
(中略)
右之通向町年番中ゟ申来候旨、年番通達
十一月廿九日 (『江戸町触集成』第十巻)
寛政九巳年1797
水溜桶并天水桶水ため、左之通手当可致
酒のしたみ
酒のかす
しほ并塩菰之類
右之通取計、屋根上江上候分ハ別而蓋致可置候、此間巣鴨出火之節天水桶水無之、此上何分水不絶入、氷不申様、勿論日影之所も格別入念手当可致旨、樽与左衛門殿被申渡候間、右両様御達申候、以上
十二月八日 肝 煎 (同書)
嘉永五子年1852
水溜桶之義不絶水汲入候義は不及申、青み浮等無之様、各様御組合限精々御心付可被成旨、兼而御達申置候処、此節場所ニ寄水溜桶水汲入不申、青み浮等有之侭差置候処も相見へ候間、御組合限各様御見廻り被成、急速水入替候様御申付可被成候、尤非常御掛り様ニも、一両日之内御見廻り御沙汰も有之候間、不行届之場所御察斗有之候而は不宜候ニ付、精々御心付御取計可被成候、此段御達申候、以上
四月十三日 小口非常掛 (『江戸町触集成』第十六巻)
雨水を溜めるためには屋根など広い面積で受けた雨を集めることが必要ですが、江戸の民家に雨樋があったものか、あったにしてもどれ程普及していたのかは不明です。少なくとも絵画資料にはそれらしき仕掛けを見ることはできません。又、蓋などをしていますから雨水を溜めるものではなく、井戸から水を汲み込むものであったと思っています。
ところで「天水桶」という言葉は町触以外はほとんど見ていません。『宝暦現来集』と『守貞謾稿』の他は洒落本に時々見掛けるだけで、それも今のところ、『ものはなし』、『蕩子筌枉解』、『初葉南志』、『傾城蜂牛伝』の四件だけです。
ぶらぶら大音寺あたり迄行て。天水桶のある屋根が見へるともなし。俄に足が早くなる。云々 (蚓候『ものはなし』宝暦六年1756跋)
鞏路感懐 ある屋しきもの遠のりに行、かへりに三谷のほそみちより土手へきたる、天水おけがみゆるともふかんにんならぬていをつくる (茶釜散人『蕩子筌枉解』明和七年1770刊)
土手から見えるのですから屋根上の水桶です。
是は何共合点の行ぬものかな、マツ旅宿辺に土手の有しさたを聞ず又やねに天水桶のあるをみず、さつする所カノ吉原ならめとつぶやくうち、云々 (魚京『初葉南志』安永九年1780序)
はつ秋の七日は牽牛織女の二星を祭る中にも東武北方に青楼あり、其中は殊更陰陽和合にして二星のあわれみ深く、好イ客に馴染んて浮ばんと信をなし、天水桶のあたりへ五色の短冊梶の葉に、連理のむつことをさゝけ居る、云々 (花鳥山人『傾城蜂牛伝』天明三年1783)
江戸の七夕は屋根に竹を立てました。
『東都歳事記』七月六日の条
「 六日 今朝未明より、毎家屋上に短冊竹を立つること繁く、市中には工を尽くしていろいろの作り物をこしらへ、竹とともに高く出だして人の見ものとすること、近年のならはしなり。」
東都歳事記「武城七夕」
石山秀和「初秋の風物詩 今に伝える」『年中行事を体験する』
「織女星の異名は梶の葉姫ともいう。古くはサトイモの葉にたまった朝露で墨をすり、七枚の梶の葉に歌を書いて織女星を祭った。」
梶の葉越に月を見る天の川 誹風柳多留七六
梶の葉に四五まいまぢる御直筆 誹風柳多留八七
以上すべて新吉原の屋根上の水桶です。天水桶は新吉原の一大特徴ようになっていたらしく思われます。享保以来瓦葺きが奨励され、江戸の中心部の表店はほとんど瓦葺きになったなかで、新吉原は柿葺であったため、天水桶が屋根の上に並んでいたからです。『江戸名所図会』には屋根の上を描いた挿絵が多くありますが、ほとんど天水桶は描かれていません。新吉原だけは夥しい数の天水桶が描かれています。
江戸名所図会「掘留」
江戸名所図会「新吉原」
古山師政「新吉原大門雪景色」元禄1688-1703頃
その理由は、どういうわけか新吉原は柿葺が強制されていたからです。
一、屋根之儀は、柿葺大屋根にて、別而、火事之節は不宜候間、古来、都而家作三間梁より大く致間敷候御定に付、当時有来之分は、是又普請之節、三間梁に限可申候、 (『新吉原町定書』寛政七年1795)
最後に天水桶と水溜桶の画をいくつか掲げます。
天水桶と水溜桶 国貞「新板江戸名所八景一覧」文化六年1809
国貞「北廓月の夜桜」天保四年1833頃
広重 江戸名所百景「猿わか町よるの景」安政三年1856
「熈代勝覧」文化二年1805頃?
「今川橋」『江戸名所図会』巻之一 天保五年1834
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92「火の用心」続では「水溜桶についてはその後も繁々桶の数、水切れ、青みがでないよう汲替、凍結防止などの町触が出されている。」としただけで史料は示しませんでしたので、以下に掲げます。
寛政九巳年1797
水溜桶之儀、氷候而火事之節不都合之趣も有之候旨、御沙汰有之候間、手当可申合旨、樽与左衛門殿御申聞有之候ニ付、町々入念、別而桶損候分取替、蓋等何様ニも手当致置、時々心付、先達之通町内改番相立、取調無怠懈致候様、町々江御申渡可被成候
(中略)
右之通向町年番中ゟ申来候旨、年番通達
十一月廿九日 (『江戸町触集成』第十巻)
寛政九巳年1797
水溜桶并天水桶水ため、左之通手当可致
酒のしたみ
酒のかす
しほ并塩菰之類
右之通取計、屋根上江上候分ハ別而蓋致可置候、此間巣鴨出火之節天水桶水無之、此上何分水不絶入、氷不申様、勿論日影之所も格別入念手当可致旨、樽与左衛門殿被申渡候間、右両様御達申候、以上
十二月八日 肝 煎 (同書)
嘉永五子年1852
水溜桶之義不絶水汲入候義は不及申、青み浮等無之様、各様御組合限精々御心付可被成旨、兼而御達申置候処、此節場所ニ寄水溜桶水汲入不申、青み浮等有之侭差置候処も相見へ候間、御組合限各様御見廻り被成、急速水入替候様御申付可被成候、尤非常御掛り様ニも、一両日之内御見廻り御沙汰も有之候間、不行届之場所御察斗有之候而は不宜候ニ付、精々御心付御取計可被成候、此段御達申候、以上
四月十三日 小口非常掛 (『江戸町触集成』第十六巻)
雨水を溜めるためには屋根など広い面積で受けた雨を集めることが必要ですが、江戸の民家に雨樋があったものか、あったにしてもどれ程普及していたのかは不明です。少なくとも絵画資料にはそれらしき仕掛けを見ることはできません。又、蓋などをしていますから雨水を溜めるものではなく、井戸から水を汲み込むものであったと思っています。
ところで「天水桶」という言葉は町触以外はほとんど見ていません。『宝暦現来集』と『守貞謾稿』の他は洒落本に時々見掛けるだけで、それも今のところ、『ものはなし』、『蕩子筌枉解』、『初葉南志』、『傾城蜂牛伝』の四件だけです。
ぶらぶら大音寺あたり迄行て。天水桶のある屋根が見へるともなし。俄に足が早くなる。云々 (蚓候『ものはなし』宝暦六年1756跋)
鞏路感懐 ある屋しきもの遠のりに行、かへりに三谷のほそみちより土手へきたる、天水おけがみゆるともふかんにんならぬていをつくる (茶釜散人『蕩子筌枉解』明和七年1770刊)
土手から見えるのですから屋根上の水桶です。
是は何共合点の行ぬものかな、マツ旅宿辺に土手の有しさたを聞ず又やねに天水桶のあるをみず、さつする所カノ吉原ならめとつぶやくうち、云々 (魚京『初葉南志』安永九年1780序)
はつ秋の七日は牽牛織女の二星を祭る中にも東武北方に青楼あり、其中は殊更陰陽和合にして二星のあわれみ深く、好イ客に馴染んて浮ばんと信をなし、天水桶のあたりへ五色の短冊梶の葉に、連理のむつことをさゝけ居る、云々 (花鳥山人『傾城蜂牛伝』天明三年1783)
江戸の七夕は屋根に竹を立てました。
『東都歳事記』七月六日の条
「 六日 今朝未明より、毎家屋上に短冊竹を立つること繁く、市中には工を尽くしていろいろの作り物をこしらへ、竹とともに高く出だして人の見ものとすること、近年のならはしなり。」
東都歳事記「武城七夕」
石山秀和「初秋の風物詩 今に伝える」『年中行事を体験する』
「織女星の異名は梶の葉姫ともいう。古くはサトイモの葉にたまった朝露で墨をすり、七枚の梶の葉に歌を書いて織女星を祭った。」
梶の葉越に月を見る天の川 誹風柳多留七六
梶の葉に四五まいまぢる御直筆 誹風柳多留八七
以上すべて新吉原の屋根上の水桶です。天水桶は新吉原の一大特徴ようになっていたらしく思われます。享保以来瓦葺きが奨励され、江戸の中心部の表店はほとんど瓦葺きになったなかで、新吉原は柿葺であったため、天水桶が屋根の上に並んでいたからです。『江戸名所図会』には屋根の上を描いた挿絵が多くありますが、ほとんど天水桶は描かれていません。新吉原だけは夥しい数の天水桶が描かれています。
江戸名所図会「掘留」
江戸名所図会「新吉原」
古山師政「新吉原大門雪景色」元禄1688-1703頃
その理由は、どういうわけか新吉原は柿葺が強制されていたからです。
一、屋根之儀は、柿葺大屋根にて、別而、火事之節は不宜候間、古来、都而家作三間梁より大く致間敷候御定に付、当時有来之分は、是又普請之節、三間梁に限可申候、 (『新吉原町定書』寛政七年1795)
最後に天水桶と水溜桶の画をいくつか掲げます。
天水桶と水溜桶 国貞「新板江戸名所八景一覧」文化六年1809
国貞「北廓月の夜桜」天保四年1833頃
広重 江戸名所百景「猿わか町よるの景」安政三年1856
「熈代勝覧」文化二年1805頃?
「今川橋」『江戸名所図会』巻之一 天保五年1834
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