落語の中の言葉・番外10「天水桶ー再び」上
「天水桶」については、92「火の用心」続 の中で採りあげました。今日では一般に、「天水桶」とは、防火のために天水すなわち雨水を溜めておく桶の意味になっています。前田勇編『江戸語の辞典』でも「雨水を溜めておいて消火用にする桶」となっています。しかし、江戸では、「天水桶」は「天水(雨水)」+「桶」ではなく、屋根に設けた窓を天窓というのと同様に、「天」+「水桶」で、屋根上に置く水桶のことと思われると述べました。資料をあまり示しませんでしたので、以下に掲げるとともに、この点に絞って少し補足します。なお一部重複するところもあります。長くなりますので上下に分けます。
江戸の「天水桶」をそのように考える理由をまとめると次のようになります。
①町名主も町年寄もそう考えていること
②「水溜桶」はすべての町が備えなければならなかったのに対し、
天水桶は瓦葺きでないところだけが設置を命じられていたこと
③「天水桶」を「屋根上之水溜桶」等と、しばしば呼んでいること
④地上に置く「水溜桶」を「天水桶」と呼ぶ例はわずかしかないこと
⑤雨水を集めることに関するものが皆無であること
①②について
宝暦五亥年1755二月に出された町触は、次の通りです。
風烈之節、町中火之用心之儀、家持ハ不及申借屋店かり裏々迄、月行事自身相廻り急度可申付旨、并常々天水桶水溜桶ニ水を入置、風烈之節ハ往還江も節々水を打、芥不立様ニ可仕旨、先年相触候所、近年狼ニ相成、天水桶水溜桶不差置場所も間々相見え候間、冬春之内ハ別而入念、先年之通可相守候
附、瓦葺ニ而無之場所ハ、猶以右之趣急度可相守候
亥二月
この町触について、年番名主と「本町より両国橋迄御成御道筋之町々」名主から町年寄奈良屋市右衛門へ書付が差し出されました。瓦葺きの所は天水桶の設置が難しく、庇物干等に設置するためには作り直しが必要になるため、「天水桶」の代わりに「水溜桶」の数を増すことにしたいというものです。この伺書はとても長いため一部を抜き出して紹介します。
一(天水桶之儀)瓦葺之場所は枠台等之堅メ難致、万一風烈地震之節、危儀も御座候而ハ如何ニ奉存候ニ付、左様之所ハ、庇物干等ニ見計差置候様ニ仕度、先達而奉伺候、然所御成御道筋之儀、屋根ニ差置候而ハ御目障ニ罷成候ニ付、只今迄少之物ニ而も取払候様仕来候、然ル上ハ、庇等ニ差置候而も危奉存候ニ付、有来庇取崩、下地より新規ニ仕直、請鉄物等仕付、其上枠台等取付差置不申候ハ而ハ難持奉存候得共、(中略)新ニ家作仕直申候儀、町人共難儀之躰ニ御座候ニ付、(中略)
先達而四斗樽ニ水入、凡六拾間一町之内、拾五程も平均ニ差置申候所、此度御伺申上候ハ、自今五間隔ニ水溜壱ツ宛差置、一町ニ弐拾四五宛も差置、六拾間多少之分ハ右之数ニ準、急度差置候様仕候ハヽ、水手宜方ニも可有御座哉、右之段今日御成御道筋名主共も打寄、相談仕候上、存寄申上候、以上
亥四月十四日 年番名主共
これに対し町年寄奈良屋は次のように申し渡しています。
同月廿八日
奈良屋市右衛門殿江年番名主被呼、右伺之儀、瓦葺之所ハ天水桶之代りニ水溜桶数を増、六拾間一町之積ニ而片側ニ拾五ツヽ壱町ニ三拾宛差置可申、尤長短之町々ハ右ニ準差置可申、柿葺茅葺之所ハ、天水桶差置可申旨被仰渡候段、被申渡候 (『江戸町触集成』第五巻)
町触には毎年決まった時期に出される定例的のものも多く、火の用心に関するものもその一つです。江戸では冬から春にかけてが火事のシーズンで、毎年出されます。又雨が長期間降らなかったり、強風が吹いた時にはその都度触れが出されます。次にあげるのは後者で、水を溜めておく容器としては、手桶・水溜桶・天水桶の三つが使われています。
延宝七年1679
一風つよく吹候間、町中火之用心之儀、月行持自身裏々迄廻り、念を入可申付候、尤其町々天水桶水溜桶手桶ニ水を入置可申候、勿論中番辻番之者共、切々火之用心之儀相触候様急度可申付候、右之通御番所ゟ被仰付候間、少も油断有間敷候、以上
二月四日 町年寄三人 (『江戸町触集成』第一巻)
「御番所」とは町奉行所のことです。
以上でわかるように、水溜桶と天水桶は別物です。
③について
例として、寛政元酉年1789のものを「火の用心」続であげましたので、天保十五辰年1844十月の分を紹介します。
南北小口年番名主共
当年は火事沙汰も薄く候得共、御本丸御普請中ニ付火之元之儀別段厳敷申渡置候処、町々水溜桶之儀猥ニ相成、中ニは水汲入置不申も有之様子相聞候、先前相触候通、壱町毎ニ間(ママ)配家前ニ差置、瓦葺ニ無之家根上之水溜桶は飛火火之粉防ニ付時々相改、水不減様町役人は勿論、其家々之者無油断可心掛
一水溜桶は町銘札記候儀は勿論、町々心得ヲ以是迄町銘札木戸江差出候分も相見え候処、以来は右之通一般ニ町々有来とも町銘記可差出、尤小町に而境目入会之分は紛敷間、記候義無用ニ可致候
右之通被仰渡奉畏候、組々并番外迄早々行届候様可仕候、為後日仍如件
(天保十五年)辰十月十六日
南北小口年番名主印
右之通能登守様御番所仁杉八右衛門殿原善左衛門殿御立会ニ而被仰渡候旨、年番通達 (『江戸町触集成』第十五巻)
そのほか「水溜桶并家根上天水桶」、「柿葺屋根上天水桶」という言葉も使われています。
④について
わずかしか見ていませんが、その中で地上の「水溜桶」を「天水桶」と呼んでいる例が五つあります。
(1)山田桂翁『宝暦現来集』天保二年1831にある記載で
寛政七年なるが、町方天水桶へ、町名の札を打事始けり、
です。
寛政七卯年1795の町触で町名を付けることを命じたのは「水溜桶」であって、「天水桶」ではありません。
一町々水溜桶江町銘可書ハ勿論、何町目と申迄書記可申候、且壱丁限家主之内順番を立、毎月縦令は一六と歟其町内申合、何レニも六度程定而見廻、桶損候ハヽ為繕、水不足ハ為汲入可申候
但、桶墨塗ハ白、きしハ墨にて町名可書、縄巻菰莚ニ而包候ハ板江町銘書記、相附置可申候
右ハ御見廻方被差出候砌、未熟之場所ハ相分、且他国もの江町銘知安く弁利ニも相成候ニ付、先月廿七日御内寄合ニ而被仰渡候旨、樽与左衛門殿被申渡候
右ハ来十五日迄ニ相揃可申候、右否甚四郎方江可被仰聞候
十一月朔日 肝 煎 (『江戸町触集成』第十巻)
(2)天保十年に町年寄喜多村が水溜桶に町銘を書記する件を口頭で申渡した際のものです。町名を付けるのは「水溜桶」だけで「天水桶」には付けません。
天保十亥年1839
演説
組々世話掛
名主共
町々天水桶江町銘書記置可申旨、先年申渡置候所、損候分等書改候町々も有之候得共、中ニは等閑ニ相成、町銘不相見町々も有之候間、早々書改、壱町毎ニ三四ヶ所宛差出置候様可申通候事
右は依御奉行所御沙汰申渡候
亥七月
右之通被仰渡奉畏候、為御請御帳江印形仕置候、以上
天保十亥年七月十七日
組々世話掛惣代
呉服町
名主 三郎右衛門
右喜多村彦右衛門殿ニ而被申渡 (『江戸町触集成』第十三巻)
(3)天保十三年に定例の火の用心を町年寄樽藤左衛門から申渡された年番名主たちが申合せた項目のなかに
天水桶水不絶様可致事
但、屋根上右同断
とあるものです。ここに云う「天水桶」は水溜桶のことです。この時の町触自体はに以下の通り「水溜桶」となっています。
天保十三寅年1842
前々も相触候通、風烈之節町中火之用心之儀、家持は不及申借家店借裏々迄月行事自身見廻り、急度可申付候、并先達而申付置候通、水溜桶ニ水を入所々ニ差置、風烈之節は往還江も水を打、こみ不立様可仕候、水溜桶之儀は出火有之節之ためニ候間、所々江差置、無懈怠冬春之内別而入念可相触候
但、瓦葺ニ無之場所は猶以右之趣可相守候
右之通町御奉行所ゟ被仰渡候間、町中不残可相触候
十月廿八日 町年寄役所 (『江戸町触集成』第十四巻)
(4)『守貞謾稿』巻二十二
守貞は天保十一年1840に江戸へ来る。『守貞謾稿』は嘉永六年1853に編集
たそや行燈 ある人曰く、「たそやあんどう」は「たそがれあんどう」の訛言なり。
元吉原町にありし時より、毎院の戸前にこれを建つ。今の新吉原町に遷りにて、またこれを廃さず、今に至りて江戸町および以下妓館ごとに、戸前往来の正中にこの行燈一基と天水桶上に手桶十ばかり積みたるとを必ずこれを置く。(以下略)
(5)『守貞謾稿』巻三十
守貞云ふ、前に云へる下方下駄、今も江戸新和泉町、俗に三光新道と[云ふ]所に、小さき土蔵に板の雨除を作り、夫婦暮らしの下駄工あり。今は下方の書を改め、天水桶に下宝と記せり。今も柾目の精製上品をのみ作る。(以下略)
あるいは、天保頃から「水溜桶」と「天水桶」を混同することが始まったのでしょうか。今のところ、この五例以外は知りません。町触関係では幕末に至る迄、「水溜桶」と「天水桶」はしっかり区別されています。
嘉永五子年1852
一町々水溜桶数間数ニ応し並能差出、右水汲替、寒気強水氷候ハヽ砕き取捨候 跡、足水いたし可申候
一裏家路次之余有之分ハ水溜桶差置、余地無之共雪隠芥溜等之場所は少々余地 可有之候間、水溜桶差置可申、又裏家柿之分天水桶数多上ヶ置可申候
右は支配名主見廻り、裏之分も心付、情々行渡候様可致旨御沙汰有之候間、御組合限り急速御達可被成候、以上
十月十日 小口非常掛 (『江戸町触集成』第十六巻)
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江戸の「天水桶」をそのように考える理由をまとめると次のようになります。
①町名主も町年寄もそう考えていること
②「水溜桶」はすべての町が備えなければならなかったのに対し、
天水桶は瓦葺きでないところだけが設置を命じられていたこと
③「天水桶」を「屋根上之水溜桶」等と、しばしば呼んでいること
④地上に置く「水溜桶」を「天水桶」と呼ぶ例はわずかしかないこと
⑤雨水を集めることに関するものが皆無であること
①②について
宝暦五亥年1755二月に出された町触は、次の通りです。
風烈之節、町中火之用心之儀、家持ハ不及申借屋店かり裏々迄、月行事自身相廻り急度可申付旨、并常々天水桶水溜桶ニ水を入置、風烈之節ハ往還江も節々水を打、芥不立様ニ可仕旨、先年相触候所、近年狼ニ相成、天水桶水溜桶不差置場所も間々相見え候間、冬春之内ハ別而入念、先年之通可相守候
附、瓦葺ニ而無之場所ハ、猶以右之趣急度可相守候
亥二月
この町触について、年番名主と「本町より両国橋迄御成御道筋之町々」名主から町年寄奈良屋市右衛門へ書付が差し出されました。瓦葺きの所は天水桶の設置が難しく、庇物干等に設置するためには作り直しが必要になるため、「天水桶」の代わりに「水溜桶」の数を増すことにしたいというものです。この伺書はとても長いため一部を抜き出して紹介します。
一(天水桶之儀)瓦葺之場所は枠台等之堅メ難致、万一風烈地震之節、危儀も御座候而ハ如何ニ奉存候ニ付、左様之所ハ、庇物干等ニ見計差置候様ニ仕度、先達而奉伺候、然所御成御道筋之儀、屋根ニ差置候而ハ御目障ニ罷成候ニ付、只今迄少之物ニ而も取払候様仕来候、然ル上ハ、庇等ニ差置候而も危奉存候ニ付、有来庇取崩、下地より新規ニ仕直、請鉄物等仕付、其上枠台等取付差置不申候ハ而ハ難持奉存候得共、(中略)新ニ家作仕直申候儀、町人共難儀之躰ニ御座候ニ付、(中略)
先達而四斗樽ニ水入、凡六拾間一町之内、拾五程も平均ニ差置申候所、此度御伺申上候ハ、自今五間隔ニ水溜壱ツ宛差置、一町ニ弐拾四五宛も差置、六拾間多少之分ハ右之数ニ準、急度差置候様仕候ハヽ、水手宜方ニも可有御座哉、右之段今日御成御道筋名主共も打寄、相談仕候上、存寄申上候、以上
亥四月十四日 年番名主共
これに対し町年寄奈良屋は次のように申し渡しています。
同月廿八日
奈良屋市右衛門殿江年番名主被呼、右伺之儀、瓦葺之所ハ天水桶之代りニ水溜桶数を増、六拾間一町之積ニ而片側ニ拾五ツヽ壱町ニ三拾宛差置可申、尤長短之町々ハ右ニ準差置可申、柿葺茅葺之所ハ、天水桶差置可申旨被仰渡候段、被申渡候 (『江戸町触集成』第五巻)
町触には毎年決まった時期に出される定例的のものも多く、火の用心に関するものもその一つです。江戸では冬から春にかけてが火事のシーズンで、毎年出されます。又雨が長期間降らなかったり、強風が吹いた時にはその都度触れが出されます。次にあげるのは後者で、水を溜めておく容器としては、手桶・水溜桶・天水桶の三つが使われています。
延宝七年1679
一風つよく吹候間、町中火之用心之儀、月行持自身裏々迄廻り、念を入可申付候、尤其町々天水桶水溜桶手桶ニ水を入置可申候、勿論中番辻番之者共、切々火之用心之儀相触候様急度可申付候、右之通御番所ゟ被仰付候間、少も油断有間敷候、以上
二月四日 町年寄三人 (『江戸町触集成』第一巻)
「御番所」とは町奉行所のことです。
以上でわかるように、水溜桶と天水桶は別物です。
③について
例として、寛政元酉年1789のものを「火の用心」続であげましたので、天保十五辰年1844十月の分を紹介します。
南北小口年番名主共
当年は火事沙汰も薄く候得共、御本丸御普請中ニ付火之元之儀別段厳敷申渡置候処、町々水溜桶之儀猥ニ相成、中ニは水汲入置不申も有之様子相聞候、先前相触候通、壱町毎ニ間(ママ)配家前ニ差置、瓦葺ニ無之家根上之水溜桶は飛火火之粉防ニ付時々相改、水不減様町役人は勿論、其家々之者無油断可心掛
一水溜桶は町銘札記候儀は勿論、町々心得ヲ以是迄町銘札木戸江差出候分も相見え候処、以来は右之通一般ニ町々有来とも町銘記可差出、尤小町に而境目入会之分は紛敷間、記候義無用ニ可致候
右之通被仰渡奉畏候、組々并番外迄早々行届候様可仕候、為後日仍如件
(天保十五年)辰十月十六日
南北小口年番名主印
右之通能登守様御番所仁杉八右衛門殿原善左衛門殿御立会ニ而被仰渡候旨、年番通達 (『江戸町触集成』第十五巻)
そのほか「水溜桶并家根上天水桶」、「柿葺屋根上天水桶」という言葉も使われています。
④について
わずかしか見ていませんが、その中で地上の「水溜桶」を「天水桶」と呼んでいる例が五つあります。
(1)山田桂翁『宝暦現来集』天保二年1831にある記載で
寛政七年なるが、町方天水桶へ、町名の札を打事始けり、
です。
寛政七卯年1795の町触で町名を付けることを命じたのは「水溜桶」であって、「天水桶」ではありません。
一町々水溜桶江町銘可書ハ勿論、何町目と申迄書記可申候、且壱丁限家主之内順番を立、毎月縦令は一六と歟其町内申合、何レニも六度程定而見廻、桶損候ハヽ為繕、水不足ハ為汲入可申候
但、桶墨塗ハ白、きしハ墨にて町名可書、縄巻菰莚ニ而包候ハ板江町銘書記、相附置可申候
右ハ御見廻方被差出候砌、未熟之場所ハ相分、且他国もの江町銘知安く弁利ニも相成候ニ付、先月廿七日御内寄合ニ而被仰渡候旨、樽与左衛門殿被申渡候
右ハ来十五日迄ニ相揃可申候、右否甚四郎方江可被仰聞候
十一月朔日 肝 煎 (『江戸町触集成』第十巻)
(2)天保十年に町年寄喜多村が水溜桶に町銘を書記する件を口頭で申渡した際のものです。町名を付けるのは「水溜桶」だけで「天水桶」には付けません。
天保十亥年1839
演説
組々世話掛
名主共
町々天水桶江町銘書記置可申旨、先年申渡置候所、損候分等書改候町々も有之候得共、中ニは等閑ニ相成、町銘不相見町々も有之候間、早々書改、壱町毎ニ三四ヶ所宛差出置候様可申通候事
右は依御奉行所御沙汰申渡候
亥七月
右之通被仰渡奉畏候、為御請御帳江印形仕置候、以上
天保十亥年七月十七日
組々世話掛惣代
呉服町
名主 三郎右衛門
右喜多村彦右衛門殿ニ而被申渡 (『江戸町触集成』第十三巻)
(3)天保十三年に定例の火の用心を町年寄樽藤左衛門から申渡された年番名主たちが申合せた項目のなかに
天水桶水不絶様可致事
但、屋根上右同断
とあるものです。ここに云う「天水桶」は水溜桶のことです。この時の町触自体はに以下の通り「水溜桶」となっています。
天保十三寅年1842
前々も相触候通、風烈之節町中火之用心之儀、家持は不及申借家店借裏々迄月行事自身見廻り、急度可申付候、并先達而申付置候通、水溜桶ニ水を入所々ニ差置、風烈之節は往還江も水を打、こみ不立様可仕候、水溜桶之儀は出火有之節之ためニ候間、所々江差置、無懈怠冬春之内別而入念可相触候
但、瓦葺ニ無之場所は猶以右之趣可相守候
右之通町御奉行所ゟ被仰渡候間、町中不残可相触候
十月廿八日 町年寄役所 (『江戸町触集成』第十四巻)
(4)『守貞謾稿』巻二十二
守貞は天保十一年1840に江戸へ来る。『守貞謾稿』は嘉永六年1853に編集
たそや行燈 ある人曰く、「たそやあんどう」は「たそがれあんどう」の訛言なり。
元吉原町にありし時より、毎院の戸前にこれを建つ。今の新吉原町に遷りにて、またこれを廃さず、今に至りて江戸町および以下妓館ごとに、戸前往来の正中にこの行燈一基と天水桶上に手桶十ばかり積みたるとを必ずこれを置く。(以下略)
(5)『守貞謾稿』巻三十
守貞云ふ、前に云へる下方下駄、今も江戸新和泉町、俗に三光新道と[云ふ]所に、小さき土蔵に板の雨除を作り、夫婦暮らしの下駄工あり。今は下方の書を改め、天水桶に下宝と記せり。今も柾目の精製上品をのみ作る。(以下略)
あるいは、天保頃から「水溜桶」と「天水桶」を混同することが始まったのでしょうか。今のところ、この五例以外は知りません。町触関係では幕末に至る迄、「水溜桶」と「天水桶」はしっかり区別されています。
嘉永五子年1852
一町々水溜桶数間数ニ応し並能差出、右水汲替、寒気強水氷候ハヽ砕き取捨候 跡、足水いたし可申候
一裏家路次之余有之分ハ水溜桶差置、余地無之共雪隠芥溜等之場所は少々余地 可有之候間、水溜桶差置可申、又裏家柿之分天水桶数多上ヶ置可申候
右は支配名主見廻り、裏之分も心付、情々行渡候様可致旨御沙汰有之候間、御組合限り急速御達可被成候、以上
十月十日 小口非常掛 (『江戸町触集成』第十六巻)
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