落語の中の言葉249「丁子風呂」

     古今亭志ん生「因果塚の由来(お若伊之助)」より

 咄の中に「丁子風呂」という言葉が出てきます。頭と伊之助は新吉原の姿海老屋で飲み明かし、朝、大門を出て丁子風呂に入って別れたとあります。「丁子風呂」は薬湯の一つです。江戸には普通の湯屋(銭湯・洗湯)のほかに薬湯がありました。薬湯には温泉系と薬種系があります。湯屋ほど多くはありませんがそれでもかなりの数ありました。また、さらに少数ですが蒸風呂(塩風呂、竈風呂とも云う)もあったようです。
 薬湯 京坂にても薬風呂と云はず。三都ともに薬湯と云ふなり。京坂の薬湯は薬種薬草を煮て病者の用とするなり。けだし三都ともに、病人にあらざるも、専らこれを好みて往々ここに浴す。あるひは平日もここに浴すもあり。
 三都ともに小浴槽を造り、垢磨り場・板間ともに銭湯より狭し。また三都ともに、天保前より湯屋株とは制外なり。また風呂やにてこれを兼ぬるもの大坂に多し。
(中略)
 江戸の薬湯は伊豆および箱根の諸温泉の湯を用ふ。温泉を四斗樽に納れ、船にてこれを漕すなり。これを小槽に入れて沸湯とす。けだし専ら二小槽を造り、一槽は熱く一槽は少しくぬるくわかすなり。また、槽外、板間の垢磨り場に小槽を造り、常の湯を蓄へ、浴者まづこれをもって全身をすゝぎ、しかる后に槽中に浴す。薬湯には必ず槽中に手巾および糠袋を入るゝことを禁ぜり。
 右の湯、かれは湯川原、これは伊豆の熱海など、その性に応じてこれに浴す。
 湯銭、多くは二十銭なり。箱根芦湯等は山上にありて費多きが故に湯銭三十二文なり。
 江戸の薬湯は小戸多し。薬湯は二階に上げず、銭筥の側にて菓子等を売る。また銭湯にこれを兼ぬることなし。
 江戸も薬湯は男女入込と云ひて槽を別にせず、今に至り混浴なり。
(中略)
 また丁子風呂と号して、いささか香ある湯を沸し十二文にて浴せしむ。愚按ずるに、これは銭湯に乏しく遠路なる所に多きかと見ゆ。薬湯を名として銭湯に代ふるものならん。(以下略) (『守貞謾稿』巻之二十五)

 守貞は薬種を入れた薬湯は銭湯の少ないところに多いように言っていますが、必ずしもそうではなかったようです。また薬湯は普通の銭湯よりも少数でしたがそれでもかなりの数ありました。
山室恭子氏は『大江戸商い白書』(2015年)のなかで、寛政八年1796六月北町奉行所与力三村吉兵衛上申書の内容として次のように書かれています。
樽屋の調査では、近年丁子湯・忍冬湯といった薬湯が増えて湯屋の営業を圧迫しているそうです。(中略)
昨年十一月の申請で湯屋がリストアップした江戸での薬湯は一一〇軒ほどありますが、場所は本町・両国・日本橋から芝口までのエリアに八四軒と偏っておりまして、云々

 また武田勝蔵『風呂と湯の話』(1967年)には次のようにあります。
江戸時代は、太平のためか、日本人に沐浴の習慣を植えつけた時で、この時代の都市には湯屋・風呂屋のほかに、営業用の薬湯が相当にあった。これは当時の医術が皇漢方によった時代ということにも関係がある。これは五木湯に類するもののほかに、湯花・鉱泉を利用したところもあった。
 薬湯と一般の町湯の割合を見ると、弘化三年(一八四六)の『品川宿々並地図』には、町湯五軒に対して一軒となっている。(以下略)

 一般の湯屋は開設するのに町奉行所等の許可を必要としました。
安政四巳年1857三月
町中ニ而新規湯屋渡世相初候節并所替之類共、何れも古来は月番之番所江願出、糺之上申付、其上言上帳附いたし来、既享和元以来は町年寄江願出、差図可請旨相触、文化度ゟ一旦組合仲間取極、自ら新規取建候類中絶致候得共、猶又去ル丑年(=天保十二年)組合停止相成候上は、外家業とは違、火之元取締ニも抱り候儀ニ付、其段新規ニ相初候類は奉行所江伺出可申筈之処、渡世勝手次第と而已心得、自侭ニ取建候故、既ニ及出入候も有之、品々混雑およひ不取締之趣相聞、右は畢竟先年之振合等年暦相立、町役人共初不弁之儀故と相聞候ニ付、是迄追々ニ取建候分は別段不及沙汰間、以来は享和度触置候通り、新規は勿論所替模様替共、逸々町年寄方江願出差図を請可申候、尤右之通相成候迚、株式仲間取極候抔と心得違いたし、自己之申合等いたし候儀は是又決而不相成、軒数増減は弥勝手次第之事ニ付、右之趣相心得、此上猥之儀無之様可致候
右之通町中不洩様可触知者也
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中不洩様入念早々可相触候
  三月廿三日          町年寄役所
                (『江戸町触集成』第十七巻)

 湯屋の株仲間が許可されたのは文化七年1810で、その時の株数は520でした。『守貞謾稿』によれば、天保の改革で株仲間が解散させられる前の株数は五百七十でした。
湯屋仲間番組発文化五辰年三月朔日北小田切土佐守様江惣代横山町三丁目柳屋銀蔵・米沢町壱丁目高橋屋次郎右衛門・本石町弐丁目芦川屋次郎兵衛願出、同七午年五月十八日御内寄合江南根岸肥前守様御立合ニ而右三人被召出、願之通被仰付、御府内湯屋十組と定ル
(以下明細略す)
  十組惣合五百二十株  (『洗湯手引草』嘉永四年1851)

 一方薬湯は許可不要だったようです。また守貞は薬湯は「今に至り混浴なり」と云っていますが町奉行所は禁止しています。
安政五午年1858七月
              南北小口年番名主
市中薬湯渡世之儀、文政三辰年風呂寸法等取極申渡置候趣も有之候処、近来追々猥ニ相成、男女入込ニ而深更迄も渡世致、又は薬湯之名目を以高直之湯銭受取、洗湯ニ紛敷類も有之候哉ニ相聞、火之元之為ニも不相成、既ニ先年吟味之上咎申付候儀も有之候処、右は畢竟洗湯とハ訳違、勝手ニ渡世相始候故、自然取締も崩候儀と相聞候ニ付、以来は文政度申渡置候通相守、男女弐タ風呂共差渡弐尺壱寸ニ弐尺六寸ニ致、尤男女両風呂ニ而は不相成、差別ヲ立、惣而紛敷儀無之様正路ニ渡世可致旨、名主支配限急度申付候様可致候
  午七月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、其旨相心得、薬湯渡世之者江申聞、心得違之儀無之様可致候
右之通被仰渡奉畏候、為御受御帳ニ印形仕置候、以上
  安政五午年八月朔日    南北小口年番
右之通樽藤左衛門殿ニ而被申渡候間、御支配限薬湯渡世之ものゟ請印取置候様年番通達、且又近頃洗湯渡世ゟ薬湯之もの相手取、数口出入有之候趣ニ付、此上出入不相成様精々可取計旨、別段被申渡候段達 (『江戸町触集成』第十七巻)

 最後に草紙に出て来る薬湯の例を三つ紹介します。
○朱楽菅江『大抵御覧』安永八年1779序
 三又新地を述べるところに
さて又こゝに薬湯あり名づけてあづま湯治といふ(中略)
そもそも此薬湯のはじまりは、先祖は楽調経といふ唐人医者、此湯をやたらに浴けれは百四十九才をたもつたり、今又長崎梅見まで段々家に伝来してこれを朝晩あびけれは、ことして九十八歳也、これを世上へ広めんと、とうとうこゝに風呂をしつらふ、保養湯は三匁、つぼ風呂といひ又浄清湯共いふ、薬方は
 ゑんじゆの枝 にれの枝 くはの枝
 もゝの枝 やなきの枝
又痛所持病には吾妻風呂にて浴するなり
   一名黄帝のうり家風呂ともいふ、尤上り湯なし
その薬方は
 霍香  大黄  芍薬  縮沙  川芍  甘草
 当帰  軽紛  莪木  薫陸  升麻  茯苓
 木香  良美  滑石  沈香  防風  檳榔子
 丁子  紅花  肉桂  人参小


○山東京伝『古契三娼』天明七年1787
 ある新道の女髪結(元深川の売女)の隣、元品川の飯盛
かべ一重隣は、丸竹のぶっつけ格子。張物の戸板に隠て見えねど、「相州箱根御薬湯、二度入廿四銅、四五度入四拾八銅。一ト廻り六十四銅」としるせし看板をかけ、四百四病のなをるしかけも、貧の病は請合れず、信濃の一ト季奉公人相手にしての夫婦暮し。

  これは湯の華を入れただけのもののように思われます。

○花月庵堀舟『夢の艪拍子』文化十五年1818
〔下女〕今日は市で湯はみんな休で御座ります、此横丁に薬湯が御座ります 〔幸〕いわうくさかアねいか、いろ男みじんおそれるの 〔女〕何薬湯の名代で実はたゞの湯で御座ります(中略)
そもそもこゝのうちは薬湯といふ名目にて、すへ風呂に布の袋をひたし、中ににんどうのせんじからしを入置しも言わけの為ならんか、尤湯殿もひろく風呂もなみより広く大きく、いたつて物きれいなり(以下略)


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