落語の中の言葉・番外「吉原遊女と妓楼等の数について」
「花魁道中・上」で、「私が見ているもののうち出版年のわかる最も古い資料は元禄二年1689の『絵入大画図』のため」としてその数字を使いました。実は元禄二年より古い出版年のものに、寛永二十年1643刊の『あづま物語』と万治元年1658のものとされている『芳原細見図』があります。ともに国立国会図書館がインターネット上に公開しています。しかし、これらは使いませんでした。その理由は、『あづま物語』は内容に疑問があるため、『芳原細見図』は万治元年のものとされていますが、そうではないからです。
まずは『あづま物語』、『芳原細見図』、元禄二年『絵入大画図』にある妓楼等と遊女の数字を掲げます。なお、茶屋は揚屋町の分です。
寛永19年 万治元年? 元禄2年
1642 1658? 1689
あづま物語 芳原細見図 絵入大画図
女郎屋 125 253 282
揚 屋 36 19 18
茶 屋 18 20
太 夫 74 3 3
格 子 31 67 57
は し 881
局 365 418
散 茶 669 1,000余
次女郎 1,104 1,300余
1、『あづま物語』の疑問点
『あづま物語』は寛永二十年刊の写本が伝わっていますが、書写者柳亭種彦の識によれば、寛永十九年の刊本に寛永二十年に新たに太夫となった16人に関する2丁を追加して寛永二十年に再刊したもので、遊女等の数字は寛永十九年の刊本にあったものです。
①『あづま物語』は元吉原の遊女屋や遊女に関する詳しい数字を載せている唯一のものであること。
他の資料と照合してはじめて正しいかどうかが判断できるのであって、唯一ということはそれが出来ないのです。
②揚屋の数が36というのは不審です。
元吉原では散在していた揚屋を、新吉原に移ったとき一ヵ所に集め、揚屋町が出来ました。
註:庄司勝富は江戸町一丁目の妓楼西田屋の主人にして同町名主
新吉原移転当初の各町の家数が分かります。家数ですから揚屋遊女屋以外に茶屋も一般商人屋その他も入っています。
註:竹嶋仁左衛門は江戸町一丁目の妓楼天満屋の主人にして同町名主
揚屋には茶屋が附属していたといいます。
万治三年1660刊の『吉原鑑』という遊女評判記があり、細見図も付いていますが、揚屋町に名前が書かれているのは14人です。
また、揚屋の最盛期は天和貞享頃(1681~87)と言われます。
註:西村藐庵は江戸町二丁目の名主
下に元禄二年の「絵入大画図」から揚屋町の部分を掲げます。揚屋18軒、茶屋21軒、商人屋7軒、隠居1軒、空白1軒、黒塗り1軒です。
③太夫・格子の数
江戸初期の吉原遊女の階層は太夫・格子・端の三つだったと云われています。最上位の太夫が74人で格子が31人というのはいかにも不自然です。その理由として考えられることがないではありませんが、確かではありません。
2、万治元年1658とされる『芳原細見図』について
その図は以下の通り一部が欠けています。
これを万治元年としているのは、図中に「万治元」の文字があるからでしょうが、この文字は出版年を表わすものではありません。同様の部分を元禄二年のものと並べて掲げます。
出版年は、元禄二年の『絵入大画図』では端の方に小さく書かれています。『芳原細見図』には見当たりません。欠けている部分にあったのかも知れません。
この『芳原細見図』が万治元年1658でない決定的な証拠は、伏見町と堺町が載っていることです。その部分の拡大図は次の通りです。
伏見町と堺町が出来たのは寛文八年1668です。
したがって、この『芳原細見図』は寛文八年より後年のものです。おそらく元禄をそれほど遡らない時期のものではないかと思われます。
因みに『芳原細見図』がいつのものなのかを考えてみます。遊女ほど数が多くなく変動も少ない揚屋に注目します。元禄二年の二年前の貞享四年1687に宝井其角が著わした『源氏五十四君』という遊女評判記があり、揚屋の名も載っています。
『源氏五十四君』・『芳原細見図』・『絵入大画図』の三者に載っている揚屋を並べると次のようになります。
貞享四年1687 万治元年1658? 元禄二年1689
源氏五十四君 芳原細見図 絵入大画図
きりや市左衛門 桐屋市左衛門 桐屋市左衛門
松もと清十郎 松本屋清十郎 松本屋清十郎
きゝやうや久兵衛 桔梗屋久兵衛 桔梗屋久兵衛
あみや伊右衛門 笹屋伊右衛門 笹屋伊右衛門
たはらや佐左衛門 俵屋三右衛門 俵屋三右衛門
いづみや半四郎 和泉屋半四郎 和泉屋半四郎
いづゝや彦兵衛 井筒屋吉兵衛 井筒屋吉兵衛
布施田多右衛門 太右衛門 太右衛門
松ばや六兵衛 松葉屋六兵衛 松葉屋六兵衛
ふじや太郎右衛門 藤屋太郎右衛門 藤屋太郎右衛門
えびや次右衛門 海老屋治左衛門 海老屋治左衛門
長しまや清兵衛 長嶋屋清兵衛
さゝや甚左衛門 網屋甚右衛門 網屋甚右衛門
たち花や五郎左衛門 立花屋四郎兵衛 橘屋四郎兵衛
橋本屋作兵衛 橋本屋作兵衛
ぜにや長右衛門 銭屋次郎兵衛 銭屋次郎兵衛
つたや和右衛門
かまくらや長兵衛 鎌倉屋長兵衛 鎌倉屋長兵衛
わかさや伊左衛門 若狭屋伊左衛門 若狭屋伊左衛門
いせや久左衛門 伊勢屋惣三郎 伊勢屋宗十郎
19軒 19軒 18軒
太字は三者に共通するもの、青字は『芳原細見図』と『絵入大画図』に共通するもの、赤字は『源氏五十四君』と『芳原細見図』に共通するものです。8軒が三者共通で、「あみや」と「さゝや」の家号が『源氏五十四君』だけ入れ替っているのを他の二者と同じと考えると共通は10軒となります。
『芳原細見図』と『絵入大画図』は殆どが一致しています。長嶋屋が『芳原細見図』にあって、『絵入大画図』にないことと、伊勢屋の主人の名が惣三郎と宗十郎と違っているだけです。一方、『源氏五十四君』と『芳原細見図』だけに共通なのは長嶋屋だけで、『源氏五十四君』と『絵入大画図』二者だけに共通のものはありません。従って、『芳原細見図』と『絵入大画図』は非常に近く、『源氏五十四君』と『芳原細見図』はやや近く、『源氏五十四君』と『絵入大画図』は遠いと言えます。この三者はこの表の通りの順序であろうと推定されます。つまり万治元年1658とされている『芳原細見図』は 貞享四年1687と元禄二年1689の間のものでしょう。
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まずは『あづま物語』、『芳原細見図』、元禄二年『絵入大画図』にある妓楼等と遊女の数字を掲げます。なお、茶屋は揚屋町の分です。
寛永19年 万治元年? 元禄2年
1642 1658? 1689
あづま物語 芳原細見図 絵入大画図
女郎屋 125 253 282
揚 屋 36 19 18
茶 屋 18 20
太 夫 74 3 3
格 子 31 67 57
は し 881
局 365 418
散 茶 669 1,000余
次女郎 1,104 1,300余
1、『あづま物語』の疑問点
『あづま物語』は寛永二十年刊の写本が伝わっていますが、書写者柳亭種彦の識によれば、寛永十九年の刊本に寛永二十年に新たに太夫となった16人に関する2丁を追加して寛永二十年に再刊したもので、遊女等の数字は寛永十九年の刊本にあったものです。
①『あづま物語』は元吉原の遊女屋や遊女に関する詳しい数字を載せている唯一のものであること。
他の資料と照合してはじめて正しいかどうかが判断できるのであって、唯一ということはそれが出来ないのです。
②揚屋の数が36というのは不審です。
元吉原では散在していた揚屋を、新吉原に移ったとき一ヵ所に集め、揚屋町が出来ました。
代地は五割増に被下。地面広く成しゆへ、元吉原にて所々に居し揚屋共を一所に集めて、直に揚屋町といふ。(庄司勝富『異本洞房語園』享保五年1720序)
註:庄司勝富は江戸町一丁目の妓楼西田屋の主人にして同町名主
新吉原移転当初の各町の家数が分かります。家数ですから揚屋遊女屋以外に茶屋も一般商人屋その他も入っています。
江戸町一丁目家数廿一軒、同二丁目四拾四軒、角町三拾四軒、京町一丁目十九軒、同二丁目三十七軒、揚屋町三十三軒。(竹嶋仁左衛門『洞房古鑑』宝暦四年1754)
註:竹嶋仁左衛門は江戸町一丁目の妓楼天満屋の主人にして同町名主
揚屋には茶屋が附属していたといいます。
中古まで。あげや茶やとて。揚屋丁に茶や十八軒ありけり。さんちやあそびの客は。中の丁茶やより女郎やへいたり。あげや遊びの客は。右の十八軒の茶やより揚やへゆく事なり。(沢田東江『古今吉原大全』明和五年1768刊)
万治三年1660刊の『吉原鑑』という遊女評判記があり、細見図も付いていますが、揚屋町に名前が書かれているのは14人です。
また、揚屋の最盛期は天和貞享頃(1681~87)と言われます。
揚屋ハ、天和貞享の頃、ことに繁昌して、凡軒数廿余軒あれども、今の茶やとハ、いたくたがひて家作広く、夫々に好みていとみやびにつくりなしたり。(西村藐庵『花街漫録』文政八年1825酒井抱一序)
註:西村藐庵は江戸町二丁目の名主
下に元禄二年の「絵入大画図」から揚屋町の部分を掲げます。揚屋18軒、茶屋21軒、商人屋7軒、隠居1軒、空白1軒、黒塗り1軒です。
③太夫・格子の数
江戸初期の吉原遊女の階層は太夫・格子・端の三つだったと云われています。最上位の太夫が74人で格子が31人というのはいかにも不自然です。その理由として考えられることがないではありませんが、確かではありません。
2、万治元年1658とされる『芳原細見図』について
その図は以下の通り一部が欠けています。
これを万治元年としているのは、図中に「万治元」の文字があるからでしょうが、この文字は出版年を表わすものではありません。同様の部分を元禄二年のものと並べて掲げます。
出版年は、元禄二年の『絵入大画図』では端の方に小さく書かれています。『芳原細見図』には見当たりません。欠けている部分にあったのかも知れません。
この『芳原細見図』が万治元年1658でない決定的な証拠は、伏見町と堺町が載っていることです。その部分の拡大図は次の通りです。
伏見町と堺町が出来たのは寛文八年1668です。
寛文八年中、岡賣女御吟味強ク、賣女屋七十二人、賣女数五百十三人、吉原町内へ引移度旨申来ニ付、江戸町二丁目名主源蔵、嶋田出雲守様、渡邉大隅守様江御願申上、二丁目左右ノ屋舖地尻ニ新道ヲ付、榮町、伏見町ト名ク、同年八月出来。 (『洞房古鑑』)
寛文八年三月、吉原廓内に新道をひらき、堺町、伏見町と号す(伏見丁は年寄の古境(ママ)なる故かく名づけしとぞ)。 (『増訂武江年表1』)
したがって、この『芳原細見図』は寛文八年より後年のものです。おそらく元禄をそれほど遡らない時期のものではないかと思われます。
因みに『芳原細見図』がいつのものなのかを考えてみます。遊女ほど数が多くなく変動も少ない揚屋に注目します。元禄二年の二年前の貞享四年1687に宝井其角が著わした『源氏五十四君』という遊女評判記があり、揚屋の名も載っています。
『源氏五十四君』・『芳原細見図』・『絵入大画図』の三者に載っている揚屋を並べると次のようになります。
貞享四年1687 万治元年1658? 元禄二年1689
源氏五十四君 芳原細見図 絵入大画図
きりや市左衛門 桐屋市左衛門 桐屋市左衛門
松もと清十郎 松本屋清十郎 松本屋清十郎
きゝやうや久兵衛 桔梗屋久兵衛 桔梗屋久兵衛
あみや伊右衛門 笹屋伊右衛門 笹屋伊右衛門
たはらや佐左衛門 俵屋三右衛門 俵屋三右衛門
いづみや半四郎 和泉屋半四郎 和泉屋半四郎
いづゝや彦兵衛 井筒屋吉兵衛 井筒屋吉兵衛
布施田多右衛門 太右衛門 太右衛門
松ばや六兵衛 松葉屋六兵衛 松葉屋六兵衛
ふじや太郎右衛門 藤屋太郎右衛門 藤屋太郎右衛門
えびや次右衛門 海老屋治左衛門 海老屋治左衛門
長しまや清兵衛 長嶋屋清兵衛
さゝや甚左衛門 網屋甚右衛門 網屋甚右衛門
たち花や五郎左衛門 立花屋四郎兵衛 橘屋四郎兵衛
橋本屋作兵衛 橋本屋作兵衛
ぜにや長右衛門 銭屋次郎兵衛 銭屋次郎兵衛
つたや和右衛門
かまくらや長兵衛 鎌倉屋長兵衛 鎌倉屋長兵衛
わかさや伊左衛門 若狭屋伊左衛門 若狭屋伊左衛門
いせや久左衛門 伊勢屋惣三郎 伊勢屋宗十郎
19軒 19軒 18軒
太字は三者に共通するもの、青字は『芳原細見図』と『絵入大画図』に共通するもの、赤字は『源氏五十四君』と『芳原細見図』に共通するものです。8軒が三者共通で、「あみや」と「さゝや」の家号が『源氏五十四君』だけ入れ替っているのを他の二者と同じと考えると共通は10軒となります。
『芳原細見図』と『絵入大画図』は殆どが一致しています。長嶋屋が『芳原細見図』にあって、『絵入大画図』にないことと、伊勢屋の主人の名が惣三郎と宗十郎と違っているだけです。一方、『源氏五十四君』と『芳原細見図』だけに共通なのは長嶋屋だけで、『源氏五十四君』と『絵入大画図』二者だけに共通のものはありません。従って、『芳原細見図』と『絵入大画図』は非常に近く、『源氏五十四君』と『芳原細見図』はやや近く、『源氏五十四君』と『絵入大画図』は遠いと言えます。この三者はこの表の通りの順序であろうと推定されます。つまり万治元年1658とされている『芳原細見図』は 貞享四年1687と元禄二年1689の間のものでしょう。
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