落語の中の言葉246「どぶ(下水)」

     九代目入船亭扇橋「化け物使い」より

 本所割下水に住む御家人の隠居は人使いが荒く、奉公人が居着かない。口入屋ちづか屋から来た杢助に、今日は目見えだから骨休めだと言いながら、薪割りをはじめ一日ではこなしきれない程の仕事を言いつけます。その中に「どぶ(溝)」を浚うことがあります。この「どぶ」は、生活雑排水を流す下水でしょう。
 今回は「どぶ(下水)」を採りあげます。その前に「本所割下水」にも触れておきます。本所には下図の通り南割下水と北割下水の二つがありました。
割下水地図.jpg
          『分間懐寶御江戸絵図』天保十四年1843
ともに大横川へ注いでいます。その注ぎ口のある町、本所長崎町(南割下水)と中之郷横川町(北割下水)の町方書上には、幅はともに二間で、
「万治二亥年1659本所御奉行徳山五兵衛様山崎四郎左衛門様御掛而堀割相成申候」とあります。竪川・大横川・横十間川・北十間川とともに、屋敷割のために掘られました。その掘った土でかさ上げをして屋敷地を造成したものです。

 本題の「どぶ(下水)」にはいります。
江戸には上水道はあっても下水道は無かったとも言われます。例えば、
 この水戸の笠原水道のほか、江戸の神田・玉川両水道、仙台の四ツ谷堰用水、金沢の辰巳用水、福井の芝原用水、赤穂の赤穂水道、福山の福山水道などがとくに有名である。
 いま江戸時代に上水道をもっていた主要城下町を図示すると図10(引用省略)のようになる。みられるように、江戸時代には上水道は驚くほど充実しているのだが、ではそれに反して下水道が皆無といってよいほど整備されていないのはなぜであろうか。
 この答は簡単ではないが、それは江戸時代の農業のありかたと関連していたように考えられる。すなわち江戸時代の農耕肥料は基本的には刈敷(春先に山野に生いたった若草、若芽を刈取って田畑に敷込んで肥料とすること)であったが、開発の急速な進行のため採草地が不足したので、竈の灰や人間の屎尿などが補助的肥料として重要な役割をもった。慶安二年(一六四九)にだされた有名な「慶安御触書」のなかに、「百姓こへはい調置候儀専一候間、せつちん(便所)をひろく作」るよう指示した一項があるのは、このような状況の反映で、屎尿や台所の洗水を下水道をつくって捨てるなど考えもおよばぬことであった。(大石慎三郎『江戸時代』)

 「下水道が皆無といってよいほど整備されていない」と云うのは、何を「下水道」と考えるかの違いであろうと思います。江戸には当時のパリにあったような地下式の下水道はありません。その必要が無かったからです。江戸の下水がヨーロッパの下水や今日の下水道と違うところは、屎尿を流さないことです。雨水と生活雑排水を流すだけですから、わざわざ地下設備を作る必要はないのです。江戸の下水は上水とは比べものにならないほど完備していたと私は思っています。上水の方は、本所深川以外にも通っていない江戸の町は沢山ありました(215「水屋」)。また、上水が通っている町でも幕府等が設置する上水井戸は町内に四ヶ所以内でした(65「掘抜井戸」)。裏長屋に上水井戸を造る為には、長屋(土地)の所有者が願出て許可を受けた上で、自分の費用で表通りの上水井戸から木樋等を引いて「呼び井戸」を造り、維持費も負担します。更に水銀も払わなければなりません。各家は上水井戸や普通の井戸から自宅の水瓶へ水を運び入れて使います。それに対して生活排水は、各自の住宅から下水へ流すことができました。上水井戸や井戸のない長屋はあっても、どぶ(下水)のない長屋はありません。
 屎尿は江戸周辺の農村に下肥として有償で引き取られています。江戸後期には下肥価格の引き下げ運動が何回か起きていますが、その時の下肥の年間総額が分かります。
○寛政四年1792武蔵・下総両国村々1016ヵ村の運動
 当時の一ヵ年の汲取り代金総額が二万五三九八両余(大石慎三郎『江戸時代』)
○天保十四年武蔵下総283ヶ村の百姓の願書
 天保十二丑年1841壱ヶ年分下掃除代金三万五千四百九十両余(「江戸町触集成」十四巻)
○文久四年武州葛飾郡・下総葛飾郡の百姓の願書
 文久二戌年1862壱ヶ年分下掃除代金四万九千五百両余(「江戸町触集成」十八巻)
金一両を10万円としても天保十二丑年壱ヶ年分三万五千四百九十両余は35億円を超えます。
 なお、当時屎尿の汲み取りは「下掃除」、その作業をする者は「掃除屋」などと呼ばれています。因みに、落語「品川心中」では金藏が親分の家へ暇乞いに行き、裏口から「こんちわ」と声を掛けると、「掃除屋か」といわれます。「真田小僧」では父親にうちの家紋はカタバミだ、絵にかくとお尻(けつ)が三つくっついたような形だと云われ、うちの先祖は「掃除屋か」と出て来ます。

 江戸のごく初期は会所地がゴミの捨て場や排水先になっていたようですが、比較的初期から下水は造られていたようです。(なお、会所地については37「横町の隠居」を参照してください。)

 正保五年1648には町の月行事が次のような請書を提出しています。

   御請負申事
一町中海道悪敷所浅草砂海砂ませ、壱町之内高ひくなき様中高築可申事、幷こみ又とろにて海道つき申間敷事
一下水幷表之みぞ滞なき様所々而こみさらへ上ケ可申候、下水こみあくた少も入申間敷候、若こみあくた入候ヽ可為曲事
右之趣相心得申候間、少も違背申間敷候、為後日如件
  正保五年二月廿一日        月行事判形
 御奉行所              (『江戸町触集成』第一巻)

「みぞ」と「下水」が出来ています。道は中央を高くして両側に溝を掘り、雨水を流したのでしょう。
明暦の大火からの復興時には、本町通りのような大通りの場合、民有地から三尺、道から三尺合わせて一間の庇を柱を付けて造るように命じています。その下を通行できるようにしています。横町などは柱を立てず、道の上にはみ出す形で三尺の釣庇を命じています。その庇からの雨落ちの場所に溝を掘り蓋をするようにしています。

 溝と下水の様子を表通りの店と裏長屋の絵図で確認してみます。
 幕末の『守貞謾稿』には京坂の町と江戸の町の図が載っていますが、家の前に溝が造られています。
近世一78.jpg
          京坂の町
近世一94.jpg
          江戸の町
京坂の別の図には「溝と云ふ、江戸にて下水と云ひ、両辺石をもつてこれを築く。溝面厚板を覆ふ」と書かれていますが、江戸でも前記のように「みぞ」と呼んでいます。
 次ぎに裏長屋の図。これは裏長屋と云っても庭付のかなり高級なものです。
地所絵図面.jpg
          桜田伏見町地所絵図面   
屋敷地の廻りはほぼ溝と下水で囲まれています。
白木屋持屋敷.jpg もう一つ図を掲げます。
          白木屋持屋敷鉄炮洲本湊町
図の上下と右の溝は雨水を流すためのものと思われます。屋敷内の溝は生活排水を流すためのものでしょう。どちらも左側の幅の広い下水(おそらく町が管理)に繋がっています。

 もう少し広い範囲の図を次ぎに掲げます。
支配地絵図.jpeg
          旧名主田中平四郎支配地絵図
町屋敷が並んでいますが、表通りには細い溝が、裏には幅四尺の大下水が通っています。この図では分かりませんが屋敷の間にも細い溝があるものと思われます。また大下水は川へ繋がっていたと思われますが、この図では分かりません。
 敷地内の溝・下水から町管理の下水へ、さらに大下水、掘割り、川へと流れて行きます。屎尿を流しませんから、比較的住人の少ない北割下水は次のようでした。
松寿庵一漁撰『江戸近在所名集後編』(安永五年刊)は北割下水を、「屋敷丁にて閑地、蛙・葭雀など多し」と説明している。大下水の水は下水と云っても現代の下水のような水質ではなかった。北割下水は蛙や葭雀が棲めるほどのものであった。 (伊藤好一『江戸の町かど』)


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