落語の中の言葉245「花魁道中」・下

 今回は問題の二点を考えます。
 まず道中の時刻について
前回紹介したように、『江戸町方の制度』には「初夜のうち」「夜」「必らず点灯頃より」とあり、『江戸吉原図聚』には「廓の灯がともる頃から」とありますが、これらは幕末のことと思われます。元吉原の時代は途中から昼間だけの営業(寛永九年1632に夜間営業禁止)でしたから、揚屋入りの道中も昼間です。新吉原に移ってからも初めの頃の客は主に武士でしたから昼遊びがほとんどです。大名旗本は原則的には外泊は出来ず、その家来も武家屋敷には門限(多くは暮れ六つ)があったため基本的にはやはり昼遊びしかできなかったからです。
  やかましい客を七つが連れて行 「裏若葉」享保十七年1732刊

 寛永九年1669申、月日定カナラズ。加々爪民部様、堀式部様両御奉行所御立合ニテ、吉原町夜ノ商売向後御停止之段被仰渡候。(以下略)(竹嶋仁左衛門『洞房古鑑』宝暦四年1754)
   見世の事
全体、此里は昼の客多くありしが本来の事也、夜見世は山谷町かり宅の時より始り、此地に移りても、武家方などはみな昼来り給ふゆへ、別して朝より賑しく、昼見世といふも、朝より出して、夕方八つ時分(引用者註:大凡午後二時~四時頃)にははや見世を引、夏の夕ぐれには格子の外へ台を出し、其涼み台に女郎ずらりと並び居たり、云々(『吉原雑話』未詳)

 新吉原になって約130年後の天明末でも、客の主体は武士だったようです。
人は武士なぜ傾城にきらわるゝとはいへとも当世吉原の客は七分武士にして三分町人なり云々。(山東京伝『志羅川夜船』寛政元年(天明九年)1789刊)

 その後、町人が客の中心になると、昼見世から夜見世に重点が移っていきます。後に掲げる明和五年1768刊の『古今吉原大全』には道中について「ことさら夜は」とあって昼間もあったことを示しています。また次ぎに掲げる石川雅望『吉原十二時』(絵師魚屋北渓は文化五年1808歿)には申時とあります。申時は正しくは定時法で15時から17時のことですが、不定時法の「夕七つ」の意味でも使われるため、どちらであるか分かりません。「夕七つ」は「暮六つ」の1刻(2時間前後)前です。
申 時
ゆふひ西にかたぶくころ、おのがしゝさうぞきつくろひて、わらはひきつれてねり出たる、この世の人とは見えず、柳櫻山吹など、折からのいろあひつきしくぬひものざうがんなど、めもかゞやくばかりにて、すそながうひきたるはぎども、いみじうなまいたり。こゝは大門よりのたゞちにて、仲の町とぞよぶめる。(以下略)

 元吉原の時代は昼間だけ、新吉原に移ってからも明和(『古今吉原大全』)には昼間にも行われ、文化(『吉原十二時』)には夕方前、幕末(『江戸町方の制度』)では「点灯頃より」となっています。時代によって道中の時刻も変わったようです。ただ、自己宣伝のデモンストレーションであれば明るいうちの方が効果的です。いくら豪華な衣装・髪飾りを付けても提灯の明かりではよく見えないからです。

 次ぎに長柄の傘について
古くは雨の日の揚屋入には、若い衆に背負われて長柄傘を差し掛けられるか、駕籠に乗るかしていたといいます。
 私可多咄.jpg右の画は『骨董集』にある
『私可多咄』挿絵の模写です。

元吉原にては、雨の降る時、遊女の揚屋へ通ふには、男共に負はれたり。負はれ様は六尺、手を後へ組合せ、傾城ながき小袖にて、足をくるみ、裾を長くたれ、両の膝を六尺が手の上へのせて張臂をし、衣紋かいつくろひなどし、後より長柄の傘をさしかける体、中々品よく見えしとなり。(『洞房語園』異本補遺 活東子が流布本から抄出して本書(庄司又左衛門『洞房語園』享保五年1720)の遺漏を補う)


慶長の頃迄は、諸家の女中抔も、駕籠といふ事稀にして、多くは人に負れたりとぞ。頭には被(かつぎ)を冠り負はれたり。それには負木といふもの有りて、夫に足をかけたる事なり。公許の女郎抔も、それに習ふて、雨の日には、かく負れたるならん。尤今の地へ移りてより、揚屋行には、駕籠に乗たるも間々有りたるが、いつの頃よりか、駕もやみて、雨の日には歩行にて出ることゝはなりぬ。(石原徒流『洞房語園異本考異』)

菱やの若紫殿、揚屋町へおはしけるに雨降りにければ、乗物にて出給ひぬ。(『吉原徒然草』元禄1688-1703末、宝永1704-10の始頃)
 
  道中揚屋入の事
    付長柄(ながへ)の傘(からかさ)幷に駒下駄の事
道中といふ事は。女郎揚や又は中の丁へ出るをいふ。たとへば。江戸丁の女郎。京やへいたり。京丁の女郎。江戸やへ出るなど。おのおの。遠方へ。旅立をする心持に比して。道中の名こゝにおこる。つまの取やう。足のふみ出しに。習ある事とぞ。今はあげやなしといへども。そのかたのこりて。中の丁へ出るを。道中といふ。雨天の節は。ながへのからかさをさしかけさするなり。長柄は。貴人の道具なれども。上臈といへる名称によりて。むかしよりめん許ありし事なり。ことさら夜は。女郎の定紋付たる大灯燈(ちやうちん)。ならびに。茶や船宿のちやうちん。星のごとくにつらねたて。新ぞう禿やりて若イ者。大勢取かこみしふぜい。まことに。余国になきけしきなるべし。又むかしの女郎は。みな草履をはきしに。中古。角丁ひしや権右ヱ門方の。芙蓉といへる女郎。寛濶なるものにて。伊達をこのみ。道中の節。映晴(くわゐせい)にても。駒下駄をはきけり。もへいづるくれなゐのすそ。しどけなくふみ出したるさま。瑤池(やうち)に咲し芙蓉も。及びがたきよそほひ。ゆうびに見えければ。皆人女郎のはき物には。こま下たうつりよしとて。後此さとの風とはなりぬ。中に。江戸丁松葉や半左ヱ門方にては。今に年始其外。いわゐ日には。駒下たを用ひず。(沢田東江『古今吉原大全』明和五年1768刊)

 明和五年1768頃は、長柄の傘を差し掛けるのは雨の日に限ったようです。雨の日に傘をさすのは当然ですが、雨天でなくとも長柄傘をさすようになったのはいつ頃からなのかわかりません。かつては、道中に長柄の日傘をさすことがあり、禁止されました。
   遊女傘
一 長柄ノ傘ハ、元吉原ヨリサシ初タリ。遊女揚屋へ入時、懐手シテ足ヲバ裾ニ包、下男ノ背中ニ負レ、下男共後ヨリ長柄ノ傘ヲサシカケテ、揚屋ヘ入レリ。明暦以後新吉原ニ至リ、揚屋入ノ遊女、乗物ヲ用ユ。吉原ヒケ候節、揚屋町地形アシク、當分ハ田土出テヌカリ候故、土腐道ト異名セリ。サレバ遊女ノ乗物ヲ用ユルナルベシ。其後イツトナク歩行ニテ揚屋ヘ入ル事ト成ヌ。尤右ハ雨ノ日ノ事也
一 享保十八年1733丑五月十八日、角町玉屋吉左衛門抱遊女對嶋、日傘ヲ長柄ニ致指出候處、名主共見咎、相留候テ自今無用ニ可致旨、五町へ申渡ス。
一 延享五年1748辰六月朔日、江戸町二丁目ノ遊女共八九人、日傘ヲ長柄ニ致、中之町へ指出候。依之町々ノ遊女我勝ニ日傘ヲコシラヘ、呂ヲ以張リ、或ハ紗ヲモテ作ル。同月廿九日、會所寄合之上名主共相談ニテ、一様ニサヽセ候共御咎モ有間敷ナガラ、一通り御訴申上置候、可然由ニテ七月四日、弐丁目名主佐兵衛、角町同庄兵衛、京町同六右衛門、新町同喜左衛門、御月番能勢肥後守様へ書上、御訴申上候へば、御白洲へ被召出、新規之義ト申、殊ニ訴候處聞置候ハヾ、手広ニ可致存寄ト相見得候。自今無用ニ可仕旨被仰渡、御證文被仰付候。依之翌五日、五町一同ニ日傘相止。尤町人連判、町別ニ爲致候。 (竹嶋仁左衛門『洞房古鑑』巻之三 宝暦四年1754)

 著者竹嶋仁左衛門は江戸町一丁目の名主で妓楼天満屋主人です。

 いくつかの画を以下に掲げます。前回あげた『吉原恋の道引』『昔織博多小女郎』は省きます。   
髙尾揚屋入図.jpg
江戸風俗図巻師宣.jpg






  「髙尾揚屋入図」(『近世奇跡考』)   菱川師宣「江戸風俗図巻」 
吉原大豆俵評判.jpg
吉原七福神.jpg



 『吉原大豆俵評判』 右『吉原七福神』
元文五細見A.jpg
元文五細見B.jpg
      元文五年「吉原細見」二件
吉原大全・花街談義.jpg
      左『古今吉原大全』と右『当世花街談義』

吉原通い図巻栄之.jpg
      鳥文斎栄之「吉原通い図巻」

道中三福神栄之.jpg
      鳥文斎栄之「三福神吉原通い図巻」

新吉原桜之景色.jpg
      歌川豊国「新吉原桜之景色」

東都名所広重.jpg
      初代広重「東都名所 吉原仲之町夜桜」

江戸名勝吉原広重.jpg
      二代広重「江戸名勝図会 吉原」
 次ぎにこれらを含め、目にした挿絵等の一覧表を揚げます。
長柄傘と提灯表新.jpg 「髙尾揚屋入図」は山東京伝の『近世奇跡考』の「三浦髙尾の考」にある画ですが、どこから模写したのか書かれていません。
 以上29件という僅かな例からですが、正徳三年1713『吉原七福神』迄は傘なし。享保二十年1735の遊女評判記「三好鶯?」以降では、ほとんどが傘か提灯のどちらか。『古今吉原大全』と『新吉原桜之景色』は傘も提灯もなし、『昔織博多小女郎』は傘も提灯もありです。昼間は傘あり、提灯を持つと(暗くなると)傘なし、のように見えます。長柄の日傘が禁止されたので長柄の日傘の代わりに長柄の雨傘をさすのでしょうか。『昔織博多小女郎』のように暗くなっても傘をさすことがあったのでしょうか。
 いつから晴れた日にも傘を差し掛けるようになったのはハッキリしませんが、必ず長柄傘を差し掛けた訳ではないことは確かです。幕末のように火ともし頃から道中をするのであれば長柄傘は使わなかったのではないでしょうか。
 また、幕末の様子を述べた『江戸町方の制度』には「雨天には道中をなさず」とありますが、宝暦四年1754の『洞房古鑑』、明和五年1768の『古今吉原大全』には雨天には長柄傘をさしかけるとあります。次に挙げる浮世絵の中にも雨天のものがあります。
歌麿&湖龍斎.jpg
      左 喜多川歌麿「松葉屋内粧ひ」、
      右3枚 磯田湖龍斎「雛形若菜の初模様」

吉原夜雨・国貞.jpg
    歌川豊国「新板江戸名所八景一覧」文化六年1809中「吉原の夜雨」
「大ひしや内ミつはな」は雨天です。磯田湖龍斎は天明(1781~88)頃の人です。また、文化六年1809の歌川国貞「新板江戸名所八景一覧」中にも雨の道中が描かれています。いつ頃から雨天には道中をしなくなったのかもハッキリしません。
 
 以上見て来た通り、花魁道中の内、道中の時刻と長柄傘だけを見ても時期によって違います。これこれの時期はこうでしたと云うことしかできません。それを一口に吉原の花魁道中はこうでしたと云うのは、あまりに乱暴です。むしろ誤りと云うべきでしょう。これは花魁道中に限りません。江戸の吉原、また江戸のことについても同様です。

 追記:挿絵等の一覧表に7件追加しましたので、表を差換えました。本文の内容に変更はありません。

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