落語の中の言葉244「花魁道中」上
志ん生師匠は廓噺をする時に、腰巻き髙尾のことを枕にふることがあります。道中をしている時に腰巻きが落ちてきて、その時、腰巻きが落ちると同時に仕掛けを脱して、後に付いている男衆に一緒に拾わせることで見物人に分からないようにした。それが後に知れて評判になったという。
花魁道中のことは、以前「お江戸吉原ものしり帖」正誤で、「片手は若い衆の肩に置き」を採りあげ「江戸時代の絵や文で確認する迄は?付きで保留」としました。まだはっきりとしたことは分かっていません。インターネットでは様々なことが云われていますが、現在イベントなどで再現されている「花魁道中」に関するものが多いようです。江戸時代のものについては、いつの時代の事なのかも特定されず、内容も大雑把なものがほとんどで、参考にはなりません。
今回は花魁道中から二つの事を採りあげます。一つは道中が行われた時刻、一つは雨天でなくても長柄傘をさしかけたとされている事です。これらについて、目に付いたものを紹介します。今回は長い引用文も多く、また画も多いため上下に分けます。
先ずは花魁道中についてまとまって書かれているものを見てみます。
『江戸町方の制度』は明治二十五年四月から翌年七月にかけて「朝野新聞」に「徳川制度」の名で連載されたものをまとめたものです。明治中期は、江戸で生活した人が大勢残っていた時期ですから、この時期に書かれたものは江戸時代の著作と同程度に信頼できるものと考えています。そこには次のように書かれています。
つぎは、山路閑古『古川柳』(1965)の記述です。
この項目は、山路氏が吉原組合から依頼された『花吉原名残碑』の文を書くために
「吉原遊廓の沿革をつぶさに調ベ、『吉原花街小史』と題する手控えを作った。なおこれに『古川柳』などを配して、読物風の記事にして見ようかなどの心積りもしていた。今それを試みるのにはよい機会と思われるが、限られた紙面では、到底その全部にわたっては書けないであろう。せめて目ぼしい要項だけでも拾って書き記すことにする。」
として採り上げたもののなかにあるものです。なお「花吉原名残碑」は昭和三十五年五月に建てられ吉原弁才天(本宮)に現存しています。
もう一つ、三谷一馬『江戸吉原図聚』(中公文庫1992)から。
三谷氏は江戸時代の各種出板物から江戸風俗の資料画を多数描かれています。そのうち『昔織博多小女郎』文化八年1811 鳥居清峯画の説明文が次のものです。
問題の二点を考える前に基本的なことを確認しておきます。
『江戸町方の制度』も『古川柳』も、遊女屋は置屋同様で遊興の場は揚屋だったように書いていますが、誤解を与える表現です。遊女屋は置屋ではありません。遊女屋は抱えの遊女を張見世に出し、それを見立てた客を二階に上げて遊興させるのが基本です。「江戸名所図屏風」に元吉原の遊女屋が描かれています。一階が張り見世、二階が座敷になっています。
「江戸名所図屏風」より
遊女のうち、ごく少数の上級者だけが、張見世をせず揚屋に招かれて出かけます。また揚屋に招かれる上級遊女を抱える遊女屋も少数です。私が見ているもののうち出版年のわかる最も古い資料は元禄二年1689の「絵入大画図」のため、元吉原の時代のことはわかりませんが、元禄二年時点では、女郎屋二百八十二軒、挙(揚)屋拾八軒、茶屋二十軒(揚屋町分)、遊女の数は太夫三人、格子五拾七人、局四百拾八人、讃茶一千余人、次女郎千三百余人となっています。次女郎(新造か?)を含め遊女等2,800人程のうちで道中が出来るのは太夫と格子の60人だけです。また遊女屋282軒のうち道中の出来る格子以上を抱えているのは13軒だけです。ちなみに此の時の太夫3人すべてと、格子57人のうち12人は三浦屋四郎左衛門の見世です。
元吉原は勿論、新吉原に移転した後も、揚屋が存在した時代の上等の客の遊びは、例えば、『花菖蒲待乳問答』(宝暦五年1755序)が描くところでは、取り巻きを連れてまず茶屋に行き、酒肴でもてなされ、茶屋の案内で揚屋に上がって、そこへ遊女(上級)を呼んで遊興しています。
「昔揚屋といへるには、茶屋一軒づゝ付て有りて、譬へばおはりやと云ふには、尾張屋といふ茶屋附属しけるとぞ。」(石原徒流『洞房語園異本考異』巻之一)
「中古まで。あげや茶やとて。揚屋丁に茶や十八軒ありけり。さんちやあそびの客は。中の丁茶やより女郎やへいたり。あげや遊びの客は。右の十八軒の茶やより揚やへゆく事なり。」(沢田東江『古今吉原大全』明和五年1768)
また『吉原恋の道引』(延宝六年1678)によれば、揚屋から招かれた遊女は新造・禿・遣手を連れ、三味線を持たせ、夜具の入った葛籠を男衆に背負わせて揚屋に往ったので、揚屋には呼ばれてきた遊女の葛籠がいくつも置かれることになります。
左「あげや」・右「あげや行」 『吉原恋の道引』より
新吉原の時代も実需の頃の道中は、この画ように質素なものだったようです。道中以外の通行人は提灯を持っていないのに、道中の先頭に立つ若い衆だけが提灯を持っているのが気になります。
揚屋で遊んだのは上等の客で、それ以外は遊女屋で張り見世をしている遊女を見立てて遊びます。
「さんちや」 『吉原恋の道引』より
太夫がいなくなり、その後揚屋も消滅すると、上等の客は取り巻きを連れてまず茶屋に上がり、そこへ芸者などを呼んで酒宴を開き、頃合いを見て芸者・幇間等を引き連れ、茶屋の亭主などに案内されて遊女屋へ行きます。その際馴染みで大事な客の場合には、遊女が新造・禿を連れて茶屋へ迎えに来ますが、これは「道中」とは呼んでいないようです。客一行は遊女屋で再び酒宴を開き、お引けとなって客が遊女の部屋へ入ると、茶屋・芸者・幇間は客に挨拶して退散するという形になったようです。
客に呼ばれて揚屋に往くという実需の道中から、自身の広告の為のものに変わった結果、自然と道中がより豪華なものへとなっていったものと思われます。「道中」には三種類ありました。毎日のように行われる道中の他に、特別なものとして、年礼と突出し(遊女としてのデビュー)の道中があります。勿論、年礼・突出しの「道中」が出来るのも一部の上級遊女だけです。
山路閑古氏は「後年揚屋が廃れて後も、毎年正月三日の新年の儀礼として行なわれた。」と書かれていますが、『百安楚飛』(安永八年1779序)には「傾城の礼は。むかしは元日なりしが。ちかきころより二日になり。家々の揃の仕着花をかざる。」、『吉原青楼年中行事』(享和四年1804)の十返舎一九の文には「二日は契情(けいせい)の年礼とて初衣装の綺羅をかざり、中の町を勤むるを道中といふ事は、江戸町より京町の間をあゆむの称なるべし。」とあります。
また『東都歳事記』(天保九年1838)正月二日の条には「吉原遊女年礼(今日より茶屋茶屋へ年礼にとて仲の町へ出づる。家々嘉例により仕着せ小袖を調へ、禿に至るまで一様の新衣を着して往来す。これを里諺に道中といふ。(以下略)」と書かれています。
少なくとも天保頃までは吉原の年礼は二日だったようです。ただ、二日の年礼は見世の仕着せで、三日からは自前の衣装になり、これを「跡着(あとぎ)」と云って、豪華さを張り合ったようです。これについては221「鼠鳴き」で触れました。
『吉原青楼年中行事』より
突出しの道中には姉女郎も付き添ったといいます。(『江戸町方の制度』、式亭三馬『傾城買談客物語』寛政十一年1799自序)
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花魁道中のことは、以前「お江戸吉原ものしり帖」正誤で、「片手は若い衆の肩に置き」を採りあげ「江戸時代の絵や文で確認する迄は?付きで保留」としました。まだはっきりとしたことは分かっていません。インターネットでは様々なことが云われていますが、現在イベントなどで再現されている「花魁道中」に関するものが多いようです。江戸時代のものについては、いつの時代の事なのかも特定されず、内容も大雑把なものがほとんどで、参考にはなりません。
今回は花魁道中から二つの事を採りあげます。一つは道中が行われた時刻、一つは雨天でなくても長柄傘をさしかけたとされている事です。これらについて、目に付いたものを紹介します。今回は長い引用文も多く、また画も多いため上下に分けます。
先ずは花魁道中についてまとまって書かれているものを見てみます。
『江戸町方の制度』は明治二十五年四月から翌年七月にかけて「朝野新聞」に「徳川制度」の名で連載されたものをまとめたものです。明治中期は、江戸で生活した人が大勢残っていた時期ですから、この時期に書かれたものは江戸時代の著作と同程度に信頼できるものと考えています。そこには次のように書かれています。
揚屋 元吉原の頃は廓中に揚屋と云ものあり。遊女を弄ばんとする人は必らず先づこの揚屋に就きて酒肴を命じ意中の遊女をこれに呼びて遊興し、茶屋は別に揚屋に附属して客の用途を周旋したるに過ぎず。而して遊女屋その物はただ遊女を抱へ置きて揚屋の招聘を待つこと、恰も現今京坂に行はるゝ置屋と揚屋の別あるが如くなりき。且つ遊女を聘するときは揚屋の主人証文を遊女屋に出して某遊女を借り受くるの制にて、これを揚屋証文と称したり。(こは後に揚屋の部に至りて詳にすべし)さて右の如く妓女が招聘を受けて揚屋に往く、これを道中とは云ひ習はせり。(中略)
而るに新吉原に移転の後何時頃よりか揚屋てふもの漸く廃たれて茶屋のみ残り、遊客の周旋もひとり茶屋の司る所となり遊興も茶屋に於てするか否らざれば直に遊女屋に就て催ほすことゝなりしが、ここに至て遊女もまた予かじめ約束の客なきときは、初夜のうち必らず茶屋に至り暫時その見世先に座を占めて姿色を衒ふことゝなり、而かも上等の茶屋は仲の町に在りしを以てついに近時に至ては遊女の仲の町に出づるを道中と云ひその茶屋にて見世を張るを仲の町張りと称するに至れり。想へば古代に於ては客の招聘に応じて出づるを道中と云ひしにて云はゞ必要上より起りしものなるも近代に至りては廓中一種の虚飾と成り優等の遊女がその姿色を衒ひ、全盛を誇るの広告法となり吉原と云へば即ち道中てふことを聯想するまでに馴致せり。
道中 (前略) 大籬の「呼出し」女郎が予じめ約束の客なき夜は、必らず道中に出ること前に記るすが如くなれば、あるいは一楼より同夜数多の遊女を道中に出すこともありしが、天保の頃に至りては一楼一人宛道中に出すことゝなり、その楼の「呼出し」女郎中順番に道中せしめたりとなん。されば道中は毎日あるにて而かも大籬よりは毎戸必らず一人を出だしたりと云へば、廓中の道中は当時さまで珍らしからざりしならんに、なほ道中の人口に嘖々たりしは、その扮装と行列の人目を驚かし易かりしに依るべし。
道中の時間は必らず点灯頃よりするを例とす。(中略)
雨天には道中をなさず。されど晴天にも長柄の傘を翳すを例とす。これ古代雨天道中の遺風ならん。
つぎは、山路閑古『古川柳』(1965)の記述です。
この項目は、山路氏が吉原組合から依頼された『花吉原名残碑』の文を書くために
「吉原遊廓の沿革をつぶさに調ベ、『吉原花街小史』と題する手控えを作った。なおこれに『古川柳』などを配して、読物風の記事にして見ようかなどの心積りもしていた。今それを試みるのにはよい機会と思われるが、限られた紙面では、到底その全部にわたっては書けないであろう。せめて目ぼしい要項だけでも拾って書き記すことにする。」
として採り上げたもののなかにあるものです。なお「花吉原名残碑」は昭和三十五年五月に建てられ吉原弁才天(本宮)に現存しています。
おいらん道中のこと
当時の遊女屋は、遊女を合宿させている置屋と、客が遊女を呼んで遊興する揚屋とが別になっていた。客は揚屋に登楼し、置屋から遊女を招いて遊興するのであった。遊女が置屋から揚屋まで足を運ぶことを道中といった。これは前述のように町名や屋号に国名地名のものが多かったので、国々の間を往来するという洒落から来た言葉であるといわれる。世俗にいわゆるおいらん道中のことである。
おいらん道中は、後年揚屋が廃れて後も、毎年正月三日の新年の儀礼として行なわれた。その行列は物々しいもので、露払いの金棒引きが先きに立ち、二人禿、引舟新造、遣手婆などがお供で、若い男が背後から大きな傘を差しかける。遊女は裲襠(しかけ)と称する豪華な衣裳を身にまとい、片手を若い男の肩にかけ、片手に高々と褄をとり、三本歯の塗下駄をはいた足を八文字に踏んで、しゃなりくなりと歩を運ぶ。あたかも満開の桜が散りかかるなどの風情は、まことに優美の極で、今日でも芝居の助六劇の舞台などにこれを見ることが出来る。
もう一つ、三谷一馬『江戸吉原図聚』(中公文庫1992)から。
三谷氏は江戸時代の各種出板物から江戸風俗の資料画を多数描かれています。そのうち『昔織博多小女郎』文化八年1811 鳥居清峯画の説明文が次のものです。
花魁道中は松の位の太夫職の遊女が、遊女屋から揚屋入りするのをいったものです。宝暦(一七五一~六四)年中、太夫がなくなったあとは、呼出しの遊女が、京町、江戸町から仲の町を通って、茶屋へゆくのを道中といいました。廓の灯がともる頃から始まりました。この絵の人数がほぼきまった形のものです。
定紋の箱提灯を持った若い者(見世番)が先に立ち、次に振袖新造が二人並びます。衣裳は三枚襲で、帯は前に太鼓結び。髷は島田で、絵には小布が掛かっていて、鼈甲櫛一枚、前ざし六本、後ざし二本。下駄は黒塗り、表つきで三ツ歯になっています。
花魁は横兵庫で、櫛は二枚、前ざしは六本、後ざし六本。文化(一八〇四~一八)になると、簪に定紋をつけました。吉原は打掛けのことを仕掛けといって三枚襲で縞繻子が多く、帯は錦、緞子で前結び。下駄は三枚歯で、高さ五、六寸、表つきです。この頃になると裾のふきが厚くなります。ふきはふきかえし。綿入、袷の袖口、裾の裏の布を表に返して縁のように縫い付けたところ。
花魁の衣裳は比翼仕立(上に着る一枚に袖口、振、襟、裾の各部分を二枚の着物が重なったように仕立てる方法)が多かったので、見た目ほど重くなかったといいます。
左右の禿は、三枚襲の振袖で、模様は花魁の仕掛けの模様にちなんだのもあり、別のものもあります。振袖は広袖で袖口のところに細い色布をとめて垂らし、大角豆(ささげ)というものをつけています。髷は奴島田か針うちで、前髪に赤い小布を結わえ、花簪をさします。帯は竪ヤの字です。絵ではさげ下結び。下駄は黒塗りポックリ。長柄傘の柄は九尺以上あって、黒塗り、籐巻で、傘の外輪に定紋を散らしています。傘持ちは妓楼の若い者で見世番の役です。柄を背中に廻し左手で柄の端を支える持ち方もあります。後ろに続く遣手は小紋で帯は前帯。後ろを振り向いているのは番頭新造で、三枚襲の裾模様で、前帯を垂らしています。
問題の二点を考える前に基本的なことを確認しておきます。
『江戸町方の制度』も『古川柳』も、遊女屋は置屋同様で遊興の場は揚屋だったように書いていますが、誤解を与える表現です。遊女屋は置屋ではありません。遊女屋は抱えの遊女を張見世に出し、それを見立てた客を二階に上げて遊興させるのが基本です。「江戸名所図屏風」に元吉原の遊女屋が描かれています。一階が張り見世、二階が座敷になっています。
「江戸名所図屏風」より
遊女のうち、ごく少数の上級者だけが、張見世をせず揚屋に招かれて出かけます。また揚屋に招かれる上級遊女を抱える遊女屋も少数です。私が見ているもののうち出版年のわかる最も古い資料は元禄二年1689の「絵入大画図」のため、元吉原の時代のことはわかりませんが、元禄二年時点では、女郎屋二百八十二軒、挙(揚)屋拾八軒、茶屋二十軒(揚屋町分)、遊女の数は太夫三人、格子五拾七人、局四百拾八人、讃茶一千余人、次女郎千三百余人となっています。次女郎(新造か?)を含め遊女等2,800人程のうちで道中が出来るのは太夫と格子の60人だけです。また遊女屋282軒のうち道中の出来る格子以上を抱えているのは13軒だけです。ちなみに此の時の太夫3人すべてと、格子57人のうち12人は三浦屋四郎左衛門の見世です。
元吉原は勿論、新吉原に移転した後も、揚屋が存在した時代の上等の客の遊びは、例えば、『花菖蒲待乳問答』(宝暦五年1755序)が描くところでは、取り巻きを連れてまず茶屋に行き、酒肴でもてなされ、茶屋の案内で揚屋に上がって、そこへ遊女(上級)を呼んで遊興しています。
「昔揚屋といへるには、茶屋一軒づゝ付て有りて、譬へばおはりやと云ふには、尾張屋といふ茶屋附属しけるとぞ。」(石原徒流『洞房語園異本考異』巻之一)
「中古まで。あげや茶やとて。揚屋丁に茶や十八軒ありけり。さんちやあそびの客は。中の丁茶やより女郎やへいたり。あげや遊びの客は。右の十八軒の茶やより揚やへゆく事なり。」(沢田東江『古今吉原大全』明和五年1768)
また『吉原恋の道引』(延宝六年1678)によれば、揚屋から招かれた遊女は新造・禿・遣手を連れ、三味線を持たせ、夜具の入った葛籠を男衆に背負わせて揚屋に往ったので、揚屋には呼ばれてきた遊女の葛籠がいくつも置かれることになります。
左「あげや」・右「あげや行」 『吉原恋の道引』より
新吉原の時代も実需の頃の道中は、この画ように質素なものだったようです。道中以外の通行人は提灯を持っていないのに、道中の先頭に立つ若い衆だけが提灯を持っているのが気になります。
揚屋で遊んだのは上等の客で、それ以外は遊女屋で張り見世をしている遊女を見立てて遊びます。
「さんちや」 『吉原恋の道引』より
太夫がいなくなり、その後揚屋も消滅すると、上等の客は取り巻きを連れてまず茶屋に上がり、そこへ芸者などを呼んで酒宴を開き、頃合いを見て芸者・幇間等を引き連れ、茶屋の亭主などに案内されて遊女屋へ行きます。その際馴染みで大事な客の場合には、遊女が新造・禿を連れて茶屋へ迎えに来ますが、これは「道中」とは呼んでいないようです。客一行は遊女屋で再び酒宴を開き、お引けとなって客が遊女の部屋へ入ると、茶屋・芸者・幇間は客に挨拶して退散するという形になったようです。
客に呼ばれて揚屋に往くという実需の道中から、自身の広告の為のものに変わった結果、自然と道中がより豪華なものへとなっていったものと思われます。「道中」には三種類ありました。毎日のように行われる道中の他に、特別なものとして、年礼と突出し(遊女としてのデビュー)の道中があります。勿論、年礼・突出しの「道中」が出来るのも一部の上級遊女だけです。
山路閑古氏は「後年揚屋が廃れて後も、毎年正月三日の新年の儀礼として行なわれた。」と書かれていますが、『百安楚飛』(安永八年1779序)には「傾城の礼は。むかしは元日なりしが。ちかきころより二日になり。家々の揃の仕着花をかざる。」、『吉原青楼年中行事』(享和四年1804)の十返舎一九の文には「二日は契情(けいせい)の年礼とて初衣装の綺羅をかざり、中の町を勤むるを道中といふ事は、江戸町より京町の間をあゆむの称なるべし。」とあります。
また『東都歳事記』(天保九年1838)正月二日の条には「吉原遊女年礼(今日より茶屋茶屋へ年礼にとて仲の町へ出づる。家々嘉例により仕着せ小袖を調へ、禿に至るまで一様の新衣を着して往来す。これを里諺に道中といふ。(以下略)」と書かれています。
少なくとも天保頃までは吉原の年礼は二日だったようです。ただ、二日の年礼は見世の仕着せで、三日からは自前の衣装になり、これを「跡着(あとぎ)」と云って、豪華さを張り合ったようです。これについては221「鼠鳴き」で触れました。
『吉原青楼年中行事』より
突出しの道中には姉女郎も付き添ったといいます。(『江戸町方の制度』、式亭三馬『傾城買談客物語』寛政十一年1799自序)
お梶、三谷に売られて来て、西戸屋の抱へとなり、名をたそやと変へ、今日突出しの道中。見物山の如く、評判四方に聞こへけり。(山東京伝『復讐煎茶濫觴(かたきうちせんちやのはじまり)』文化二年1805刊)
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