落語の中の言葉・番外「中番」
落語の中の言葉94「自身番」にある「中番」について、補足します。
江戸の町方には木戸番・自身番のほかに中番というものがありました。享保三年1718に中番が自身番とともに免除されるまでは中番自身番と一括して命ぜられています。それが自身番だけが十月から三月まで毎日の定式勤めが復活し、中番は特別の場合に命ぜられるだけとなりました。
また武家方にあるのが辻番で、町方にあるのが自身番と木戸番と普通は云われますが、中番に対し自身番・木戸番のことを「辻番」と呼ぶこともあります。木戸番・自身番が町の出入り口にある木戸に置かれたので多くは辻近くにあったためと思われます。これに対し「中番」は町の中、木戸と木戸の中間にあったことによる呼称と思われます。
万治元戌年1658
一頃日町中ニ盗人有之様ニ相聞候間、町々ニ中番を置、四ツ打候ハヽ前後之門を打、くゝり斗明置可申候、四ツ過候而往行之者有之候ハヾ先々を改、番之者町送りニ可仕候、もしうろんなる者有之候ハヾ留置、早々御番所江可申上候、勿論火之用心之儀少も無油断、町中裏店迄念を入相触可申事
万治元年戌十二月 (『江戸町触集成』第一巻)
寛文二寅年1662
一町中為火之用心之、来ル十月より来年二月迄、中番之者壱町之内片輪ニ弐人宛、両輪ニ四人可差置候、但片町は壱町ニ弐人宛差置可申事
一辻番之者ニ火之用心無油断相触候様可申付事
(以下略)
寅九月晦日 町年寄三人 (『江戸町触集成』第一巻)
中番を勤めるようにとの御触は繁々出されていますが「中番」の内容がわかる記載はあまり見かけません。明和四年1767四月に十月から二月の中番自身番定式勤め復活について意見を求められた名主が、現状のままを望むとの返事をしたのに対して、町年寄喜多村からさらに尋ねられて提出した返答書のなかに次のようにあります。
中番は「立番」が多く、なかには「箱番屋」や「少之中番屋」を設けているところもあったといいます。「箱番屋」というのは必要なときだけ組み立て、それが終わると分解してしまう仮設の番屋のようです。ただ、なかには自身番屋と同様に常設していたところもありました。
(文政九年1826)戌九月東叡山領 武州豊嶋郡の内 下谷三之輪町の書上
一自身番屋は往古よりこれ有り。起立は相分かり申さず候。
但し家並にこれ有り候。
ほかに日本堤土手下に中番一ヶ所御座候。 (『江戸町方書上(三)下谷・谷中』)
明和四年の触れと同様に内容の窺えるものに慶応二年1866将軍家茂が死去したときに出された通達があります。
公方様去ル廿日於大坂表薨御被遊候間、町中物静ニ仕、火之元等入念候様、借屋店借裏々迄急度相守候様可申付候
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中早々相触、火之元入念可申付候
寅八月廿六日 町年寄役所
町中中番御定之通り今日より差置、夜中木戸〆切前々之通り可致候、尤表之間数ニ応し手桶ニ水ヲ入出し置可申候、重而御赦免有之候迄は右之通相守、少も油断有間敷候
寅八月
右之通従町御奉行所被仰出候間、町中不洩様早々可相触候
寅八月廿六日 町年寄役所
この触れにもとづき具体的内容を相談した中に次の一条があります。
申合
(前略)
一夜番中番致候義町中場所見計箱番屋差置、月行事火之番は勿論其外申合相詰可申
但、箱番屋是迄無之町々俄ニ差支候向は、表店之内見世脇等借受、中番相勤候様可致候、小町ニ而家主両三人ニ而人少之場所、月行事火之番替等差支、中番難差置町々は時々猶更見廻り可申(後略)
寅八月
南北小口
年番名主共
右之通樽俊之助殿江申立候処、伺之通可取計旨被申渡候間、此段御達申候、以上
八月廿六日 小口
年 番
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江戸の町方には木戸番・自身番のほかに中番というものがありました。享保三年1718に中番が自身番とともに免除されるまでは中番自身番と一括して命ぜられています。それが自身番だけが十月から三月まで毎日の定式勤めが復活し、中番は特別の場合に命ぜられるだけとなりました。
また武家方にあるのが辻番で、町方にあるのが自身番と木戸番と普通は云われますが、中番に対し自身番・木戸番のことを「辻番」と呼ぶこともあります。木戸番・自身番が町の出入り口にある木戸に置かれたので多くは辻近くにあったためと思われます。これに対し「中番」は町の中、木戸と木戸の中間にあったことによる呼称と思われます。
万治元戌年1658
一頃日町中ニ盗人有之様ニ相聞候間、町々ニ中番を置、四ツ打候ハヽ前後之門を打、くゝり斗明置可申候、四ツ過候而往行之者有之候ハヾ先々を改、番之者町送りニ可仕候、もしうろんなる者有之候ハヾ留置、早々御番所江可申上候、勿論火之用心之儀少も無油断、町中裏店迄念を入相触可申事
万治元年戌十二月 (『江戸町触集成』第一巻)
寛文二寅年1662
一町中為火之用心之、来ル十月より来年二月迄、中番之者壱町之内片輪ニ弐人宛、両輪ニ四人可差置候、但片町は壱町ニ弐人宛差置可申事
一辻番之者ニ火之用心無油断相触候様可申付事
(以下略)
寅九月晦日 町年寄三人 (『江戸町触集成』第一巻)
中番を勤めるようにとの御触は繁々出されていますが「中番」の内容がわかる記載はあまり見かけません。明和四年1767四月に十月から二月の中番自身番定式勤め復活について意見を求められた名主が、現状のままを望むとの返事をしたのに対して、町年寄喜多村からさらに尋ねられて提出した返答書のなかに次のようにあります。
一町々中番相勤候儀は十月より二月迄、壱町之内片側弐人ツヽ差置、辻番中番之者火之用心無油断相勤候様寛文元丑年被仰付、享保三年1718御免之節迄相勤申候、尤家主之相勤候儀ニ而は無御座、人足立番仕候儀ニ御座候、勿論冬春之内長キ義ニ御座候得は、箱番屋抔拵置相勤候処も御座候、近年寛延四未年1751六月、宝暦十一巳年1761六月、中番差置候様御触之節も町々中番人足差置、立番為仕申候、尤所ニより少之中番屋補理候所も御座候、只今ニ而も騒々敷節は、町々心得ニ而為用心立番路次番為仕候儀ニ御座候
(以下略)
明和四年亥五月朔日 南北年番名主共 (『江戸町触集成』第七巻)
中番は「立番」が多く、なかには「箱番屋」や「少之中番屋」を設けているところもあったといいます。「箱番屋」というのは必要なときだけ組み立て、それが終わると分解してしまう仮設の番屋のようです。ただ、なかには自身番屋と同様に常設していたところもありました。
(文政九年1826)戌九月東叡山領 武州豊嶋郡の内 下谷三之輪町の書上
一自身番屋は往古よりこれ有り。起立は相分かり申さず候。
但し家並にこれ有り候。
ほかに日本堤土手下に中番一ヶ所御座候。 (『江戸町方書上(三)下谷・谷中』)
明和四年の触れと同様に内容の窺えるものに慶応二年1866将軍家茂が死去したときに出された通達があります。
公方様去ル廿日於大坂表薨御被遊候間、町中物静ニ仕、火之元等入念候様、借屋店借裏々迄急度相守候様可申付候
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中早々相触、火之元入念可申付候
寅八月廿六日 町年寄役所
町中中番御定之通り今日より差置、夜中木戸〆切前々之通り可致候、尤表之間数ニ応し手桶ニ水ヲ入出し置可申候、重而御赦免有之候迄は右之通相守、少も油断有間敷候
寅八月
右之通従町御奉行所被仰出候間、町中不洩様早々可相触候
寅八月廿六日 町年寄役所
この触れにもとづき具体的内容を相談した中に次の一条があります。
申合
(前略)
一夜番中番致候義町中場所見計箱番屋差置、月行事火之番は勿論其外申合相詰可申
但、箱番屋是迄無之町々俄ニ差支候向は、表店之内見世脇等借受、中番相勤候様可致候、小町ニ而家主両三人ニ而人少之場所、月行事火之番替等差支、中番難差置町々は時々猶更見廻り可申(後略)
寅八月
南北小口
年番名主共
右之通樽俊之助殿江申立候処、伺之通可取計旨被申渡候間、此段御達申候、以上
八月廿六日 小口
年 番
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この記事へのコメント
わざわざ「中番」に関するご回答ありがとうございます。
以前、どこかで「長年不明とされてきた中番屋を〇〇(沽券図だったか?)で確認した」という趣旨の文章を見た記憶があり、何の話だろう?と思ったことがありますが、もしやその「中番」でしょうか。取り急ぎ、お礼まで。